はてなキーワード: 石に泳ぐ魚とは
アニメ『推しの子』の件で、遺族に対し気の毒、みたいな主張も散見されたけど、あれ、木村響子さんってそういう立ち位置の人だったっけ?
木村花さんの事件を契機にネット上の誹謗中傷をなくす活動に尽力され、侮辱罪の厳罰化という表現の自由を脅かす悪法の成立を強く後押しされてきた、いわば政治活動家とでも言うべき方だったと思うんだけど。
ただの遺族なら、まあ、感情的になってアニメに当たり散らしたりしても仕方ないですよ。でも木村響子さんは、政治活動家として、ご自分の掲げた政治的アジェンダに反することをしないという倫理的責任があるんじゃないですか?
畜産業反対の活動家は尊敬に値するかもしれないけど、そいつがミルク飲んでステーキ食ってたら軽蔑すべき存在でしょう? 中絶反対はそれはそれで理解できる主張だけど、プロライフの活動家が彼女に堕胎させてたら大問題でしょう?
それと同じように、誹謗中傷に反対して懲役刑を導入する刑法改正まで求める――つまり、他人を刑務所に入れるべきだと主張する――政治的活動をなさってきた木村響子さんは、当然、あらゆる誹謗中傷を行わない倫理的責任を強く有するはずだけど。
事実誤認に基づいて見てないアニメの制作陣を軽蔑すると公言するのは、木村花さんのことを断片的な印象だけで侮辱してきた人たちの行為と何が違うんですか? という問いはなされて当然。なぜなら彼女はただの遺族ではなく政治活動家なのだから。自らが掲げ他人を刑務所に入れるべきだとまで主張してきた政治的アジェンダには忠実であるべきだ。
作品の発表時期や作者のツイートから、木村花さんの事件が元ネタではない可能性は非常に高い(元々リアリティショーは自殺者が大勢出ることで有名なものなのだ)。また、仮に木村花さんの事件を元ネタにしていたとしても、キャラ設定などの内容が大きく異なっているし、有名な事件なので一々許可を取る必要性は存在しない。
(しばしば持ち出される『石に泳ぐ魚』は、実在する無名の在日コリアン女性の経歴やら顔貌の奇形やらをほぼ事実そのままで事細かに描写し、身近な人が「あ、これ○○さんだ」と特定できる案件だから問題になったのであって、キャラ設定などがかなり変わっている本件とは比較にならない。マジで「元ネタの人物と大学院も専攻も父親の逮捕歴とその容疑も顔面に奇形があることも一緒の在日コリアン女性」を登場させてたんだぜ、あの作品……その上でそのキャラを怪しげな新興宗教に入信させたんだからそりゃ大問題になるわ)
見る人が見れば実在の事件をモデルにしたとわかる作品はいくつもある。たとえば東野圭吾さんの『沈黙のパレード』は明らかに実在の無罪事件(城丸君事件)を題材にしているが、東野さんは事件の遺族から許可を取るべきだっただろうか? そうは思わない。なぜなら『沈黙のパレード』単体で見れば、遺族や被害者のプライバシーを明かすような内容ではないのは明白だからだ。さらに言えば、事件前から有名人だった(しかも偶然ではなく自分から望んでそうなった)木村花さんの場合、仮に芸歴などが元ネタそのままだったとしてもプライバシーの侵害には何ら当たらないだろう。プロレスラーとしてデビューし、リアリティショーに出るのを決断したのは彼女自身であって、それらの経歴がモチーフにされても何の問題もないからだ(『石に泳ぐ魚』の登場人物のモチーフは無名の大学院生だった)。
そして、『推しの子』が木村花さんをモチーフにした、とは言い切れない以上、なおさら問題はないことになる。加えて、木村響子さんは作品を見てはいないと公言されている(それとも今は見たのかな?)。見ていない作品を本当かどうかわからない情報に基づいて「売るため 話題になるためなら 手段を選ばないやりくち 心から 軽蔑します」とツイートすることは、木村花さんがされていた誹謗中傷とどのように違うのか、彼女は答えなければならない。なぜなら、そのような行為を戒めることこそが、彼女の政治活動の中核だったのだから。社会を変えようとする活動家はその理念に忠実であるべきだ。
増田の指摘はごもっとも。それはそれとして、これまでの主張なんか知ったことかこの作品が憎くてたまらんのじゃい、と怒りを表明するのもまた自由。
もちろんその通り。『テラスハウス』を流し見して木村花さんに憤りを感じた人がその憤りをSNSで本人に見えるように表明するのが自由であるべきであるように、『推しの子』について仄聞して怒りを感じた木村響子さんがアニメ制作陣への怒りを彼らの目につくような場所で表明するのはまったくの自由であるべきだ。政治活動家としては一貫性が取れていないが、しかし、政治活動家としての筋を通さないことは自由なので(その結果生まれる評判は自己責任というやつだろう)。
学者兼活動家や弁護士兼活動家とかを見ると、これは学者/弁護士として、これは個人の主張として的な使い分けは普通にありのようなのでそういうものかと。個人的にはどの時点で自分にそれを許すかに興味がある。
学者や弁護士にも色々いるが、客観的な事実の提示と政治的な主張は分離できるだろうし、分離できている限りにおいて一貫性の問題にはならない。「法律によれば、あなたは賭け麻雀をしてはならない、なぜならそれは犯罪であるからだ。ところで単純賭博は個人の自由なのだから非犯罪化されるべきである」という法学者がいたとして、その言明には何の矛盾もない。しかし仮に「賭博は悪いことなのだから重罰化すべきだ」と主張する法学者が賭け麻雀をやっていたら、それは一貫性の問題になるだろう。
石に泳ぐ魚事件は例外的なケースで、実際には表現の自由によって望まざる情報を拡散されても泣き寝入りしてる人間が山ほどいるのが分からんもんかね。
だから何?
だからといって俺は表現の自由を縮小しろと言ってるんじゃないぞ。
それでもなお表現の自由のほうを優先すべきだと言ってるの。
いやもう、意味不明すぎて議論にならないんだわ。たかだか不快感に屈する表現の自由って何?
ggr.
石に泳ぐ魚事件は例外的なケースで、実際には表現の自由によって望まざる情報を拡散されても泣き寝入りしてる人間が山ほどいるのが分からんもんかね。
だからといって俺は表現の自由を縮小しろと言ってるんじゃないぞ。
それでもなお表現の自由のほうを優先すべきだと言ってるの。
表現が誰かを不快にさせたら多少は幸福追求権に抵触するし、企業への不満がSNSで拡散されたら財産権を侵害する場合もあるよ。
いや幸福追求権は、「その場その場で不快な思いをしない権利」ではないのだが。終わり。
誰かの権利を侵害したのが明白なら、表現の自由も一定の制限を受ける。
有名なのは「石に泳ぐ魚事件」。「表現の自由」と「プライバシー権」が衝突したと見なし、表現の自由が一定の制限を受けた。
いわゆる公共の福祉だな。
プライバシー権は、まさに幸福追求権から導かれる新しい人権の代表格だろう。
不快にさせただけなら権利侵害じゃない!と思ってるのかもしれないけど、実際には実害が証明されてないのに何となくの不快感で規制されているものなんていくらでもあるよ。
風営法とかな。
しばしば違憲が疑われ、訴訟になった場合、適用次第によっては実際に違憲判決が出ることもある。「青少年の健全な育成」なんて完全なるグレー案件だろ。
何となくの不快感で規制したいなら、お前は「公共空間における性的な二次絵の禁止」みたいな立法を望むのか?
どんな表現の自由戦士だよ。
ここは力を込めて言わせてもらおう。バーカ。
お前の挙げた幸福追求権は侵され放題でも構わないのか?名誉棄損なんてやり放題でも構わない?
もう支離滅裂だな。
お前は何をもって「実害」「無害」と言ってるんだ?
ハンパンナ氏の「悪表現」と同じで、何が悪か、何が害かについての前提がないなら「表現の自由」の議論にはならない、という所に逆戻り。
「不快だ」という表明は自由にしたらいい。我慢する必要はない。どしどしやればいい。
私企業はマーケティングの問題を無視できないだろうし、公共機関が不快感の蓄積を見て配慮が必要だとする判断もありうるだろう。
問題となるのはそれを不快感の表明にとどまらず、広告が「性差別」のバリエーションだとする批判に踏み込んだ場合だ。
性的搾取とか性的モノ化とか性犯罪を誘発とか性犯罪と地続きとか。
これらは見逃すことができない。
ただし、ある表現が「性差別である」と認定された場合、いくらゾーニングされればOKと言われようが、表現としては決定的なスティグマを刻印されることになる。
そのことを踏まえて、もしその広告が性差別のバリエーションだという主張をするならば、
「性差別である=誰かの人権が侵害されているという十分なエビデンスをもとに、慎重に判断してくれよ」
という慎ましい要求をしているだけなんだ。
本当に誰かが搾取されているのか、モノ化は誰かの人権を損ねるものなのか、本当に性犯罪は助長されるのか。
【追記】
というコメントを見かけて。
「公共の福祉」は、「◯◯の自由」といった人権が制限を受けるのは、唯一その自由権の行使が別の人権を侵害している時に限る、というものなので、ちょっとイメージされてるものは違うんじゃないかな。
で、表現規制の問題こそ、この「公共の福祉」が適用されるべきだと思うのだけど。
「石に泳ぐ魚」事件は表現の自由とプライバシー権の相剋だけど、発想としては萌え絵も同じだと思うんだよね。
【追記2】
歴史的に見れば、「萌え」の起源はポルノグラフィである、と見るべき。この前提を否定しないまま議論を進めても、いずれ「性差別」の論点は避けられなくなる。
私の主張は、「本当に性差別であるかどうか慎重に問え」なんだから、最初から「性差別」は論点ではあるけど…。
よく分からないけど、萌え絵の起源がポルノグラフィだから、個別の絵柄はどうあれ性差別に相当するって意味?そんな雑な議論ある?
萌え絵っつったって千差万別(何でこんな当たり前のことを言わねばならんのだ)なんだから、萌え絵の起源がどうとか、全く関係ないでしょう。
性的搾取とか性的モノ化とか性犯罪を誘発とか性犯罪と地続きとかは、全て批判側が言ってるんですよ?
そう主張するなら言いっぱなしでなく、それをきちんと証明しなさいよ、という当たり前の話じゃないですか。
【追記3】
で、不快感の表明は好きにすればいいって言ってるの。
何でこんなことも読み取れないかなあ。
繰り返すと、不快感の表明に留まらず、ある表現を「性差別」であると踏み込んで批判するなら、そう主張する側が相応の論拠を示せと言ってるの。
表現の自由で人を傷つけてきた柳美里さんが、「表現の自由といえばどんな表現も許される」ことが間違いだと気づいてくれました。週刊ポストの見出しへの抗議です。
『週刊ポスト』の「10人に一人は要治療 怒りを抑制できない 韓国人という病理」という見出しは、人種差別と憎悪を煽るヘイトスピーチです。
柳美里さんは、時間は掛かっても人は変われることを示してくれました。
実在の女性をモデルとして、国籍、出身大学、専攻、家族の経歴や職業をそのまま描写し、顔の腫瘍を陰惨な表現で描写した小説石に泳ぐ魚をその女性に無断で雑誌に発表した。 その女性の出版差し止めの願いを聞いていたのに、それを無視して単行本化した。出版差し止めの裁判で、柳美里さん側の敗訴が最高裁判所で確定するが、確定後、柳美里さんと新潮社は、単行本の出版を強行した。そんな柳美里さんと新潮社の主張。
Aさん側の「『朴里花』の存在を作品から完全に削除せよ」という要求は、作品を根底から崩壊させるものであり、「表現の自由」からしても、了解することはできない。なぜなら、「石に泳ぐ魚」は、あくまでも文学作品であり、著者・柳美里氏が、現実に存在する人物、状況等に想を得たとしても、作品自体は、柳美里氏の文学的感性によって抽象化されているからである。
(略)
この小説は文芸作品であり、一般読者が実在の人物と作品の登場人物を同一視しながら読むことはない。この小説は現実から想を得たにせよ、実在人物の行動や性格がデフォルメされ、現実の事実と意味や価値をことにするものとして表現されている。小説の主題は「困難に満ちた〈生〉をいかに生き抜くか」という人間にとって普遍的かつ重要なものであり、被告側が「朴里花」に贈った生の賛歌である。表現の自由は、憲法の定める基本的人権の中で優越的地位を占める。
プライバシーを暴いたうえで陰惨な表現をした相手に、止めてといわれても、それは生の賛歌だと言い訳する姿は、愛と勘違いして暴力をふるうDVと取られかねません。
「表現の自由」からしても、了解することはできない。表現の自由は、憲法の定める基本的人権の中で優越的地位を占める。
週刊ポストには報道の自由がある。内容は、韓国精神健康医学会の調査をもとにした、中央日報の記事に沿っていて、本当のことである。
「石に泳ぐ魚」は、あくまでも文学作品であり、著者・柳美里氏が、現実に存在する人物、状況等に想を得たとしても、作品自体は、柳美里氏の文学的感性によって抽象化されている。この小説は文芸作品であり、一般読者が実在の人物と作品の登場人物を同一視しながら読むことはない。
週刊ポストの記事はあくまでも事実をもとにした報道。医学統計を基にしており、個別の韓国人の疾患と同一視することはない。
柳美里さんは、「10人に一人は要治療、(略)家族、親族、10人います。10人のうち一人は、治療が必要?」と尋ねていますが、初歩的な間違いが2つあります。
1つは統計に対して一例で否定していることです。統計の初歩すら理解できていません。
もう一つは、確率1%のガチャを100回引けば当たるはずなのに、と同じ間違いです。
10人いるときに要治療になる人がいない確率は、それぞれが独立な時、(1-0.1)^10 = 0.3486... 約34% あります。週刊ポストの記事が正しいときに、柳美里さんの家族、親族の場合が起きるのは、ままあります。(もし遺伝性疾患であれば、要治療の人は特定の家系に偏るので、国内の統計結果に対して、親族に要治療者がいない確率は、もっと高くなるでしょう。)
間違った理由で非難することは、相手を不当に貶めるものなので、普通は慎みます。常識のある人なら、すぐに訂正し、相手に謝罪するでしょう。
自由の名の下の表現であっても人を深く傷つける表現をしてはならない、と柳美里さんが気づいたことは、四半世紀と時間はかかりましたが、非常に素晴らしいことです。
人を傷つける表現という点で、週刊ポストと石に泳ぐ魚は同じです。週刊ポストはこの件について、すぐ配慮が欠けていたと謝罪しましたが、柳美里さんは、最高裁判決確定後ですら、表現の自由を盾にしてAさんを傷つけ続けました。柳美里さんが最低限の常識を持つ人ならば、新潮社とともに自らの過去を反省し、彼女への深い謝罪を今後公にされるでしょう。
「幸色のワンルーム」は許されるのか~誰が彼女を監禁しているのか? - レインボーフラッグは誰のもの
http://rainbowflag.hatenablog.com/entry/2018/06/03/204703
この批判記事書いた人も認める通り、あの漫画と事件は似てないんだよね。
まぁこれなら被害者本人や家族が訴えたとしても柳美里『石に泳ぐ魚』のように名誉毀損で出版差し止め損害賠償とはならないだろうと踏んで出版社やテレビ局は世に出したんだろうし。
仮に、あの漫画のファンに多いらしい被害者と同年代のティーンの女の子たちが漫画と事件をどちらも知っていたとしても、実際に人物と出来事は全然似ていないわけだから、常識的な理路を辿るなら、
漫画・ドラマ → 共感できるキャラクターと刺激的な設定の面白いフィクション
現実の誘拐監禁事件 → キモ男の犯罪、許せない。被害者の子かわいそう、頑張って立ち直って欲しい。
という認識のまま、現実とフィクションが混線することはなかったはずなんだよね。
わざわざ
「作者はあの事件を巡る『実は誘拐犯と被害者は相思相愛だった』などというセカンドレイプ言説から漫画の着想を得たに違いない、そしてセカンドレイプ言説を好む人々があの技術的には稚拙な漫画をドラマ化するまでの人気作に押し上げたのだ」
なんて火付けしなければ。
もうこれ完全に裏設定になっちゃったよね。いかにもティーンの子が好みそうな。
作り手はあくまでフィクションです野暮言うなよってライン守ってたのに。
被害者の子が中学の同級生から何年か遅れで大学や専門学校に入ってとして、年下のクラスメートから「ねぇねぇ、中学の時にちょっと流行った漫画あったよね、ドラマにもなった。ネットで叩かれてるの見たんだけど、作者が自分で考えたって言ってるのは嘘で実はモデルにした事件があってね……」なんて話題を振られる可能性を作っちゃったわけだ。
あーあ、って感じ。
なんのために「この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係がありません」って建前があると思ってるんだろうか。
・作者は穏便な話の流れで「もうがいがぁかうんたぁ的なものは書かないだろう」と発言(あくまで作者の意思として)
・それを受け警察広報が「作者はショック、同趣旨のものは書かないと発言」とアナウンス
こんなところだろうと推測される。
Twitterではお気楽な「ポリスは友達」論が散見されるが冗談じゃない。危機感なさ過ぎ。
そもそもみんな大好き「表現の自由」は、ずーーっと公権力との戦いなんだよ。
創作物が検閲されない・差し止めされない・問答無用で黒塗りされない自由。表現の内容によって創作者が処罰されない自由。これらは裏を返せば、「表現の自由」は検閲や処罰をしうる国家機関に対抗するためのものであり、憲法21条は表現者が萎縮せずに活動するためのお墨付きである、ということ。これが大前提。
(例外として、私人のプライバシー権などとぶつかり合うこともある。詳しくは石に泳ぐ魚事件を参照)
Twitterで「表現の自由の敵」と聞いて思い浮かべるのは、まずフェミニスト・リベラル・左翼……ってとこじゃない? のうりんにメグにみちか、全部奴らにやられたんだ!おのれ表現規制派め!俺達の二次元美少女を守れ!!……
違うんだよ。
なぜなら、そもそも批判・批評は立派な言論でありそれ自体も表現の自由として守られるべきものだから。(批評に対する批評、批判に対する批判も言わずもがな)
そして、いくら二次元美少女表現が炎上したところで、フェミやリベラルに強制的にそれを取り下げたり、ましてや発信者を罰する権限なんてない。(取り下げさせられたように見えても、それはあくまで発信側のイメージもしくは経営戦略に基づく判断)
それができるのは、公権力。
たとえるなら、リベフェミとオタクは「表現の自由」という名のリングの中で日々激しく殴り合ってる状態。かたやポリコレ棒、かたや二次元isフリーダム棒をぶんぶん振り回しながら。
でも公権力は、そのリングごと破壊する力を持ちうる。もしかすると、ファイターもろとも葬り去る力も。
今回のクジラックス先生の件は、でっかいチェーンソー持ったゴリマッチョ男性がにこにこしながらリングの近くに寄ってきて、リングの中の「がいがぁかうんたぁ的な部分」をトントン、ってして見せたってことだと思う。チェーンソーの刃先で。
果たして今後、その部分の上でフリーダム棒ぶんぶん回しながら戦おうって思える? 本人だけじゃなく、周りのオタク戦士達も萎縮せずに戦い続けることができると思う? 「リ、リングは広いし、別にここじゃなくても戦えるよね!」って、自主的にその部分は踏まないようになっていくんじゃない?
気づいたときには、戦えるリングはものすごーく狭くなってるかもしれない。別に誰かに怒られたり、処罰されたわけでもないのに。あくまで自主的に、少しずつ、「正しい」場所にしか足をおかなくなるかもしれない。
だから、もっと怖がらないと。騒ぎ立てないと。異常なことなんだって声を上げないと。
この件に関して、正常性バイアスの極みともいうべき「毎日新聞とかいうマスゴミが大げさに騒いだだけw」みたいなツイートが何千とRTされてるのを見た。
これはまずいよ。飼い慣らされてるってレベルじゃない。
マスコミの役割、アメリカではウォッチドッグなんていうけど、それは市民のために権力の暴走・腐敗を監視し、主権者たる国民に伝えること。(どこぞの大手紙が政府公報になってた事実も最近明らかになったけど)
今回の件は、アポなしダイレクトで表現者に権力がこんにちはしちゃった一大事なんだから、マスコミが伝える→市民が知るっていうプロセスを経て可視化していくのはとっても大切。むしろもっと大々的に報じてくれ案件。
それをまさかオタク側から攻撃して、権力側の肩を持ち始めるとはね。さすがに予想外だった……とはいえないかな。規制推進派の旗振り役を俺達の○○!って長らく持ち上げてきた前例もあるし。
お前らが寄りかかってるその大樹は、お前らの味方じゃないよ。
ここらで目醒ましておかないと、本当にやばいことになるよ。
追記。
ここまで書いておいてなんですが、実在の被害者が複数いる事件があったにも関わらず、クジラックス氏のツイートに群がるイキリオタク共が茶化したり武勇伝に仕立て上げようとする姿、まぁ醜かったですね。規制もやむなしと心情的に思わせてしまう何かがそこにはあった。軽蔑します。