はてなキーワード: 伝統とは
今流行りの深夜アニメを見ていると、絶対にちびまる子ちゃんみたいなアニメは出てこないのかと思う。
ちびまる子ちゃんの物語内には、色々な「クセ」のある子供や大人のキャラクターが多く出ていた。
みぎわさんや前田さんのような、性格にクセのあるブスな女の子キャラは、今アニメでやると苦情が来そうなレベル。
現在の深夜アニメでは、ブスで性格の悪い女子キャラは、完璧と言っていいほど排除されている。
山田のような発達障害のボーダーや、山根みたいな虚弱体質、はまじみたいなパワハラ素養がありそうな男子たち。
だからこそ、今の深夜アニメでは性格のよさそうな美男美女のキャラしか出てこない。ポリコレ的にはいいことなのかもしれないが、物語の深みが少なくなった気がする。
今のアニメの中で、クセのあるキャラクターを登場させることが出来るのはちびまる子ちゃんくらいである。
30年近く続いている伝統があるから可能なのであり、ちびまる子ちゃんが今後終わってしまったら、クセのある人間の居場所は完全になくなりそうだよね。
オレは最近よく見るこういう「本来問題ない行為なのに、無駄なマイ・ルールを聞きかじってきて、さもそれを絶対かのように考えてマウンティングネタにする」奴が一番嫌いだ。
この人々が考えているのは、社会の中で自分だけに見える「正しさ」やルールを山ほど想定し、自分だけがそのルールを利用してすいすい動いて、あちこちでそのマイルールに引っかかる人間をことごとく嗤い、食い物にすることだ。まあたとえてみれば蜘蛛の糸をあちこちに張り巡らし、その上を自分だけがすいすい歩く蜘蛛みたいな存在だな。こういう人間が増えるほど、社会は(その本人以外には)生きにくいものになる。言い換えれば、世の中の人々から「生きやすさ」を少しずつ奪い取って自分の利益にする寄生虫のような行為なんだよ。本人にその自覚があればまだマシだが、自覚がなければ最悪だ。学問的な背景もなく、ありもしない「伝統」を振りかざす人間にこういう輩が多い。○○しぐさなんかがその典型だな。
本当の蜘蛛は、害虫を食うこともあり益虫とされるが、このタイプの「蜘蛛人間」は、社会にとって百害あって一利ない。意識して駆除すべき存在。少なくとも、何のソースもなくルールを振りかざす人間には、積極的に蜘蛛出ししていきたい今日この頃です。
景観論は何も日本文化をかなぐり捨ててヨーロッパの美意識に合わせろということじゃない。
美しさは人間なら誰でも感じる美しさ(ゲシュタルト心理学とか)+その文化に所属する人が感じる美しさ+個人が感じる美しさに分解できる。しかし、日本の景観は人間なら誰でも感じ美しさの部分で既に誤りを犯してる場合が多い。ここを修正しようぜって言ってんの。
日本国内でも景観のため看板を撤去した例はたくさんあるが、結論は総じて「何も影響ない」(売り上げとか集客とか)なんだなぁ。みんな思ってるほど看板見てないのは立証済みなんだよ。
>電車や車や電柱やらコンクリートやら こういうものに美を見出してこそ
景観の話をするとき、伝統的な日本の風景=古きよき昭和になるのはなんでなんだろうな……。縄文時代からの日本の歴史のなかではコンクリだらけの景観はごく最近だし、自然と調和した庭造りや情報を削って抽象化する独特の美意識が日本文化には多く見られると思うんだが。
景観論でも生活景という考え方がある。ただ多くの人が使う公共の場においては、景観も共有財産であるからこそ一定のルールが必要でルールに基づいて整備されるべきだ。
個人的には電柱地中化とかは公共の場を優先して住宅街とかは生活景の一部として残せばいいと思う。
景観論者は日本が嫌いだから日本の景観を否定してると感じるみたいだが、むしろ日本文化のポテンシャルを生かしてない、これまでの日本文化をガン無視してる現状を改善しようぜって言ってるんだがな。
あれ?
性役割からの解放云々を見ないふりをしても、おかしいところがあるな。
「女らしくない女」って、ここに異論もあるかもしれないが、多くの場合は「男みたいな女」を含意するよな。
フェミニズムが「男みたいな女」と「男らしい男」だけを賞揚するということは、日本が完璧なマスキュリズム社会になるのを望んでるということ?
刺青が反社会的だという偏見は、誤った知識から生まれてると思う。
人によって刺青を入れる理由は様々だよ。文化的なものも信条的なものも伝統的なものもある。ただのインクとも言える。
暴力団などの反社会的組織と安易に結びつけるのは、短慮がすぎると思う。
「時代にそぐわなくなった」って、それはマジョリティが入れ替わって、それまでマジョリティだった集団を宗旨替えさせようしているだけじゃないの?
→マジョリティだった集団が小さくなっていってマイノリティになるってことでもあるし、新しい概念や知識によってそれまでの"伝統"が形骸化するということ。
「それは時代にそぐわない考えだ」という認識こそが偏見で、その多勢で少数を押しつぶすやりかたこそ差別なのではないのかな?
→人権の概念が誤った知識に基づいた偏見の可能性もあり得るけど、無視できるほどは小さい。多数が少数を押しつぶすやり方と受け取られないような工夫は必要だと思う。
事実誤認がはなはだしいので、訂正しておく。
地方自治法の成立は1947年である。それ以前に自治体というものは存在しない。
現在でも道府県庁の幹部職員は自治省ー総務省から着任するケースが多い。
その名残が官僚が知事になるパターンである。ある意味で内務省以来の伝統が存続しているといえる。
また郡役所もすぐに消滅したが、郡自体は地域的な枠組みとして機能していることも多い。
江戸時代の村は消滅したわけではない。現在「区」として行政の下請団体として位置づけられている。
つまり、江戸時代以来の「村」は現在の市町村行政を支えているのだ。
また、江戸時代の村は用水や入会など多くの村と利害を共通とし、また競合もしている。
それほど事情は単純ではない。
伝統的なスクロール系アクションゲームでは、各ステージの最後ににボスがいる。
ボスがいるところではスクロールできないが、ステージの真ん中にもスクロールできなくなって強い敵が出てくる場合がある。それが中ボス。
null垢にはてブロ飛ばした時点でわかるでしょうけど、この度SideM、それからアイマスというジャンルのプロデューサーを退職させて頂くことにしました。
自己満足ですので以下の文字列に何か言われたところで一切反応致しません、ご了承ください。
そもそもね。ファスライ組とセカライ組ってわけられてしまっていたのがよくわからない。あの子たちは全員で315プロのアイドルだって私はずっと思っていました、違ったみたいです。
例のアニメの時のイラスト、キツかった。ファスライ組だけ集められて「完成」って言われたんですよ。正直悔しくてめちゃくちゃ泣いた。315プロって、ファスライ組だけで完結するんだな、私の担当たちは315プロのアイドルではないんだなと。
曲数、増えないですね。
他ジャンルもかじってるんで言うんですけど、すごいですよ。全員にほぼ均等な曲数があるんです。
しかも、追加キャラへの配慮もある。ま、そもそも初期からいる子達は同じ数の曲を出してもらってるんですけど。
さっきも少し取り上げました、アニメ化しましたね。見ました?ファスライ組だけのアニメ。
担当が少し映って消えていった。
確かに映った時はすごくすごく嬉しかったです。でも、数秒。たった数秒の私の担当と、何十分も映ってるファスライ組。どこで亀裂生まれたんですかね。
確かに2期があるならいいんですが、未だに発表もない。正直今発表来ても全然喜べる気がしません。同僚、何人辞めたんだっけ。
他ジャンルと比べるのとか嫌なんですけど、SideMだけ見てる方からしたら格差なんか絶対わからないんだろうからします。嫌ならするなって言われそうだねここ。しなきゃ伝わらないからしてるんだけども。
某学院でアイドル育成するソシャゲありますよね。アレもアニメ化するんですって。アレ、後々追加されたキャラクターが10人以上いるんです。
アニメの詳細を見に行った。出演者欄にやっぱり初期の子達しか居ないのかなと思った。けど、全員いました。40人以上いるキャラクターが全員出演するって書いてあって、めちゃくちゃびっくりした。
もしかしたらSideMでも出来たんじゃないんですか?全員をアイドルとして出すことは出来たのかも。まだアイドルではなくて一般人として生活をしている担当だけを見せられて、喜ぶ人がいるのかどうかも疑問です。だって私はアイドルになるっていう事実を知っているけど、あの描かれ方じゃ何も知らない人から見たらただのモブでしかないじゃん。
担当をモブ呼ばわりする奴がこのジャンルの心配してもらわなくていいですwみたいに言う声結構ありましたね。いやよく考えてよ。初めてSideMに触れたのがアニメっていう人から見て、あの映され方でこれはメインストーリーに関わってくるキャラクターだなとか思うんですか。
どうしても、格差を感じる。
ライブで公開される情報がニコ生しますってなんなんですかそれ。それならライブで何の情報もない方がいいわ。ライブ終了後にTwitterアカウントで公開すれば済む話でしかないのに。
それから。
このように文句を言うのがセカライPだけで、ファスライPからしたらうるさいだけという方。
「むしろファスライ組ピックアップしてくれたおかげで担当のことが見えた」
PoP、隼人くんがいきなり殺されたのなんだったんですか。キャラクターにそういうことをすることになんの躊躇いもない公式について行くの、無理です。
4曲目だけ視聴がなかった例のCDも、2度もお漏らししておいて謝罪無しなのも(この点に関してはできた時お漏らしされて存在がバレたジャンルのでもう諦めるしかないのかもしれませんね)、中の人からの過剰な腐媚夢媚も、チャリンチャリン発言も、一般企業のキャラと声優同一視も、もう付き合っていられないです。
今までSideMの話ばかりしていたんですが、最初に言った通り、アイマスというジャンルのプロデューサーも降りさせていただきました。
1番大きいのは「宗教」であるところですよね。内輪で盛り上がってるのすごく気持ち悪い。
企業名コール、なんなんですか。私別に企業のファンとかじゃないんですけど。「アイマス最高」コール、なんなんですか。アイマス全体が好きな訳では無いのでものすごい違和感しかない。
パンフに乗せてもよいし、アイマスとはいえ違うジャンル、他にも楽しいことあるだろって。
謎のコール多すぎませんか。元からある訳では無い歌詞を勝手に足して歌ってどうするの。私はライブにファンの歌声を聞きに行った訳ではなくて、演者の歌を聞きに行ったんですけど。
害悪UOも消えませんしね。眩しくて見えないからやめろって言ってるのに。
カラチェンペンラもなかなかですよ。ファンからカラチェンペンラしか認められない現場、ほんとうによくわからないです。
最後に。
私は別にアイマスにかけた時間のことも、お金のことも、何も後悔はない。それを引き合いにして文句を言うのは流石にめんどくさい奴だなとしか思いません。
今までありがとうアイドルマスター。私には手に余るジャンルだった。
担当をさせてもらった皆。特に、木村龍くん。楽しい毎日でした。ほんとうにありがとう。できることなら君がアイドルとして輝いているところをもっと見ていたかったです。
私は沖縄県那覇市の国際通りで働いています。沖縄に来たことがある人ならご存じだと思いますが、
観光客向けの飲食店やお土産屋さんがずらっと1マイル立ち並んでいる通りです。
私はその通りにあるお土産屋さんで働いています。毎日多くの観光客が訪れていて、おかげさまで忙しい日々を送っています。
そんな中、私にとって大きなストレスとなっているのがタイトルにも書いた「写真を勝手に撮られる」という行為です。
私たちのお土産屋は観光地でよくある”伝統的な衣装”を着て接客してるわけでもなく、ただただ普通のごく一般的な制服を身に着けて業務を行っています。
なので観光客の方も私たちを撮りたくてカメラを構えているわけではなく、旅行の思い出に店内の様子や家族や友人の写真を撮っていることは重々承知なのですが、
お客様がカメラを構えている際はなるべく映らないように避けていますが、なかにはお連れ様がレジでお会計している様子を動画で撮り続ける方もいらっしゃいます。
その時はどうしても避けることができないので諦めるしかありません。
遠いところから沖縄までやってきて買い物を楽しんでくれているのはわかりますが、勝手に写真を撮られるのはとても不愉快です。
案の定、お店の名前でネットで検索してみると、口コミサイトや旅行ブログなどにスタッフがはっきりと映ったまま掲載されています。
「自意識過剰ではないか」と思われるかもしれませんが、自分の働いている様子を勝手に撮られてネット上にアップされるはとても怖いです。
私たちの店は、名札をつけることが必須ですので写真を見た人は少なくとも私の顔と本名が把握できます。ゾッとしませんか?
ちなみに、このように写真を撮るのはもっぱら外国人のお客様です。店内は撮影禁止ではないので、やめてくださいとも言えないし、
海外のお客様は口コミをとても参考にされるのでネットでお店の評判や写真を確認して来店することがとても多く、このような撮影もお店の売り上げの為ならスタッフは我慢するべきなのかなとも考えてしまいます。
これから2020年に向けて訪日外国人の数はますます増えていくはずですが、私たちはずっとカメラを向けられ続けるのでしょうか。そしてインターネット上に私が知らない間に私の顔と名前が出続けるのでしょうか。
外国人客が多い観光地で接客業に従事している人はこの問題について、どのように考えているのでしょうか。私たちに肖像権ってないんですか?私が気にしすぎなんでしょうか。
中学生でも演技ができると書いているように、時間をかけて適切な演出や稽古をできる環境があれば、誰でも人に見せられるレベルの演技はできるものだ。
(もちろんできない人だっているが)
ではなぜ日本の映画やドラマの役者が下手かといえば、要するに適切な演出や稽古や、脚本の読み込みがされていないからだ。
何事もそうだが、練習を重ねれば当然うまくなる。
しかし練習には時間がかかる。そして現場では時間をかけることに一番金がかかる。一番の費用は人件費なのだ。
監督や主演俳優など、特に金のかかる主要メンバーで長時間の打合せをして、基本から鍛えて演技のレベルを上げるという全世界で当然の作業が、金のない日本の現場はできないのだ。
昔ながらの役者も、今の現場の悪い点として監督が演出や指示を出さないことを挙げている。
そうやって適当な演技で済ませた方が、作業の効率もいいし楽なのだ。
(ジブリはブラック企業かという話もあったが、創作で楽をするというのはこういう結果になりがちだから悩ましい話)
こうして、大声を出したりやたらと手を動かすことが感情表現だと思っているようなひどい演技が出来上がる。
だが、大御所を除く映画監督の給料が一本平均100万、役者も映画よりCMの方が何倍も稼げるという話を聞くと、あまり彼らを責める気にもなれないのだ。
テレビ局資本の映画で、言うことを聞いて適当な仕事をした方が金も入るし顔も売れるということならば、仕方がないと思う。
同じ役者でも演出する人間が変われば演技がまるで変わる例としては、シン・ゴジラと進撃の巨人がわかりやすい。
ちなみに歌舞伎の影響云々については、オリエンタリズムへの憧れで見誤っている意見のように感じる。
逆に、下手な演技を許す日本映像界に、伝統芸能へのリスペクトなどを感じるだろうか?(上記のシン・ゴジラは野村萬斎を起用しているが)