はてなキーワード: 書き言葉とは
私は教師というものが嫌いだ。偉そうに上から目線で色々言ってきやがる。だから今日は私が教師に色々言ってやる。
ということで、とある英語教師の文章を添削した。英語教師なので、当然文法は完璧であろう。なので文法よりも、英語としての読みやすさ、伝わりやすさ、自然さを重視した。
In politics, there are many issues, some (of which are) boring.
解説:
② sometimesの使い方が唐突で不自然。前の流れを受けてつなぐ文章のほうが読みやすく聞きやすい。話し言葉ならカッコの中は省略可。
In tackling such a big-scale issue such as climate change, what we can do is to tackle the issues properly.
In tackling big-scale issues such as climate change, what we should do is to take these issues seriously.
解説:
文法的には正しいが、とにかく不自然な英語の典型。くどい感じ。
① suchがくどい。不自然なので片方を省く。
② 文脈を踏まえると、canよりshouldが適切。
③ tackleがくどい。英語では同じ語を同じ文章で2度使うことはあまりしない。
However, to solve the environment issues together is sometimes fun, cool and appealing or so-called "sexy" , so we should solve our issues together.
However, solving environmental issues together can be fun, cool, and "sexy"- so we should go ahead solving our issues together.
解説:
① to solveよりin solvingのほうが自然。基本的にネイティブは一文一文を短くする。
② the environment issuesなんて言い回し絶対しない。言い換えるべき。
③ 別にsexyはそのままでも大丈夫。もちろん先生の指摘も理解できるが、書き言葉ではなく会話の場なので、砕けた表現も許される(そもそも海外メディアもこの語句自体は問題視していない)
そもそもこのso-called 「先生」は、「gonna」を「しなければなりません」、と訳してますが、それは「gotta」やろ。
ちなみにこれね。
定着してないんだよ。
日本人に語尾の濁音は無理。
ベッドはベット、バッグはバック、ティーバッグはティーバック、ビッグカメラじゃなくてビックカメラ、タイガーズはタイガース、ドジャーズはドジャース、
あとそもそも日本語は元々濁音と清音を区別していたのかという疑問もある。
濁点表記ができてまだ100年くらいでそれまで書き言葉では清音と濁音の区別がなかった。
濁点を落とした書き方をする人ってなんなの?
英語の発音がどうとかは置いておいて、もう日本語として定着してるはずなのに純粋に疑問。
ドラッグ→ドラックと書いてる人も見かけたけど、こういうのって単なる打ち間違いではなく何回も繰り返しているので確信を持って使っているみたい。
昔アパレル関係の業界に少しだけいたときは、バッグをバックと書く人が異様に多かった。自分が知らないだけであれはもうそういう文化なの?
あとはビッグサイト→ビックサイトもイライラする。これはビックカメラが悪い。
ともかく、このような使い方をしている人の頭の中でどういう処理が行われているかを知りたいです。理由があるのかな。
※追記
たくさんのご意見どうもありがとう。とても興味深く読んでいます。帰ってきたらブクマいっぱいついててびっくりしちゃった。
のですが、
語尾の濁音が日本語にない発音で言いづらいから清音になってしまう(逆もしかり)っていうのはわかる。スゲーよくわかる。
でも自分が知りたいのはそういうことじゃなくて、文字として言葉として本気で「ベット」「バック」だと思って使ってるのかな?っていうことなんです。
アボカドとか、目にする機会の少ない固有名詞はどっちだっけ?となるし発音に引きずられてしまうのは仕方ない気がするんだけど、バッグなんて言葉は子供の頃から至るところで目にするのにどうしてバックになってしまうんだろう?
そう思い込んでたとか、バックと書いたことがあるとか、実際にそんな経験のある当事者の方はいないかなあ。いたら嬉しいな。
※追記記
しつこくて申し訳ないのですが、自分が知りたいのはあくまで書き言葉の話です。喋るときになぜ発音が変わってしまうのかということではありません。
bed→ベッド
bag→バッグ
という外来語として定着していることを前提にした話です。
「バッグ(鞄)」をバックと書く人は、
・「バック(後ろ、後ずさること)」という異なる言葉との区別はついているのか?もしくは知らないのか?
といったことを知りたいのです。
挙げられている例文は文法的に正しくないものの,そこまで否定されるものではないと思う.
なぜなら,文法的正しさは言葉の適切さを評価するための限られた一側面でしかないから.
鉄道の車内アナウンスの場合,言葉の適切さを評価する観点には,例えば,文の短さ(簡潔さ),敬意の表現,文法的正しさがある.
これら全てを完璧に満たす文を作るのは難しい.
結果,重視する条件によって最適な表現は異なる.
※敬意あり/なし
1文目「怪我につながる恐れ」は,普通体を使用している(敬語でない).
「客観的事実として」怪我人が発生することを恐れている,つまり,例えば鉄道の遅延や乗務員の対応コストなど,鉄道会社の不利益が生じて欲しくないという含意が相対的に強い.
これに対し,2文目「怪我をされる恐れ」は尊敬の「れる・られる」を使用している.
「聞き手である乗客個人が」怪我をすることを恐れている,つまり,乗客自身に不利益が生じてほしくないという含意が相対的に強い.
また,この乗客への敬意を文法的に正しく表現しようとすると,例えば3文目のようになり,文が長くなってしまう.
要するに,文法的正しさ以外の観点も考慮すれば,上述の候補文は,全て一長一短がある.
一方で,(例え文法的に正しくなくとも)全ての文で,その意味は推論可能であり,使用可能である.
実際,車内アナウンスの内容は事前にある程度予想がつくだろうから,極論すれば「携帯,ゲーム,トラブル,怪我,禁止」という単語が含まれていれば,おおよそ言いたいことはわかってしまう.
その上で,この鉄道会社は,おそらく文の簡潔性を重視している.
鉄道の乗客は,必ずしも車内アナウンスに傾聴しているとは限らず,周囲の乗客との距離感,手元の端末,降車後の予定などに注意が向けられていることの方が多いだろう.
「丁寧な印象で,かつ,聞き取りのための認知負荷が小さいアナウンス」を追求した結果,文法的正しさが犠牲になり,このアナウンス文になったのではないか,と思う.
話し言葉とは音声で伝わる言葉,書き言葉とは文字で伝わる言葉とする.
話し言葉と書き言葉の差は,自由に聞き直せる/読み直せるかどうかと,記録として機能するかどうかだ.
話し言葉はその場で消えていく空気の振動だ.だから,一つの発話を聞き終えた時,自由に聞き直せない.また,録音しなければ,記録としても機能しない.
書き言葉は文末まで読んだ時,文頭に戻って読み直すのは自由だ.また,論文や本など,記録として機能することが多い.
話し言葉は発話を聞き終えた瞬間に十分理解されることが望ましいので,簡潔性が重要だ.
一方,記録として機能する書き言葉は,その内容の正確性が重要だ.書き言葉は読み直せるので,多少簡潔でなくても問題は生じにくい.
つまり,話し言葉は,書き言葉に比べて,正確性よりも簡潔性が重視されやすい.
私たちが後に学校教育で書き言葉(文法規範)を習うのは,自然に獲得される話し言葉と比べて,要求される条件(例えば,正確性)が異なるからだ.
ただし,教育が規範を与えるからと言って,話し言葉が,あらゆる場面で書き言葉のようであればあるほど(文法的であればあるほど)正しい,ということは意味しない.
なぜなら,上述のように,話し言葉と書き言葉では要求されるものが違うからだ.
もっと言えば,話し言葉/書き言葉の違いに限らず,言葉が使用される一つ一つの状況次第で,要求される条件は全く異なるからだ.
敬意を表現する,親しみを表現する,簡潔に表現する,微妙なニュアンスをほのめかす,話者の印象を制御する,など,言語の使用の際に要求される条件は無数にある.
文法的正しさを犠牲にした時に,替わりに有益なことが実現できる場合もある.
例えば,散文詩や広告のキャッチコピーに対し「非文法的だ」と非難する人は少ないだろう.要求されるものが,文法と異なることが自然に理解できるからだ.
同様に,バスのアナウンスは,文法的であるよりも簡潔であることが求められる状況だった(と判断された),というそれだけのことのはずだ.
正確な表現は長くなりやすく,状況によっては,聞き手に過度な認知負荷を要求する.
正確に,書き言葉のように話す人は,状況によっては,聞き手の認知負荷の軽減よりも,自分自身が「正しい」ことを優先しているとも捉えられかねない.
このため,「他人より自分を優先しそうだ」「他人の間違いにもうるさそうだ」「間違いを指摘したら面倒そうだ」といった印象に繋がる可能性がある.
身の回りの非文法的な表現を,単なる文法能力の欠如による産物と決めつけるのではなく,
何らかの合理性に基づく可能性のある産物として受け止め,どういう目的であえて文法を破っているのか,という背景に対する興味と想像力が必要だ.
「AやBをCする」と言うなら、「AをCする」「BをCする」の両方が成り立ってほしい。文法的に。
でも「BをCする」しか当てはまらない用例が結構ある。話し言葉ならまあいい。でも、推敲されているはずの、公の場でさらされる文言でそういう例に触れるとモヤモヤしてしまう。
「携帯電話やゲームをしながらの歩行は、周りのお客様とのトラブルや怪我をされる恐れがあり、危険ですのでおやめください」
「や」が2つある。前半のそれでは「携帯電話」「ゲーム」が並列されている。でも「携帯電話をしながら」は不自然だ。完全にバツではないけど、公共の場でのアナウンスとしてはベストじゃない。「携帯電話やゲーム機を操作しながら」であれば、どちらにもきれいにつながったはず。
後半の「や」はもっとおかしい。「や」の前にある「周りのお客様とのトラブル」はどこにつながるのだろう。「トラブルをされる」とはいわない。「周りの客様とのトラブルや、怪我につながる恐れがあるため」であれば、どちらにもきれいにつながったはず。
「……なお、ベビーカーにお荷物を乗せてのご乗車や、車内混雑時にはたたんでご乗車願います」
これは輪を掛けておかしい。「ご乗車」のつながる先がなく、メッセージの意図が定まらない。そもそもベビーカーに荷物を乗せて乗車してほしくないのか、そうしてもいいけど混雑したらたたんでほしいのか。後者の可能性が高そうだけれども、それなら「ベビーカーにお荷物を乗せてご乗車される場合は、混雑時にはたたんでくださいますようお願いいたします」くらいまで変えないと自然にならない。
自分の耳が悪く、「や」じゃなくて「は」なのかなとも思ったが、録音して聞いたら確実に「や」と言っている。
ひょっとしたら別のところで聞き間違えているのかな?
[追記]
ご注目いただきありがとうございます。
アナウンスの例はどちらも毎日流れる録音アナウンスで、職員ではなくナレーターによる収録だと思われます。
自分でも「話し言葉ならまあいい」と書いている通り、個人レベルなら許容されるでしょう。書き言葉であっても、私的なコミュニケーションで、意図が伝わるならいいと思います。
自分は「公に向けられた言葉はできるだけ正しくあってほしい」という願望を述べているだけです。電車の例はメッセージとして十分に機能すると思いますが、もし外国人や子どもに質問されたら「良い言い方ではない」と言うでしょう。バスの例はそもそもメッセージが不明確です。
さて、修正すると回りくどくなるとのご指摘ですが、自分の修正案はそこまで回りくどいですかね。
修正前「携帯電話やゲームをしながらの歩行は、周りのお客様とのトラブルや怪我をされる恐れがあり、危険ですのでおやめください」
修正後「携帯電話やゲーム機を操作しながらの歩行は、周りのお客様とのトラブルや怪我につながる恐れがあり、危険ですのでおやめください」
まあ回りくどいのだとして、修正前のものは「回りくどくないベストな文言」なんでしょうか。短いのが良いなら、いくらでも違う言い方ができると思います。
「歩きながらのスマホやゲームはご遠慮ください。転倒や接触の危険があります」
ちょっと内容が変わってますが、並列構造を保つことと短くすることは十分に両立しますよ。
また、「こう解釈すれば間違っているとはいえない」「『携帯電話をする』は十分にあり得る」のような趣旨のコメントも頂きましたが、それはそうなのかもしれません。でもそれは結局、現状がベストじゃないという主張を裏付けることになっていると思います。
こういうメッセージの理想は、それを受け取った人の誰もが引っかかることなく一つの解釈にたどり着くことじゃないですかね。そうだとしたら、誰も疑問を持たない形にするのがベストでしょう。
「天皇陛下に「お疲れ様」を使って炎上した山田優」に対して杉村喜光さんや飯間浩明さんが「誤用ではない」と解説 - Togetter
上記まとめにもある通り、杉村喜光という人は、以下のような発言をしている。
山田優さんの「天皇皇后両陛下 お疲れ様でした」発言が炎上中らしい。
この「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」は平成になってからマナー本などに登場した新ルールだよね。本来は上下関係なし。
それ以前に記事の「違和感を感じる」が…。 pic.twitter.com/axgcAGrS2c— 杉村喜光:知泉(三省堂辞典発売中 (@tisensugimura) 2019年5月5日
しかし、これまで「『ご苦労様』を目上の人に使うのはNG」というマナーは、(そのよしあしはともあれ)聞いたことがあるものの、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」という言説は、少なくともマナー(マナー講師)関連において見聞きしたことがなかった。
※ただし、マナー講師ではなく芸能人(タモリ氏)や言語学者(園田博文氏)は、「お疲れ様」という言葉について以下のように述べているようである。
タモリが「お疲れ様です」は目上の者に使ってはいけないと指摘 波紋呼ぶ - ライブドアニュース
「子役が誰彼かまわず『お疲れ様です』といって回るのはおかしい」(タモリ氏)
「『ご苦労様です』『お疲れ様です』というのは、本来、人をねぎらう言葉。目上の人が使うのが伝統的で、目下の人が目上の人に使うのは失礼にあたります」(園田氏)
ならば、本当にマナー本は、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」と主張しているのだろうか?
このことを検証するため、八重洲ブックセンター八重洲本店2Fの「ビジネスマナー」コーナーにあったマナー本を片端から当たってみた
……かったのだが、1段・56冊あり、全部を立ち読みするのは時間的にも労力的にも足りず、かつ、売り物の書籍を使って調べ物をするのが申し訳なかったので、20冊だけ抽出した。
(八重洲ブックセンターを選んだのは、会社から近く、また今日の仕事の関係で立ち寄りやすかったというだけであり、他意はない。図書館を選ばなかった理由は3つある。近隣の図書館が思いつかなかったこと、冊数としては八重洲ブックセンターの方が豊富だと判断したこと、古い、昭和の本も交じっていそうで、そうすると有効な冊数はさらに少なくなると考えたことからだ。八重洲ブックセンターさんには申し訳なかったが、普段も毎月1万円程度は購入しており、今日も本を買ったので、許してもらえたらうれしい)
なお、書籍はスミからスミまで見たわけではなく、「あいさつ」「言葉づかい」といった項目のところだけざっと流し読みしているので、漏れがあるとは思う。この件についてはご容赦願いたい。
さて、その20冊の中で、「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」と書いてある書籍は何冊あったか?
答えは0冊だ。
調べた限りでは見つからなかった。
ただし、「ご苦労様を目上の人に使うのはNG。お疲れ様を使いましょう」と推奨する書籍は、5冊発見した。もっと多いと予想していたので、案外少なかったが、精査していないため見落としもあるのだろう。
(個人的には、杉村と同じく、ご苦労様だろうがお疲れ様だろうが、目上の人に使っても、まあいいんじゃないのかな、とは思っている)
念のため、その書籍名を記しておく。
○新人の「?」を解決する ビジネスマナー100 または 社会人としての常識とマナーQ&A(メモのミスで、どちらか分からなくなってしまった。申し訳ない)
以上のことから、
○「『ご苦労様』を目上の人に使うのはNG」とするマナーは、確かに複数の著者が主張している
○「『お疲れ様』を目上の人に使うのはNG」というマナーを主張する著者(マナー講師)は、少なくとも「『ご苦労様』NG」以下だろう
ということが確認および推測できた。
杉村は、どのような根拠をもって「この「お疲れ様は目上の人に使ってはイケナイ」は平成になってからマナー本などに登場した新ルールだよね。」などと断じているのか、また、そのようなマナー本がどこにあるのかを示してほしい。
加えるならば、「新ルール」とまで言うからには、1人のマナー講師・1冊の著書の主張では足りない。最低でも3冊は「お疲れ様はNG」と述べているマナー本を、杉村に限らないので提示してほしいところだが、どうだろうか。
※言っちゃあ悪いが、マナー本なんて、よくも悪くも似たり寄ったりだ。二重敬語のNG例など、同じ表現を何度見たことか…。だが、それは当たり前で、マナー本ごとに言っていることが違ったら、プロトコルとしてのマナーが機能しないからである。逆説的に言うと、本当に「お疲れ様はNG」というマナーが新たにできたというならば、上記の通りタモリ氏・園田氏の事例もあるし、20冊も拾い読みすれば、2~3冊は目に引っかかっておかしくないのであるが…。
改めて、杉村のtweetを見てみる。スクリーンショットだが、元ネタをたどると、
山田優、「両陛下お疲れ様でした」という投稿に批判殺到「皇室をなんだと…」(1ページ目) - デイリーニュースオンラインが出てくる。
デイリーニュースオンラインという段階で、取り上げるのもあほらしくなるのだが、ひとまずそこは置いておこう。
「会社の上司にすらお疲れ様と言うのは失礼と言われるのに。。」
と引用されているだけであり、どのような根拠、つまり、マナー本を読んだりマナー講師に教わったりしたのか、上司にそう注意されたのか、はたまた、自分個人の思い込みなのかは一言も書いていない。
(個人的には、元の発言者は「ご苦労様」と勘違いしているのではないか、という第一印象を持ったのだが、もちろん、定かではない)
それをいきなり、マナー本が~と言い出しているのは杉村である(だからこそ、典拠となるマナー本を提示してほしいのだ)。
実は最初、杉村も「ご苦労様」と勘違いしたんじゃないか、と思ったのだけど、その後別のtweetで、
ついでに「ご苦労様は目下からはダメ」も80年代後半ぐらいに登場したルールのハズ。バブル期の就職ガイドとかで最初読んだような記憶。それがついに「お疲れ様」までという感じ。
90年代初頭は謎マナーが多く登場し「徳利の注ぎ口から注いじゃダメ」「結婚式の引き出物にお茶はダメ」とかもそう。— 杉村喜光:知泉(三省堂辞典発売中 (@tisensugimura) 2019年5月6日
と述べているので、「お疲れ様は目上にNG」と主張するマナー本を数冊は読んでいるのだろう。ぜひ教えてほしい。本当にそう思う。
これまで述べた通り、一個人としては、
○「ご苦労様は目上にNG」というマナーは聞いたことがあっても、「お疲れ様は目上にNG」は見聞きしたことがない
○書店に並んでいるマナー本を抽出調査したが、「お疲れ様は目上にNG」とするマナー本が見つからなかった
ことから、
○「お疲れ様は目上にNG」だと主張する平成のマナー本は、あったとしても本当にごく一部で、「ご苦労様NG」ほどには広まっていない
○「平成のマナー本が『お疲れ様は目上にNG』だと広めた」という杉村の主張には根拠が薄い
と考えているが、はてなブックマーク
[B! 日本語] 「天皇陛下に「お疲れ様」を使って炎上した山田優」に対して杉村喜光さんや飯間浩明さんが「誤用ではない」と解説 - Togetter
において、「『お疲れ様は目上にNG』という謎マナーをマナー本(マナー講師)が広めた」というベースのもとでマナー本やマナー講師をののしっているブックマーカーは、
○実際に「お疲れ様は目上にNG」というマナー本を読んだか、マナー講師の指導を受けたことがある
のか、
○「平成のマナー本が『お疲れ様は目上にNG』だと広めた」という杉村の主張を鵜呑みにした
のかは、せめて教えてほしい。
と、あたかも、言葉遣いのマナーを追及している者も言葉遣いがなっていない、という含みを持たせた書き方をしている。
が、これは釈迦に説法だが、「違和感を感じる」は、話し言葉(引用したコメントの言葉)ならば別におかしな表現ではないし、書き言葉としても、許容範囲内だと考える。
その破堤基準を一つ挙げると、「○○感を感じる」の前半の「感」を取ったときの表現に違和感があるかどうかである。
※一種のジョークとして「○○を感じる、と表現しても(すると)違和感がない(ある)」という書き方をしている。読みづらくしていることは謝りたい。
それなのに、
●基本
●その他雑感
語尾だけ見ると「言い切るタイプ」「疑問っぽくするタイプ」のどちらかに偏っているやつが多い。
話し言葉といえば、なんか吹き替え映画のセリフみたいな文章多くない?
文から年齢や性別がイメージできるやつもあるね。ようするに匿名になりきれていないってわけだ。
他には字下げするやつとか句読点が理系バージョンのやつとかもある。
増田に、限ったことじゃないが、インターネットでは、「、」を、たくさん使うやつが、敵視される。
ネットユーザーは「、」の使い方に、厳しい。
改行のタイミングとかは縦長のモバイル環境で書いているか横長のデスクトップ環境で書いているかでも別れそう。
それ以下だと物足りない感があるし、それ以上になると読むのが苦痛。
尊いって萌え用語は以前から使われていたが、最近になって急にアニメのキャラが尊いを連呼するようになった。
自分はあれを聞くたびに寒気に襲われる。皆はあれを見て何か思い出さないか?自分はこの寒気を、昔萌えという言葉がバラエティやらニュースやらで、2ch用語が連呼されまくってる時に起こる寒気と同じ現象なのだと思う。
インターネットで書かれる言葉はあくまで書き言葉なのだ。それが急に話し言葉、つまり音声言語に変換されたとたん、それは非常に違和感のある言葉になる。
例えばTVで文芸評論家やら理系の専門家やらが専門用語を駆使しながら長々と語っているとき、(たとえその方面への知識があったとしても)何かその場違いさがなんだか、恥ずかしいような気分になったりしないだろうか。それと同じだ。
それらの専門用語はまだ時代を超えても成立するものだからまだいい。尊いとかネット用語はいわば流行語のようなもので書き言葉から話し言葉への変換が定着し、自然な言葉になる前に廃れて消えてしまうだろう。そうなるとただ聞いていて恥ずかしかったという感情だけが残って、誰も得しない。例えば俺が得しない。現に今恥ずかしい。
作品自体もそういう時節の流行を取り上げたようなものは、10年後見たら冷める。時代から取り残される。作品は十年先になって見ても価値のあるようなものを作るべきだと思わんか。
最近、テレビやラジオ、人の声のような言葉の刺激が耳に入ってくると、気分が不安定になる傾向があるようだ。
不安定にならないためには、音楽をかけておくとよいことが経験によってわかった。音楽は、基本的にどんなジャンルでも大丈夫なようだ。ただ、日本語の歌詞のものは避けるようにしている。
音楽をかけて落ち着いた時間を過ごしていると、不意の言葉の刺激だけで気分が変わることがよくわかる。音楽がかかった部屋から少し離れて、家族と会話するだけで驚くほどの気分の変化・動揺が感じられる。
また、自分が言葉を使わなくてはならなときのもやり辛さを感じている。うまく発声できないし、モゴモゴするし。言っていることが自分でも支離滅裂でおかしいと思うし。会話にならないと自己嫌悪感もある。
“文才がある”っていうのは“喋りが上手い”の言い換えに過ぎない
書いてあることの意味がわからない。言文一致のあたりから、よりわからない。
最後まで読むと、話し相手がいるかいないか、が分離をうながす要因、と読める気もする(忖度)ので、
そうであればなかなか興味深い指摘である。
1、どのようにして書く材料を見つけるか。
2、頭の中にストックした材料をいかにうまく言語化するか、いかにうまいタイミングで言語化(構成)するのか。
書き言葉は1→2だが、
話し相手がいる場合は、1→2であったり2→1だったり、1→1→2だったり流動的であると言うのならば、
「この人は文才がある」は「私はこの人の言っている事が良く分かる」の究極の言い換えに過ぎない。だから(評価されたいのなら)大多数の大衆に理解できないような難解な文章を書いても意味が無いのだ。少し具体的に言うと、文才文才持て囃される増田は全て「難しい言葉が一つも使われていない」っていう共通点があったりする。これは俺が見てきた限り100%そうだった。そりゃそうでしょ、最初に出した大前提の為には「言葉の意味が分からない」なんて一番ダメだからね。
あともう一つ。「文才がある」と言われる人は大抵「喋りが上手い」ってこと。例は古いけど松本人志とか永井先生とかがそうだった。だから“文才がある”っていうのは“喋りが上手い”の言い換えに過ぎないのでは?とも思っている。話し言葉と書き言葉は分離していく性質があり(だから言文一致運動なんてものが必要になる)、「文才がある」だなんてその書き言葉の技巧を褒めているように見せかけて、実は話し言葉としての技巧の方しか褒めてない…というのは面白いな、なんて思う。
まあ、喋りが上手い(口頭での説明が上手い)奴って大抵、相手の頭の中に今どんな絵ができてるか正確に把握できてて、次に自分がこの一言を発するとその形がこう変わる…、というのを理解する想像力に長けているので、その能力の有無こそが問題なのかも知れないが。