はてなキーワード: 中学生とは
「ここは怒るシーンだから怒っておこう、そうすれば相手も俺に譲歩するはずだ」みたいな打算で怒りを行使するのはわかる。
でも、自分の中の感情として怒りが湧いてきて怒鳴ったりすることなんてある?
そんな怒るような場面なくない?
中国人の甥が中学生で、中国人の義理の妹が公立小学校の先生をしている。
中国にもたくさん中国人の友人、知り合いがいて、毎日のように現地の教育現場の様子について知ることができる。
上記リンクの投稿にも書かせていただいたが、中国人の義務教育課程はとにかく徹底的な詰込み教育で公的な授業時間は日本よりも長い。
また宿題が大量に課せらえるので、それを終わらせるだけでも手一杯な状態が中学卒業まで続く。
こういった話題になるといつもスポットにあたるのは子供の方で、中国人の間でもこういった子供への過度な教育に疑問を持つ人は少なくない。
しかし冷静に考えるとこういった教育現場を支えているのは紛れもなく学校の先生たちであり、当然先生たちの負担も大きなものになっている。
中国はSNSが非常に浸透している国だと思う。どのくらい浸透しているのかと言うと、チャットツールのWeChatは老若男女問わず、スマホを持っていさせすればほぼ確実にアカウントを持っており、日常的な連絡からオンライン決算などにも頻繁に使われ社会インフラ化している。
アリババが開発運営する釘釘(Ding Ding)と呼ばれるアプリがあるが、公立学校からは全てこのアプリを各家庭にダウンロードして登録するように言われる。
アプリに登録すると子供が所属するクラスのグループにアサインされ、そこでクラスあるいは学校全体のお知らせなどが共有される。
ざっくり言うと、MicrosoftのTeamsのようなソフトウェアなのだが、学校の運営に特化した様々な機能が備わっている。下記に主な機能を紹介すると、
ざっと色々と釘釘(Ding Ding)について書いたが、学校の先生はまずこのアプリを使いこなせなければならない。
また先生への連絡もDing Ding上のチャット、場合によってはビデオチャット通話で連絡をとることもある。
中国の甥も最近天候の影響でオンライン授業が行われているのだが、国語の難易度の高い宿題が出された時、夜8時、9時くらいでも先生から連絡があり、その進捗を確認されたとのことだった。
甥のクラスは大体45人なので、優秀な生徒は簡単に済ませるにしても、直接連絡による進捗把握は先生にとってもかなり大きな負担だ。
天候によるオンライン切り替えは、当日の早朝早い時間、あるいは前日の遅い時間帯に学校から先生へ通達されるので、その対応力も問われる。
冒頭に書いた義理の妹は小学校の先生だが、帰宅後もDing Dingでオンライン上で生徒とその保護者と繋がりっぱなしなので、休まる時間がないとぼやき、実際、夜何時になってもお構いなしに保護者から連絡が来る。
そして深夜になってようやく当日の小テストの採点が終わったと喜ぶ。
中国は小学校から各科目専門の先生が配置されており、これは日本と比べても素晴らしいことだと思う。
中国には、師範大学と呼ばれる、教員養成専門の大学が各省にあり、そこの大学を卒業、教員資格をとって始めて教師となれる。
若い世代の先生であれば、Ding Dingを使いこなすのは難しくはないが、シニアの先生たちは難しいとは言いながらも使いこなせていて(少なくともオンライン授業は全く問題なし)すごいなと思う。
言っておくが横断歩道は名前こそ「歩道」とついているが歩道ではない。車道だ(もし横断歩道が交通法規上も歩道だったなら、車はすべての横断歩道の手前で一時停止する義務がある。が、もろちんそんなことをする車はいないし、しなくても違反にはならない)。横断歩道のあるエリアは、本来は車道だが歩行者の便宜と安全のために横断してもいい場所を定めているにすぎない、そういう場所なのだ。歩行者が好きなように使っていい場所ではない。まずそこをわきまえてほしい。
上のブクマカのような者(や、それにスターをつけているような者)は、交通の安全と便宜のために設けられている保護義務や優先関係を「優遇」と履き違えて、あるいは勝手に都合よく解釈して図に乗っているが、勘違いも甚だしくまことに愚かしいことである。度し難い。
いつから保護される側が偉くなった? たとえば大人は子供を保護しなければいけないが、それは子供が偉いからではない。子供が弱いからだ。強い者が弱い者を保護するのは当然のことだから車は歩行者を保護しているのだ。
たまに弱者であることを笠に着て役所でえばり散らしている社会的弱者を見ることがあるが、上のブクマカも同類だ。社会的弱者だろうが交通弱者だろうが、与えられているのは正当な保護を受ける権利だけであって、怒鳴ったり威張ったり迷惑をかけたりする権利までは与えられていないのだ。保護されるべき場面以外ではお互い様だということをしっかりと理解するべきだ。
いつから優先される側が偉くなった? 交通法規や交通規制における優先関係は、単に優先関係を明確化するために設定されている。進行方向が交差する時にどちらが譲り・どちらが進むかを当事者同士にその場で判断させると危ないから、ケース別に優先順位を決めてあるに過ぎない。偉い人が優先されているわけではない。
たとえば狭い山道の対面通行ですれ違いが難しい時は、登り側が優先とされている。これは再発進が難しいほうを優先としているだけで、上に向かっている人が偉いからではない。
こういった交通秩序も理解できずに「歩行者は偉い」などという傲慢な勘違いに到達してしまうやつがいるから、いつまでたっても交通事故が減らない。
データを探せばわかると思うが、自動車対歩行者の交通事故の原因は、横断歩道上で実に3割、横断歩道ではないところでは7割の事故について歩行者側に法令違反がある。しかし、結局賠償を負わされるのは自動車のほうだ。過失相殺で減額があったとしても差し引きすれば自動車側の賠償額のほうがどうしたって大きくなるからだ。いい迷惑である。
歩行者も自動車も、道路という公共の共有物をひとつのルールの元でシェアしているという点で立場はイーブンだ。
ルールでは保護の義務と優先順位が冷徹に定められているだけで、そこには「自動車ふぜいは歩行者様に楯突くな、かしずけ」などという歩尊車卑の考え方はない。横断歩道では車側に歩行者を保護する義務があるだけで、歩行者側には「渡る」以外には何の権利も与えられていない。好きなだけ待たせていいわけでもなければ、交差点の円滑な通行を故意に妨げていいわけでもない。むしろ、暗黙のうちにおのおのにできる範囲でさっさと渡り切ることが求められている。
私は結婚後子供が小学生にあがるタイミングで別の国に移住した。甥とはその後もWeChatで連絡を取り合う仲だ。ビデオチャットで英語の宿題を手伝っていた時期もあったが最近ではたまにビデオ通話で話す程度になってはいるが。
日本人よりも中国人社会の中にどっぷりつかって生活してきて痛感するのは中国の受験は非常に過酷であるということだ。
甥は現在中学生で朝6時半には家を出て、近所の中学へ通い、夜の7時近くに帰宅する。別に補修とか部活があるのではなく、純粋に義務教育のカリキュラムをこなしているだけなのだが学校の授業時間が異常に長い。
放課後は特に遊ぶ時間もなく、大量の宿題をかたずけなければならない。中国のSNSでは、夜の1時になっても宿題が終わらないと嘆く親の動画や精神崩壊して泣き叫ぶ子供の動画などは普遍的に再生数の伸びるコンテンツと化してしまっている。
優秀な子供はそれでも早めに宿題を終わらせ、さらに補習塾、オンライン塾などで勉強していたりする。中国政府は子供のストレス軽減と親の金銭的負担を少しでもなくそうと、その強権をふるい突然全国のあらゆる塾をなくしてしまったが、それでもその監視の目をかいくぐり今でも塾は平常運転していたりする。
中国は省や地域によって高校の進学事情が大きく異なり、全国平等に学ぶ機会が与えられている社会ではない。
例えば、甥の地域での高校に進学できるのは、中学卒業生のおよそ半数、50%よりも少し少ない人数である。
中国で高校と言うと日本とは少し概念が異なり基本的には日本の進学校に相当する。高校へあがればほぼ自動的に大学受験となる。
高校は基本的には全寮制で早朝から深夜まで缶詰状態で勉強に励むことになる。(高校はさらに受験地獄と化す)
では、高校へ進学できなった生徒はどのような道があるのかというと、「職業学校」と呼ばれる、日本で言うところの専門学校に相当する学校へ行くことになるのだが、そこは「高校」ではなく、卒業しても高校卒業という資格は得られない。
日本でも話題になっていて知っている人も多いかと思うが、中国では慢性的な就職難であり、優秀な大学卒業生は山ほどいる。
職業学校卒業して就職できるところは非常に限られており、選択肢が大きく狭まってしまう。そういう事情もあり中国の親たちは教育に非常に熱心である。
これが北京だとどうなるのかというと、首都だけあって教育機関は非常に充実しており、市の中心部の学区では高校進学率は70%を超えている。
しかし、北京の郊外エリアとなると、地方都市と同レベルのおよそ50%にとどまる。
ある程度資金のある親たちは、早くから子供を海外留学に出して、帰国子女枠で中国国内の有名大学に入学させるか、そのまま海外の大学を卒業し、現地就職あるいは帰国し外資企業への就職などを目標にしていたりする。
そこまで資金が潤沢ではないが、ある程度の資金がある親たちは、子供とその母親を海南島へ移住させるのが小さなブームのようだ。私の知人、友人でも2家庭すでに移住している。
海南島は人口がそれほど多くはなく高校進学率も高いため、子供の進学のために移住する親たちが最近増えているとのこと。
15歳という中学三年生時に、人生のレールが大体決まってしまうという非常に過酷なレースの中に、中国の子供たちはいる。
甥はというと、日本のアニメにどっぷりはまって、ナルトが大好きだと話す。学校の先生に親が呼び出されること多数。成績を見ても高校へ進学できる可能性は高くはない。
「中学生で覚える言葉」を、「知ってる」というところで満足して、実際に実行できているかどうかには一切気をまわさない、というのもなんていうか、独りよがりな「知性気取り」の特徴だよね。
概念は単なる知識であって、自己啓発本のような実践に必ず価値があると説くものじゃねぇよ。
普通は、ある種の普遍的な教えというのは、「普段からできているか」と気にすることで役に立つものだと理解しているものだけど。
反証可能性という概念に対する反論だって存在するだろ?普遍的なんて言葉を何にも考えずに言っているところがお里が知れるぞ?要はお前が考えていることは普遍じゃねぇんだよ。
「中学生で覚える言葉」を、「知ってる」というところで満足して、実際に実行できているかどうかには一切気をまわさない、というのもなんていうか、独りよがりな「知性気取り」の特徴だよね。
普通は、ある種の普遍的な教えというのは、「普段からできているか」と気にすることで役に立つものだと理解しているものだけど。
そろそろ、もう自分が見えなくなってるようだね。
俺の独り言に「お前は言論の自由を否定するのか」と絡んで来たのは君だよね?
あと「中学生でも知ってるけど実行できている人は少ない」というくらいのことができるかできないかが、結局知性を分けたりするよねというのは実際俺は最近よく思うよ。
「議論に感情的になるな」「個人攻撃ではなく話の内容だけに反論しろ」とかも、守れない人だらけだよね。義務教育で教わるレベルのことだけど。
そういうところから始めるべきなんだよ、君たちって。
お前はまともな社会生活をしていないだろう?
愚の骨頂と言えるようなことを書いても基本は自由で、馬鹿なことを大量に書いてもそれは自由の範疇で許されるべきだ
ただ、確かに限度はある。「弱者男性を〇害せよ!」などと言う連中が現れたら、言論の自由といえども危険だろう
言論の自由について有意義な議論をしたければ、どの程度の自由が許されるのか、建設的なことを言ってみたらどうだ?
まあ、有意義なことを言う必要性すらない。「うんこうんこ!」と言っても別に構わんのだよ
反証可能性なんて言葉は、スマホを初めて手に入れた中学生がネット検索して知って使いたくなる程度の、ありふれた言葉であることは全人類が知っており、君だけがすごい言葉だと思っている
小さい頃から自分の二面性というか、「どうしようもなくキレやすく、暴力を振るう時期」と「人生に対して完全に悲観的になってしまう時期」があることを自覚していた。
感情コントロールで非常に苦しんだ。安直に「どうにかしてこいつを殴りたい」と思ったことは数え切れない。もちろん行動には移さない。それくらいの社会性はある。
母親も祖母も「躁」のときはキレまくっていたし、散財しては父親に怒られていた。とにかく元気でハキハキと仕事をこなすのだが、一旦怒らせると自室のものを全て壊された。
「鬱」のときはまた別の地獄が家庭に漂った。料理も育児も全部放棄。家にいると陰鬱が移るから、友達のいるところへ逃げ込んだ。
自分は二人の様子を見て「こうはなるまい」と中学生時に決意した。以降、明確な人間関係のトラブルや、差し迫る危機などには縁がない。
が、薄氷を渡り続けている。イライラしたらオンラインショッピングで数十万円分の買い物をする。それがパートナーにキレる前のストッパーとして機能している。どうしようもなく鬱な場合、隙があればすぐに死んでしまうような気がして、救急外来のグロテスクな密着番組を見る。死は常に自分の隣に存在する。躁フェーズでは死は丁寧にマスキングされる。
ジェットコースターという例えは言い得て妙だ。「人生ってこんなに素晴らしい」と涙を流した数ヶ月後には「死にたい」という気持ちにどっぷりと浸かっている。自分の人生は忙しい。躁であれば数日徹夜で記事を書けるし、執筆後のフルタイム労働だって楽勝だ。鬱になると全然ダメだ。仕事が終わったらベッドに直行、そうしなければ死んでしまう。双極症の自殺リスクはうつ病のひとより結構高いらしい。それはそうだと思う。どちらに感情が揺れ動いていたとしても、自分にとって「死」は階段を一歩駆け上がるよりフランクな行為だ。ただ痛いのだけが嫌だから後回しにしている。
鬱から躁へ動く瞬間は天国にのぼるくらい気持ちいい。シャブをやったことはないが、それに似たような気持ちだと思う。躁から鬱は地獄だ。文字通り立ち上がれなくなる。まともに職業をやれているのは逆説的に「このレールを外れたら死ぬ」と思い込んでいるからだ。
先ほどちょうど躁転の瞬間があった。今日という今日まで人生というものに飽き飽きしており、いつどのように死ぬかを考え、遺書を3通したためていたが、今は何と、将来の輝かしい未来ばかりが脳内を駆け巡っている。だから慰みにこんな文章を書いている。
自分はおそらく長くは生きていられないだろう。一ヶ月前は全てが灰色がかって見えた。大切にしてくれる友人やパートナーや家族といった有機体を凌駕する「脳内物質に振り回される自分の滑稽さ」と「永遠に続く単振動の苦しみ」がそこにはあって、逃れる方法はただひとつだ。自分はきっと(多分ひとより短い)一生の大部分をこの病気に振り回されて終わるのだろう。ラピッドサイクラー型に有効な治療法は少ない。
だが、少しは粘ってみるのだ。
双極性障害は「双極症」に名前が変わった。だからどうということでもないが、毎日這いつくばって、延々と続く日常にしがみついて、双極症の世界を生きている自分にとって、少しだけありがたく思う。
別に童貞は恥ずかしい事ではないけど25歳までに恋人と深い関係を築けなかったって事が恥ずかしいのでは?
https://x.com/men1n012m/status/1734862432374538437?s=20
よくニュースなどで「20代の交際経験ゼロの割合増加」などと騒がれる。
私は交際経験ゼロではないが、上のツイートのように恋人と深い関係を築くことはできなかったし、アラサーにして素人童貞である。
何も知らない親や会社の上司には、マッチングアプリをやれだの結婚相談所に行けだの言われるが、素敵な相手がいたところで深い関係の築き方が分からなければどうにもならない。
こういう人間はどうすればいいのかと思う。
不細工で学生時代は全くと言っていいほどモテなかったが、25歳の時、マッチングアプリで初めて女の子と付き合った。
25~27歳で3人に告白し交際したが、1か月持たずすぐ別れてしまった。
3回デートしてとりあえず告白、という如何にも理系の陰キャらしいオーソドックスな形ではあったが、仕事が忙しく、交際後私からのコミュニケーションがあまりなかったのが不満だったのだろう。
私としては「仕事も忙しいし毎日LINEで密に連絡なんて付き合いたての中学生みたいで恥ずかしい」という非モテ特有の謎の偏見を持っていたが、
これがお相手の女の子を不安にさせていたのだろうと思う。今振り返ってみて、申し訳なく思う。
よく「3回デートしたらもたもたせずとっとと告白しろ」というが、3回目のデートで愛の告白を囁けるほどベタ惚れできるのだろうか?
私がスロースターター気味なのもあるが、本当にパートナーを理解し大切にしたいと深く思えるまで、半年ぐらいはかかると思う。
交際相手と1か月持たなかったのも、そこまでお熱ではないことが表情などに出てしまっていたのかもしれない。
現在アラサー。今でこそ趣味の旅行やアニメ、仕事の勉強に筋トレと一人でも楽しめてるが、何もしなければこのまま孤独死コース。
この前提があるせいで差別の基準をずらす謎のバトルが終わらないのではないか
そもそも差別の定義自体が割りとあやふやでみんな解釈に差があるのに、それを絶対に良くないものとして扱うことに無理がある気がしている
俺は中学生がマクドナルドを利用するのを禁止するのは差別だと思うし、入れ墨が入ってる人が温泉に入れないのも差別だと思うし、賢いと給料がいっぱいもらえる、みたいなものも差別だと思っている
が、運用上当面致し方ない差別というのはあるよね、というスタンスなので差別は差別なんだけどとりあえずしょうがない、みたいなものがあるのはまあそうだよね、くらいの気持ちでいる
俺も昔あまり馴染みのない属性の人にカツアゲされたときに、その属性だけである人達を判断しないように努力するのはなかなか大変だったし
当然各ケースに対する議論は常にあるべきだと思うんだけど、差別だから絶対によくない、という前提は話をややこしくするしまともな議論を阻害するところがある気がしている
自分の属性によって困っている人たちがいるケースでどうすればみんな幸せになれるのか、くらいのテーマで考えるのが良いのではないか