「この人は文才がある」は「私はこの人の言っている事が良く分かる」の究極の言い換えに過ぎない。だから(評価されたいのなら)大多数の大衆に理解できないような難解な文章を書いても意味が無いのだ。少し具体的に言うと、文才文才持て囃される増田は全て「難しい言葉が一つも使われていない」っていう共通点があったりする。これは俺が見てきた限り100%そうだった。そりゃそうでしょ、最初に出した大前提の為には「言葉の意味が分からない」なんて一番ダメだからね。
あともう一つ。「文才がある」と言われる人は大抵「喋りが上手い」ってこと。例は古いけど松本人志とか永井先生とかがそうだった。だから“文才がある”っていうのは“喋りが上手い”の言い換えに過ぎないのでは?とも思っている。話し言葉と書き言葉は分離していく性質があり(だから言文一致運動なんてものが必要になる)、「文才がある」だなんてその書き言葉の技巧を褒めているように見せかけて、実は話し言葉としての技巧の方しか褒めてない…というのは面白いな、なんて思う。
まあ、喋りが上手い(口頭での説明が上手い)奴って大抵、相手の頭の中に今どんな絵ができてるか正確に把握できてて、次に自分がこの一言を発するとその形がこう変わる…、というのを理解する想像力に長けているので、その能力の有無こそが問題なのかも知れないが。
「この人は文才がある」は「私はこの人の言っている事が良く分かる」の究極の言い換えに過ぎない。 いや違うだろ。 「この人の言ってることが(よく)分かる」は文章を評価する...
前提は共有されてると思っていたがそうでなかったようだ。俺が言ってたのは、はてブ界隈で(或いはtwitterなども含めていいけど、つまりネットの低俗な人たちが)実際に文才文才騒ぎ...
「この人は文才がある」は「私はこの人の言っている事が良く分かる」の究極の言い換えに過ぎない。 言わんとしていることはわかる。(「究極の」という形容を削って問いをシン...
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“文才がある”っていうのは“喋りが上手い”の言い換えに過ぎない 書いてあることの意味がわからない。言文一致のあたりから、よりわからない。 たぶんあなたは言文一致が何な...