はてなキーワード: 収束とは
大坂なおみ選手が大会ボイコットで話題になっているが、個人的にはあまり支持できない。
自身が目立つことを優先しているように見えて若干の嫌悪感があるのと、自分の影響力に無自覚なところが気になるのだ。
以前のBLMで大阪でデモをしようと呼びかけがあったときにも感じたのだが、
コロナウィルス感染拡大防止のために飲食店や、スポーツ・音楽イベント等が全て自粛しているときに、
人を集めて集団感染リスクを高めることをよくもできるなと思ったのだ。
そして、そういう慎重な意見をSNSで投げかける人には「あなたは差別主義者なの?」的なリプライをしていて、
大義名分のもとに反対意見を一方的に切り捨てて、対話ができないところも気になった。
で、ぶっちゃけその手の嫌悪感を感じるのは大坂なおみ選手に限ったことだけではない。
環境活動家のグレタさんも苦手だし、反原発運動や最近のフェミニズム運動も苦手だ。
個人的嫌悪感の共通点が何なのか言語化すると、いわゆる『活動家』嫌いという傾向だ。
もっと言うなら、『急進的で実効性が乏しい主張をする人たち』に強い違和感を覚えるのだ。
ぶっちゃけ例として挙げた活動についても、個々の論点自体は賛同できる部分が多い。
黒人の権利は大事だと思うし、気候変動の問題は放置できないし、原発事故の危険性は対処しないといけないと思う。
大学入試で性別が違うだけで合格点が変わるなんて論外だと思う。
が、しかしだ。
それなりに清く正しい社会生活を送っている自負のある一市民に対して、いきなり「良くもそんなことを!」言われて
お前は環境破壊する悪い奴だ見たいなレッテルを張られるのはイラっとするし、自動車を使うなと言われても、利用をやめると生活が成り立たなくなる。
原発事故の危険性は理解している。だけど原発を即時全廃して安定的な電力供給はどうするのだろう?太陽光や風力は天候に左右されるし、
無秩序に再生可能エネルギーの新設を推進したことで、山林の乱開発といった新たな問題も発生している。
東日本大震災後の日本は、天然ガスや石炭火力の比率を増やしてしのいでいるけど、天然ガス資源には産地が偏在しているリスクがあるし、
石炭は比較的産地が分散してるけど、採掘・燃焼による環境破壊や温室効果ガスの排出に目をつぶってよいのだろうか?
性差によって職業差別を受けるのは許してはいけないと思うけど、
いわゆる萌え絵のようなイラストはすべてが男性に媚びるために書かれているのだろうか?
全部まじめに対応した先に待っているのは、人民服や就活のリクスーのような、画一化して多様性のない社会なんじゃないだろうか?
なんというか、正義感で突っ走って始めたものの、『私のいう事を聞け、多少の問題は大義のために目をつぶれ』というような、
話が通じない雑な主張には反射的に虫唾が走ってしまうのだ。
大会ボイコットが警官による射殺事件への抗議なら、落としどころはどこになるのだろう?
BLMが全面的に収束するまで全ての大会をボイコットするのが正解なのだろうか?
個人的には大坂なおみ選手の事例ならば、大会ボイコットというような強硬的な態度を取られるのではなく、
「大会の獲得賞金を全額事件の被害者遺族と支援団体に寄付する。皆さんもこの問題を考えてほしい」的な呼びかけだったら、違和感なくすんなり支持できると思うのだ。
今の態度だと、社会の分断と対立を必要以上に煽る方向になってしまっているように見える。
なんだかんだ言って、社会を構成している人の過半数はノンポリに近い穏健保守派なわけだし、(世論調査の無党派層の多さでわかるだろう)
トーンポリシングと言われるかもしれないが、社会運動をしようとする人たちは、声の大きな支持者よりもサイレントマジョリティの方を向いて世論に刺さるように行動しないと逆効果と思うのだ。
ガールズバーめっちゃ楽しいのに、はてな村のみんなは行ってないみたいだから雑に教える。
まず、酒は飲むとおいしいし酔うと楽しい。
この時点でよくわからない人は楽しむ素質がない。残念ですが、さようなら。
んでガールズバーの一番楽しいところは、女の子に対して「カワイイ!」といくら言っても問題ないところ。セクハラでしょっぴかれない。
「こんな可愛い人と今日出会えるとは思わんかった」「声がもはや天使のそれ」「髪の毛ツヤツヤすぎて後光が差してる」くらいのキモイ事いっても問題ない。
相手にキモイと思われないかと心配になるだろうけど、ガールズバーに行く時点でキモイため気にしなくてOKだ!!
がんがん喋ろう。相手の事もぐいぐい聞き出していい。
可愛い女と共通の話題で盛り上がれ。難しく考えるな、酒を飲むのだ。すると人生は最高になってしまう。
死亡者割合をみていると死んでいるのは高齢者がほとんど。そのくせ、感染伝播をおこしている若者が~子供が~などと言って自粛を促し、新しい生活様式で統制しようとする年寄り偏重の日本政府の対応は受益者負担の原則から外れているように思う。いかにその根拠を示す。
前提として、コロナウイルスは決して収束はしない。ワクチンがたとえ開発されたとしても、(先日、香港で実証されたように)容易にウイルス株が変異していくため、罹患率や死亡率をどれだけ下げてもゼロにはできない。(インフルエンザの予防接種と同様である)コロナウイルスに特異的な治療法が見つかるかどうかは科学的に断言はできないが、当てにすることはできないため、この場では考えない。よって、人類はコロナウイルスと共存していくことになるのは必然である。
現時点における日本政府の対応は、2020年3月29日の基本的対処方針から読み取れば、医療崩壊を防ぐこと及びクラスター発生防止ひいては死亡率を下げることを重点に置いているとわかる。これによる死亡者は主に高齢者である。すなわち、その死亡者を減らす努力を行っている、その他世帯に対して、利益供与を行うべきであると言いたいのだ。でなければ、これは世代間格差のひとつだ、というそしりを免れないように思う。返される当てのない社会保障費を払わされている労働世代、その子供達こそがコロナウイルスの被害を一番受けているのだ。
反応読んでいろいろな考え方の人がいるんだなと思った。
勤務状況の事例を挙げてくれた人、具体例を読めて大変参考になる。
併せて追記書いたので目を通してもらえると嬉しい
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.orangeitems.com/entry/2020/08/25/111954
上記blog記事がブコメでえらく叩かれているが、個人的には賛同できるポイントが多々あったので、上記と合わせてn=2の体験談とすべく個人的な話を書きたい。
個人的にはテレワークという言葉に和製英語的な違和感を覚えるので、以下ではリモートワークと記述させてもらう。
増田スペック:地方出身アラサー独身都内賃貸ワンルームマンション住み技術職
勤務先にはもともとリモートワークの環境自体はあったのだが、産休・育休明けの女性社員や、両親の介護といった特別な理由がある人だけが使っていた制度だった。
新型コロナの影響で今年の3月から全面的にリモートワークに全面移行。
・隙間時間で家事ができる。洗濯機や炊飯器のセットとかちょっとしたことが進む。
・自炊の頻度が上がったので食費が下がった。
・通販の受け取りに苦労しない。
・昼休みに昼寝ができる
・外見を構わなくてもよい。
・就寝前や休日に短時間、仕事のメールや問い合わせを確認できるので効率が上がる部分がある。(本来は勤務時間外であるが10分程度の作業で翌日楽になるので個人的にはあり)
・通勤時間が無くなるのは一面ではメリットであるが、逆に読書等の通勤時間の合間でやってた習慣がなくなった
・通勤ついでにターミナル駅によって買い物できなくなった。よほどマニアックなモノでない限り、通販で届くのを待つよりも、仕事の帰りに買う方が早い。
・外見を構わなくてもよいので、逆に自堕落になる。気が付けば髭もじゃでパンツとランニングシャツで仕事していた。
・運動不足がひどい。体感的に分かるくらい体力が落ちて半年で体重が5kg増えた。
(追記)
運動の件は、コロナ前はときどき区民体育館とかに行っていた。ここ半年はジムでコロナのクラスタ発生がニュースになってるので利用しずらい感がある。
緊急事態宣言時のステイホームで引きこもっていたらそのまま外出する習慣が消滅した感じ。
近所散歩すればいいのかもだけど、昼間は暑いし、夜は仕事が長時間化してるから時間取れていない。うまく工夫したいとは思っている。
・人と会わないストレス。つまらないうわさ話をする奴と距離を取れたのはメリットだったが、仲の良い同僚と世間話をすることができなくなったデメリットの方が大きいと感じる。
(追記)
大きな不満点を書き忘れていた。リモートワーク前提の勤務形態になったので、有給が取りにくくなった。
世間的にも不要不急の外出は避けろ的な流れが続いているし、社内でも有給とる人が激減したので非常に困っている。
・仕事の習慣が変わった。業務報告が以前は対面のミーティングと週報ベースが多かったが、勤務の確証を兼ねた日報ベースになった。以前なら2,3日かけてもよかったものでも、1日以内に何かしらの成果物を出さないと気まずい雰囲気になっている。
・全員在宅でいつでも連絡取れる前提になってしまったので、深夜帯に平気で連絡をしてくる奴が多い。
・一日中同じ部屋で代り映え無いので、時間感覚が徐々に無くなってくる。
・以前からTeamsを導入していたが、席が近くの人は直接声掛けしていたのでチャットの連絡頻度が上がったが、想像以上にストレス。ある人の問い合わせに対する回答を打っているときに第3者が別の問い合わせで割り込んできたりとか。
・今年入社の新卒社員の教育の難しさ。そもそも不慣れな人は問題点を言語化できなかったり、適切な用語を使用して説明したりできないので毎回画面共有しながら通話するのだが手間がすごい。
・一日中部屋にいるので、リモートワークが長期化してくると曜日感覚がなくなってきた。
・マンションで通信回線を共用しているので、住民が帰宅して動画のネット配信を見だすであろう夕方以降の速度低下。自宅でネットサーフィンする程度だと気づかなかったが社内のワークステーションにリモートアクセスして操作するとタイムラグがイラつく。引っ越さない限り改善は無理。
・オフィスの空調等の恩恵が意外に大きい。窓のそばの部屋で仕事しているので、夏に向かうにつれて日中の日差しが気になってきた。これまで自宅でPCを使うのは夜が多く、休日はよく出かけていたので気づかなかった。
・上記と合わせて照明の影響。机 / 椅子は元からそこそこお金をかけていたので長時間仕事しても腰や肩は平気だが、照明は気にしていなかったので目の疲れがデカい。
・コミュニケーション不足解消でZOOM飲み会やってみたがあれはくそだな。居酒屋のテーブル席分(4人)以上での会話が成り立たないし、普通の飲み会であった店移動や電車の時間といった抜けるタイミングが作りにくい。
何より同じ料理を食べるという体験がやれない。会社・友人等で1回やったらみんな似たような感想だったのか、2度とやらなくなった。
というわけで、最初の1、2週間はデメリットが目立たず、長期化するにつれてストレスがたまったという点は元のblog主と同じ。
いろいろデメリットが目立つようになってきたので、モチベーションが徐々に低下していって、夏休みが明けた今週からは業務の合間に増田を見る程度には堕落してしまってる。このままだとサボり魔になりそうで危ない自覚がある。
とはいえメリットも体験しているので、個人的にはコロナが収束したら全面的に出社するよりも週に1, 2度程度リモートワークできるのが効率良いんじゃないかなと思っている。
また、地方出身なので休暇の延長として地元滞在を伸ばしてリモートで仕事できることが認められると嬉しい。
仕事始める前にいつものサボりで増田見たらえらくたくさんブコメついててビビった。
リモートワークの改善点できるポイントが寄せられていたが、ぶっちゃけ私の場合は引っ越すしかないと思ってる。
とはいえ、リモートワークが解除された時の利便性と引っ越し費用+オフィス家具の購入費用等のコスト面を秤にかけると踏ん切りがつかない。
最低でも下記のポイントは抑えたいが、都心からそれなりに離れた場所でも固定費上がりそうだしな…
・高速な通信回線を確保できる築浅の物件(今のマンションは共用回線をVDSLで分配)
・仕事と生活空間を分けられる2部屋以上の間取り。部屋数増えれば運動器具の置き場やSwitchのフィットネスゲームやるスペース確保できそう。
その他、チャットの頻度については社内文化としか言いようがない。
割と急ぎの案件が夜中に飛んでくるからガン無視決めるわけにもいかないので困っている。
自分がルール決めれる管理職ポジションだったら良いんだけどね。
単純な内容や急ぎじゃないことはメールにして欲しいというのはぶっちゃけあるが、これも相手が次第だからすぐには変わらないわけで難しいよね。
スペイン風邪が収束したのは、スペイン風邪による死をみんなが受け入れたから、なんて訳あるか。
集団免疫がついて、感染スピードが落ち着いた、かつ、致死率が下がったからだろう。
新型コロナも、東アジアは致死率を考えると、既に集団免疫が出来ている状態なのかもしれないが、ノーガード戦法で望んでも今の致死率を維持出来るのか分からないし、後遺症のQoLへの長い影響も分からない。
今、人類が向き合っているのは「コロナで経済的にダメージを受けそうな人 VS コロナ重症化リスクが高い人」などではない。
痛みを受けない人がいない社会の変化なんてない。
自動車が発明されたときも、インターネットが普及したときも、仕事を失った人がたくさん居て、代わりに新しい仕事でもうけた人も居た。
コロナ対策のおかげで同時にインフルエンザの患者数が減っていることが報道されている。
これが何を意味するかだけれど、人々が意識することによってたとえわずかであってもインフルエンザによる死者数を抑えられる可能性が現実に示されたということだ。
コロナはただの風邪派の人たちがよく言っていたように、インフルエンザによる毎年の死者数はバカにならない。
今に生きている人間が生まれる以前からあった病気によって失われる尊い命を、人々の努力によって少しでもその数を減らすことができるという事実が分かったわけだ。
その事実を前にして、コロナが完全に収束した後に、手洗いうがい消毒マスクにソーシャルディスタンスをまた以前の水準に戻すのは、またインフルエンザによる犠牲者数を元に戻すということにも繋がる。
コロナ以前は、たとえインフルエンザによる死者が毎年大量に発生していても、すでに蔓延してしまっていたそれは現代社会に生まれてしまった人間の責任とまでは言えなかったと思う。
が、これからは違う。
人々の明確な意思の下に行われた努力によって、インフルエンザによる死の数を確実に抑えられるかもしれない結果を出すことができた。
図らずもコロナ禍によってそれが数字となって現れた今、その努力を途中で放棄し、これをまた元に戻すという行為は、現代に生きる人間が明確な意思によって未来のインフルエンザ犠牲者の増加という結果を選んだことになる。
仮に元の水準への生活様式に戻った場合、今後発生するであろうインフルエンザによる死は、今を生きている人間が望んだからこそ生まれたとも言えてしまう。
当然、完全にインフルエンザを撲滅することは叶わないが、すでに結果を見せた努力の継続を放棄したという事実は変わらない。
マスクはおろかソーシャルディスタンスも意識しなくなった社会に戻せば、未来に必ず生まれてしまうであろうインフルエンザによって失われる命、そしてその遺族に対して誰もがその責任を負う必要が出てくる。
なぜなら、インフルエンザの患者数を以前よりも抑えられたという結果を出しておきながら、その結果を保ちよりよくしていく未来を明確な意思の下に潰すことになるのだから。
過去の悲劇による責任を現代の人間が負うのが正義なら、未来の悲劇による責任を現代の人間が負うのだって正義のはずだ。
前者はすでに起ってしまったことだが、後者はこれから起こすことを回避するという話なのだから。
経済を止めろとは言わない。