はてなキーワード: 進化論とは
★子供の社会科教科書を見ると、堂々と「吉野ヶ里遺跡」と「三内丸山遺跡」が載っていて、
激しく「ジェネレーションギャップ」を感じてしまった。
というのも、われわれ世代(40歳代)にとっては、吉野ヶ里や三内丸山は「ニュースの事象」であり、
吉野ヶ里の「発見」が1989、三内丸山の「発見」が1992。
当時自分は大学生ないし社会人で、これら遺跡は「ニュースで知った」ものであり、「教科書で知った」ものではない。
たぶん、今の40代より上の世代は、教科書でこの2つは習っていないはず。
なので、今の40代とか50代では、吉野ヶ里や三内丸山は「そもそも知らない」という人の方が多数派なんじゃないか?
これら世代で吉野ヶ里等を知っているのは、地元民または観光業界人または歴史マニア。
という訳で、
「遺跡が見つかるキッカケは、公共工事や商工業開発が多い」という「生きた授業」を子供相手に展開してやった。
★我々の世代は、せいぜい「登呂遺跡」を覚えておけば、事足りたと思う。
一方、今の子供の世代は、登呂遺跡以外にも吉野ヶ里とか三内丸山とか、覚えることが増えて大変だなあと同情してしまう。
吉野ヶ里とか、工業団地開発を計画しなかったら、遺跡は見つからなかった=教科書の記載も減ったわけでして。
・・・と書こうと思ったら、「登呂遺跡は、教科書によっては、記載を外しているケースもある」らしい。
子供の記憶容量は有限だから、教科書記載事項を巡る「競争」は激しく、スクラップ&ビルドも激しいらしい
・・・となると、おじいちゃんおばあちゃんが、孫を連れて静岡に行って、「これが有名な登呂遺跡だよ」と案内しても、
孫が「何それ?習ってないよ」という世代間すれ違いの悲劇が発生してしまう危険性がある。
※というか、実際静岡の人のブログを見ると「子供の教科書に載ってなくて会話すれ違い」報告有
★「一番歴史学習が大変だった」世代は、「1999頃に歴史を学習していた世代」じゃないか、という気がする。
あの頃は三内丸山も教科書に掲載されたうえ、旧石器時代の記載も「充実」していた。
→その後、毎日新聞のスクープで、旧石器時代の殆どが教科書から削除された
吉野ヶ里や三内丸山クラスの遺跡発掘のニュースが、この20年間聞こえてこない、
そのこと自体が「失われた20年」を象徴している。(公共工事激減と比例)
・・・或いはアベノミクスで、再び吉野ヶ里クラスのが見つかるか?
★登呂遺跡の件、もう少し調べてみたら、実は「登呂遺跡の教科書記載」そのものに「政治的な意義」があったらしい。
登呂遺跡発見の「政治的意義」とは、「日本書紀記載の年代以前に、東日本に稲作が伝わったこと」の立証。つまり「日本書紀の否定」
まあ、実際の学問レベルでは、日本書紀を否定する研究もされていたのかもしれないが、それが義務教育教科書に掲載されることがなかった。
義務教育には日本書紀や古事記が掲載され、子供は歴代天皇の暗記を強要された
つまり、「日本書紀・古事記・歴代天皇暗証の「偽歴史」を教育する」、そういうナンセンスな歴史教育は終了した、
そういう「歴史教育民主化・自由化」「もはや戦前ではない」のシンボルとして登呂遺跡が存在した。天皇の人間宣言と同趣旨
となると、直近の「登呂遺跡の教科書引退」の政治的意義は、歴史教育において「もはや戦後ではない」とアピールする効果。
登呂遺跡の「政治的役割」は、歴史的意義を終えた、ということなのかもしれない。
※GHQが必要以上に登呂遺跡の「意義」を強調するよう、教育介入したような気もする
★縄文時代、旧石器時代の存在は、日本書紀や古事記と真っ向対立。
多分、戦前の教育では縄文や旧石器時代は存在しないことになってた
だから、最大70万年前の旧石器時代の遺跡を発掘した「ゴッドハンド藤村某」などは、世が世なれば不敬罪になってたんじゃないかと心配する。
そもそも日本書紀や古事記の世界では、神がイザナギ・イザナミを作って、それから世界が出来た。
→多分、戦前は「恐竜の存在」は義務教育では認められなかったのではないか?
そう考えると、恐竜をモチーフとした「映画ゴジラ」は、イザナミ・イザナギの世界観を否定する恐竜をモチーフにした、ということで、極めて戦後的な気がする。
仮にダーウィン進化論すら非科学的ですねと退けたポパーの態度を用いると、科学的根拠に基づいた内部統制や、科学的根拠に基づいたジェンダー論なんてSTAP細胞と同様にない。
意味がわからない。コピペ改変してもいいがせめて文脈的に意味が取れるようにしてくれないかな。検索置換で済ますのはやめてくれ。
彼らの主張はこうだ。
「若手の女性研究者という要素を強調するのは、いたずらに差別を助長する危険性がある」
前者は科学的根拠がまだ見つかっていませんよという意味で、後者は研究者の倫理感の話だ。
もちろん研究者同士で研究対象を決める時にSTAP細胞の話が出たら、まず前述二項を盾にぞんぶんに議論したらいいと思う。議論にすらならないと思うけど。
しかし、割烹着の話が出るのは通常人事的な属性の話やら仕事観やらそういう人間関係の話であり、多くの場合研究室ではない。会議室とか居酒屋だ。
仮にダーウィン進化論すら非科学的ですねと退けたポパーの態度を用いると、科学的根拠に基づいた内部統制や、科学的根拠に基づいたジェンダー論なんてSTAP細胞と同様にない。
科学的根拠に基づいた人間関係に至っては、まだ、言葉の意味すら分からない状態だ。
なので、「そう。だからこそ、俺は科学的に人事をやるんだ」とか、「見てろ。俺は科学的な結婚をする」とか言ってる熱い研究者なら分かるが、そういうやつは別にそうでもない。
普通にオカルトみたいな判断基準で恋愛して、普通にオカルトとしか言えない組織管理をして、普通にオカルトみたいな男女共同参画をしている。
前述同様、STAP細胞に科学的根拠がないことはそもそも反論になっていない分野が議論対象であることと、差別の助長を骨子に反論を組み立てた場合、女性研究者の実数を求められたら明らかに論難してしまうこと。また、そこで妥当な数字を見せるように主張を組み立てることも難しいこと。あと、面倒であること。
だから黙る。
世の中は、黙ることを余儀無くされることがいっぱいある。
科学なんてのは、
「適当な条件で、適当な試行を繰り返したら、ある一定の結果が得られるっぽい」
程度の事しか示せない。
科学はこの世界の真理を求めているんじゃない。
人間の欲する結果を得るための処方箋を提示するだけだ。
天動説が信じられていた頃にも、惑星の軌道をほぼ正確に求められる方程式は存在してたんだ。
もっと言うと、科学は科学的手法・思考が通用する対象のみを研究するものなんだ。
だから科学が答えられない問いなんていくらでも存在するし(俺は何のために生まれてきたのか?)、
「非科学的だから間違っている」という主張は前提から破綻している。
科学だけが正しいと思っている人は、科学という色メガネを通した世界でしか生きられない。
何でそんな不確かなものを信じているのか?
それは、科学を信じれば世界が上手く回るから。
科学様の仰る、たぶん正しいだろう、という事柄を信用し活用してみたら、
この世界の謎に納得のいく説明がついた。生活を便利にする道具がたくさんできた。
キリスト教的創造論よりも、ダーウィンの進化論を信じた方が、世界を上手く説明できた。
信じてみたら、世界が上手く回った。でもそれが真実かどうかは証明できない。
ようするに、科学って宗教なんだよ。
とりあえず信じてみて、世界が上手く回ったら、それが信仰になるんだよ。
自分の信じる世界観こそが信仰の正体なんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20140719201818
“人生の選択肢を他人に委ねて、委ねられたほうは従わなければ罰だ地獄だと脅しをかけて支配する”
みたいな世界観が嫌いなら、人生を自力で切り開いていけるような宗教を選べばいい。
信仰は“架空の何か”に期待するような、そんな力のないものじゃない。
あんたの信仰次第であんたの世界が変わる。宗教は慎重に選びなよ。
私の大学の人たちはこんなところを見ないと思うので油断して書きます。
受験ストレスから解放されたせいか世界の仕組みとか宗教に興味が出てきたので大学の聖書研究会に入ってみました。
とはいっても私はお正月には神社に詣で、夏にはお寺にお墓参りに行き、クリスマスにはケーキを食べるという典型的な日本人。
敬虔なクリスチャンばかりのこのサークルに入ったばかりの時はとても緊張しました。
しかし先輩たちと話をする内に、思っていたほど厳しい人たちではなく、むしろゆったりとした人たちなのだと気が付いて、
「この人たちともっと仲良くなりたいな」と思うようになりました。
サークルで使っていたテキストには期待していたほど詳しく書いていなかったので、私なりに進化論についての意見を言ってみました。
「神様が生き物たちを作った過程を人間たちが科学的な視点で見ると進化論のように見えるのではないか」
「人間は神様の様に完全ではないから進化論の中に明らかになっていない部分があるのではないか」
そんなことを言ったら途端に漂い始めるビミョーな空気…。
聖書に人間は神様が土に息を吹き入れて作られたって書いてあったのを忘れていたのです。
取りあえずその場はテヘペロゴッツンって感じで乗り切りましたが、頭の中はモヤモヤ。
信条が大きく違うとここまで壁を感じるのか…と思いました。
因みに、私は全く神様を信じていない訳ではありません。
地球という星が出来たこと、生き物が生まれたこと、そこから進化していって人間が生まれ、文明を築いたこと。
すべてとんでもない確率の中で起こった出来事で、どこかで神様が関わっていたとしても不思議じゃないな、と考えています。
ただ、進化論を信じる私と、人間は神様が作ったと信じる先輩たちの間には鉛でできた壁があるように思えました。
こんなに素敵な人たちなのに心から分かり合えることは一生ないのだろうと思うと、やるせない気持ちになります。
大したオチはありませんが、誰かに知ってもらいたくて書きました。
例えば、オーストラリアの家畜は放牧が主で、基本的に放し飼いなので食べてみると自然に近い味わいがあるという話がある。
自分もとある私大で猪を研究されている生物研究の教授の特別講座を受講した時には、実は豚は猪を家畜化したものであると説明を受けたものだ。
なるほど確かに日本の猪は豚の味で若干ヘルシーで薄くスライスしたりして牡丹鍋とか香辛料をふんだんに使った豚焼肉などで美味しく食べられるが、普通に嗅いでみると実に生臭い香りがして食べられたものじゃない、と感じるものだ。
但し、豚テキのように分厚く切って食す事は容易であるが臭みがやや気になる。
具体的な事例は挙げられないが、どうやら猪と豚はDNAが異なるらしい。
例えば、豚は血抜きを行う事で臭みや劣化をある程度防ぐ事が出来るが、猪は血抜きをしても臭い。
野生の動物でいえば、シカ肉は塩漬けにするなどして干したものを使用する事が多い、というのもシカ肉もまた臭いのである。
鴨ではなく家鴨(アヒル)を使用する鴨南蛮という料理もまた同じ理由である。市場に出回らず高級、というのもあるかもしれない。
話を戻すが、野生の猪というのは、そもそもその表現自体が誤りである。
正確に言えば野生化した豚なのである。
元々は野生の猪を家畜化したものが現在の豚であるが、それがまた放牧によって野生化していったのだ。
牡丹鍋に代表される日本の猪料理も肉の多くは野生化した豚なのであり、臭みが少なく身も柔らかいのは当然である。
進化論に関する動物学的研究には、豚のDNAが野生化した豚つまり猪のDNAと合致したという報告がある。
私はISだ。それに、私の父親もISだ。
よく勘違いされて困るのだが、同性愛者ではない。ISで、強いて言えばGIDだ。
しかし、昔から世間は、ISやGIDと同性愛の区別がつかない。私自身も、事実とは異なる噂を勝手にたてられて被害を受けたことがあった。父親も、親や妻からは同性愛者ではないかと疑われていたようだ。
実際には、私も、おそらく父親も、ISであると同時に無性愛者だ。
最悪の失敗は、私の父親が、ISなのに普通に結婚したことだ。「普通に」というのはつまり、カミングアウトしていないで、あたかも普通の男であるかのようにして、ということだ。
それで、母親が私を妊娠した時は、「うちの息子の子どもなわけがない」という騒動になった。実際にはこうして、ISまでキッチリ遺伝しているわけだが。
ともかく、私も母親も、虐待された。母親は結婚した直後から舅姑に虐待され、私は妊娠された時から虐待され、産まれても虐待された。世間ではほとんどの人間は妊娠されたり産まれたりしたときには家を挙げて祝福されるのだろうが、私は、出てきてはいけない子だったのだ。
ついでに言うと、世の中では同性婚を認めるか否かという瑣末なレベルの議論に明け暮れて、そこで止まっている。「同性婚を認めると少子化する」と言う人間がいるくらいだが、同性婚が認められないからといって不幸な異性婚をして不幸な子どもが産まれていいと言いたいのだろうね。
今も昔も、LGBやGIDやISがいて、遺伝もする。
今もいるのは、人類が生き延びてくるために必要だったからだ。ダーウィンの進化論から言っても当然に、そういう帰結になる。
実際に、しばしば救世主を輩出してきた。
LGBTは必要かつ重要な存在なのに、世間からは嫌われ、あたかも存在しないことになっている。
私自身も、父親がカミングアウトしないからなおさらに、自分自身がなんであるかわからずに苦しんでいた。
世間でも、近年に話題になるまでは、ISというものが日本では存在しないかのごとくの雰囲気だった。だから、自分でも自分がなんであるかがわからないで、苦しめられてしまう。
実際には、どうみても周りの人間とは自分が違うことがわかるし、体格や体型や仕草が違うこともわかる。仕草が違うからイジメられることも多かった。私の場合は、見た目や動きが男でも女でもない、なんとも言いようのないものだから、なおさらに周りからは理解不能なのだろう。
服や靴も、合う既成品が見つからなくて困ることが多い。身長と体型が合わない。
ISと言ってもいろいろあるから人によって異なるが、私のように体格に現れている人が少なくないことは、IS当事者の人ならよくわかると思う。
一言で言えばつまり、私のような人間は、世の中からいないことにされていて、世の中のマジョリティの制度を押し付けられて迫害されているのである。
そして、加害者側の人間が、不特定多数であるだけではなくて、当人に加害しているという自覚がない。だから、私にはどうにもならない。
いやそんなもん俺だって理解してないけど。
でも「進化のために繁殖する」とか「強い遺伝子が生き残る」みたいな子供の妄想みたいな単純な話ではないということは容易に想像できる。
統計力学では協同現象という物理が広く存在するけど、これは局所的な相互作用だけで全体的に協調的な動きをすることがあるということ。
鳥や魚の群れが一斉に同じ方向に動いたりするのを見ると、「単純な進化論」的な思考だと何か全体の意思があると思ったりするんだろうけど、
もちろんそんなものはなくて、単に各個体は自分の近くの個体の動きに機械的に合わせてるだけ。
非線形力学系ではリミットサイクルというもんが存在して、あたかも何か意味ありげな構造的な運動が現れたりするけど、これも別にそれ自体に
深淵な意味があるというより、運動方程式の非線形性がたまたまそういう形を成しただけで、違う形のリミットサイクルが(見えないだけで)
無数に存在したりする。
極端に単純化した物理モデルでもそれだけ複雑な構造が起こるわけで、不確実性が比べ物にならないほど大きくて複雑な生物システムでは何が起こるか
なんてどう考えても単純に言い表せるものではないだろうし、「進化」とか「強さ」とか分かったような顔して語れるものでは絶対に無いだろう。
悪いけど何について書いているのかわからない。
「人工知能」という言葉であなたが表現しているものは、どこまでも人間や女性そのものに過ぎない。
あなたの記事の「人工知能」を「女性」に置き換えると、一昔前にフェミニズムについて書かれた文章として立派に通用してしまう。
「エクスキューズのためにケーブルに接続されて描かれている女」の、当然もつであろう自由意志について述べている。それ以上のものが読み取れない。
自由意志の定義を後回しにしたのがなおのこと良くない。それはある意味で人間の定義それ自体にも等しく、そこから差別性を説明することのできる重要なポイントたり得たのに、そこをぼかされたまま「人工知能に自由意志があることを前提とする」と始められても意味がない。
「自我」「知的存在」「コミュニケーション」にしても然り。これだけ定義の広い言葉をAIがらみでポンポン繰り出されても、曖昧なイメージが飛び交うばかりで何を説明されているのかさっぱりわからない。
人工知能についてどれくらいのことを知っているの? 実際にローブナー賞に挑戦している人工知能と会話したことは?
2-2の解釈を取ることについての説明は? 何を根拠に2-2なの? 妥当性、正当性、何でもいい。
まさか自分で勝手に定義不明のままおいた「人工知能には自由意志がある」という前提にだけ基づいているわけじゃないよね?
「従ってイラストの女性は自由意志に基づいて行動しており、使役されているように見えても実際は自由な行動であり、差別ではない」
よくわからない。想定されているとかされていないじゃなくて、素直に表象を読めば「ボディを持った人工知能」以外の何物でもないと思うのだけど。
人工知能に実際にボディを持たせてもあのイラストのようにはならない。
あれが「ボディを持った人工知能である」という解釈は単に記号的に付け足されている充電ケーブルが担保しているに過ぎない。
Photoshopでケーブルを消してしまえばあれは「家政婦さんの絵」だ。それくらいあの絵は「ボディを持った人工知能」にあるべき必然性を欠いている。
だからあの絵を見る側も「ボディを持った人工知能」ではなく「人工の人間(女)」として見ている。あなたのように。
そこはそういう設定じゃないと思う。そもそも設定されていないか、あるいはホモサピエンスに対して「エネルギー補給中である」ということを示すためのわかりやすい記号。メタ的には、あの絵を目にした人が一目で「人間以外の存在である」ということがわかるようにするための記号。
都合のいい解釈だことw 元ネタが掃除機で接続がケーブルなら「休憩を入れずに充電しながらでも広範囲を掃除するため」と解釈することはむしろ当然じゃないか。
一目で人間以外の存在であるとわからせるのにいい方法なんていくらでもある。人型でありながら人間とはかけ離れたデザインにした方がよっぽど一目でわかるよ。
充電表示だってもっと直球で「充電中」とどこかに表示されるようなデザインにしたっていい。
「描いた人間がそれじゃイヤだから」以外の、そうしない合理的な理由があるなら教えてもらいたい。
ここもちょっと決めつけすぎじゃないかなぁ~。明らかに掃除に向いた格好じゃない(よくわからんワンピース)以上、本業が家事労働代行とは言えないでしょう。だからといってセクサロイドとか設定をつけるのもやりすぎ。それだけ。
完全に「人工の女」について語っているけど、格好だけを根拠に家事労働者ではないとは言えない。というか現にホウキ持ってるのに。
ちなみに「人工の女じゃない」ものとしてあのイラストを見ると、話はもっとシンプルになる。
すなわち、明らかに掃除に向いた設計じゃない、デザインの段階で「女のかたち」に用がある向きの欲望が大きく作用している、よって性差別的である、と。
これもちょっと疑問だな。人間社会では人間のようにふるまうことが、人工知能にとっては適切な行動でしょう。なにしろ世界はたいていの場合、人間のすがたかたちをした生物が最大値のフィードバックを受けることができるようにできているのだから(人工環境は勿論、自然界ですら進化論を引っ張ってくればそういうふうに言うことも可能だよね)。
人工知能は生物ではない。「適切な行動」とは「生き延びるために適切な行動」の略ではなく、「パフォーマンス最大化のために適切な行動」のこと。
人間に合わせて本を視覚で読んでいては、データを一気にダウンロードして処理した場合に比較してどれだけパフォーマンスが落ちることか。
これだけ「人工の女」として人工知能を取り扱っておきながら、実在の生きた女に対してならば当然要される配慮がこのイラストの「人工の女」に対しては行われていないというところに疑問を持っていないのが一番不可解で怖気を誘う。
家事労働を行うにあたっての作業を助けるような利便性の欠如や、読書と掃除という相性の悪い動作の同時並行を描いていること自体が、「そんな配慮が要るという発想が無い」「眉目麗しければそれでいい」ことを如実にあらわしているのに、すべてを「この人工知能が自由意志でやっている」でくるみ込んでノーコメント。
「自由意志および自我を持ち相互にコミュニケーション可能な知的存在にはそれがホモサピエンスであろうとなかろうとも人権及び契約の自由が認められうる」?
ご冗談を。あなたはそれがホモサピエンスであろうともなかろうとも、彼女にはルンバや掃除機やクイックルでなくホウキを与え、代わりに読書に耽る自由は取り上げることに全く反対していない。
あまり語句的にツッコミすぎると収拾がつかなくなるので、もうしわけないがすこし整理しながらいこう。
まずは自分が仮定している基本的な命題として、「イラスト中の人工知能は自由意志を持つ」っていうのを挙げておく。
これは、「掃除中に本を読むという非合理的な(後述するがこの「非合理」には2通りの解釈が可能だ)行動を行っている」ことから明らかじゃないかな。
くわえて、この「自由意志を持つ」っていうことを根幹に据えて考えると、イラスト中の人工知能が掃除機やルンバの擬人化ではないということも明らかじゃないかな。
(もちろん悪意にとらえれば、「自由意志を持つかのように人工知能にふるまわせることで所有者が所有欲を満たしている」という解釈もできるわけだが、ここでは扱わない)
じゃあ、自由意志を持つイラスト中の人工知能が、掃除をしながら本を読んでるっていう表象からどういう解釈ができるかだが、これには2つある。
1.自由意志を持つにもかかわらず、人間の主人に(法的にか形式的にか(=フェミニズム運動が打ち倒すべき専業主婦的な立場だというわけだ)はわからない)所有され、家事労働に束縛されている。
2-1.自由意志に基づいた契約の結果として掃除をしており、くわえて本を読むという「非合理的な(=契約に反する)」行動も同時にとっている。
2-2.自由意志に基づいた自発的行動の結果として掃除をしており、くわえて本を読むという「非合理的な(=掃除をするという自発的行動に対して合目的的でない)」行動も同時にとっている。
このうち1だと問題があるというわけで、それがつまるところこのイラストがnot politicallly correctということだ。あるいは2-1は結局のところ契約者がフェティシズムを満たすために結んだ契約であり、それはそれでキモいというわけだ。しかし自分は基本的には2-2の解釈をとるし、そこには差別的な要素は含まれていない。もしくは2-1の解釈であったとしても、それがpolitically inncorrectだとは思わない。
自分とあなたの相違点として、まず「人間の自由意志と人工知能の自由意志は等価かそうでないか」という点があると思う。
あと、自分は自由意志および自我を持ち相互にコミュニケーション可能な知的存在にはそれがホモサピエンスであろうとなかろうとも人権及び契約の自由が認められうると思うけど、あなたはそうじゃないかも。
この点はもうちょっと深く聞きたい。
続けよう。
>この人物はボディを持った人工知能として描かれているが、想定されているのは「ボディを持った人工知能」ではない
よくわからない。想定されているとかされていないじゃなくて、素直に表象を読めば「ボディを持った人工知能」以外の何物でもないと思うのだけど。
>充電「ケーブル」なのは充電中でも広範囲に動いて掃除するためでしょ?
そこはそういう設定じゃないと思う。そもそも設定されていないか、あるいはホモサピエンスに対して「エネルギー補給中である」ということを示すためのわかりやすい記号。メタ的には、あの絵を目にした人が一目で「人間以外の存在である」ということがわかるようにするための記号。
>本業はお掃除で、それも自分の持ち物でない(であろう)書斎のお掃除。つまり本来の書斎の主である人間の家事労働代用。
ここもちょっと決めつけすぎじゃないかなぁ~。明らかに掃除に向いた格好じゃない(よくわからんワンピース)以上、本業が家事労働代行とは言えないでしょう。だからといってセクサロイドとか設定をつけるのもやりすぎ。それだけ。
>人間とは根本的に異質な情報処理を行い、また人間のように振る舞う事自体が彼ら自身にとっても適切な行動たりえない
これもちょっと疑問だな。人間社会では人間のようにふるまうことが、人工知能にとっては適切な行動でしょう。なにしろ世界はたいていの場合、人間のすがたかたちをした生物が最大値のフィードバックを受けることができるようにできているのだから(人工環境は勿論、自然界ですら進化論を引っ張ってくればそういうふうに言うことも可能だよね)。
>この二文は矛盾している。
ちょっとわかりにくい書き方しちゃったので、めんどくさいし無視してください。要は上に書いたようなことが言いたかったのです。
俺にはお前がだれだか分からんので全部書いておこう。
メタな視点とはなにか、むしろ、「目的」というものは本来与えられてるものではない中で、
進化してる事は種を存続するため、従ってそれを「目的」と言っている。
これは形而上学的な考えではないのか?物理学や生物学そのものの話ではない。
片方の増田が「種の存続」のために進化してる、に対し、かたやその様な事は100年で考えが変わった、後、そんなものは物理現象にすぎないので目的などというものを定義することすらおかしい、
と論拠を変更。
まあなんでもいいや。
自分の知っていることが簡単に相手に説明できると思っていることだ。
人間の断絶は深く深く深いので、罵倒や挑発で埋まったりはしない。
谷底に落ちていくだけのこと。
お前は何も理解してないのに知識があると勝手に勘違いし、それを簡単に相手に簡単に説明できると思ってることだ。
お前自身が理解してないことを他人に説明出来るわけがなかろう?
お前はすでに谷底に居るんだよ。
Naoki Takahashi
どの記事についての話か確認したいのでソースを出して欲しいんだけど
NaokiTakahashiくんが「社会反映論」を「芸であり文芸批評であって科学ではない」と規定して許されるなら
「精神科医なら科学的な根拠を持って発言してくれよ」と期待するのはわかるし
一般人に比べて厳しい目を向けられるのも致し方なしと思うが
医者だってサブカル批評家/一ブロガーとして読み物を書くことがないわけじゃあなし
本人が科学ですと言っていない文章にまで科学的実証性を求めるのはネタにマジレスだと思うね
そもそも、そういうNaokiTakahashiくんだって、プロのライターであるからして
「そんなの知ったことか。いつでもプロとして発言してるわけじゃねーよ」という態度でいるのではないかね
それでもあくまで目くじら立てるなら、NaokiTakahashiくんの「社会反映論」()にも相応の論拠は必要だよね
たとえば、「陵辱マンガはオタクいじめオタク蔑視オタク抑圧を割と素直に露骨に反映してきたもの」
この前提となる
・オタクイジメ、オタク蔑視、オタク抑圧という社会現象は本当に存在するのか
・存在するとしたら具体的にどのような状況を言うのか
・その社会現象に晒されているオタク層と、「陵辱マンガ」の主要消費者層がどの程度一致しているのか
そこから厳密に規定しないと「論」とも言えないわけだろ?
「サブカル芸だから」というエクスキューズで許されると思っちゃあいかんわ