はてなキーワード: 初詣とは
タイトルで強烈な文言を述べたが、私個人は神様を信仰していない。私は神様ではなく自分に幸福をもたらしてくれる縁や尊敬できる偉人を信仰している。
私の家系は日蓮宗であるが、それを意識することはほとんどない。葬式や父の実家の仏壇を拝むときだけだ。クリスマスも初詣もするし、お守りを持つこともある。
このような態度は無宗教と呼ばれ、日本人の多くはこれに分類される。中にはこれを宗教的態度の欠如であると批判する人もいる。私が小学四年生の時の担任教師はこれをおかしいと非難した。
しかし、私はこのような「無宗教」が日本で起こったことや、無宗教の人が宗教の恩恵にあずかれるのはおかしいことではないと思っている。
日本人の宗教観は、この世には沢山の神様がいるという宗教観である。この世のあらゆる事物にはそれぞれの神様が宿り、神様達の動きによりこの世界の因果関係が決定されると考えた。それぞれの神様は人間と同じく感情を持つものとして考えられ、祭祀や信仰はその神様のご機嫌をとることに近かった。この宗教的態度は外国から仏教や儒家思想、キリスト教などが入ってきても変わらなかった。
このような宗教的態度が生まれた背景を和辻哲郎のエセー「風土」は日本(および東アジア)の雑多な生態系と災害の多さに求めた。日本人は古来より抗いがたい災害に見舞われ、それに耐える忍耐力を養った。そしてその気象条件は同時に命の恵みも与え、我が国に植物や動物の息吹があまねく見受けられるのである。
こうした環境が日本人の精神を作り、その精神から人格を持つ沢山の神様を生み出したのである。これは自然環境が変わらぬ現在でも同じであり、欧米や中東のような一神教的な絶対神が日本を征服できないのはこのような理由がある。一神教の神は、多神教の神の国の一部として取り込まれるのだから。
遠藤周作の小説「沈黙」では、日本に伝来したキリスト教の教えが日本に根付かず改変されていることを元宣教師のフェレイラが嘆くシーンがあるが、それは上の風土を考えれば当たり前のことなのである。
一方でキリスト教やイスラム教などの一神教が誕生したのは、砂漠の国の中東からである。そこは日本とは全く異なる生命の息吹が皆無の殺意の大地である。そのような状況から砂漠の民のヒューマニズムへの関心はとりわけ高く、それが人間の味方である絶対唯一神への信仰を生み出した。
それがヨーロッパに入り浸透したのは、ヨーロッパの民族は合理的で従順だったからである。ヨーロッパは生態系が単調で、人間からすれば自然は全部「役に立つ」ものだった。そこから古代ギリシャ・ローマに代表される科学的合理的思考がこの地で起こり、それはヒューマニズムに満ちた一神教を受け入れたのだ。
ここで、あらゆる神や宗教を吸収する多神教の国日本と一神教が人々を統べる欧米や中東の差異が分かる。そして、これが日本の無宗教を受容する態度と非難する態度の違いを生み出すのだ。
一神教的宗教観は日本の無宗教を非難するが、それは無宗教が神様を信仰しないからだ。一神教の神は世界の創造者で裁定者で救済者なのである。それを信仰することが彼らの人間として生きることの証なのだ。故に無宗教は非人間的な態度であり、シリアルキラーと同類の存在なのだ。先の私の小学校の先生も無宗教を人間として無節操な態度と考え、非道徳の理由を無宗教に求めたのだ。
その上で私は一神教的宗教家の方々の私の宗教観への批判に反論したい。私が信仰しているのは神を持たない宗教であると。
先ほど私は日本の宗教観ではこの世の事物にはそれぞれ神様がいると述べたが、それはあくまでいるだけであり信仰する神ではない。物事の因果を神の所業と考えているが、それを起こす神が気まぐれでそれが沢山いる以上もうどうしようもないのだ。もしこれが人だったら早々と見限るような神々は沢山いるのだ。神は人を選ぶのだろうが、人間も神を選ぶのである。
私も以前は神は正しいメッセージを授けてくださると思っていたが、いつまでたっても授けてくださらない。それは当たり前のことであり、雑多な風土に宿る神が雑多なメッセージ以上の何かを発信することは出来ないのだ。日本の土地では裁定者たる神はいないのである。「沈黙」でも、主人公の前に裁定者は最後まで表れなかった。裁定者は日本という沼地で溺死したのだ。故に主人公は生きるという決意で生き延びたのだ。
「沈黙」では神を心のなかで生きる存在と最終的に結論付けたが、私はその神の存在意義は最初から否定した方が楽なように思えるし、そちらが神様にとってもありがたいであろうと思う。そうでないと私は神様に対する「たかり」になってしまい申し訳なさで死んでしまいそうだ。
何か危機に陥ったときにかつては祭祀や加持祈祷に頼っていたであろうが、科学の時代においては科学の方が日常生活では「烏合の衆」よりかは帰依出来る。
今のコロナ禍でも、精神的基盤を補強する役割以外では、神頼みよりも衛生的処置や医療措置の方が遥かに大事なことはすぐに分かる。
では私は何を宗教に求めているかというと、私の心と世界とのコミュニケーションである。世の中には理不尽なことは沢山ある。そんなときに世界が沈黙し私を嘲笑しているように錯覚することがある。
だが、それは私が世界とのコンタクトを放棄しているからである。世界は私を嘲笑していない、語りかける励ましの言葉はある。私がそれに気付くとき、私は心を開き癒されるのだ。その回路を開くことが私の宗教的態度である。私が信仰しているのはそうしたものである。
私は長々とここまで語ったが、私は他人の宗教的態度を否定するつもりは毛頭ない。私には私の納得する宗教的態度があり、それを大切にしている。故に他人にはここで語ったことに対抗しうるだけの宗教的態度があると考えられる。私はそれを侵すつもりはないし、相互不干渉を守りたいと思う。自分の守りたいものと同じように他人の守りたいものは守りたいのだ。
私の記事は以上だ。
「明日実家に帰るぞ!」と思っていた矢先、恋人の同僚からコロナ陽性になったとの連絡。
自分は福祉職の為、濃厚接触者と2日ほど過ごしたとなると、仕事には行けなかった。
そして自分は実家暮らしで、親も医療職なので、実家にも帰ってくるなと言われた。
「まあPCR検査すぐ受けれるでしょ〜」「症状ないし陰性でしょ〜」と最初は思っていたので、恋人の家で暫く過ごすことにした。
年末年始に同僚の人は帰省していた為、県外の保健所の指示を受けていた。
あまりに遅いと問い合わせたら、すぐに連絡が来たので、最早忘れられていた説まである。
しかもコロナが増えすぎてPCR検査の日程も2日後とかだった。
恋人が濃厚接触者との連絡があって10日後、やっと結果が出た。陽性。
無症状なのに今更検査して陽性?
こんだけ待ったのに??ぺ??
陰性だろうと完全に高を括っていたので、?が頭を巡った。
保健所がほぼパンク状態だということもわかっているが、非常時なので多少のパニックは許して欲しい。
パニックになりすぎて、電話アプリを開いたつもりが電卓アプリだったくらいだ。(お茶目で可愛い)
恋人が陽性だという事は、ほぼ2週間を共に過した自分もほぼ確実に陽性だろう。
仕事はもう5日ほど休んでいる。
迷惑をかけている。
なんだか体調が悪くなってきた気がする。
熱も37.5℃ある(絶妙〜!)
自宅に帰りたいし、仕事に行きたい。
ぴえん、とか言いたくなってしまうな。つい。
仕事大好きなことを痛感した。
SNSを見ていると、恋人と初詣やえべっさんなどに行っている友達を見掛ける。なんなら、自分の職場の同期も見る。
自分は久しぶりに会える恋人にるんるんで会いに行っただけなのに、初詣もデートすらも行ってないのに、何故こんな目に…と思って涙が出る。
このご時世では自宅で会うことすら不可なのか、、?
愚かな自分を呪ってみたりした。
ぴえんがすぎる。
早く仕事に行きたい。
ーー追記ーー
適当に書いた文章だったが、思いの外色んな人から反応があり、内容はともかく嬉しいです。
職種も関係するかもしれませんが、私は元々仕事大好きなので、早くみんなに会いたいよ、、、という気持ちで夜な夜な泣いてます。
はてな特有のオタク構文みたいなのに憧れて、ちょっと意識して文章書いたのと、「女ってバレたら叩かれる」という謎のインターネット偏見2021があったので敢えて彼氏ではなく恋人にしました。
恋人はフリーランス業で休む暇もない為、年末年始もどこにも行かず(行けず)引きこもっていたのが幸いし、私たちは誰にも会ってないし、陽性が出るまでの外出もコンビニ程度しか出掛けていません。
恋人と過ごすのはそれなりに楽しいですが、仕事休んだりとかの罪悪感には勝てなかったので、感染食い止めてるって言って貰えてちょっと元気出ました。
これからのことを考えて憂鬱でしたが、最近では逆に面白くなってきて、恋人とHOT LIMITを歌い踊り狂っています。Yo!Say!夏が!胸を刺激する〜♪(ここまでしか知らない)
それと、恋人は自宅療養になりました。在宅で永遠に仕事しているので、私は割と暇を持て余しています。
爪とか無駄に可愛く塗ったりしてみてます(職業柄普段はNGなので、、、)
沢山ブクマコメ付いてたので(喜)、一つ一つゆっくり読もうと思います!
37.5℃と書いたので心配されるコメントもあったのですが、一時的なもので直ぐに下がりました。プラシーボ効果(?)なんですかね。
一応発熱時の連絡先というところに掛けたのですが、昼でも夜でも深夜でも一生話し中でした。
まもなくの受験のために、初詣で神頼みをした学生も多いだろう。
まあ、神頼み自体が悪いこととは思わないが、受験生が初詣で神頼みするのは不合理だと思う。
端的に言うと、初詣では遅すぎる。
だって神頼みは、その回数が多い方が効果は高いと考えるのが自然だろう。
ならば、初詣で神頼みをしたところで、初詣以前から神頼みをしている人間には勝てないではないか。
だから、神頼みをするのであれば、受験よりずっと以前から長期的に続ける必要がある。
受験直前に神頼みをしたところで、受験の成績に負け確定の要素をわざわざ追加しに行っているようなものだ。
神頼みは、受験生自身が成績で劣っていると感じるから、そうするのだろう。
すなわち、神頼みは成績に下駄を履かせるためのものだと思うが、初詣だけでは低い下駄しか得られない。
https://anond.hatelabo.jp/20201130143825
この増田に触発されて。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.ismedia.jp/articles/-/77739
みんな大好き初詣も、おみくじ、占い、お盆、クリスマス、バレンタイン、ジューンブライドもみんなスピリチュアルでしょ?スピリチュアル嫌いな人がどうやって折り合いをつけているのか知りたいくらいだよ。
まず、「スピリチュアル」というものを定義したい。日本でスピリチュアルという時、最も一般的なのは海外発のニューエイジ〜日本における精神世界〜ほぼ同じ内容ながら大衆向けに転換した「スピリチュアル」だと思う。
これはこの分野の第一人者、宗教学者島薗進や、それを引き継いでの研究を参照してのものだが、スピリチュアル界隈について見ている人なら概ね納得してもらえると思う。
最もよくまとまっているのは「精神世界のゆくえ」(これは精神世界についてだがスピリチュアルも中身はほぼ同じ,より新しいものなら「スピリチュアル市場の研究」あたり)だが、とりあえずスピリチュアリティのwikipedia記事、「日本での展開」について読むだけでもおおよそ分かってもらえると思う。
例えば下記のようなものだ。癒しや自己啓発に結びつくものが多い。
・瞑想
・ヨーガ(単なる健康法ではなくチャクラの覚醒やエネルギーについて言われることも多い)
・代替医療(レイキ、手かざし、ホメオパシー、気功、各種ヒーリングなど)
スピリチュアルの特徴は、「宗教ではない」とされること。スピリチュアルで使われる要素自体は宗教的なものが多いが、宗教団体という形を取っていることはほとんどなく、多くは個人としてスピリチュアル本やグッズを消費している(といってもスピリチュアルビジネスの主体が教祖のように振舞っているパターンはよく見られる)。
また、スピリチュアルと共通した概念を取り込んでいる新宗教もあるが、少なくともスピリチュアル界隈で堂々と「○○教です!」と主張されることはほぼないと思う。
となると、「初詣やおみくじ、お盆、クリスマス、バレンタインetc」のほとんどがスピリチュアルには当てはまらないことがお分かり頂けると思う。
ここで挙げられていたのは、世間一般的に行われている慣習であり、私からすれば特に癒しを求めているわけでもないのでスピリチュアルなこととは思わない。占いについてはスピリチュアルの範疇に入るかもしれないが、これは触れなくても問題なく生活はできる。また、初詣については、神社を「スピリチュアルなパワーが得られる」パワースポットとは思っていないのでスピリチュアルな人達とは目的が違っている。
小林麻耶さんの事件で問題になったのは、まさに上述したような教祖化するビジネス運営側であり、スピリチュアル界隈ではこういう例が頻繁に見られる。
個人でやる分にはやたらと批判されることもないだろうが、資格ビジネス化していることも多く、健康被害やキャリアの形成に繋がりかねないような言説(ニセ医療や一般社会での労働を軽視しスピ商材での自立を促す)をばらまく側になってしまっていることがあるので難しい。
なんで政治家から一般庶民まで会食や旅行や映画や初詣をやめられないのか分かる?
それは人間関係を維持するコストを払わないやつは差別されるからだよ
頻繁に飲み会してる連中の輪に、飲み会を一切しない人間が入ろうとすると露骨に嫌われる
人間関係を維持するコストを払ってないのにフリーライドしようとしているからだ
まあ卑怯者なんだよな
自分は金払わないのに「あの人はどう?」とか「あの店どうだった」とか「あの映画どうだった」とかタダ乗りだけしようとしてるんだから
元旦の初詣に地元の神社へ行ったら、それなりの人出で、チョコレートバナナの屋台なんかも出てた。思ったほどは並ばずにお参りを済ませて、屋台を覗いてから帰ろうかなと思ったら、鳥居の右下に立ってビラを配ってる女性がいた。通り過ぎながらなんとなく受け取ってしまって、ビラを見たらなんだか奇妙な内容だった。
2021年こそは思いなしを捨てて世界を統べる原理に気づこう、唯一神フェニミの光りに満ちた年を過ごそう、詳しくはこちら、みたいなことが書いてあって、その下にホームページのアドレスみたいなものが書いてある。
なんだろうなこれはと思って、ビラを配っている女性の方を振り向いたら、鳥居の左下にもう一人別の人が立って、この人もビラを配っていた。もとからいた女性がその人に近づいていって、なんだか言い争いになっているみたいだった。しまいには、後で来た女性の方がバールを振り回してちょっとした騒ぎになって警察が来た。あれは何だったのだろうか。寒いから最後まで見ていられなくて帰ったけれど、いまだにわけがわからないでいる。
10年くらい前に接客業で働いていたときの先輩の言葉を年末にふと思い出した。
今になってみてもたしかにそのとおりだなと思えたので、思い出しつつ書いてみる。
思い出したきっかけは、母親が初詣に行くといって聞かなかったのを今年はやめておこうと説得したことだった。
先輩が言うには、人は、問題が発生すると原因を考えて行動(解決)しようとするという。
そしてこれは、串にささった団子のように一直線に並んでいるらしい。
図にするとこんな感じだ。
問題に触れて、原因を予測して、行動に移すという、物事に触れる順番とは異なる。
時系列で言えば、もともと原因があり、問題が発生して、解決が必要になるからこの順番なのだそうだ。
そして、多くの場合、人が人を説得しようとするとき、この行動に対して説得を試みるのだという。
今回の場合、母親が初詣に行くのは、このコロナ騒動が一日でも早く収まってほしいからと神様にお願いしに行きたいという気持ちからだった。
もしそれを説得する場合、以前のわたしなら、今の時期における初詣の危険性を山程並べて母親の説得にあたっただろう。
この問題にあたる部分は、比較的に視覚化されていることが多く、また、皆が問題を共有できていることがほとんどらしい。
それなのにも関わらず、行動という点において、かたや母親は「初詣に行く」、かたやわたしは「初詣に行かない」として行動が分かれてしまったのはなぜだろうか。
母親は母親の思考において、一直線に原因、問題、行動が並んでいる。
そしてわたしも、わたしの思考において、それらは一直線に並んでいる。
その2つを重ねてみると、ちょうど問題を中心として、クロスするかのように角度が違っているの状態にあるのだ。
それならば説得を試みるのは行動ではなく原因の方で、原因さえ互いに共有できれば、自ずと行動も変わってくる=団子の角度が一致するというのが先輩の話だった。
そこで母親に、新型コロナ感染拡大の原因はどこにあるのかを聞いてみることにした。
母は、人の心の乱れが一番の原因だと言った。
なるほど。たしかにそれはそうかも知れない。人の心が乱れれば、規律を守らず身勝手な行動が増え、そしてそれが結果的に感染拡大にもつながる。
それならば、人が集まることを禁止している指示を破り、人混みの初詣に行くことも、身勝手な行動ではないだろうか。
そういうと母親は一理あるといった顔をしてうーんとうなずいた。
今できることはなにか。それを母親と話し合った結果、3が日がすぎて落ち着いた平日、日中に初詣に行くことにして、それまでは神様に待っててもらおうということで決着がついた。
おそらく、母親の行動を否定し続けていても、一時的な行動の中止はできても変化までには至らなかったはずだ。
そしてもしわたしの説得によって行動の中止をした場合、本人が納得できていない以上、行動を中止された恨みはわたしに向かう。
相手に良かれとやったことでいちいち恨みを買っていたのではたまったものではない。
そして面白いことに、初詣には行かないと決めていたわたし自身の考えにも変化が起きた。
問題を中心として、わたしの団子も母親の団子に引き寄せられるように角度が変化したのだ。
自分の考えだけが正しいと信じることは、それはそれで危険なのだ。
お客様が持ち出してくる何かしらのクレームは、つまり行動の部分にあたるという。
例えば製品に問題があったとして、それをもとに原因をお客様なりに考えて、それにふさわしいクレーム(要求)をしてくる。
もしそのクレームが対応するべきものではないとした場合、そのクレームがふさわしくないことをいくら説得しても無駄なのだという。
製品の問題はともに共有しやすいものだが、その原因と考えている部分の認識がずれたままなら、いくらクレームに対応しようとしても無駄だからだ。
お客様からお客様の考える原因を聞き出し、その上で相手と正しい原因を共感することで、はじめてふさわしい要求は何かという話し合いができるのだという。
それに、もしそれでも過剰な要求をやめなかった場合は、それはもうお客様ではなく問題あるクレーマーとして切り分けができるのだとも言っていた。
事実、この先輩は、一回一回の対応は決して短いものではないが、全体を通すとほぼ最短で解決に結びつけていたし、その後にクレームが再燃するようなこともほとんどなかった。
クレーム対応として正しいかどうかは別として、自分ならそういう担当にあたってほしい思えるような人だった。
ちなみに、この論法を教えてもらってから、マスコミの薄汚さがよくわかった。
マスコミは問題に対して原因を曲げて伝えることで、行動をコントロールしているのだ。
わたしたちは、その問題が、果たしてマスコミがいう原因によって引き起こされているのか、考える必要が求められている。
と、ここまで書いて、もともと団子よりも羅針盤の針になぞらえて例えたほうがわかりやすいんじゃないかってことに気がついたけど、もうまとめ直す気力はなくなってしまった。そのうちまた。
今年短いな。
30日 無観客だから家で寂しくラグビー見て、夕方から岩盤浴行って、スーパー銭湯の飯屋で夕飯。
31日 昼まで寝る。昼から簡単なおせちを作る。夜に最後のタイムサービス目当てスーパーへ行く。3,000円の鯛を500円でゲット。RIZIN見て、年越し。
01日 朝一で氏神さんへ初詣。おせち食べなら寂しく家でラグビー見る。鯛があるので豪華。夜は近所の居酒屋で一人飲み。なぜか凄く混んでる。夜遅くに今年初抜き。
02日 昼までゆっくり寝て、昼飯食いながらラグビー見始める(現地は遠いからこれは毎年のこと)。夜は、ファミレスで一人飯。
03日 家で寂しくラグビー見る。夜は、自炊して、マンガ読んで今。
正月にラグビー場で昼からビール飲んで、ワイワイする楽しみは今年はなし・・・。
なんかぱっとしない正月だったな。
あーあとられちゃった
↓
そうだね、かえされても もう受け取らない。 安心するといい。
↓
領収書1枚で番組が潰れることもある。前例があるものはしらなかったにはならない。
というか自分をからかった、女性とデートとか男性にとっては苦痛だろ
できれば、女性店員のほうがいいけど、なるべく男性店員から買うよ
勘違いではないが、度が過ぎると、かなわん。
どこが冗談に見えたんですか?
初詣に行った。
家庭教師でみていた子がいた。
勉強のできる子だった。
前科一犯、消息を絶ち半年ほど東京で過ごしていた時期があった。
親御さん共々、元気そうに見えた。
安心した。
僕は声をかけられなかった。
あれから少しでも成長した自信がなかった。
努力もしていないし当然だった。
恥ずかしかった。
また機会があれば、と思ったけどそれまでに成長している自信はなかった。
一生が終わった気がした。
よかった。
酒が飲める。