はてなキーワード: マルクス主義とは
◇ 『仁義なき戦い』の脚本家、笠原和夫の本がなぜか図書館にあって、面白くて読みふけってしまった。
曰く、『仁義なき戦い』のテーマの1つは、日本は戦争に負け、経済戦争にも負けたのに、またカネを巡って同じことをやっている。アホばっかりだ。ばーかばーか。ということだと。
時代は違うが内村鑑三も似たようなことを言っていて、曰く、日本は戦争向きの国ではないし、文化もモノマネしかできない。経済もそんな強くない。と。
じゃあどうすればいいかというと、内村は「日本の目指す道は宗教しかない」と言う。
ぜったい無理だけど、そうなったらいいなぁとは思う。
◇ キリスト教関連のエッセイに「フォイエルバッハはいいぞ」みたいなことが書いてあったので入門書を買ってきた。
めっちゃむずかしい。なんだこれ。
入門書の筆者曰く「フォイエルバッハはその主張から無神論者だと思われがちだけど、実はそうでもないよ」とのことなのだが、完全にキリスト教徒を殺しにかかってて笑える。痛いところ突かれまくり。だがそれがいい。
てかマルクスの思想の元ネタの1つがフォイエルバッハらしく、時折マルクスっぽいことを言うのでおおっ!てなる。
これ理解出来たらキリスト教とマルクス主義が頭の中できれいに整理されるんだけどなぁ。なんかもう1冊買うか。
内村鑑三の注釈は聖書の部分によって明らかに筆のノリが違っていて、自身の実生活で慰めを得たところだと熱くなる。
具体的には、貧乏生活を慰める規定や、人を裁くことを諫める規定は熱い。熱すぎる。
たまらずコレヘトの言葉に移ると、地上の快楽を追及するのは虚しいだけだよ、みたいな話なので熱気がすごい。おもしろい。
作者がソロモン(と言われているが実際には違う)ってのもロマンを感じる。
とりとめないが以上
今回は思いつきばっか書くので、あんまり本気にしないでください。
日本語の「信じる」「信仰する」という言葉は重いと思っている。
自分の神に対するスタンスは、(本当はいるかどうか良く分からないが)①いてくれたら良いな、②いる方に賭ける、③いてくれなければ困る、という幅で気持ちが揺れ動いている状態だ(その理由は以前書いた)。
「信」という漢字は「人」+「辛」+「口」の組み合わせから成るという説があるらしい。
ここで、「辛」は入れ墨に用いる針の象形で、入れ墨による刑罰を示す。「口」は誓いの文書を表す。
この説によれば、「信」という言葉は「その発言に嘘があれば、受刑することを前提に誓う様」を意味するとのこと。
他方、英語の"believe"は、allow(受け入れる)を意味する"be"と、to hold dear(愛しく思う)を意味する"li"から成るとのこと。
この説によれば、"believe"の意味は「対象を受け入れて愛しく思う」というところか。
これらの説が本当なのか文献を当たってないので分からないが、もし本当ならば英語の方がしっくりくる。
聖書の文言というのは非常に抽象的で、中には矛盾するように読める個所もある。
そのため、人生で直面する問題に対して聖書の規定を適用しようとする際、人によって全く違う結論が導き出されることがある。
このことが顕著に顕れるのが同性愛の問題で、①同性愛は全面的に罪だよ説、②欲求を持つのはOKだけど行為に及ぶのは罪だよ説、③ノンケの人が男色に走るのが罪なだけで生まれながらの同性愛者は罪ではないよ説、等々、バリエーション豊かな議論が展開されている。
(ちなみに自分は、どの説に立つにせよ、自説をもって他人〔同性愛者〕を裁くことは「人を裁くな」〔ルカ伝6-37〕に抵触するのでイカンと思っています)
また実際にも、(a)同性愛を罪と考えて信仰に励む同性愛者、(b)同性愛を罪と考えず積極的に差別と偏見と闘う同性愛者、のどちらも間違いとは言えないだろう。
そうなると聖書解釈というのは単なる主観の表明じゃないのか、客観的に正しい解釈というのはないのか、という疑問が湧いてくる。
この問題を考える際に参考になる議論として、法律学で似たような議論がある。
議論状況は泥沼に陥っている上に難解なのでとても要約なんてできないのだが、論者で議論が一致している点として「裁判官は法律家としての直感で結論を決めており、法解釈はそれを検証・正当化するために用いられる」ということが挙げられる。
このことから、法律家はこの「法律家としての直感」を育てることが肝要であるとよく言われる。
大事なのは「キリスト者としての直感」を、信仰と聖書研究を通じて育てることであり、聖書解釈はその直感を検証・正当化するために用いるものなのではないか。
上述した同性愛の問題でいえば、①同性愛者が直面する問題点、苦悩などをよく勉強したうえで、②キリスト教的な価値観に照らして直感で結論を出し、③それを聖書の規定に照らして検証・正当化する、というプロセスになる。このプロセスを経た結論は、いずれの立場にせよ、聖書的と言える(と勝手に思っている)。
なお、「法律家としての直感」の土台には、無神論と(マルクス主義的な理解における)資本主義がある。
「キリスト者としての直感」の土台には、キリスト教的な価値観(人間は堕落しているという人間観、成功より正義を重んじる姿勢、死後の世界の肯定、愛)がある。
「〔パウロ〕の手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(ペテロ後書3-16)
「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」(テモテ後書2-15)
「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(コリント前書2-14)
#ブコメ返信
・いつもありがとうございます。教理問答買って読んでみます。今は詩篇を読んでいるのですが、終わったらコリント前書も読もうと思います。
面白い話を一つ紹介しよう。
かつて国際連盟の労働部長であったユダヤ人、アルベール・トーマが日本の労働事情調査のため来日した。
国際連盟といっても、教科書的歴史観しか教えられていない日本人にはその本質を知る人は少ないようだが、これはユダヤの世界政府ともいうべきものである。
第一次大戦の結果、金融支配力に自信をつけたユダヤ人は政治面へも進出をはかり、その結果作られたものが国際連盟なのである。
この連盟の指導者は、日本人の杉村陽太郎氏を除いて外は皆ユダヤ人だったのである。
なぜユダヤ人が労働問題にかくも力を入れるのかということは、マルクス主義の階級闘争史観をご存知の方はお分かりいただけると思うが、かつてユダヤ人は非ユダヤ人の協力者を集めるためマルクス主義の階級闘争史観を宣伝したのであり、その結果エピゴーネンとしての各国共産党を生んだのである。
話がちょっととんだが、面白い話というのは、アルベール・トーマが来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとした時、その前に立ちはだかったのが、日本の強固な家族制度だったのだ。
「日本では家族制度が強固なため階級闘争、つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難である。
この家族制度を何とかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むことは難しい」
といっているのである。
アインシュタインもまた来日した時、日光の金谷ホテルからドイツのユダヤ機関へ手紙を書いているが、その中に日本の家族制度の立派さを書いているのである。
ここでまた日本人にお詫びをしなければならないのであるが、この日本のすばらしい家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである。
具体的には、占領改革の時ニューディール派が行ったものである。
前述のアルベール・トーマの件でもお分かりと思うが、ユダヤ人がマルクス主義的変革を実行するためには、家族制度は国内の君主制といわれる如く邪魔な存在だったのだ。
家族制度が「小さな君主制」としてユダヤ民族のマルクス主義的変革事業の邪魔になるということは、なにも今日昨日の問題ではなかったのである。
『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』(モルデカ・モーゼ)より
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このことから判ることは、核家族化や女性の社会進出は人類社会の進歩と共に自然に生まれてきたものではなく、国家を内側から破壊するために輸入されたものであるということです。
もともと日本の国体は、天皇家が本家で国民はその分家という家族国家として成り立っており、家族制度はその縮小版の「小さな君主制」で、国民はすべて「絆(きずな)」で結ばれていました。
家族制度の破壊は、その「絆」を分断して国家を解体するという作戦だったようですね。
近隣諸国同士を争わせること(つまり絆を破壊して信頼関係を失わせ、本当の敵を見えなくすること)によって他国を支配することを分断政策といいますが、その国内版が家族制度の解体だったようです。
戦前は日本の家族も、最小の本源集団として共同体性を色濃く残していたのでしょう。
分断統治を得意とするユダヤ人もこれには手を焼いたということ。
そして、大家族で行ってきた子育てを核家族で行うのが困難になり
へと続く・・・
やっぱセックスとか暴力描写とか宗教とかマルクス主義とかにかかわる文章は載せられないんかな。
そういうの避けて、かつほどよい長さの文章を選ぶのは大変そう。
ゲームのレーティングと同じで、発達段階に応じた内容を選ぶことの難しさはありますが、
自分の場合は高校ですし、高校生はある程度現実見えてるので、そこまで厳密なゾーニングをしたところで、という気にはなりますね
個人的にはセックスや暴力描写も、「そこから客観的に何が読み取れるか」「どんなことが見えてくるのか」という点で、
教材としてだけなら、むしろ良い教育内容が作れそうだな、という感じはありますね
宗教とかマルクス主義の例ですが、イデオロギーを色濃く含んだ文章は、難しいです
価値判断を含んだ文章を理解するには、ある程度、筆者の価値判断の材料を理解しなくてはなりません
しない場合、自分の共感しなさをどのように伝えるか、と言った問題があります
すぐれて教育的な問題ですが、時間のなさ、カリキュラム、教師の能力、生徒の能力といった諸々の事情から、厳しいのが現実ですね
条件が整わないまま、価値判断を色濃く含んだ文章を取り扱うと、筆者の価値判断(読解ではなく)の押し付けみたいなことも生じる可能性があります
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それによれば、その辺の雑草なんかも日々熾烈な殺し合いをしているらしい。
その中で生き残った者の性質が子や孫に受け継がれて変異していく、とのこと。
これが正しいとすれば、人間ってのは生物の中で唯一、自由競争原理に疑問を持ち、これに抗う力を持った存在なのかなぁと思った。
キリスト教やマルクス主義が生まれるってのはほんとに人間らしいことなのだろう。
あと聖書的には進化論より、現生人類が少なくとも30万年前ぐらいから居たって事実がやばいらしい。何でかっていうと、最初の人間アダムが生まれたのはどう計算しても1万年前ぐらいだから。
注釈者は、アダムってのは本当の意味で最初の人間ではなく、神の説く理を理解できるほどに成長した「最初の人間」なのだという解説をしていたが、正直苦しいw
「全てのセックスは性差別」とフェミニズムの一部が主張している、と俗に言われる。これは半分正しいが、半分間違いだ。
正確には、「マチズモが強く機能している社会においては」という条件下にのみ「全てのセックスは性差別になる」という主張である。
この条件さえ付ければ、「全てのセックスは性差別」という主張は決して間違いではない。
しかし、だからと言って「セックスを滅ぼせ」という主張は、大半の人にとって受け入れられないものだろう。
現にフェミニストの大多数はそのような主張に与していない。
そもそも、そんな主張は受け入れる必要すらないのだ。
仮にある作品が差別的だとしても、あくまで特定の社会状況下で差別的力学を発揮する、ということにすぎないのだ。
だから「性差別表現を含むフィクションを好むこと」と「性差別を批判すること」は問題なく両立する。
どころか、「性差別を含む表現」を好むからこそ、現実での差別を批判するとも言えるのではないか?
別の例で言い換えてみよう。
「(ミステリー小説など)殺人表現を含むフィクションを好むこと」と「殺人を批判すること」は問題なく両立する。
どころか、「殺人表現」を好むからこそ、殺人表現が現実の殺人へと結びつかないために、現実での殺人を批判するとも言えるのではないか?
いずれもまったく同じ構図だろう。
それゆえ、性差別に抗議する人が「性差別を含む表現」を愛好しても何ら問題はないのだ。
言うまでもないことだが、上手く書かれたフェミニズム批評は、正当な批評である。
分析の仕方が卓抜で、深く作品を読みこんでいる批評であれば、それは正当に評価されるべきだろう。
しかしその批評の正しさを認めることは、決して批評された表現自体が悪であると認めることではない。
現に古典文学に対するフェミニズム批評は以前から行われており、たとえば『源氏物語』をフェミニズム的に読解する批評などはすでに存在している(興味がある人は探してみてほしい)。
しかし当たり前のことだが、これは決して『源氏物語』が劣悪で評価に値しない作品だということを意味しない。
批評理論は、「ジャンル批評」や「読者反応批評」や「精神分析批評」や「マルクス主義批評」や「文体論的批評」など、数多く存在する。
「フェミニズム的な批判を認める」=「批判された表現をなくさなければならない」
だからオタクは、別にフェミニズム的批判の正しさを認めても構わないのである。
(もちろん他の批評と同じく、低レベルなフェミニズム批評まで認める必要はない)。
そしてこれはフェミニズム側についても同じことが言える。
「性差別的である」ことを理由としてただちに「表現を取り下げよ」と主張するのは、基本的には不当な要求である。
(もっとも、厳密に言えば「表現を取り下げよ」と発話すること自体は自由である。しかしその発話内容が不当である以上、当然批判が殺到するであろう。
不当な主張をすることは自由だが、その主張に対する「評価」は本人が責任を負わなければならない)
あたかも「オタクとフェミニズムが対立している」かのような構図をでっち上げることこそが、議論の妨げとなるのである。
そういった点も踏まえて、後述するように「マンガ・アニメという表現様式一般が性差別である」などという乱雑な主張は退けなければならない。
●結論
辛辣な批評、伸びない人気、そういったことをすべて作者自身が引き受けることである(もちろん、低レベルで無意味な批評は無視すればよい)。
フェミニズム的な批判を、何か特殊な批判だと考えない方が良いだろう。基本的に、それは批評である。
フェミニズム批評もまた一つの評価軸であり、その軸上における評価もまた、作者自身が引き受けなければならない。
そして表現者の責任とは、「評価」を引き受けることがすべてだ。
(もちろん、プライバシー侵害など個別具体的な人権侵害等は例外だが)
酷評に耐えかねて、自ら作品を非公開にすることは、確かに一つの選択肢ではある。
仮に「ある作品が性差別的な効果を発揮する」としても、その効果を止める方法は「表現を取り下げること」だけではないだろう。
「その作品は性差別的な効果を発揮している」と論理的に指摘できれば、それだけで性差別的効果を止めるには充分である。
「この作品における○○○○な描写は、性差別的意味を持っている」と評すれば、充分に、現実世界で○○○○することが悪いと告発する効果を発揮できるから。
批判的言説を生産することによって、ある表現が発揮しうる性差別的効果を止めること。これは充分に可能である。
批判的言説では飽き足らず、表現自体の取り下げ等を要求することは、(性差別解消につながるかも疑問だが)性差別以外の領域において不合理を引き起こす
(この点については、また別の機会に述べようと思う)。
そして、(あえて厳しい言い方をするが)表現の取り下げを要求することは、批評の力を、言論の力を、見くびる所業でもある。
だけど忘れてはいけない。
フェミニズム的解釈が妥当性を持つのは、作品外の社会的文脈があるからだと。
そして、これも再度強調しておかなければならない。
「(現在の社会的状況において)性差別(と位置づけられるような)表現を好むこと」と「性差別を批判すること」は両立する。
どころか、前者を好むからこそ、現実での差別を批判するとも言えるのではないか?
しかし、そのことだけを理由に表現の取り下げや禁止を要求することは不当である。
同様に、そのことだけを理由に「フェミニストが表現の取り下げや禁止を要求している」と早とちりすることもまた不当である。
●最後に補足を二点
もちろん私は、「マンガ・アニメという表現様式一般が性差別である」などという乱雑な主張には与しない。
たとえば大城房美が指摘するように、「日本の少女マンガは、女性が周縁化されてきた20世紀後半のアメリカのコミックスの状況を変える一因となった」という側面を見落としてはならない
(大城房美編著『女性マンガ研究 欧米・日本・アジアをつなぐMANGA』青弓社 2015 p.25)。
日本においては、マンガによって女性が表現する場所が確保されてきたのである。
そして少女マンガは女性表現の源流であると同時に、いわゆる男性オタク向け表現の源流の一つでもある。
以上の指摘を受けて、なお「男性向けオタク表現については性差別である」と強弁する方がいれば、
たとえば佐倉智美先生によるこちらの記事などをご覧いただけると、その主張が極めて一面的で乱雑であることが理解いただけるかと思う。
http://stream-tomorine3908.blog.so-net.ne.jp/2016-04-09_GP-LoLv-5(「ラブライブとガルパンをフェミニズムが評価すべき5つの理由 [メディア・家族・教育等とジェンダー]」)
http://anond.hatelabo.jp/20160901192115
>昔の若者は、このような現実を知らぬまま、理想主義に向かっていったが、いまだとネットによって辛い現実を知る、ということだ。
「昔の若者」がいつの若者を指してるのか分からんけど、たぶん『資本論』読んでた世代のこと言ってるんでしょ?
あの本の中で描かれてる現実は、今の増田やTogetterとそんな変わらんよ。ぐっちゃぐちゃの泥沼地獄が書いてある。
結局、現実のひどさを知ったうえで、じゃあどうするの?っていう支柱となる思想が今の世代には無いのだと思う。
無いから、攻撃の矛先を韓国や中国、「自虐史観」、在日に向けるネトウヨに走る。
昔はマルクス主義という支柱があった。その差。
面白い話を一つ紹介しよう。
かつて国際連盟の労働部長であったユダヤ人、アルベール・トーマが日本の労働事情調査のため来日した。
国際連盟といっても、教科書的歴史観しか教えられていない日本人にはその本質を知る人は少ないようだが、これはユダヤの世界政府ともいうべきものである。
第一次大戦の結果、金融支配力に自信をつけたユダヤ人は政治面へも進出をはかり、その結果作られたものが国際連盟なのである。
この連盟の指導者は、日本人の杉村陽太郎氏を除いて外は皆ユダヤ人だったのである。
なぜユダヤ人が労働問題にかくも力を入れるのかということは、マルクス主義の階級闘争史観をご存知の方はお分かりいただけると思うが、かつてユダヤ人は非ユダヤ人の協力者を集めるためマルクス主義の階級闘争史観を宣伝したのであり、その結果エピゴーネンとしての各国共産党を生んだのである。
話がちょっととんだが、面白い話というのは、アルベール・トーマが来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとした時、その前に立ちはだかったのが、日本の強固な家族制度だったのだ。
アルベール・トーマは、
「日本では家族制度が強固なため階級闘争、つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難である。
この家族制度を何とかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むことは難しい」
といっているのである。
アインシュタインもまた来日した時、日光の金谷ホテルからドイツのユダヤ機関へ手紙を書いているが、その中に日本の家族制度の立派さを書いているのである。
ここでまた日本人にお詫びをしなければならないのであるが、この日本のすばらしい家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである。
具体的には、占領改革の時ニューディール派が行ったものである。
前述のアルベール・トーマの件でもお分かりと思うが、ユダヤ人がマルクス主義的変革を実行するためには、家族制度は国内の君主制といわれる如く邪魔な存在だったのだ。
家族制度が「小さな君主制」としてユダヤ民族のマルクス主義的変革事業の邪魔になるということは、なにも今日昨日の問題ではなかったのである。
『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』(モルデカ・モーゼ)より
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このことから判ることは、核家族化や女性の社会進出は人類社会の進歩と共に自然に生まれてきたものではなく、国家を内側から破壊するために輸入されたものであるということです。
もともと日本の国体は、天皇家が本家で国民はその分家という家族国家として成り立っており、家族制度はその縮小版の「小さな君主制」で、国民はすべて「絆(きずな)」で結ばれていました。
家族制度の破壊は、その「絆」を分断して国家を解体するという作戦だったようですね。
近隣諸国同士を争わせること(つまり絆を破壊して信頼関係を失わせ、本当の敵を見えなくすること)によって他国を支配することを分断政策といいますが、その国内版が家族制度の解体だったようです。
戦前は日本の家族も、最小の本源集団として共同体性を色濃く残していたのでしょう。
分断統治を得意とするユダヤ人もこれには手を焼いたということ。
しかし戦後は彼らの思惑通り、核家族化が進み、労働運動も盛んになります。
タイトルは、丸山眞男が「〔竹内〕好さんとのつきあい」という文章のなかで紹介している内村鑑三の言葉である。
これを丸山は「みごとなコスモポリタニズムだ」と言ってるのだが、私も本当にその通りだと思う。
要するに、日本人はしばしば「島国根性」を発揮して、「人類」というものをどこかよそよそしい、抽象的なものだと考えてしまう。
日本人には実感や内輪の論理によって支配される仲間内の世界と、外国や外国人と付き合うときに現れる外側の世界とがあって、後者の世界に立つときにだけ「人類」という観念が現れる。
そのため、「人類愛」を唱えるのと同じ人間が、自分の家庭では亭主関白であったりする。
しかし、本来、人類愛というのはそういう「内と外」を区別しない思想であり、別の言い方をすれば「自分がいま立っているここがとりもなおさず世界なんだ」という思想なのだ、と。
「人類ってのは隣りの熊さん八っつぁんのことをいうのだ」とは対極的な、言ってしまえば「島国根性」の典型が↓のような考えだろう。
「リベラルなフェミニスト」というのは、世間一般の風潮に対する態度であり、他人に対する態度である。自分自身のことではない。特に、家庭における自分の個人行動のことではない。「女性一般の権利を尊重する」ということと、「自分の女房の権利を尊重する」ということは、まったく別のことだ。前者はフェミニズムで説明できるが、後者はフェミニズムとは全然関係がない。
ふたたび内村鑑三の言葉を借りるなら、「フェミズムってのは、うちの女房の権利を守ることをいうのだ」と言ったところだろうか。
「女性一般の権利」のなかに、どういうわけか「自分の女房の権利」が含まれない。これはつまり「女性」が単なる観念として、自分の身近な世界の「外」にあるものとして認識されている、ということだ。
↑の増田とは正反対に、自分の女房とか、身近な女性に対して優しい男を「フェミニスト」と呼ぶ人もいる。誤解の方向は逆だが、実はよく似ている。
恋人や女房をそれとして見るのと「同時に」、女性一般としても見るのがフェミニズムなのであって、恋人や夫婦といった内輪の論理だけで互いの関係を図るあいだは、それがどれだけ慈愛に満ちたものであってもフェミニズムではない。
むかしの学生運動家には亭主関白が多かった(女性の仲間にお茶くみをさせて平然としていた)という話を思い出すのだが、
結局のところ、「外」からやってくる権威(たとえばマルクス)に対する弱さと、「外」の権威が及ばない「内」(内輪の論理)の強固さというのは、おそらく関連しているのだろう。
「外」から次々と新しい権威がやってきて、そのつど恐れ入るのだけど、それが「内」に及ぶことはないから、「外」の権威はそのつど取り換えられる。
これは日本人が仏教を受容し、儒教を受容し、マルクス主義を受容し、そして現代にフェミニズムを受容するに至るまで、一貫して続いた思考パターンなのだろうなぁ、と思う。
少なくとも昨今のフェミニズムは女が単純に男の地位に迫り、逆転させるような社会の在り方を希求していないと思う。
男の地位に女がなり変ったとして、もともと女性が感じている「生きにくさ」の構造はなんら払しょくされない。主語が入れ替わっただけなのだから。
そうではなく、今の社会構造そのものを(主に男に)自覚させ、社会構造を変革し女がより「生きやすく」するよう考究することがフェミニズムの現代的課題ではなかったのか。
社会構造のあり様そのものを変える作法は、マルクス主義的フェミニズムでも、メディアにおける性差別(アナウンサーの男女の人数構成や話題の内容の男女差など)でも、とっかかりは色々ある。
今こうした研究をしている人たちは、単純に男と女とを挿げ替えることを発想しているのではないのではないか。
男女の入れ替えは、古臭いテンプレ化した譬えとはいえ、社会構造の自覚には有為に働くだろう。今回の文章もこうした点に効果を求めているのだろう。
だが、その向こう側は?
こうした次元での議論が注目されると、論点が男女の権威・権力のシーソーゲームに矮小化してしまい、今後男も女もひっくるめた新しい社会構造への議論という可能性が見えにくくなる。
男女の単純な挿げ替えは、一見すると非常に「わかりやすい」が、実は事態を「わかりにくく」している。
だから共産主義にもっていくためにはまず資本主義をどんどん発展させる必要がある。
なのにクソ馬鹿のレーニンはじめ後続の自称マルクス主義者たちが
マルクスの理論をよく理解せず資本主義の発達が不十分なまま共産主義をやりやがったので
当然失敗して、共産主義は信用を失い、今に至る。