はてなキーワード: 二人称とは
普段音楽を聴かないけど去年キャッチコピーにひかれてHey! Say! JUMPの SENSE or LOVEを買った。
でもアルバム全部を聴いても感覚で繋がってるのか愛で繋がってるのかわからんかった。
一年経って新アルバムが出るというのを知ったのでリベンジしたくなった。
テーマがはっきりしてるっぽいから音楽初心者でもわかるだろうと思ってまじめに聴いた。
以下思ったことを吐き出す。
※歌詞カードは見ていない。曲を耳で聴いただけ。タイトルは読んだ。
ゲームのクリア直前で世界が崩壊することを皆は口々に批判していたけど、俺にとってのDQはいつだってこうだった。
https://www.youtube.com/watch?v=gQf_QTsvXCU *例のBGM
そのどれもでラストダンジョンの半ば、ラスボスを倒すためにレベルを上げている最中にデータが吹き飛んだせいでクリア出来ていない。
それでもと、繰り返し遊ぶが何度やってもラスボスよりも前でデータは消えていく。
段々とプレイは効率化され、繰り返されるリセットにより感情移入は失われ、世界は断片的で無味乾燥としたものへと姿を変える。
やがてそれらはただの義務的な作業となり、キャラクターはただのデータに過ぎなくなる。
俺にとってのドラクエだ。
ただ一つの違いは、俺には奇跡が起こらず、世界は壊れたままで閉じていった事だ。
俺の中で、3つの世界は今も救われないまま胸のしこりとして残り続けている。
それらを救いに行こうと旅立つ気力はもうどこにもない。
俺にとってあの世界はもう、フラグ管理された0と1の羅列でしかなくなっている。
胸のうちから没入感を湧き上がらせる度に裏切られる旅路は、いつしか俺にドラクエに対する無気力を学習させていった。
今ではあれらの世界は俺に苦痛だけを残した忌むべき場所となっている。
俺はドラクエが大嫌いだ。
ドラクエが大嫌いなアイツこそが俺だったんだ。
ならば壊す側の俺にとってはアイツこそが二人称で呼ぶべき何者か、「ユー」だ。
あの映画が「ユー」の物語であるのならば、俺にとってはたしかにアレは「ユア・ストーリー」だった。
俺の物語でもあったし、俺と対立する誰かの物語であり、その中で結局主人公だったのはあの映画において正義として描かれたのもその何者かの方だ。
その虚しさは、俺が何度も消えゆくデータの中で、世界を救えないことに対して感じた申し訳無さを確かに思い出させてくれた。
正しく「ユア・ストーリー」だった。
これは結構面白い問題提起で、日本語の骨格、日本人のアイデンティティまで関わる大きなテーマになる可能性があります。
古来、日本語は敬語や豊富な一人称二人称を駆使して「常に関係性を提示し続ける」性格を持っています。1000年以上ずっとそういう性格でやってきています。
なぜそうなっているのかは諸説ありますが、日本人のコミュニケーションが他者と関係性を明確にしたうえで融合するために為されるものだからと言われています。馴れ合い重視の社会を反映していると言えるでしょう。
ここでもし社外向けに「さん」呼びがOKになるならば日本人のコミュニケーション様式を根本から変える1000年越しの大変革になるかもしれません。日本はついに島国根性の馴れ合い社会を脱して真の国際化を成し遂げるのでしょうか。
双子とか従兄弟だとか、顔が全く同じキャラを作りたくなるのは分かる。
好みの顔を量産する口実になるし、双子や従兄弟って設定が好きな人もいる。
ただ、たまに「えぇ……」と思う事もあるわけ。
Fateのキャラに「ステンノ」と「エウリュアレ」っていう姉妹にして同一人物って設定の女神様がいるの。(うまく言えないので詳しくはググって)
互いを「貴方」じゃなくて「私」って呼び合う設定。良いよね。分かる。私も好き。
人間には理解できないしマネ出来ない関係。そもそも二人は出生が特殊だもんね。人間から見たら。
それをタダの人間の設定のオリキャラに当てはめるって無理やりすぎない???
ただ一緒に育てられただけで互いを「貴方」ではなく「私」って呼び合う関係になるとか無理があると思う。
両親に「二人称を『私』にしろ」って強制されてるなら分からなくもないけど、そうじゃないし。
せめて「Fateのステンノとエウリュアレのような関係」って作者本人が言わなければ良かったのに。
よりにもよってフォロワーだし。