『“文学少女”』シリーズは、本が大好きすぎて食べてしまうと自称する遠子先輩が、身の周りで起こった事件に文学的な妄想で挑んでいくミステリ作品である。彼女は事件を解決するにあたって、当然のように文学作品を引用する。何故なら、彼女の周囲で発生する事件は、常に文学作品をなぞらえたものだからである。真相を自供する黒幕は、文学作品の登場人物に同一化した自分の心情を滔々と語る。もちろん、その現場には文学的知識に欠けた間抜け野郎は一人もいない。
それらを読んで私は思ったものだ。
何やこの世界、と。
読書は数ある趣味の中でも至高のものであり、そうでない人間は野蛮だという雰囲気に。
本が好きだと嘯きながら、その読み方や語り口は色恋沙汰に目がないゴシップ好きの中年女性と大差ない俗物の文学少女に。
感想を他者とは共有しづらい「味覚」を媒介に垂れ流し、萌え豚よりも動物的に本を消費する文学少女の姿に。
それらの中に、本読みの無自覚な自己肯定と高慢さが透け見えるようで、反吐が出そうだった。
『“文学少女”』シリーズはかように本好きの自己肯定の願望を充足させるために特化された作品シリーズである。シリーズを通して、読書は無条件で肯定され称揚されるものという思想が通底しており、それが現在進行形で本を読む者の自己愛を満たしてやまない構造となっている。
また、私は野村美月の書く恋愛描写も嫌いである。彼女の作品には、「押しの強い男が受動的な女を連れだし幸せにしてくれる」という形式が、手を変え品を変え現れている。デビュー作である『赤城山卓球場に歌声は響く』から始まる『卓球場』シリーズでは主人公の女子大生視点から、友情や友人婚約者へのドキドキ感を描いている。続く『フォーマイダーリン!』では男を振り向かせるために自分を磨いて待つ少女が描かれている。野球では女教師が不良生徒に迫られ、『BadDaddy』シリーズでは男くささとは無縁の父親が、父性と庇護欲を全開でヒロインたる娘を愛してかかる。『“文学少女”』シリーズでは群像劇の色合いを強くし、そこらじゅうでメンヘラモドキが男に救われるのを待っている。
初期作品群ではシンプルな形で流れていた、強い男を待つという構造が、筆力の向上と合わさってより巧妙かつ露骨な形で物語のメインの骨組みとして現れるようになるため、順を追って読んでいくと徐々に苛立ちが強くなっていく。ミステリなりハーレムものなりに変奏してるものの、そこに繰り返し描かれているのはド直球のシンデレラ願望である。源氏物語をベースにした『ヒカル』シリーズでは、さらに一人の男性キャラクターを魅力的な女性キャラクターが取り巻くハーレムものの構造が重ねることで、その訴求力をさらに高いものにしている。
本を読んでいるだけで褒められる子供時代はとうに過ぎ、世間は本を読む人間には意外と素っ気ない。
待てど暮らせど王子様は迎えに来ない【ルビ:Some day my prince won't come】。
我々は自己肯定を切り崩し、現実を生きながら、せめて虚構に夢を見る。
野村美月は、そんな世界に生きる我々が抱く「こうだったらいいな」に巧みにアプローチし得る作家である。彼女の選び出す場面は陳腐でありながらセンシティブで、多くの人の心を捕えて離さない。私は彼女の作品を読む間、間違いなく赤城山で友の手を取り、帚木の咲く地で亡き思い人を見た。作中人物の情動は素朴でありながら率直であり、揺さぶられてしまう。ぱっとしない女の子への感情移入をフックにひっかけられ、気が付いたら魔法にかけられている。好きでもない白球を追って胸を高鳴らせている。
こんなにも嫌いなのに、こんなにも満たされたくないのに、彼女の作品は私を捕えて離さない。