はてなキーワード: スルー力とは
私は刀剣乱舞をやっていて、Twitterでも同じく刀剣乱舞好きな人をたくさんフォローしているけど
「刀剣乱舞がお嫌いなんですか?」というask.fmはTLで見かけることはなかった。
刀剣乱舞界隈ではファンが問題を起こしたり、不用意な発言や行動で揉めたり炎上したりするのがゲーム開始以来日常茶飯事になっているので
件の「刀剣乱舞がお嫌いなんですか?」も、私のフォロワーたちは「ああ、またこの手のアレか」と思ってスルーしたんだと思う。
私もその手の揉め事に首を突っ込むような人はどんどんフォロー解除しているので、(TLが汚い言葉で溢れてしまうので見るに耐えなくなる)
私のフォロワーは総じてこの手の問題に対してのスルー力の高い人間で構成されるようになっているはず。
だからTLで見かけることはなかったんだろう。
だけど、公式が糞だろうが、ファン同士の揉め事がしょっちゅうあろうが、キャラクターに罪はないと思っている。
…そういうスタンスでいる、私のような審神者も多いんじゃないだろうか。
この元増田のエントリも私がよく増田を見るから気がついたというだけなので、私のTLで話題になることはないと思う。
あと、最後に一つ言わせて欲しい。
とあなたは言うが、Twitterの使い方を勝手に決めないで欲しい。
部下に一人化粧する男がいる
最初は「おや?」と思う程度だったが段々キャバ嬢並みに派手になってきた
にもかかわらず誰もそれを指摘しない部内のスルー力の高さが怖い
反応が感情論ばかりで、単にリンチを愉しみたい人だけなんだろうな。
>「失脚させるためにマンガを描きました、って言っているわけだから」そんなことどこにも書いてないのに、どんな“法的根拠”に基づいてそう断言されるのか。/「法は道徳の最低限」という言葉があってな…。
イラストレーターは、あのマンガによって岡田氏の所業が明らかになり、吉本興業と大阪芸術大学から解雇されることを望んでいると明言しています。岡田氏によほど明確な内容の違法性がない限り、これは名誉棄損に相当します。
公序良俗云々で中心的な判例となっているのは保険金殺人の被害者の同意をめぐる事件です。愛人契約それ自体が無効である可能性は高いですが、それとは別途に男女交際が成立することは可能です。イラストレーターが愛人契約に基づいて性行為を強制されない、そのサービスを提供しなかったからと言って損害賠償を請求されないとは言うことは可能ですが、自らの意思で、ホテルに同道し、性行為に及ぼうとする行為は、一直線に公序良俗に反するから、違法であると結びつくわけではありません。イラストレーターの性格や能力による判断能力の欠如は、酩酊状態などの心神喪失でもありません。性格が弱いと言うことは法律で保護されることではありません。しかも、実際には姓行為を拒絶し、それが受容されている以上、当人の判断を害して岡田氏が姓行為に及んだとするにはあたりません。
>その前に「傷つく若い女性が一人でも減る事を望み」という目的でなされた行為は、名誉毀損になるの?
愛国無罪ならぬフェミニズム無罪でしょうか。テロを肯定するならばテロを是とする枠内ならば、テロも犯罪にはならないかも知れませんね。
モラルであればまずは法を順守するということから始めてはいかがでしょうか。
>世界に岡田があふれた場合にはそれなりの法の改正が入るでしょう。ようは良いあんばいを支えてる人達の頭を踏みつけて歩いているってことなのだよ。それがわからないとかチョット頭の悪さに落ち込んだほうが良いよ。
実際のところかなり難しいでしょう。と言うのは、岡田氏的な手法と、実際にはそれに近いけれども社会的には容認されている手法との区別がつけにくいからです。親同士の合意があって娘をあまりのりきでないうちに、嫁がせた場合、優越的な地位に基づく強制性自体はあるわけですが、それを違法とはしていません。つまり優越的地位に基づく強制性は少なくともそれを拒絶した場合に、報復を受けるという側面があり、その報復が心情的なものに留まる限り、そのソフトな強制性と「思いやり/老婆心/あなたのためを思って」云々と区別をつけることが非常に難しいからです。岡田氏の場合は、彼の意に沿わなかったとしたら、編集者を紹介しない、それはサービスを提供する義務がないサービスを提供しないというだけのことなので、それは報復ではありません。「断ったらおまえの作品を採用しないよう、圧力をかけるよ」と言うならば話は別です。
>「法律議論になったら、問題にはならないぎりぎりのところ」<<民事訴訟なら普通に「精神的苦痛」とか認定されうる=岡田が不利な事案だよ? オメコ一発ぐらいで法廷沙汰は無い、と高を括ってるだけの話で。
それが普通とは思えませんが相当する事例を提示していただきたいですね。
>あなたが『岡田斗司夫を叩いている人』たちを叩いている法的根拠がまったくわかりませんが?以下ループ。
私は岡田氏の行為には違法性はないと思っているので、その岡田氏を叩いている人たちが侮辱罪なり名誉棄損罪なりを構成している犯罪者だからだと考えておりますが。岡田氏の行為の違法性をもっときっちりと論じるべきではないでしょうか、それがあるというならば。
>おれはどっちかというと儒より法だと思う人間だけど、それでも法に反していなかったら、倫理的な批判は受けなくてもいいという人はさすがに理解できない。
そうはいっていませんけど倫理的な批判ならば「」付でなされるべきでしょう。
それは分かりますけど。岡田氏には幻滅したのは私も同じです。ホリエモンはまだ岡田氏のためにカネを払うであろうか。払わんだろうな。
>法的にも問題あるだろって反応は全部無視とかわろた 流石スルー力有りますね
あれ?言ってますけど。
岡田批判派の人が出した法的根拠って、公序良俗に反するから云々ってところだけでしょ?後、準わいせつとかなんとか(これはお話にならんですが)。
そもそも愛人契約があろうがなかろうが、セックスをすることはあり得る話です。この場合は、「これからセックスをしよう」と言われて断らなかった。ラブホテルに入るのを断らなかった。これは愛人契約を盾にとって脅迫されたからではないですよね。yellowbell さんがこれに犯罪性があると言うなら、判例を示してください。yellowbell さんがこれは違法だよと言えば違法になるわけではありません。
それとそんなに岡田氏の行為の犯罪性が明白だと言うならばイラストレーターの人はそれこそ刑事告発すればいいのではないでしょうか。
アニメ1話が放送されて、また弓がおかしいと言い出す糞が現れた。
それはいい。5日経ってもまだ同じ話をしている。アニメの弓に突っ込むのはやめましょう!なんて。アニメの弓の話を毎日熱心に拡散しているのは、大喜利でいつまでも正義感に浸っている一般市民だ。不快な情報を一生懸命拡散して楽しい?何十万人も視聴者がいて、一人でも基地外が発掘されれば、毎週こんなことする?
頭悪いというより、急激に成長したためコミュニティの成熟度が足りず、少しでも否定されると顔を真っ赤にしてしまう。アフィブログのいいカモ。今は弓道なら全叩きで良い風潮があるのでそれが使われているが、探せば他分野の叩き台も見つかり、いくらでも同じ手口が使えるだろう。
熟れたコミュニティだといちいち釣られはしない。熟れていく過程は基本的にゆっくりだが、アイマスではアイマス2発売直後に興味深い事件があった。真美のセリフの断片を抜き出した中傷記事をはちまが書き、たいして興味のない人間がアイマスは糞だなと釣られてた件である。いちいち不快な情報に言及して嘘だと熱弁しても全く終わらないので、スルー力を上げないわけにはいかなかった。
最近ストレスマネジメントやメンタルタフネスの話題に触れる機会が多く、改めて「スルーか咀嚼の法則」について書いておきたいと思ったので書く。
「スルーか咀嚼の法則」とは、精神的健康のためには物事に対してスルーか咀嚼かどちらかの態度を選択すべきという法則である。
マインドフルネスに関する文脈ではしばしば無執着こそ正義という仏教的立場が強調されすぎている。(正義と書いたが実際仏教哲学における善悪の概念もそんなようなものである)
また「スルー力」に関する文脈でも「真スルー」が過大評価され、対話的姿勢が失われてしまうことがしばしば発生している。
こうしたことから、スルーだけじゃなく咀嚼も大事じゃね?という素朴な発想が出てくるのも至極当然のことであった。こうして「スルーか咀嚼の法則」は生まれたのだ。
よくスルーは難しいと言われるけど、完全なスルーはむしろ簡単である。中途半端なスルーこそが難しいのである。
つまり、スルーすべき部分はスルーし、反応すべき部分にだけ反応するという丁寧な選り分けがもう、とてつもなくむつかしいのである。
しかし、よく考えてほしいのは、全てを丁寧にやる必要は全くないということだ。明らかに不毛そうだと思ったらばっさりと真スルーで問題ない。
ゴミ砂漠の中にある一握りの砂金など、気に留める必要はない。この手法のことをコンピュータサイエンスでは、枝刈りと呼んでいる。
枝刈りの結果残った部位には、明らかに有益な部位もあれば、有益な部分と有害な部分が半々で混じっている部位もある。
言うまでも無く問題は後者である。有害刺激にイライラしながらどうやって有益な部分だけ選り分けるのか?
ここでリラックスの概念を是非とも導入する必要がある。リラックスなんて知ってるよ。筋肉が弛緩している状態だろ?そう思う人が多いだろう。
しかしストレス医学では、リラックスとは単なる筋肉の弛緩状態ではなく、筋肉を弛緩「できる」状態とみるのが現代的だ。
「嫌なことがありました。臨戦態勢に入るために身体が緊張しました。問題が片付きました。片付いたのにまだ身体が緊張しています。」というのはリラックスしていない。
リラックスしていないから、翌日に疲れが残ったり、嫌な出来事を引きずったりしやすくなる。
リラックスしていれば、必要な時に必要な部分を必要なだけ緊張し、必要がなくなればただちに弛緩状態に「できる」。
精神的に言えば、すぐ平常心に戻れること。タイピングでいえば、すぐホームポジションに戻れること。それがリラックスである。
スルーにもリラックスしたスルーと緊張したスルーがある。リラックスしていれば、枝刈りした部分以外はすべて一旦受け入れることができる。だから取りこぼしが少ない。
これが緊張していると、細々とスルーするしないを選別してから受け入れようとするから、過大なストレスが発生してしまう。
しかも、受け入れずに選別するから、第一印象だけで雑に選別してしまいやすく、取りこぼしや不純物の混入が多くなる。
まずは丸ごと受容する。そして軽く咀嚼してから選別する。そうして選んだ部位だけをじっくり咀嚼する。これをするかどうかでストレス量が大違いなのである。
スルー力が落ちてきているのはあるだろうね。
劣等感や弱みになる部分を持った人が、相対的に自分の地位を上げるために別の属性批判に走るのはよくある。
少し気になってるのは、昨今のチビ叩きは「チビ特有の性格や行動特性」が叩かれているってことかな。
本当にそういう傾向があるのかどうかはともかく。
ちょっと違う。
外見上の批判とか、何かを叩くってのはもうある程度ネットが広まったときからあって、というか普通に人間社会にはどこにでもあるもの。
ただ、そういった場合、グループの属性が分かってれば自分たちのことは叩かない。
話し合ってるもん同士がお互い知ってれば同意を求める様なときにその中で叩いたりはしない。
だけど、何にしろ叩く、ってのは同意を得やすいし、まとまりが出やすい。
だから、ネットなんかだと、馬鹿なことやってたり、犯罪だったり、おかしな政治家だったりを徹底的に叩く。
一方で、チビだとかブサイクだとかも叩く。ただネット外と違うのは、その叩く側に本来叩かれる側のチビだとかブサイクも加わっていること。
それはもう、「叩く」という行為が目的だから、自分を装ってでも他に同意して叩くのが面白いわけ。んで、ネット上だから別に自分の事言われてるわけじゃないしって開き直れて。
ただ、そういったチビだとかブサイクだとか、あまり特定されないものだと同意を得にくいからあまり燃え上がらない
だけど、最近では、その、対面に近い形で、ネット上でも個人情報前回で交流することが当たり前になって来たから、
例え個人情報出してなくても、自分に近い属性を批判されると、たを装って、というスルー力がなくなってきたのでは?と。
散々チビを叩いてる人は、ブサイクについてはものすごく擁護してる。
つまりはブサイク属性として、「チビ」を標的に落とすことしか考えてない。「チビ」に目を向けさせることで、少しでもブサイク属性の地位を向上させようとしているだけ。
こんな風に、「ブサイクはモテる、チビは駄目だけどな」みたいな攻撃は以前はなかった。単にチビを攻めればいいし、ここでブサイク属性を擁護する意味は無いし。
サブカルのほうで持ち上げられてるクラウズをなんとなく見始めた。
ソーシャルネットワークで繋がったみんなが協力することで
それがクラウズという、人の意思からなんか作るらしい。
で、最近やっと、そんなメンツがやっとだいたい揃って初戦闘したんだけどなんか凄かった。
何が凄いかって、実写ガッチャマンが「おれが見えるか悪党どもー!」と叫んでる横で、
見えないのはカッツェ。悪党本人が一番見えない。
カッツェも悪のガッチャマンらしいので、ある意味、そういう伝統を逆利用してるのか。
見えるのは攻撃の触手だけ。
それにのって宮野真守のネット用語満載のフリーダムな奇声をあげ、
ガッチャマンの主人公兼ヒロインキャラみたいなやつが駆け付ける。
達観したKYキャラなんだけど、この状況でやったのは、戦闘ではなくカッツェとの邂逅。
その邂逅が、独特のテンポの間が抜けた会話。絶望的な状況だったそれの空気が変わる。
といっても、空気は壊れてはいない。くだらなさでコーティングされただけで物語の根だとはっきり分かるから。
で、その根の話より、会話が面白い。久しぶりに面白いとアニメで思った。
キチガイ愉快犯のアラシに対して、スルー力の高い大人がネットで対応してる時の会話そっくり。
この感じを凄く良く表現できてる。
でさらに気付く。
中2秒に与えたクラウズという意思を可視化する力
見えないところからボコボコにする様は、炎上被害者の視点から見た炎上なんだと。
これは互いにどうリンクするなんて語る奴が出てくるんだろう。
まあ、こんだけ期待高いと大変だなクラウズ作ってる人。と思った。
次郎という「風立ちぬ」の主人公は、まるで、レイプされても清々しいままの新垣結衣のようだった。
映画の「恋空」ではレイプシーンは、新垣結衣のボタンが1,2個外れるだけで描かれてるんだけど、「風立ちぬ」の戦争シーンも、次郎の帽子が1,2回風に舞うくらいの描写で描かれている。
あと、あれだね、好きになった相手が重い病気で死ぬってのも同じ。
飛行機作りも葛藤があんまない。何回か落ちてましたけど、まあ落ち込んで、あと恋とかしてるうちに、あれまあれまとできて、まあ、飛ぶんですけど。なんていうのかな、葛藤っていうかな、「僕の作った美しい飛行機が、その飛んだ先で殺戮をしている」みたいな葛藤がね、あるかと思いきや、なんかね、「まあ僕は作るだけだ」みたいなね。驚くぐらいのスルー力を見せつけてくれるわけです。女子でいえば「結婚してる人を好きになったわけじゃない、好きな人が結婚してただけ!」並みの思考停止力を発動して、で、次郎の帽子が2~3回舞ったりしたかと思ったら「ゼロ戦は綺麗だけど、1機も戻ってこなかったわー」みたいなこと軽く言って空を眺める次郎に、とっくのとうに死んでましたヒロインが三浦春馬かしら?ってくらいのドヤ顔で空の向こうから「生きて」って言うわけ。いやいやいや、次郎はさ、この2時間、結構ずっとイキイキしてましたけどね。自分の好きなことを好きなだけやって。美しい病気の嫁の唇を貪って、美味しいご飯を食べて。「わかさ生活」のサプリメントでも飲んでるんじゃないかってくらい至って元気そうでしたよ。なのに次郎はさ、もう涙を浮かべてね、「生きねば!」とか言うのね。いや、おめぇ超生きてたから。
それからもう、恋しくなったらアタシ空をみるね、空にはヒロがいるから、BY恋空。みたいな感じになって、で、ユーミンの紙飛行機が流れてました。
次郎、ハゲろ!
この物語は全編が、「美しさ」と「ものづくり」のエゴを、究極にシンプルにして描かれてるんだなと思いました。
ただ「美しさ」の下には醜さが、「ものづくり」の下には破壊があることを、私たちは知っているけど、そこの部分については一切描かれないので、私は気味が悪かったです。
宮崎駿は、あえて描かなかったのだと思います。それには色々な意味があると思うけど、駿だから許されるし、駿だからみんながそこを読み取ろうとしてくれるし、駿だから仕方ないってなってるけど、「恋空」くらい何が言いたいのかわかんないし、あと若干中年の白昼夢を見せられたような気持ち悪さがあった。
しかし一方で、「新垣結衣」くらいメガネの次郎には萌えたし、むしろ棒読みがAV女優の演技みたいで逆に生々しかったし、キスシーンだって恋空くらいあったので、プラマイ0。
世界的に見て日本は一国家としては必ずしも低い評価を受けてはいないが、1人1人の「日本人」という立場で見るに日本人は折衝力が極めて低い民族とみられているのは確かだ。
それは今に始まったことではなくペリー来航の頃から少なくともそのようになっていた。これは長年にわたる遺伝子の取捨選択の結果とするならば、その原因は日本の風土にあると言わざるをえない。
日本人は人に何か強硬な主張をされたり何か痛い部分を批判されたりした場合に、じっと堪え忍ぶ民族と思われている。
それは日本の古き良き付和雷同の文化では個が強く主張するのは好ましくなくて、少しへちまなことを言えば村八分やGoogle八分にされてしまう。
日本の風土を考えるとこれはさも当然のことと言える。底辺校でもデキる奴はデキるように見えるのと同じく日本でも主張の激しい人はいる。それは海外諸国の大多数では平均なのだ。
それが世界から見ていかに奇異に映ろうとうちはうちよそはよそであり郷に入れば郷に従ーえであるからそれ自体は問題ないと言えるが、それに付随していささか厄介な問題が付随しているということを今申し上げているのである。
具体的に話すと日本は何か言われたときに言い返すと基本的にバカをみる国でありだからスルー力がことさらに言われるのであることは想像に難くないであろう。
しかしよくよくつぶさに観察してみれば本当にコミュ力のある人間はちゃんと言い返せる。このコミュニケーション様体をアサーションと呼ぶのが一般的だ。
言いたいことも言えないこんな世の中じゃの言葉通り言いたいことを言えないのが人間にとって一番苦しい。その場で言い返せればいいが言い返せない時は裏で陰口をたたいたり
机の引き出しの奥にしまってある日記帳に怒りとともに激しく書き殴ったりするのが日本風である。それでも我慢を重ねているうちに無駄に耐性がついてしまうのが人間の設計の悪いところ。
人間は我慢というスキルを無駄に身につけてしまったがために、より良い適応のチャンスを失ってしまった。
つまるところ、その場で変に押し黙ったり変に意地悪な態度をとったり変にねじ曲げたりせずに素直に自己主張しなさいという話である。普通に接することのできる人間を人は最も信頼するのである。
だからホームステイなどした人の体験談に頻出するのが日本人はよくわからない人、それも単に変な人やシャイな人という意味ではなく、人として普通に接しにくい人とみられてしまう。
ウメハラの『勝ち続ける意志力』に日常ちょっとでも心に引っかかった出来事はメモすることが推奨されていた。
例えば人と話していて少し不思議なことを言われて違和感をもったとしよう。
ここで何言ってるんだコイツと思うのも、面白いと思うのも自由である。
違和感はプラスの感情を生み出すこともあればマイナスの感情を生み出すこともある。
どちらにせよ違和感に気付けば、そこから思考が始まり違和感を読み解く作業がはじまる。
だから違和感を読み解くことは、これまでの理解を修正する新しい理解が生まれる可能性が高い。
日常気付いていない微小な違和感はたくさんあるが、重要性を感じないからスルーしてしまっている。
反対に、スルーしていると歳をとるごとに違和感の感覚が鈍くなってしまう。
スルー力といえば聞こえはいいが、ちゃんと対象を見極めずに妄想で決めつけてスルーするのは間違ったスルーである。
違和感をスルーしているとそういうおかしなスルー力が身についてしまう危険がある。
自分の理解と合わないものでも無理矢理自分の理解の枠に押し込めてしまう。
それでは何も学びは得られない。古い間違った理解が修正されることなく、現実との食い違いが拡大していく。
その結果、頭が固く融通のきかないオッサン扱いされ、時代からますます取り残されていく。
頭を柔らかくしたいと相談されることがあるが、自覚のあるうちはまだましで、
本当に頭が固くなると自分の頭の固さを認識することすらおぼつかなくなる。
変化や違いに鈍感じゃありませんか?それって頭が固いってことですよ、と言われて初めて気付くのは相当に重症。
まず研究テーマなんかくれなかった。「研究テーマは自分で探すもの」「あなたなら自分でできる」「いざとなったら私(先生)がフォローする」という言葉を信じて、あれこれ努力してみた。
しかし、結局修士をストレートで卒業できることもなく、卒業間際には「私(先生)はあなたのテーマなんか考えられない」「卒業させられるわけがない」「あなたが考えたテーマは私の専門ではないから指導できない」と言われることになった。
しかしなんとか周りの多大なるフォローもあって卒業できることになった。この点だけは感謝したい。しかし、先生からはなんの援助も受けていない・・・実験に必要なソフトやハードですら自腹で用意した。本当に大学院ってなんだろう(笑)って思ったよw結局受けた指導は、論文の日本語を直す部分のみで、研究内容のことなんか一度も指導を受けなかった。
質問なんかしたところで全く答えなんか帰ってこない。二週間~一か月に一度は相談して「研究テーマの決め方が分からない」「どうして○君には研究テーマを与えるのに、僕にはないのか」というようなことを言っても、「あなたなら何とかなるよ」以外の答えなんか帰ってこない。しかも結局何ともならずに卒業できずに留年・・・・内定も結婚も全部おじゃんになった。あれは人生の地獄だったなw立ち直るの大変だったよ・・・
僕の質問力が低かった可能性は否定しないけど、質問しても相手がダメだと何言ってもだめ。
毎週顔を合わせて(輪講が週1であった)「行き詰っている」「こういうことを考えているので論文教えてほしい」「この分野の大きな学会はどれですか」などと聞いてもだめ。具体的な手法や解釈について聞いても「それは専門じゃないからわからない」と言われるだけ。テーマも方針も手法も何ひとつ答えが返ってこなくてずっと絶望してた・・・・・
一度目の就活をして、内定が人よりも早めに出たのだけど、その時の先生の一言が「あなたみたいな使えない人にはピッタリな職業だね」とか・・・・結局この内定は留年で無くなったのだけどね。
留年してからは大変だった。ヒステリーを起こした先生と親が勝手に喧嘩をはじめ、僕が菓子折りをもって関係者全員に謝りに行った。もはや、意味が分からないw
そうなると、当然先生は「もうこんなんじゃあなたの指導はできない」ときた。もともと指導なんかなかったのにねw
そこから僕は「もうこの人は頼りにならない。一人で卒業する」と決めて、実験機材やソフトとかを30万くらい投資してそろえた。先に卒業した人の修士論文を10人分すみからすみまで読み、卒業生のレベルを把握し、「どうしてこれと比べて僕が卒業できないのか」という理論武装を完璧にした。
それまで、すごい先輩の修士論文・博士論文しか読んでなかったけど、クズな修論は本当にクズ。既存研究のデータを変えただけとかざらにある。「あぁ修士ってこのレベルだったのか・・・・」と気づいたときは、もっと早く調べておくべきだと思ったよ・・・・もちろん自分の修論もそのクズに加わったのだけどねw
結局、修論レベル確認したあとは早かった。だって、既存手法を新しいデータに適用して、それにそれっぽい解釈をすればいいというのが目標のベースラインになったので、やることは決まってる。機材そろえるところから、詳しい人(先生ではない)に意見聞いて回ったりして、卒業するまで半年もなかった。論文の中身は我ながら屑だったが・・・・
「あなたは彼女(元婚約者)が出来てからおかしくなった」「あなたのせいで私の立場が悪くなった」「私となかよくしなきゃいけないのわかるよね?」
いやぁもう全く分かりません。
そのくせ、「研究室に残りたかったら残ってもいいよ」とか・・・・・「何の冗談ですか?こんな状況になって僕自身が一番研究向いていないことが分かっていますし、客観的に状況を見て博士をすすめる意味が分かりません」と言ってやったwなんなんだろうかね・・・
他にもいろいろあったけど割愛。
結局は2回目の就活もわりとさらっと就職できて、ちょっと残業が厳しいのは不満だけど、今はそこそこ幸せにしている。
なんか、こんな事件があったせいか、たいていの圧迫とかが平気で流せるくらいにスルー力がついてしまっているので、かわいがってもらってる若手社会人の今があまりにも楽になってる。
正直、質問力が高いとか低いとかではないと思う。いい相手をきちんと見極められるか。その一点に尽きる。僕の修士生活は、研究室選びを失敗した時点で終わってた。
相性の問題もあると思う。卒業出来てる人もいたわけで、驚異的に僕と先生の相性が悪かったという可能性は否定しないです。
ただ、原因を自分に求めて改善するのも限界があるので、根本的に変えるべきこと(先生を無視するとか、上司を変えるとか)もあるということを、この人には知ってもらいたい。
自分は自意識過剰ではないと主張→他の人との違いをアピールしていることになるので、自意識過剰
自分がオタクだと思っている→堂々と主張しているという点で、自意識過剰
自分がオタクだと思っていない→アイツとは違うという思考が働いているため、自意識過剰
毎日更新するぜ!→毎日いいものが書けるとか、毎日人が来るとか思っているので、自意識過剰
気が向いたら更新するぜ!→自分はいい記事しか書かない、という妙な自信があるので、自意識過剰
ブログ論を書く→ブログについて偉そうに語っているので、自意識過剰
ブログ論を書かない→ブログ論書きを突き放しているので、自意識過剰
セルクマをする→自分の記事に妙な自信を持っているという意味で、自意識過剰
セルクマをしない→そんなことをしなくても自分はやれると思っているので、自意識過剰
スルー力を磨くしかないだろう。しかし、「自分は華麗にスルーできるぞ!」と言う妙な自信を持ったら、それこそ正真正銘の自意識過剰である。
だから自意識過剰スパイラルに陥ってしまったら、もう自分が自意識過剰と認めてもいいのではないだろうか?それは、あなたが主観的にものを見ることができている証拠である。独創性あるアイデアや、既存のものに対する新たな視点というものは、あなたのような存在からこそ生まれやすいものである。がんばれよ!