はてなキーワード: 西洋音楽とは
あそこらへんの研究室とか学会の音楽学は、西洋音楽がすべての基盤にあるけどそれを意識していないから、西洋音楽系の研究なら良いけどそれ以外は中途半端な手の出し方になって言ってはなんだけど価値のない研究しか生まれない。
だからさ、ちょっと乱暴すぎない?東洋音楽学会系列のアプローチと音楽社会学のアプローチがそもそも違うのにその切り口は雑でしょ。今のそっち系のスタンダードは定量的研究って無理じゃんという所から出発していて、音楽を通して社会や社会通念を記述することが目的では?テクスト至上の時代はレヴィ=ストロースを機に終わったけど、あえて今テクスト論を扱う事を音楽の記述と言ってしまっていいものかどうか?
そのふたりが「ザ・音楽学者」なのは音楽学としての良し悪しは別としてそんなものかと。
あそこらへんの研究室とか学会の音楽学は、西洋音楽がすべての基盤にあるけどそれを意識していないから、西洋音楽系の研究なら良いけどそれ以外は中途半端な手の出し方になって言ってはなんだけど価値のない研究しか生まれない。文献とか聞き取り調査からこねくりまわすことはできても、それ以上のことはできないでしょう。音楽学の研究は少しはできるとしても、音楽の研究はできないと思うよ……というのが自分の思う音楽と音楽学の違いだけれど、増田の思う音楽と音楽学の違いはまた別の話なのかな。
なんでその方向に展開しちゃうかな?
まず演歌を持ち出した時点で元増田は伝統とは何ぞやの問題提起として計算が足りないのよ。はっきりいって。
例えば民謡って文化があって、正調民謡とか民謡保存会とかそういった周縁から伝統の正体を読み解こうって話なら俺も賛同するわけ。
まぁ、もう先行研究あるけどね。
演歌に関して言うと成立過程が特殊すぎる。色々な古典から借用した表現のコラージュとも言える箇所も多い。
じゃあその借用の元となったフレーズは何なのか?なぜその表現が借用されたのか?どんな意図を狙ったものか?
山口センセは学際的研究って言ってたけど、めちゃ多岐に渡る分野の積み重ねがないとこれは分析できない。
西洋的な音楽の基準で部族社会の音楽を分析しても意味ないですよという事を決定づけた名著。未読なら是非。
話がそれた。
俺も若い頃は西洋音楽ってどうなの?という問題意識があって民族音楽研究に足突っ込んだが、こと音楽の体系的な教育としての西洋音楽はとにかく便利なんだな。
西洋音楽のシステムというものはキリスト教の布教とセットになってて(聖歌とかな)、とにかく分かりやすく再現しやすい方向に特化している。
となると、やはり教育の分野で強い。そうなると大抵の社会は影響は受けちゃうわな。
いざ秘境の奥地にフィールドワーク行ったら部族がラジオで最新のヒップホップ聴いてましたみたいな笑い話もよく聞く話でさ。
ここで問題として掘り下げるなら、演歌にどんな美意識、規範が根底にあるかって話よ。西洋音楽の影響がどうこう言っても、それでも生きている何かしらはあるわけで。何でもかんでも西洋音楽の影響がってのは筋が悪すぎるし、先行研究読んでないバカ乙で話が終わってしまう。
共同幻想とは何か?
これですよ。この問いが我々を突き動かすわけですよ。
「演歌は創られた伝統」というのは要するに、「演歌はニセモノの日本の伝統だ」ということですよね。
「ニセモノ」というのは、「ホンモノ」があるから成り立つわけです。ホンモノが明確ではないのであれば、ニセモノも明確ではないということになる。
だとすると、
これは正しい。
まずそもそも「日本」という単位自体がナショナリズムそのものといっていい。
ゲルナーは『民族とナショナリズム』において"政治的単位と民族的単位を一致させようとする政治的原理"をナショナリズムと捉えた。
肯定する場合でも否定する場合でも主語を日本にしてしまうとそうなる。
国家及び民族を主語にして語る時点でナショナリズム的と言っていい。
ということを自明であるかのように語る人がいっぱいいるけど、全然自明じゃないです。
もし仮に、日本は古来から文化的に排他的で海外のものを寄せ付けなかった、とかいう歴史的事実が存在するのであれば、
「演歌はもともと西洋音楽だから日本の伝統ではない」というのは正しいと思います。
箏も三味線も、もともとは海外のナウい楽器だったし、雅楽ももともとは海外のナウい音楽ジャンルだったわけす。
仏教がインド発祥だということはだれでも知ってることのはずです。
当該社会集団が何を選択的に残し、何を排除したか。何をナウいと考え、何をダサいと判断したか。
そういった当該社会集団による意図的な選択の連続としての受容史を単なる伝播、自然淘汰と読み違えている。
また、楽器で例えるなら韓国の伽耶琴と日本の琴は全く違いますよね。
文化は伝播してもそのまま伝わるわけではなく、ある種の選択と判断が生じている。
雅楽だって日本と韓国は昔ながらのスタイルのままだと主張しているが、実際には微妙な違いがある。
その価値判断を伝統の名の下にくだすのがナショナリズム的言説でしょ。
たとえばですよ、
正月によくかかる「春の海」という曲はたいてい「伝統音楽」の棚においてあります。この曲は洋楽と邦楽のハイブリッドです。形式的には完全に西洋音楽です。
だから、
という意見もあるわけです。
で、このふたつのどちらが客観的に正しいかということを実証することは不可能です。人それぞれ価値観が違う、としか言いようがない。
いやそもそも音楽学者で《春の海》をそういった視点で分析する奴は今日びいないです。
伝統かどうかというのはもはや何の問題提起にすらならないんですよ。
なぜならその枠組み自体が幻想だという前提で読むからね、まともな音楽学者は。
「伝統」とはなんなのか、「日本」とはなんなのか、「音楽」とはなんなのか、
とういうような哲学的な問いにきっちり答えないといけないはずなんですよ、もし演歌はニセモノだと言いたいのであれば。
「創られた伝統」という概念と「創られたわけではない伝統」という概念は、どこがどういうふうに違うのか、
ということを哲学の問題として、きっちり論理的に説明しなきゃいけないはずなんですよ。でも、そんな作業してる音楽学者なんていないですよね。いたら教えてください。
とっくに議論されています。伝統の創出についてはホブズボウムがまず前提。
ヘルダー、ダールハウス、タラスキン、ヴィオラ、リーマン、リッサ、アドラーも読んでどうぞ。
特に19世紀のヨーロッパはナショナリズムと芸術の関係が盛んに論じられていたので、
この分野の先行研究として学びがある。ロシア、スペイン、フィンランド、ハンガリーなどなど。
繰り返すけど伝統って自然に生じるものではなくて、外と相対化されて初めて気づくものだし
割と最近はテレビやラジオが地方の地方性を駆逐したのではという話もあって面白い。
北海道も沖縄も、東京の発信する音楽文化に染まってしまったという話で、
それが国家の音楽、民族の音楽だと大衆に勝手に読み替えられているという話ね。
音楽って人間の社会性そのものだよねってのはブラッキングの『人間の音楽性』の指摘だが、
あれ、演歌の話どこいった。
まあ、なんだ。JASRACに因縁をつけて「カ○ラック」呼ばわりするのはよろしくないと思う。ただし間違えるはずのない、基本的な部分を間違えた場合にキツく指摘する事は許されると私は思う。特に、著作権者から著作権の管理を一任されている責任ある組織だけに。
http://www.jasrac.or.jp/news/17/0227.html
手短にまとめると「クラシック」は西洋音楽の流れを汲む「芸術音楽」のこと。まあ何が「芸術」かというめんどくさい話はおいておくとして、クラシック音楽の中には現代(またはそう遠くない昔)に作曲されたものもある。ここがポイント。つまり、クラシックの楽曲の中にも当然著作権が存続してる作品もある。ところがJASRACは「著作権が切れた楽曲の例」として「クラシック楽曲」をあげている。おかしいよね。
模範解答は
「著作権が切れた楽曲のみを演奏する場合は管理の対象となりません。クラシック楽曲の中にも著作権が切れていない作品(例えば作曲者の死後50年を経過していない作品)もありますので、ご注意ください」
でしょ。
まあ、重箱の隅なんだけどね、想定Q&Aに不正確な記述を入れるのはNG。どこの馬の骨ともわからない匿名の有志が行うのならまだしも、著作権管理団体がこの程度じゃイカンでしょ。「クラシック音楽」のことをよく知らないって言ってるようなもんですよ?で、そのクラシック音楽の作品の権利を日本において守るのは、JASRACさん、あなたでしょ?
「がらく」はまあ多くの人にとっては「伝聞」の話でしかないけど、「クラシック楽曲=著作権切れ」はネット上で公開されたポカである。致命的とは言わないけど、こんなのが日本の著作権管理団体だなんて、不幸だわ。
#ここまで書いて改めて考えたんだけど、「クラシック楽曲などの著作権が切れた楽曲」を「クラシック楽曲のうち著作権が切れた楽曲」のように解釈できないかなぁとも考えた。
オリンピックで流れていたケニアの国歌が、なんだか日本の民謡にも通じる独特な感じで、かっこよかった。
なんでも、伝統的なケニアの子守唄のメロディーがもとになっているらしい。
で、他にもかっこいいのあるんか?と思って探していたら、ネットでちらほら話題にされてるすごいのみつけてしまった。
https://www.youtube.com/watch?v=VWy4USruuR4
すごい。かっこよすぎる。
なんだろ、スペースオペラ系のSF映画で、主人公が砂だれけの惑星に遭難してぐるぐる巻きにされて、
砦に引っ立てられて、そこにいよいよ惑星を支配するボスが手下ひきつれて登場してくるときの音楽だ。
で、「これでおしまいか」と思ったら、実はこのボスがいい人で、結局、一緒に戦うための軍隊だしてくれんの。
(我ながら、たとえがよく分からない)
wikipedhiaにもあんまり詳しいことは書いてないが、Tolia Nikiprowetzkyとかいうロシア生まれでフランスで活躍した作曲家が、伝統的な旋律を編曲したらしい。
日本語版では「作曲した」となっているが、英語版では「Music traditional (arrangement Tolia Nikiprowetzky)」ってなってるから、そういうことなんだろう。
まあ、植民地から独立した国に「国歌作曲してください!」ってたのまれて、あのメロディーはつくらないよね、普通。
なお、モーリタニアって国、マダコがたくさん取れて日本にも大量に輸出しているが、現地の人は気味悪がって食べないらしい。
「君が代」は、西洋的なメロディーではない曲で、実際、そうなんだとは思う。
でも、時々ネットでみかける「他の国は西洋音楽ばっかり! こんな独自な国歌を持ってる国は無い!日本サイコ-」っていう愛国ポルノは、
ちょっとちがうよね。
https://www.youtube.com/watch?v=YIyLUBdNAC8
https://www.youtube.com/watch?v=gE6beEdzhtI
もとが子守唄っての、よくわかるし。
https://www.youtube.com/watch?v=pI7V324e1zg
書き起こし、ざっくりと読んだつもりで書きます。
要するに、
為末は、異文化のものは、そこの文化のものとして作品を仕上げろ、
宇多丸は、異なる文化だけれど、それを色々とアレンジして作品を作り上げてもいいのでは?
という主張のように読めた。
話飛んじゃうけれど、最近知った話に、京都の祇園祭のほとんどの山車にはペルシャ絨毯が飾られているらしい。伝統的な日本の着物柄と思われている京都の西陣織の柄、あれはペルシャ絨毯の柄から影響されて出来上がったと見るのが妥当な見方じゃないかと思った。要するに、いくら伝統的な文化といえども、他文化に影響されあって成立してくるもの。文化てそういうもんだと思う。
なので、宇多丸の言い分はぐちゃぐちゃ言い訳がましく見えるかもしれないけれど、宇多丸が言ってる方が納得がいく。
そもそも、ラップはスラングとしてジャマイカ英語がよく入ってくる、他文化混入を否定するようなら、ラップやヒップホップの全否定につながりかねないんじゃないかと。
一時的な流行が、長年の年月を経て生き残り、一定の方向性を持つと、初めて一つのスタイルやジャンルとして認識される、とかなんとか言ってる人が居たような。だから、日本のラップが時間を経て、一つの形を形成すれば、それこそ演歌(これも西洋音楽をベースにした民謡ちっく音楽)のように残り続けてスタイルを確立できれば、そのうち一つのジャンルとして認識される事も有ると思う。間接的に宇多丸が言ってる事でもある。
あとは、好き好きの問題。演歌が嫌いな人に演歌の良さを分かれと言っても無理なように、日本ラップの良さを分かれと言っても無理な話(自分には解らないけれど)。好みの問題。
スタイル云々で批判される時点で、まだまだ確立されたジャンルではないけれど、結局は日本ラップが補完されていくプロセスの一つになるので、ジャンルとして確立する手前まで来ているのかもしれない。
4歳から高校まで習っていたバイオリンのレッスンを、30代も半ばになって再開してからはや半年。
この間、徹底的に直され、今でも直されまくっているのがボウイングだ。
バイオリンは擦弦楽器である関係上、弓の元から先まで均一な音を出すのが基本中の基本であることは、ほぼ確実だ。
言い換えれば、切る前の羊羹みたいな、テヌート的な音が「バイオリンでは」基本と。
子供のうちから習った場合、それできらきら星を弾くのがド定番だったりする。
ここまではいい。昔は練習嫌いだった自分でさえ習得できたので、これは子供の頃から習った人は全員体得すると言っていい。
しかしこれ、西洋音楽の本質に照らし合わせると、飽くまで「バイオリンにおける基本」に過ぎないのだ。
つまり固有の楽器の技術的な基本と、音楽的な基本が違っているのだ。
何しろ西洋音楽の音の基本は、頭にだけアタックが付き、そこから音符いっぱいかけて緩やかに減衰する、デタッシェという音だったりする。
これは擦弦楽器だろうが撥弦楽器だろうが管楽器だろうが打楽器だろうが全く関係なく、西洋人にとって最も自然に聞こえるから、という話。
即ち、テヌート的な音の出し方しか出来ない場合、まともに聴かせられる曲が、かなり限定されてしまうと。
嘘だと思うなら、例えばモーツァルトをテヌートだけで弾いたらどうなるか想像してみるといい。かなり暑苦しい、ともすると力任せの演奏に聞こえるはずだ。
これがメンデルスゾーンとかになると、1フレーズごとに表情を変えることが要求されるし、それが出来ないと非常に退屈でつまらない演奏になるのは間違いない。
しかしテヌートだけがベースの奏法では弾き方の引き出しが少なすぎて、こうしたロマン派の難しい曲には全く対応できない。
またテヌートがデフォな人は、必要以上に力んでいることが多いので、音色も硬く、場合によっては汚い、荒っぽいものだったりする。
結果的に、普通の人がイメージするバイオリンの音から大きくかけ離れてしまうのだが、本人はなかなか気付かない。
昔はあまり練習に熱心でなかった自分は、結局テヌート的奏法しか習得できなかった(させてもらえなかった)ので、今になって目を回しながら対応に追われている。
バイオリンは可能な限り力を入れず、かつ綺麗で芯のある音を出さないといけない楽器であることを思い知らされているというか。
そこで疑問なのだが、幼少からバイオリンを熱心にやっている人は、一体いつくらいに、デタッシェの奏法を習得するのだろうか。
保育園・幼稚園や小学校低学年の子にこういう難しいことが理解できるとは思えない。
反面、少なくともメンデルスゾーンを弾く前には絶対にマスターしていないと、発表会で「右手はまだまだだけど左手はいいんじゃない」といった微妙な評価をもらうことになるだろう。
以前、大阪市が公開した文楽問題に関するメール交信記録を読んで一文を記したが、
文楽の問題に関して、Twitterを見ていていくつか誤解があるようなので、書いてみたい。
産経の記事によれば、
橋下市政 揺れる文楽 補助金凍結…地方公演厳しく+(2/2ページ) - MSN産経ニュース
同協会の収入は興行収入が8割、補助金が2割を占め、その内訳は国が8千万円、市が5200万円、府が2070万円(23年度)。
記事中「同協会」とは文楽協会のこと。今すぐ見当たらなかったが、たしか本公演に影響が出る額ではなかったように記憶する。少なくとも文楽の存廃に関わる額ではない。
公開されたメール記録から。池末浩規参与の3月24日付メール。
http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html
③-1.技芸員のマネジメント機能のうち、「都市魅力向上に資する伝統芸能に関する若手技能者の育成支援事業」に対する事業補助を行う。これは当 初金額を××円(試案:2,000万円)とするが、××年度(試案:平成27年度)以降の分については、前年に(府)市の文化・芸術に関する補助についての委員会(名称未定)により決定する。
③-3.経過措置として、✕年間(試案:平成24年度に限って)は、✕✕万円(試案:3,200万円…現状の5,200万円と上記2,000万円 との差額)を新たな公演の試み、協会の機能向上の試みに対して事業補助する。この補助の使途および成果については、事後に報告するものとする。
ただし、同じく池末参与の6月5日付メール中、橋下市長とのやりとり部分。(→は池末参与の返事)
文楽についてはその構造 も、担当者以外は理解していないところもあります。
文楽を守る役割は結局国に あるということがはっきりとしてきました。
→結局文楽の振興については国しかコントロールできない形にしておきながら、大阪府市も金入れろという図式ですね。
そうなると若手育成も国では?
→本来はそういうことになります。
また若手育成について、国 と地方の役割はどうなのでしょうか?
→原則国主体でやるべきという考え方がベースになると思われますが、国が新たなスキームに乗ってくるまでの短期間(3年以内を想定)人材育成につい ては大阪も奨励金を出す考え方もあるかもしれません。
市長とその周辺の意図としては、「文化財保護」よりも「振興(観光資源としての活用)」なのでこういう書きぶりになる。しかし、文楽においても、もちろん「家業」となっている場合もあるが、原則的には歌舞伎と違い、あくまでも実力主義だという側面が全く閑却されている。
文楽は伝統に胡坐をかいている、敷居が高いなどという意見を散見したが、事実は文楽も新作を試み、様々なチャレンジをしてきた。たとえば、子供向けに作曲された新作があげられる。
文楽の入門編として最も手軽だと思われるのは、国立文楽劇場で毎年夏の公演で演じられる演目だ。夏休みのため子供の観客を対象としたものが必ず演目にあがる。今年は「西遊記」がかかっている。
そこで近年演じられてきた演目を振り返ると、「舌切雀」「雪狐々姿湖(ゆきはこんこんすがたのみずうみ)」「瓜子姫とあまんじゃく」「東海道中膝栗毛」「金太郎の大ぐも退治」「鼠のそうし」「大江山の鬼退治」。。。などなどがあげられる。ただし、必ずしも中身が充実している演目ばかりとは言えない。
こういった子供向けの演目だけでなく、大人向けの演目も様々な試みが繰り返されてきた。
例えば歌舞伎演目のコピーがある。そのなかで、「勧進帳」はもっとも有名な演目の一つだろう。
またあまり知られていないかもしれないが、近松門左衛門の「曽根崎心中」は歌舞伎の影響で戦後に復活した演目だ。その事情は次のサイトにコンパクトにまとめられている。
その人形浄瑠璃にとって難題だらけの「曽根崎心中」の復活上演を、まず試みたのが本家の人形浄瑠璃ではなく、歌舞伎であった。
昭和28年(1953)8月、近松門左衛門生誕300年を記念して宇野信夫が「曽根崎心中」を新しい歌舞伎に脚色し、の新橋演舞場の舞台にかけたのである。徳兵衛を上方歌舞伎の第1人者の2代中村鴈治郎、お初を長男の2代扇雀(のちの3代鴈治郎)というコンビで演じたところ、大評判をとって扇雀ブームまで起こった。
この反響の大きさに驚いたのが、本家の文楽座である。人形劇としての「曽根崎心中」復活上演に意欲を燃やし、現代向きにという松竹の大谷竹次郎会長の意向を入れて、西亭(にしてい)こと三味線弾きの初代野澤松之輔が脚色・作曲を担当、鷲谷樗風(わしたにちょふう)の演出で、昭和30年(1955)四ツ橋文楽座1月公演の舞台にかけたのである。
よく復曲といわれるが、昔通りの演奏曲復元は不可能で、新しい作曲と割り切った方が誤解が少ない。語りを8代竹本綱大夫、三味線を10代竹澤弥七のコンビ、主人公・徳兵衛役の人形は序列7番目だった吉田玉男が遣った。
これらのものは本公演でもしばしばかけられる演目だけれども、より実験的な演目としては、蝶々夫人、ハムレット、テンペスト(「天変斯止嵐后晴」)など。また、市長が再三ふれている三谷幸喜の新作に代表されるようなそれも、しばしば作られる。聖書の福音書物語を文楽で、といった試みまである。
つまり、文楽に携わる人たちは、新しい観客開拓への意欲はあり、チャレンジ精神も問題意識もある人たちなのであって、この点は文楽を知らない人たちによく認識しておいてもらいたいと切に願う。
したがって、ちゃんとした台本さえあれば、たとえば百合文楽でもけいおん!文楽でもなんでもできるはずだ。文楽人形は、女子高生でもイエス・キリストでも、なんにでもなれるのである。
しばしば、歌舞伎や落語と並行して文楽を論じられているのを目にする。しかし、文楽は他の古典芸能と全く違う側面があるので、「伝統芸能」「大衆芸能」という大雑把なくくりで論じられるとやや面食らう。
まず、文楽は音曲として非常に格の高いものだったという歴史的な事情である。これは歌舞伎の竹本葵大夫さんが軽く書いている。
人形芝居で創りだした演目も歌舞伎に流出して、歌舞伎で大当たりを取る。それがために、人形芝居は経営に打撃を受ける。これは対策を講じなければいけない。そんなこんなで、人形芝居の組合で「歌舞伎に出演した太夫・三味線は除名処分にする。歌舞伎の太夫・三味線とは同席しない」などと取り決めます。「われわれは宮中のお召しがあると参内して芸をお目にかける。そして掾号も受領することさえある。歌舞伎などの河原者とは身分が違う」と息巻いたかどうかは知りませんが、これくらいのことは充分おっしゃられたでしょう。
今でこそ、私など文楽の9綱大夫師にご指導いただいたり、ほかにも三味線の方が文楽の方のご指導をいただいたりしておりますが、昔でしたら考えにくい現象でしょう。
もちろん実力の裏付けがあってこそで、
ただいまでも「文楽座出演」と銘打って歌舞伎の演目に文楽座の皆様が演奏で出演なさると、たいがい新聞劇評は「○大夫、△△以下、文楽座の演奏に量感がある…」というようなことが書かれます。ところが、同じ曲を私ども竹本が演奏いたしますと、あまり賛辞を頂戴することがございません。
ということになる。
葵太夫さんも触れておられるが、そもそも人形浄瑠璃は皇室と関係の深いもので、その一つの表れが掾号だろう。名人上手は皇族から掾号を受領することがあり、豊竹山城少掾、人形遣いの吉田難波掾を最後に掾号受領するものはいないが、しかしながら皇室との関係はあったわけで、昭和38年に松竹が興行権を手放し文楽協会が成立したとき、松竹がこれを「献納」と言っているのは故なきことではないのだ。
繰り返すが、このような人形浄瑠璃における格の高さは、実力の裏付けがなければ意味を持たないし、まして現代において補助金の投入を正当化するものには必ずしもならない。
しかし、他の芸能と一括りで論ずることができないという側面の若干は感じてもらえるのではないか。
また、義太夫節の特性について若干ふれておきたい。
義太夫節の構造そのものは簡単で、決まったメロディーのパターンを詞章に合わせて組み合わせて行くだけだ、という説明でいいと思う。したがって、このパターンの組み合わせは無限に広がる。
ところがそう簡単にいかないのは、文楽の古典の場合、演目に合わせて様式が成立しており、義太夫節ではこの様式を「風(ふう)」という。かねて様々な論者により、風を語り分け伝承するのが最大の難物だとされてきた。というのも、非常に微妙・繊細なものだからだ。
以前書いたように、私は国立文楽劇場に通って図書閲覧室にもよくお邪魔をするような人間だったが、さすがに義太夫節を語るところまではやらなかった。だから断定はできないけれども、この様式の問題は最後は幼少時の音楽環境の問題になると思う。と考えたくなるくらいに、微妙な代物であって、これだけ洋楽が氾濫して耳が慣れてしまっている現代日本で、こういうものを継承することが可能かどうか、はなはだ疑問だと言わざるを得ない。
やや話がずれたかもしれないが、たしかに落語や歌舞伎などのように、時代に合わせて姿かたちを変えることで人形浄瑠璃においても生き延びることだけなら可能かもしれない。しかし、文楽の場合、繊細な中身が変わってしまってはもはや文楽ではなく、ただの人形芝居、「文楽のようなもの」が残るだけだろうと強く危惧するものだ。
この点が、私の文楽の将来に対する悲観や「古格を維持している限りは、文楽は補助されるべきだ」と考える所以でもある。
大阪市長やその周辺が模索しているように、観客動員を増やそうとする努力、そのための宣伝や統括的なプロデュース・マネジメントが必要だろうというのは、私もかねがねそう思っていた。まんざらではないと思う。
ただし、それには一定の限界があるだろうとも思う。要因はいくつでもあげられる。
音楽環境がもうまったく変わってしまっている。古典に対する教育がほとんど日本ではなされないのだから理解できなくて当たり前。そもそも、松竹ですら経営が難しくて50年前に放り出したものを今の時代に観客が増えるわけがない。ちゃんと語れる人がもういなくなりそうだ等々。
一定の限界を認めなければ、たとえば市長がいろいろ言っているように古典であっても演出をもっと現代的にしなければならなくなるだろうし、本も変えなければならない。本来、国立劇場国立文楽劇場での公演は一作品全部を舞台にかける「通し」を主として行われるべきだが、観客動員を上げたいのであれば歌舞伎のように「見取り」だけでプログラムを構成し、有名な売れそうな場面だけ舞台にかけておけばよい。しかし、それで本当にいいのか。
つまり、観客動員をどうしても上げたいのであれば、中身にも伝承にも確実に影響が出てくるだろうと思われるのだ。これで本当に「古格」が維持できるんだろうか。
私は、文楽だけでなく、歌舞伎も好きだし(そもそも文楽に触れるきっかけは歌舞伎で知っている演目は文楽ならどうなのかという興味だった)、西洋古典音楽も大好きな人間だ。そうやって比較をすることで両方を消化するのが、誇張して言えばあるいは日本人だけの楽しみだとすら思っている。
そこで西洋音楽と比較した場合、文楽に匹敵するものはワーグナーの楽劇ぐらいしかないのではないかな、と感じている。長大さや感動の深さの点で比肩する物は相当に限られてくると思う。
それだけの値打ちがあるんだということ、それだけの値打ちがあるものに対して、日本のものなのに、その日本人の大多数が興味関心全くゼロだということは、まず言っておきたい。
その上で、しばしば「補助金なしでやっていけない芸能芸術は滅び去るべきだ」という意見が見られる。非常にもっともな意見で、公によって支えられている文化事業は常にこういう問いを問われるべきだと私も思う。
ただ、一方で、ヨーロッパのオペラにしろオーケストラにしろ、「補助金なしでやっていけない」わけだが、「だから滅び去るべきだ」とは言われない。ここは必ずしも論理としてリンクするものではない、ということも、またもっともなのだ。
文楽に匹敵するのはワーグナーくらいしかないのではないかと書いたけれども、ワーグナーには過去の歴史から政治的な問題が色々あり、また採算が取れないからといってドイツ人がワーグナーを「過去のもの」として捨て去るだろうか。欧州においてすら西洋古典音楽のファンはそれほど多くないはずだが、さらにそのなかのごく一部のワグネリアンしかたいした興味関心をもたないからワーグナーの上演は無駄だと批判されるだろうか。そういうことは今のところまずあり得ないと思う。なぜなら、ワーグナーはドイツの宝だからだ。文楽よりはるかにカネがかかるにもかかわらず。
大阪の先人たちは、文楽という芸能に対して文字通り心血を注いできた。一時期を除いて基本的には客が入らない芸能だったので、名人上手ですら「明日のご飯がない」という貧乏話は普通にある。奥さんが小料理屋を営んでいてそれで食わしてもらったりしている。それでもなお、大阪の偉大な先人たちはこの芸能に打ちこみ、奇跡的に現代に伝えてきた。
彼らはお金はなかったかもしれない。貧乏だったかもしれない。その代わりに得られたのは、感動を与える喜びであったり、誇りだった。掾号の問題はまさしくそれで、名誉だけが彼らの糧だったと言っても言い過ぎではない。ワーグナーにも匹敵する芸能であるからこそ、それだけ打ち込む価値があったのだ。
ただ、現代社会では、残念ながらこの芸術の価値に見合うだけの犠牲を技芸員たちに求めるのは、無理になって来ている。(それでも彼らは贅沢な生活をしているわけでは決してない)
現代の大阪人はそういう偉大な先人の子孫だ、そういう偉大な芸術を生んだ共同体の中にすむ一員なんだという矜持、その矜持が文楽に金を払わせるのであって、他に理由は見あたらない。
そして、、、私はこれが最も大事な点だと思うけれども、、、大阪人に持ってもらいたいこの矜持に対して、文楽に携わる人たちはお返しをしなければならない。
それは、新しい観客を獲得する挑戦を一方で続けながらも、文楽の本格を維持すること、継承すること、古格を守ることではないか。それが、文楽座に課せられたミッションであって、それが出来なくなった時、文楽は文楽でなくなり、公金を投入する理由もなくなるだろう。
もちろん、大阪市長やその周辺の人々が考えるように、観客動員を上げて観光資源として活用されるように生き延びる方向もある。しかし、それはもはや「文楽」ではない。
もし「文楽のようなもの」という形でしか生き延びられないのであれば、偉大な先人の名誉のために、大阪人の矜持のために、近い将来、しかるべきタイミングで文楽の死を宣告してもらいたい、最低でも名前だけは変えてもらいたい、無形文化財や世界遺産の認定も返上してもらいたい。私がこのように希望する気持ちやその理由も、これまでつらつらと書いてきたことから感じ取ってもらえるのではないか。
そして同様のことは、なぜ国が補助金を文楽に対して投入するかという理由づけにもなるように思う。大衆に受け入れられない芸能は補助金を打ち切ればいい、この財政難の折から文化事業に投ずる財源はないとよく言われるが、ことはそう単純ではない。
予算全体から見れば、補助金として文楽に投入される額は巨額とは全く言えない。しかも大阪の場合は、対象を悪玉・敵に仕立て上げて財政削減しても、すぐに無駄なプロジェクトに走るのでせっかくの財政削減が全く無意味なことになっている。大阪市長は文楽に対して様々な批判を繰り広げているが、予算と比較した場合にあまりにも不釣り合いな煽りであると言わざるを得ない。
日本の偉大な芸術、しかもまだかろうじて本格が維持されている繊細な芸術に対して矜持を持って維持するに、大阪はもとより、日本の市民社会全体「も」維持しなくて他に誰が維持するというのだろうか。
(追記)
これまで書いてきたように、私自身は文楽の将来にはかなり悲観的であるし、芸の質についても相当程度批判的だ。したがってTwitter を見ていて古典芸能ファンによる「日本の伝統芸能なんだから維持されるのが当たり前」や「とにかく文楽は素晴らしい」に類する議論を見ると鼻白む思いをする。自分の楽しみのために税金の投入を是認しろというのであれば、それはまさに橋下市長の批判通りなのではないかと思う。
したがって、古典芸能ファンの言動にもいささかついていけないものを感じる時があると、これは明記しておきたい。
また、もし何かご意見などあれば、Twitterの私のアカウントに何か書いていただきたいというのは、前回の増田に書いたとおりだ。https://twitter.com/SignorTaki
使ってるスケールの問題じゃね?
普通、西洋はダイアトニックスケール使うから、このイントロみたいな使い方はしない。
西洋風にやりたいなら、この音配置は逆。
この順序でいきたいのだったら洋楽なら、ここは半音下の音をつかうはず。
じゃないと次のコードにいけないからね。
同様にBメロのところは、
ピッチベンドで西洋音楽ではいっちゃいけない所に音を飛ばしている。
あと、微妙に12音階外れた音いれてるのもオリエンタルを感じさせる要因なんじゃないかな。
イントロのこの単純な刻みもDTMなのにわざわざアタックだけずらしてるよ。
ほら貝を吹いたときみたいな音の変化というのかな。
そういう工夫がされてる。