はてなキーワード: 排泄物とは
前提として自分は父親が建てた注文住宅に祖母と父と妹と暮らしている30代サラリーマン。また祖母の娘である母が早くに死んでいる。フネをマスオとカツオとワカメで介護している状態だ。自宅は3階建、3階に祖母、2階に父と自分、1階が風呂と妹の部屋となっている。この人員配置の理由については後述する。家に戻ると築20年ほどでローン完済済。祖父は在宅介護のち最後は要介護3で数年前に逝去。
・おむつではなく紙パンツだが排泄コントロールはできていない。ただトイレに入れれば自力で用は足せる
・入浴は週3回のデイサービスで済ませている
以下思いついた順に次に自宅を建て替える際に介護から逆算して設置を検討するものを書く。
平屋でない限り必須と言ってもいい。
人間は歩けなくなると車椅子移動になるが車椅子は階段を下りられない。また認知症の人間に「階段を下りろ」と言っても実現はしない。なので老人(になる予定の人)が1階に住む場合を除いてエレベーターは必須だ。だが老人が1階に住むと脱走に気付けない。徘徊老人が警察の世話になってから徘徊に気付くのでは遅すぎる。老人(になる予定の人)にはなるべく上の階に住んでもらい、杖か手押し車が必要になった段階でエレベーターを常用するよう癖をつけてもらう。エレベーターは多少うるさいと感じてもボタンを押したときに「ぴっ」なり音がするものがよい。認知症になると老人は四六時中エレベーターに乗りまくるのでとてもうるさくなるが、音で感知できるため居場所がわかる。
我が家のエレベーターは20年物なので動作音がやや大きく車椅子を乗せると介護者は1人しか乗れないが、最近のはもう少し便利かつ安価らしい。
老人はトイレが長い。認知症が始まっていると延々トイレットペーパーを出すなどするため長くなる。また祖母は歩くことが減ったせいか便秘気味になったため余計に長くなる。そのためトイレは各フロアにあることが望ましい。老人が老人になる前にもノロウイルスなど感染症対策もできる。
さて介護が始まると便座に座った、あるいは便座の前に立った老人の世話をすることになるがトイレ自体が狭い、あるいは面した廊下または部屋が狭い場合非常に窮屈な作業となる。そのためトイレはある程度広いか、人がしゃがめる程度のスペースに面しているとよい。床材は多少濡れてもリカバリできるものがよい。
またトイレのドアはなるべく180度開くものがよい。トイレのドアを開けっぱなしで老人の世話をすることになるため、開かないドアだとトイレ前が通行不能になる恐れがある。朝のクソ忙しい時間にこれが発生するとQOLを著しく下げるためドアは180度開くほうがよい。
複数世帯同居の場合異論はあると思うが最終的に認知症の老人と住む場合玄関は一つがよい。なぜなら脱走を防げるからだ。この1点だけでも警察の負担が減るし勤務中に脱走の報せを聞いて早退しなくてよい。副次的には靴箱を一元管理することで溜め込みなどの認知症の初期段階に気付けるという利点もある。
介護が始まると人間の排泄物がついた紙パンツまたはおむつが量産される。これらは燃えるゴミになるがとにかく量が半端でない上異臭がすぐ発生する。育児を経験している家庭は大人の排泄物の量をナメてはいけない。週2回のゴミ収集で45リットルの袋を平均3袋ずつ出している。我が家では夏は涼しい1階に置いたゴミ箱、冬は内庭に向いたベランダ(屋外)にゴミを置いている。なおこういったゴミは新聞紙で包むと異臭がやや軽減されるがそのために新聞をとる必要はない。またゴミ箱自体を大きくする必要もなくこまめにゴミ袋に入れて冷暗所に移すほうがよい。
・手すりを付けるスペースのある壁
認知症が始まった段階やふらつきなど足腰に不安が出た段階で家に大量の手すりを取り付けることになる。恒久的に設置するものは1人につき一度限りだが補助金が出るため計画的につけるべきだ。重点的に配置するのはトイレと風呂、脱衣所、階段、玄関など転倒した際のリスクが高い場所になる。特に立ち上がる必要があるトイレ、風呂は座った高さと立った高さの両方に手すりがあるとよい。また廊下など捕まるものがない場所にも腰の高さほどの手すりをつける。体を四分の一以上回転させる場所にはコーナー用の手すりがあるのでそれをつける。見た目は最悪になり金はかかるが転倒して入院手術になる、そこまでいかずとも救急車で救急外来に行く場合もっと金がかかるためとにかく手すりは必要だ。新築時から「将来的にここに手すりを付ける」場所は確保しておきたい。
我が家では祖父の時にミッシリ手すりをつけたため祖母の補助金は未使用。老人(になる予定の人)が多い場合、一度の工事でより進歩した補助具につけかえることもできるはずなので重ねて言うが計画的に。
・床と平行な天井
オシャレな傾斜のついた天井は不要。介護が始まるとあちらこちらに手すりを付けることになるがリビングなど壁からの距離がある部屋については突っ張り棒を使い手すりとする。床と平行な天井があれば無限に手すりを生やせるため最低限老人の居住区域と風呂場の天井は床と平行である必要がある。どうしても傾斜のついた天井が欲しい場合トイレなど壁が近い場所で行うほうがよい。
車椅子生活が始まるとデイサービスなどを利用することが増える。たいていは送迎車に車椅子が積まれており室内用の車椅子から送迎用車椅子に乗り移って移動する。よって玄関は三和土の部分に車椅子が1台、それと向かい合う、あるいは90度で接する形で車椅子が1台入るスペースを確保したい。玄関は前述の手すりでガチガチに固めるため、スペースさえあれば介助者が動いて適切な介助を行える。
また車椅子は基本介護保険を利用してレンタルすることになるが、屋内用と外出用の2台あると消毒などの手間が省けて大変便利だ。屋外用車椅子は普段は日の当たらない室内に置いておくため、玄関付近に畳んだ車椅子1台分(幅30cm、奥行き1m弱)を置ける大きさの遊びスペースがあるとよい。これは生協など宅配サービスを利用するときもに便利だし、急な雨で濡れて着替えたいときなどにも有用だ。
玄関の話が続くが道路から三和土まではゆるい傾斜をつけるなどして水難を排除しつつもスムーズに移動できることが望ましい。一戸建ての介護の場合デイサービスなどの送迎は玄関まで来てくれるがそこまでが整備されていないとスタッフがつらい。よって門はあってもよいが段差は除くべきである。どうしても段差が発生する場合は1段の高さおよび奥行きを市販の傾斜ブロックと合わせ、小さな坂として運用できるようにすると後が楽だ。もちろん傾斜ブロックは廃盤にならないうちに買っておく。
自宅を新築した際は2世帯同居だったがすでに祖父母は60代に入っていたため20年内に介護が必要になることはわかっていた。すでに認知症症状は既知であったためあえて祖父母を最上階に起居させ2階および1階に若年(でもない)夫婦と子供の居室を設け外出やエレベーターの駆動音の感知、また生活音の変化などを察知する体制をとった。またマスオである父はマスオ状態に抵抗がなかったため風呂も共通のものとした。生理的に抵抗があるという気持ちはわかるので強要はできないが自分が使っている風呂は老人が使うときにヤバイということが想像しやすいため祖父母とも早めに入浴サービスを外注することができた。玄関についても同様だ。台所については祖母が長らく料理をしていたため2つあるが脳梗塞発症を機にコンロ他発火可能性があるもの全てを撤去済だ。
その漫画が好きで読んでるから興味が湧いて覗いてみたら、離れ離れだった主人公たちが再開するシーン(188話)が"少女の顔に放尿するという性的なシーンを遠回しに描いている"という趣旨の記事があって驚いた。
主人公が持ってる味噌を少女が好んで食べることも挙げて、"少女が排泄物で陵辱されている""男性読者向けのサービス描写"みたいなことも書いてあった。
ブログ主は↑のことに好意的だったから"的外れな批判"とかではなかったけど、あまりの気持ち悪さに閉口してしまった。
そりゃこの漫画は下ネタ多いし、作品の読み方や解釈は人それぞれ自由でいいとは思うけど、作品名やキャラクター名を明記した上で、何の注意書きもせず未成年のキャラクターを(特殊な)性的嗜好の対象として表現するのは、モラルに欠けるんじゃないのかな。
あなたがリベラルと読んでる方々はレベラルでもなんでもありません。それ以前のレベルの人たちです。
この人たちは別に表現を規制したいわけじゃなくて単に自分が気に入らないことを目にしたり耳にしたりするのが嫌なだけなんです。
RさんやQさんやZさんを見てください。別にこの人たちは自分のことをリベラルだと言ってない。なぜこの人たちをリベラルということにしたがるのかが逆に私にはよく分かりません。
だからこの人たちはリベラルはなぜ表現規制をしたがるのですかと言われても自分のことだとあまり思わないんですよ。
この人たちはただ自分が気に入らない表現を種したり自分が気に入らない人に対して貧困な語彙力を持って嫌がらせしてるだけなんです。
自分は好き勝手相手に嫌がらせをしたいけれども自分が他人から何かを言われるのは嫌なんです精神年齢が幼稚園児並みに押さないのです。
いい加減わかっているはずです。はてなの一部のユーザーが問題なのは、リベラルだとか表現規制がどうだとかそういうことではなくて単純に精神年齢と言うか知性が極端に低いということです。
そしてこの人たちは自分たちが発達障害あるいは知能障害であるということをよくわかっていますそしてそのことを指摘するとそれが差別になることもよくわかっています。
自分が実際の社会生活においては完全にその知能の低さあるいは精神の幼さから詰んでいるということを自覚しており、そんなリアルではお排泄物ような存在の彼らでもオタクを攻撃している時だけは何かいっぱしの人間のように感じられるわけです。
はてなブックマークの一部の方々によるオタクバッシングは人生に何も希望が持てないリアルでは完全に終わっているお排泄物達の精神を救うための副詞なのです。
精神年齢が幼稚園児並みの人に対してリベラルがどうだとかそういう話をしても意味がありません。この人たちはそういう話をする以前の問題なのです。
みんな本当は言われなくてもわかっているはずです。
でも今のインターネットではこうした精神障害や知的障害や発達障害を原因に他人に迷惑をかける人に対してそれを正直に迷惑なんだよとか指摘すると差別ということになります。だから仕方なく知的障害や発達障害のことを指摘するのではなくて代わりにリベラルというものを殴っているだけなのです。
リベラルが悪いのではありません。
はてなの一部ブックマークユーザーの知能レベルや性格や精神性がどうしようもないぐらい終わっているということが本当の問題だということから目を逸らしてはいけません。
今日は栗平の温泉なのか銭湯なのかスパなのかいまいちわからないところに行きましたわ!おいも豚とんかつ御膳が狙いですわ!
甘藷(かんしょ)というさつま芋を食べ、自然の中でのびのびと育てられた豚です。
おいも豚とんかつ御膳が税抜き1090円、ご飯大盛+70円ですわ!
うまかったですわ!
ひと切れ目をソースで食べて、甘味があって美味しいソースじゃん醤油あるから醤油で食べるけどって思ったのですが、ソースをキャベツにかけて食べたら普通のソースだったのできっと豚の甘味でしたわ!なんかパサパサっぽい見た目だったのにそんなことはなくうまかったですわ!
ごまは先に摩らせて欲しかったですわ!白黒ゴマ合挽きは初めて見ましたわ!
応募しても採用されるとは限らない、ってのを忘れている人が多いようで。
あとそもそも男の多い仕事ばかりが「3K」認定されてるんじゃないの。
女性の多い介護や看護などの仕事も実際には重い人体を持ち上げる、排泄物を扱う、暴行の危険性もある、など十分に3K仕事だろうと言われている訳で。
接客業なんかも常に良い姿勢を要求される立ち仕事で体力的にきつく、重い物は運ばされるしそれに加えて感情労働もあって大変なのにあんまり大変だと認定はされないしな。
この間のルピシアの事件でも分かるように、迷惑客やストーカーの危険とも隣り合わせだったりする。
女の多い仕事って、単に体力的にきついだけじゃなくて大概は感情労働を多く要求されるのが辛いところだと思う。体力的に要求される事が同じでも、無愛想でいいならやりたいって女性も多いと思う。
3K仕事認定される仕事って結局は男が多くやってる事だから、大変だねーと同情されているんだと思うよ。
で、仮に「女がやりたがらない」のが本当だとして、女性達が自分の意思でその仕事を選ばないから女性比率が少ないのだとしたら、それに一体何の問題が?
医学部入試の差別問題とかは「なりたいのになれない」から問題なんだよ。自由な意思選択の結果その仕事を選ばないだけの事には何ら問題はないと思う。
人数的に少ないってだけなら女性が多くて男性が少ない仕事だって沢山あるんだが、男が多くやってる「いわゆる3K仕事」の時だけ「女はやりたがらない」って言って叩くよね。
そもそも異性とセックスして子供を作ることがそんなに特別な事なのか
細胞分裂だったら常日頃みんなやっているし自分が吐き出した二酸化炭素は植物に吸収されるし
トイレに流した排泄物は下水処理場で燃料や肥料に加工されてエネルギーになる
皆生きているだけで数多くの化学変化という形で多くの存在やエネルギーと関わっている中の一つでしかないのに
セックスと出産を特別視し過ぎなんだよ 究極的な事言っちゃえば今すぐ地球が爆発消滅しても宇宙は何事もなくこれからも動き続ける
生物としての形態より無生物がエネルギーの脈動を起こしていることの方がマジョリティなのに何で皆そんなに偉そうなの?
あんまりこの辺突き詰めるとオウムのサリン散布を正当化してしまうからこれ以上は言わないけどなんかネットで盛り上がる男女論非モテ論人間論そのものに違和感がある
非常に共感できる文章だった。きっと同じ道を通ってきたのだなと思った。
私は子供の頃から、自分で読んで楽しむためだけに、登場人物が怪我や病気で苦しむ小説を書いてきた。当時はネットを使えなかったから、読みたければ自分で書くしかなかった。自分以外に同じ趣味の人間を探す方法もなかった。自分で好きなように小説を書いて読んでいると、なんだか安心するというか、癒やされるというか、心地よかった。なんとなく他人に知られてはいけない、恥ずかしいことだという感覚はあったが、それが性的な興奮であるという認識は無かった。セックスという概念すら知らない子供の知識で想像できる「エッチなもの」といえば、せいぜい女性の裸体くらいのものでしかなかった。それから少し大きくなり、セックスやオナニーについて性教育レベルの学習を受けたときは、「今はまだ分からないけど自分もいずれセックスに興味が湧くのだろうか」などと考えていたものだ。
中学生になるとインターネットが使えるようになり、とりあえず好奇心からオナニーの具体的な流れや方法などについても調べた。病気萌えの小説を書いている時に本能的な衝動でオナニーをして、「イク」という感覚を体験として知り得てから、ようやくこれが私の性欲なのだと気づいたのではなかったかと思う(目覚めの詳細はもう忘れたので半ば推測)。
病気が好きな気持ちを性欲と結びつけることができたおかげで、「病気 萌え」や「病気 フェチ」などのような、性的な検索ワード使いができるようになった。世の中には自分と同じ趣味の人間が存在するのではないか、という可能性に思い至ったのは小学校高学年で堀辰雄の風立ちぬを読んだときだったが、それから数年越しでネット検索して辿りついた2chのピンク板でその思いは確信に変わった。
あれから13年、病気萌えの小説はわざわざ自分で書かなくても、ネットで比較的容易に手に入れられるようになった。書き手も数え切れないほどにいる。小説のみならず、興奮材料として十分な音声や動画すらも手に入る。
それでも私が未だに自分で小説を書き続けているのは、ひとえに自分で書いたものが一番萌えるからということに尽きる。小説サイトにも投稿したことはあるが、ごくごく一部だけだ。書いたものをほとんど公開しない理由は簡単で、たいてい書いている途中で興奮してきてオナニーして満足して寝てしまい、人様に見せられるほどきちんとした文章に仕上がったためしがないからだ。
ところで、小説というか文字媒体の良いところは、地雷を踏みにくいところだと思う。私は空想上の人が嘔吐や下痢をしている状況は好きだが、リアルな吐瀉物や排泄物のビジュアルは嫌いだ。作り物であっても不快だ。我ながら面倒な嗜好だとは思う。だからスカトロAVには手を出せない。視聴覚に訴える媒体は、好みに合わなかった場合に味わわされる不快感が暴力的だ。
その点、小説ならば、文字を読んで思い浮かべるイメージは全て自分自身の想像力の範疇に収まるものでしかない。極めて安全な世界だ。読んでいて好みに合わない表現が出てきそうになったら、そっとページを閉じるだけで、最小限のダメージしか負わずに済む。
どんどん脱線してきている気がするが、このまま続けてみる。
病気に萌える体質のやっかいなところは、日常生活で不可避的に「性的な」場面に直面してしまうことだ。たとえば異性の人間の裸体や性器やセックスに興奮する体質の人であれば、一般的な社会通念が、その人が生活する上で無闇に性的刺激を感じなくて済む権利を保証されていると言っていい。もちろん完璧ではないが、少なくともゾーニングはされている。
その点、病気に萌える体質の人に対しては、誰もその性欲をみだりに刺激しないように配慮してくれたりなどしない。最近でこそ見かける機会が減ったものの、私のような人間にとっては「性的」でしかない、発熱をおして働きに出る人や、街なかで苦しげに咳き込む人などはいくらでもいた。これを一般的な性欲の人に置き換えて考えたとしたら、私は日夜、大勢の露出狂の人に囲まれて生きてきたようなものではないか?
リアルな人間を性の対象としないで、一人で小説を書いて読んで興奮するのは、セックスとは似ても似つかない閉鎖的な行為だと思う。倒錯しているという点については弁解のしようもない。こんな性欲を持っていてもろくなことはないから、せめて普通にセックスに興奮するようになりたいと思う。そうはいっても一向に治る気配はないので、このまま生きていくんだろうなと思っている。
なぜ過去形?今も当たり前。パリに1年も住めば駅の中でう〇こ見るし、タイミングによっては最中の人間を見る事もある(小じゃ驚かない、駅の通路で大を見かける!!!)。ベルリンの西側にクーダムというショッピングストリートがあってグッチやらYSLやらが並んでるけれど、一本外れた道に入るとタチションしてる人をしばしば目撃する。その近くで道のわきに止めた車の後ろでしゃがんで用を足してる女性も見たことがある。いくら路駐だらけで多少隠れるとは言え、歩道からは丸見えなのに……。
そんなだから街中汚いけれど、人は普通に床に荷物を置くし、家に帰ってもその靴のまま家の中を歩き回る。人に寄るけれどお風呂に入るのは3日に1回。
西欧は今もこんなもん。まあ中世は窓から排泄物投げ捨ててたとか聞くし、これでもマシになったんかな……。本当に不潔過ぎる。昔の日本人観光客がマナー悪かったって言うけれど、現地人もどうせ大概だっただろうなと思う。今より差別も酷かっただろうし、誇張して語られている部分はあるんじゃないだろうか。
ネットが炎上した際に法律とマナーと主観が入り乱れているせいで毎度ややこしくなっている。
今回の件をバカッターと同一視する人もいるが、バカッターは犯罪行為を公開する行為が問題なので別の話だ。
どちらかというと「カレーを食ってる時にウンコの話をするな!」に近いマナーの問題だと思われる。
また「フェミニストが一方的に通報した!」と主観の話にしようとする人もいるが、
食品を排泄物に喩えないのは一般的な事象だと思うので主観ではなくマナーの話だ。
パジャマを着ることは犯罪ではないがスーパーに行くときはせめてジーンズにしようとか、
ジーンズで外出は悪いことではないけど葬式の時は喪服を着ようとか、
ならば、どこでならリプトンのパックに穴を開けてシャロちゃんのオシッコにしてよいのだろうか?
「いかなる場所においても気持ち悪いからやめろ」という意見もあるだろうが、ちょっと待って欲しい。
一人でやるのは当然問題ないだろうし、オタサーの部室で仲間内でやるのも問題はないはずだ。
ではインターネット上ではどうか。
例えば2ちゃんねるではこのような遊びは行われてきた。
何故なら2ちゃんねるを見て、わざわざスレを開いて、それで怒っている人がいたらお前が悪いよ、となるからだ。
仮に気持ち悪いから他の媒体に晒上げて怒りを伝えようとしたら、転載をした方が悪人になる。
リツイートはチェーンメールのように意図や文脈を越えて広がるし、
検索エンジンはジャンルや界隈を越えて文字列だけで全てのツイートを拾い集める。
2ちゃんねるが細分化された趣味の人間を「板」と「スレッド」という細かい部屋に分けたのに対し、
Twitterは異文化の人間を大部屋に全員格納し、拡声器を代わり代わりに回しているようなものだ。
(不幸なことにTwitterでは発言の後に拡声器が渡されるので、自分の言ったことが大部屋に広がるかどうかは後にならないと分からない)
今回の件は大部屋で下ネタを言ったオタクが叩かれた、という話だ。
そこで拡声器が渡されてしまって、どんどん声が大きくなった。(皮肉にもリプトン側の指摘によってさらに拡声された)
小部屋で話すならば笑い話で済んだのに。では小部屋はどこにある?
2ちゃんねるが転載騒動やお家騒動などで衰退してからずいぶん経つ。
その間栄えたメディアはSNSであり、フォロワー数と拡散力で社会に影響を与えることになった。
今回の件ももし彼の居場所が大部屋ではなく小部屋にあったなら、炎上はしなかったはずだ。
でも小部屋のインターネットはもうない。
小部屋は金にならない。アングラでひっそりと身を寄せるインターネットは終わった。
インターネットが窮屈になったのは増える人口を大部屋に押し込むからだ。
小部屋のインターネットを取り戻したいと思いながらも、私は無能だから何もできない。