はてなキーワード: 助長とは
http://blog.livedoor.jp/tokyolaw/archives/1077404701.html
ネットにおける検察庁法改正案反対運動の動きは目覚ましいものがあり、どうでもいい問題と思っていた私としても意見を変えつつある。世間の状態や政権不信があると、こういう技術的なものに近い話が、特に興味を持たない、何となく怖いと思っているだけの人々をここまで大きく動かせるのだと、率直に恐怖に近い感情を覚えた。専門家からの指摘についても、良いものもあるが、上記の東京法律事務所の記事は法案反対・現政権批判という色が強く、ややバランスを欠いているように見える。
この件については、既にバズっているとんふぃ氏のまとめが比較的中立でわかりやすいが、少し専門性が強く読みづらいかもしれない。ちなみに、別にとんふぃ氏は改正賛成はではなく、どちらかというと反対に近いように見えるが、本当の問題がどこにあるのか、という点から、網羅的・中立的にまとめておられる。
https://note.com/tonfi/n/n95a2265c6273
また、慶應義塾大学大屋雄裕教授のTwitterも参考になる。
https://twitter.com/takehiroohya?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
こういった良情報があり、注目を集めてもいる状況がありながら、東京法律事務所の記事が分かりやすいと賛同を得る状況を見るに、内容面への理解というよりは、現政権はおかしい!何か危ういことをしようとしている!というスタンス・危機感に合っているかどうかが重要視されるようになっているのではないかと感じている。
こういうときに、上のお二人には到底及ばないが、少しでも落ち着いて考えるように促す投稿が別途あっても良いかもしれない、というのがこの投稿を書いている動機である。
本改正案は、細かいところを捨象すると、①検察官全体の定年を63歳から65歳に引き上げる、②一定の役職については役職としての定年を63歳(現行法の通常の検察官の定年と同じ)にする(=その後は平の検察官に戻る)、③一定の事由がある場合、内閣によって②の役職の定年や①の検察官としての定年を延長することができる、という3段階の制度を設けていることは広く知られていると思う(ただ、ここは、役職等により色々な条項が入り乱れており、ざっくりまとめれていることがほとんどであるため、理解をしにくくしている点かもしれない。)。
このうち、問題視されている③について、私は、特段必要性がないと思っていることが反対の理由である。三権分立というような大上段の話ではない。
①については、公務員全体の定年引上げという中で、そこと揃えるのであるから、特に反対する理由は思いつかない。ここについては、東京法律事務所も問題ないとしているので、特に取り上げない。
②についてであるが、高齢化社会において定年の延長という社会全体の趨勢があるとしても、トップやそれに近い要職に高齢者が就いているという事はあまり好ましいものではないと考えており、私としては問題がないものと考えている。ここも、東京法律事務所の記事で特に反論されていないのでこれ以上は触れない。
③については、例えば民間企業等において、優秀なトップに引き続き職責を務めてもらいたい、というような理由で高齢の方が一般の定年年齢を過ぎた後も働くということは往々にしてあると思われ、規定の趣旨としては理解できるものである。ただ、そのような能力があると言えるかどうかの検証は困難であると思われ、実際には、政治力等々、様々な事情の絡んでくる話になるだろう。とすれば、②の趣旨を貫徹し、一律新しい風を吹き込むべきであるというのが私の見解である。この辺りは、各人に考えの違いがあるのではないか。ただ、それは、定年という制度への考え方についての話であり、三権分立がどうとか、現政権の陰謀というような話にはならないだろうし、これほど世間が大きく盛り上がるような話でもないと考える。
2.三権分立について
何故、私が、今回の件について三権分立と関係しないと考えているかという点だが、これも散々に指摘されているところではあるが、そもそも、現行検察庁法上、「検事総長、次長検事及び各検事長は一級とし、その任免は、内閣が行」うものとされていることから明らかなとおり、内閣に一定役職の任免権があるからである。
最も恣意的な関与を及ぼしやすい場面の一つである任命について内閣にその権限があるのに、定年を伸ばすという「出口」だけを殊更問題視することで、いったいどれほど政権の恣意の排除ができるのだろうか。
この点について、東京法律事務所の記事は「歴代の自民党政権は、検察庁とりわけ前任の検事総長の意見を尊重し、これに介入しないという慣例がありました」として、任命権があるからと言って時の政権の自由にできたわけではないことを挙げているが、まさか、この慣例に反することが違法だという趣旨ではないだろう。そうだとすると、検察庁法の立て付けとして、任命については、精々政権が慣例に配慮することを望むことはあるかもしれないが、内閣に任せても三権分立は維持できるということになっている。ならば、定年延長についても個別事例においてきちんと国民が監視を行い、問題があれば、当該政権への非難を行えば十分であるだろう。余談だが、先述の慣例を無条件に守るべきであると考えているのであれば、昨今(というほど最近でもないが)の司法制度改革を通じ、一種「象牙の塔」と化していた法曹界に国民との間での双方向性を入れてきた流れとは、ずいぶん異なるようにも思う。
結局、この法改正があろうがなかろうが、適正な三権分立の維持のためには国民の不断の監視こそが重要であることは、若干文脈が異なるがとんふぃ氏の指摘するとおりである。三権分立の点から批判するのであれば、せめて、任命についても含めて、より大きな視点からの制度設計を描かない限り、説得的ではないのではないか。
(ここからは全くの邪推だが、定年を伸ばせる程度では大したことはできないだろうという見解に対し、任命の問題と別の大問題だという見方をする方の背後には、桜を見る会やモリカケ、あるいは、それこそ黒川氏の定年延長問題など、様々な問題についての現政権批判が結局は世論に届いてこなかったという無力感や怒りがあるように感じることがある。結局、国民が監視し、意見するということの力は、大したことがないのだと。ただ、本当にそれは大したことがない力しかないのだろうか。)
正直に言えば、黒川氏の定年延長については私の興味の外に近い。既に内閣の見解として、検察庁法に関わらず定年延長可能という解釈が示されている以上、今回の改正と絡めて邪推をするよりも、個別に法解釈上の問題を争うとともに、個別の妥当性についても問題にすべきだろう。事後的に定年延長を正当化するものであり、政権の不当な解釈変更を事後的に承認しかねないものだという見解も多く見られるが、国会において適法に成立した法に則り、適切なプロセスを経て定年延長をすることが仮に可能なのであれば、それはそれで問題が無いのではないか。こういうのもなんだが、そもそも、わいろというのは見える場所でやり取りする物だろうか。丸見えのわいろに従って忖度した判断をする検事総長等々の判断に反抗しないほど個々の検察官は軟弱で、国民は見抜けない程阿呆なのだろうか。
ただ、結局、この問題と絡めたおかしな邪推がしやすいような状況で、改正を推し進めた結果が国民からの不信を高める結果を助長したのは間違いがなく、改正法は成立になっても不成立になっても禍根を残すだろう。非常に悲しく、恐ろしい状態になってしまったなと感じる。
4.今回の反対運動について
まとめであるここの項が、一番言いたいことであり、また、一番の放言であるのだが、Twitterのハッシュタグでの拡散による反対運動が一定の成功を収めたように見えることは、非常に怖いことであると感じた。今回の件について、きゃりーぱみゅぱみゅ氏が炎上してしまったことは大変悲しいことであると思うし、個々人が、自身の理解の中である政治的問題への意見を表明すること自体は悪いことであろうはずもない。ただ、Twitterという短文投稿の場で、ハッシュタグの拡散を行うという安易さは、民主主義の基礎たる議論となじむものなのだろうか。そこにあるのは、何となくの不安や恐怖に対する共感が主であり、相互理解のための議論があるとはどうしても思えないというのが私の意見である。そういった共感による多数を作ることが民主主義なのだとしたら、全体主義はそのすぐ隣にいるのではないだろうか。
それが受け入れられてるのってなんでなん?
そんで今頃になってマスクしてたら熱中症の危険があります!とか言ってるし
当たり前やろそんなん
どっかの感染症専門じゃない教授が飛散の状況をビジュアル的にシミュレートしたらかなり後ろまで影響ありますよ、とか
それが感染・発症に結びつくかどうかまで検証したんか?としか思えん
そんで実際の発症者にランニングしてる人どれくらいいるの?それが巷のランニング率とどれぐらい解離してるの?
本当にランニングが危険ならそういう数値的なのが出てるんじゃないのかね
本来なら汗として流れていくはずの体表に付着したコロナウイルスがマスクに染み込むことで留まってしまって
マスクをすることで発汗量が増えてそれが蒸発することでコロナウイルスの飛散がより増える、とかの仮説もあるかもしれない
一方でランニングをする人は適度な運動をすることで医者にかかりにくいから病院でコロナを貰う確率も低い、とかね
発症してない人が感染させることが分かってるってのはもちろんあるからなるべく外出するな、とか買い物の時にマスクしましょう、ってのはわかるけど
ランニングみたいな個人が勝手に距離取って行うアクティビティでマスク強要させるとか本気か?
別にランニングしないからどうでもいいけど、ランニングに対するヘイト行為が顕れてるんじゃないの
情報が古いって言うと
オタクくんはテレビ番組や芸人を異常に敵視してたりテレビに放送されるということを物凄く大げさにとらえてるっぽい人が多くて不思議に思ってたけど
テレビ見ないマンはテレビのイメージが15年くらい前で止まってるんだな
金があって元気があって視聴率があって影響力があった頃だ
今はもうとにかく金がないから
華のゴールデンなのに簡素で使い回しのセットにタレントが数人おとなしく座ってネットの映像を垂れ流してワイプでほーんふーんって顔して終わる番組や
新商品やお役立ちグッズの宣伝がメインのスポンサーとズブズブの番組が中心だ
出演者は高齢化が進んで昔みたいに走り回れないしご飯もたくさん食べられない
視聴者も高齢化が進んでるから肩こり腰痛を防止する食品や健康体操だとかで2時間持たせることもある
子どもたちが「なあ!あの番組見たかよ!」って学校で話題にしたり芸人の真似をすることもない
めちゃイケの数取り団とか2006年時点で罰ゲームの様子がいじめを助長するとかなんとか言われてコーナー終了してるんだよ
助長と言ってちょうだい。
ANNで下衆い発言をしたということで、大変なことになってしまった岡村氏。
コロナで働けず貧困になった女子が、コロナ危機が去ると、金に困って三ヶ月くらい働きに来るから、そのタイミングだと可愛い女の子がいる確率が高い、だから風俗男子よ、今はひたすら辛抱せよ、みたいな発言だったかな?
ここで、「え? それがわかんないの?」とぶっ叩かれそうだけど、風俗店が実際には可愛い女の子ではなくて、一生懸命サービスしてくれる女の子のほうがいい、という真理は別にして、働く側の女子にとっては金になるし、お金を払う側の男子にとっては可愛い女の子にサービスしてもらえて、Win-Winであり、一体これの何が悪いのだろうか?
これが悪いという為には、何か別の考え方をここに持ってこなければならない。
例えば、女子が貧困になることをまるで期待しているかのような考え方、がその一つだろう。だけれども、風俗店に働きに来るというのは、その貧困を解消しようということでもあるのだから、貧困になることを期待している、などとどうして言えるのだろか?
例えば、よく批判されることの多い竹中平蔵氏式の考え方に、非正規雇用は労働者のセーフティーネットだ、というものがあり、まるで正規雇用者をいくらリストラしても許されるみたいな考え方だ、なんて批判もあるけど、その批判の一方で実際に非正規雇用は雇用の流動性を高める装置でもあり、非正規雇用の権利向上が図られるのであるならば、これはこれとして有用な考え方でもある。
こうした考え方を援用すれば、女子が貧困になっても、選択肢として比較的高給となる性産業も存在している、という意味に解釈すればいいだけではないのか。そもそも岡村は「(可愛い)女子は貧困になるべき」などとは言っていないわけだし。
すると、続いてこういう考え方が導入される。それが何故風俗という名の性産業なのか? ということだろう。
古くは、女子は借金の肩に売春業界に売られた、というようなイメージがある。
なるほど、このイメージはあの悪しき従軍慰安婦問題にも通ずる話である。
だけど、それらとは決定的に異なる点がある。岡村が言ったのは、その女子たちが「自分の意志」で性産業を志望するということであって、そこにはそうした強制性はない。
さらに言えば、志望するのが風営法で認められている風俗産業である限り違法ではない。
確かに、現実問題として、風俗店で働くということは下賤なことだという認識は割りと普遍的ではある。それを公表する人が多くなったとは言え、実態としてはまだまだ堂々と「私は風俗店で働いています」と言えるような世の中にはなっていない。
だから、堂々と言えないのならば、風俗店で働くべきではないのだろうけど、言い方を変えるとそれが許容できる(堂々と言えなくてもいい、或いは堂々と言える)のならば、風俗を選択することをを責めることは出来ないのではないのか。
或いは、女性性が商品化されている、いわば性のモノ化という視点で強烈に批判する勢力があるのも知っている。
つまり、金がない女性は身体を市場で売れ、という野蛮な社会が至るところにあり、岡村のような思想、価値観が福祉の拡充を阻んでいる。
極端な話、性産業が女性差別を助長していると言っているのである。
だがそれは、藤田が自身で行っているように「価値観」の問題であるに過ぎない。なるほど、従軍慰安婦のように強制性(騙して売るという意味を含めた)のあるものであるならば、単なる価値観の問題では済ませられないが、女性が自身で選択できるのであるならば、その価値観は自由に選択されていて、他人がどうこういう筋合いのものではないのではないのか?
岡村は決して、お金に困ったら女子は性産業に従事すべき、などとは言っていない。単にそうなるだろうという希望的観測を述べているだけだ。
そこに自由な選択性がある限り、決して野蛮であるなどとは言えない。「売れ=売るべきである」などとは言っていないのだから。
そして、自由に選択できるのだから、いわば女性には権利が与えられているとも言えるわけで、それのどこが差別なのだろうか?
嫌なら選ばないことも出来る。もはや現代は、貧困になったら性産業を選ばざるを得ないという世の中ではない。考えてみて欲しいのだけど、福祉の観点では男女は平等である。男女に賃金格差や待遇差が存在しているのは事実であろうが、それを性産業が担保しているわけではない。
ツイッタランドでは、闇金業者が女性を貧困に貶めて風俗に売るのと同じような考え方だ、というツイッタラーも見受けられたが、岡村の発言のどこに闇金業者が登場するのだろうか? 女性を貧困にすべきなどとは主張していない。
或いはまた、よく言われているけど、藤田のような発言は風俗従事者を差別しているとも言えるだろう。
風俗従事者は少なくとも違法行為者ではないし、倫理的に悪いことをしているわけでもない。きちんと働いて正当な報酬を受けている一労働者であることは他の労働者と何ら変わらない。
もちろん、岡村発言は新型コロナをあたかも嬉しがっているかの如く、というように解釈も出来るので、個人的には下賤だなとは思うけど、新型コロナをビジネスチャンスと思った人ははっきり言って世界中に腐るほどいるだろうし、責めるほどのことでもない。
というわけで、よく分からないのだ。
ただ、世間常識として、たしかに岡村氏の発言自体を肯定する人は少ないし、岡村氏自身も謝罪したし、良いことを言ったわけではなく、気分を害したり怒った人が大勢いたということは事実として認めるべきだとは思う。
公共ラジオ電波で、仮にも超有名人として認知されている人間が大声で言っていい話ではない=ぶっ叩かれる、ということを推定できなかった岡村氏の罪ではある。
その意味では、今サクッと思いついたところでは、宮迫らが闇営業で「え? 俺らなんか悪い事したん?」と当初軽く考えてしまったであろう罪と同様だ。だけど、それは100パー悪いということを意味しない。
岡村さんがこのような軽率な意見をするに至った社会背景があることは、普段からフェミニズムを真剣に学んでいる身として重々承知しております。これは日本社会が産んだ発言であり、日本社会が許容している発言です。どんなに岡村さん本人が謝罪されても、彼の本心が変わらないことも想像に難くありません。
そして、このように考えている人が日本社会にはあふれており、彼が偶然間抜けだったために、自分の影響力についての考えも及ばず、この発言を公共の場でうっかりしてしまっただけのことだと考えております。
しかし、このような女性蔑視な発言は、女性が自分自身の可能性を信じ、豊かな人生を歩むことに対して、大きな障害となります。そしてそのような方が、小さな子ども向けの番組、さらにはマスコットキャラクターが5歳の女の子で司会を続けることが許されるような状況は見過ごせません。 実際には、もうテレビに出演することすら許されることではありませんが、今回は、NHK総合1で放送されている番組、「チコちゃんに叱られる!」からの降板のみを希望します。
そしてこれをきっかけに、謝罪をするからには、岡村さんには、日本社会における性差別・性暴力・性犯罪の問題についてきちんと向き合っていただきたく思います。 彼のような知名度の高い方のこのような発言が許容されている状況を許してしまうことは、日本社会において性差別・性暴力・性犯罪を助長することに繋がりますので、例え岡村さんの普段の人柄が良かったとしても、私たちが許容してもう一度チャンスを、と優しく許してあげることはできないのです。
社会が岡村さんのこのような言動を許すことは、何人かの女性の心と体の犠牲を伴うからです。そして、過去の報道を見る限り、このような言動は初めてではなく、常習的に行っていると見受けられます。本来は一番組からの降板では済まされない話です。
女性蔑視な言動を行った方が、以前のように当たり前に職場に戻れるようなケースをもうこれ以上一回も出さないことが、「女性が輝く社会」を真に実現するためには必要です。例えこのケースが社会的に風化されようとしても、私たちが忘れることは決してありません。
やっぱり芸能界から完全抹殺を希望しているし、どんな謝罪をしたところで受け入れないぞって宣言してるんだけど血みどろになるまで戦争を望んでるの?
「痛みを理解して~うんたらかんたら」みたいなコメントを出したところで「魂が籠もってない」とか「口では何とでも言える」と糾弾して「勉強会への参加」や「活動への賛同」を求めたり、それで許されることは無く繰り返し自己批判と反省を求めたりするの?
が、しかし、チコちゃんやめさせろとか国民に謝れとか署名運動とかマジおかしい。岡村にフェミを叩き込んでやると息巻いてるフェミは本当のフェミニストではない。って言うか風俗業も女だけじゃないし。
フェミニストは、「人間全員に全ての法的な権利あるので女性にも全ての権利を」と主張するのが前提だ。商業として公的に認可されているのなら岡村にもかわいい風俗嬢を喜ぶ権利があるし、私にもイケメンの裸を喜ぶ権利がある。
今回はそれをぽろっとラジオで発言した岡村の単なる失言である。
「先生〜!岡村くんが増田さんの事ブスって言いました〜!岡村くんは放送係をやめた方がいいと思いまーす!女子のみんなもそう思うよね!」
みたいな事と全く同じだ。もめ事に関わりたくないから黙ってる女子が私だけど、そっと匿名で意見箱に意見を書いて入れておく。
私みたいなサイレントフェミがいつまでも黙っているからキチガイフェミが助長されるんだよなー。意見を述べたところで男に媚びてるとか言い出して何ともならんよ。どうしたらいいんだろ。
あなたが羅列したものの中でかろうじて進化に関連があるのは「家族の子育てに参加する個体」だけね。
血縁者の子孫は当然自分とも遺伝子を共有してるわけで、その子孫の適応度を高めることに協力するインセンティブがあるし、血縁者の繁殖に協力する遺伝子が生き残る可能性はある。
でもその説で行くと「生殖も巣立ちもしない一人っ子」はホントになんの存在意義もないことになるけどいいのか?(笑
生殖も巣立ちもしないおじさん・おばさん達、甥や姪の成長をサポートするために自分は独身でいるのね。だから結婚しないんだ。スゴーイ(棒
そのほかはホントに出鱈目の数珠繋ぎで呆れるわ。なんかもっともらしい単語を意味を理解せづにくっつけてるだけだろ。
種内競争を活性化で同種の生き物の淘汰圧で進化に関与してる?なにそれ?その理屈ちゃんと説明できる?
次世代に生き残る個体にとって、同種の他個体は他種の競争者やその他の環境要因(気候、植生、捕食者・獲物の密度等)と淘汰圧として何の違いもないぞ。
したがって「種内競争(者)」の存在が進化の方向に何らかの影響を持つと考える根拠は何もない。
生殖しない個体自身に至っては次世代に残らないんだから当然進化に何の影響もないぞ。
そもそも進化というのは、生き残り・生殖に成功した個体の子孫の頻度が世代を追って高くなるという現象であり、そこには「何かを生み出す営為」も「意味のある "Trial and Error"」もまったく存在しないぞ。
結果として「生き残った者」も「その他大勢」も単なる結果であって、「進化」や「その他大勢」が「適者」を生き残らせようと意図したり、生き残らせるために存在したり、生き残らせる役に立ったわけではないし、進化が適者を生み出すための Trial というわけでは絶対にないぞ。
生き残るべくして生き残った個体は、たとえ「その他大勢」が全く存在していなかったとしても生き残っていたぞ?なぜ「その他大勢」に意味があると言える?
「その他大勢」はただ存在したという事実があるだけで、どこにも意味はないぞ。
まるで「進化」や「その他大勢」に意味があるというようなセンチメンタリズムは見当違いで、進化というものに対する誤解を助長するだけのものだぞ。