はてなキーワード: スルー力とは
JXUG のポリシーを明文化しました http://jxug.org/policy.html
ほー
それじゃ、散々燃えたのでここら辺のお気持ちが変わったと言うことですかね。
@y_chu5 大丈夫です。ああいうのは一次的なものでわかってる人はわかってます。— 田淵 義人@エクセルソフト (@ytabuchi) 2016年11月26日
@khb02323 あ、コミュニティのヤツは外野がヤンヤン言ってるだけなので私はスルーしてますw iOS/Androidが書けたらXamarinに踏み込まなくても良いかな?って感じるのは良くわかりますが、そこを乗り越えてもらうにはどういうアプローチがいいのかなーって悩んでます。— 田淵 義人@エクセルソフト (@ytabuchi) 2016年11月27日
今日はスルー力が試されるな。— 田淵 義人@エクセルソフト (@ytabuchi) 2016年11月26日
ポリシーを明文化するのと発端になった話にけりを付けるのは別の話だと思うんですけどね。臭いものに蓋をしたまま良い感じの道具だけ置いてみただけでしょ。
.@chomado ぁわわ、そんな話になってたとは。すみませんm(_`_)m
この場でいっときます。
それを言ったのは私です! 断じて、ちょまどさんじゃありません。— 山本康彦@BluewaterSoft (@biac) 2016年11月26日
「ぁわわ」じゃねーよ、これこそ Japan Xamarin User Group のトップにまともな謝罪文として載っけておくべきだろ。起こったことが断片的にしか伝わってないから余計に「あの女エヴァンジェリストはダメだ」って誤解が広がってくんだろ。ユーザグループと、そしてエヴァンジェリストを守りたければ誰が何をやらかしたのか、そしてその人が偉い立場の人であるなら一定以上のごめんなさいを示すべきだろ。
この本( https://www.amazon.co.jp/dp/4106104911 )、ピカソの人心掌握技術の秘密が短いページの中にシャープに考察されている。
要約的なnoteの紹介記事( https://note.mu/hoshinomaki/n/nd998e3cd1998 )を見てフムフムと思い、Kindleで購入して実際に読み始めてみましたらば、ピカソさんめちゃくちゃやったるでな感じでそれこそ芸術家たる(以下略ですなぁ、と感服致しました。破壊衝動の塊魂。
さて、意図的か否かに関わらず、このような不機嫌方略で関係を結ぼうとしてくる『巨匠』は社会人生活の冒険活劇において少なからず存在するのは言わずもがなで、時として不本意にも、本当に不本意にもエンカウンターせざるを得ない、エンカウンターせざるを得ない!わけですが(大事なので2回)、そんなときに武装といえば布の服とひのきの棒しか持っていない、純朴に純粋に、平和を望み穏やかに生きていたい街人たちは、どう対処したらよいのだろう。
不規則に仕掛けられる不機嫌魔法に対しての対抗手段を持たねばならないなあと。それを人はスルー力や鈍感力、大人力と呼ぶのかもしれないですが、そのような魔法はどこで売ってるの、どうすれば身につくの。賢者に転職必要ですか?悟りの書どこ。ダーマ神殿どこ。備えあれば憂い無しなんは分かっちゃいるけど相手は不機嫌魔法の使い手、『巨匠』すからねぇ(大事なので2回)。
しかし、繰り返しになりますが、社会に出てみると、もともとそういうキャラなのか戦術としてそのように振舞っているのか個別性はあるにせよ、やたらこの手の方略を取って仕事してる『プチ巨匠』や、感情面に揺さぶりをかける一連の不機嫌プロトコル、それは時として理不尽な威圧にまでパワーアップすることもままあるわけですが、それらに対して『ガバナンス』やら『マネジメント』やらという名付けを行い正当化している場面などに出会う事が多くてですね。
ステークホルダー間の折衝がこのガバナンスのぶつけ合いから始まってる(ように見える)、もんのすごい不機嫌エネルギーに溢れたプロジェクトもあったりなかったり、そのような生煮えフィールドに魔法まだ覚えてないのにアサインされたりされなかったりで、やめてあげて僕らのライフはもうゼロよ状態になることもあったりなかったりなわけですが、特に直近の転職におきましては、不機嫌の交感もいずれポジティブな連帯に至るとする、カオスを好む社風になかなか馴染めないでいる自分の適応力や心の弱さ、これはもしや何かしらの人間性の欠陥なのかと思い詰めた挙句に、このままではイカン!ということで、今度きちんと異常性がないか専門の心理職に鑑定してもらおうと、心理検査まで予約していたのでありますが。
ピカソさんの方略を知るに至っては、このようなカオスを生み出す、もしくはカオスを感じてしまう・観じてしまうことの原理の一つの解釈として、無意識のうちに手練手管を繰り出す戦術家の魔法のATフィールドに巻き込まれていたのかもしれないなぁ、という貴重な気づきがあり、そんなわけで、期せずして知ったこの新書は、迷える魂において大変に参考になった次第であります。
『ご機嫌うかがい』なんて言葉があるけれど(挨拶に顔を出すというのが本来的意味ではありますが)、時として、このような心理的葛藤を生み出す見えない装置が、組織対組織やその代理たる個人対個人の関係性において、価値交換の社会的プロセスに厳然と潜んでいるわけで、立ち止まって考えてみれば、これって実はフェアじゃないというか、おかしなことだなぁというのが見えてきました。
そもそも機嫌を伺わなければいけない時点で、現代においてはパワハラ・モラハラの基準に照らして検討・判断するべきで、苦痛を感じるような状況にまで関係が悪化・劣化しているならば毅然として対処するべき常識なのであった。そしてそれが商取引やその他社会的な価値交換の場においてはコンプライアンスの名の下に光あれ!(以下略。
とにかく結論として、このようなコミュニケーション特性を持つ相手と不可避的に利害関係が生じる場合は防御策を講じて戦う必要があること、避けられるなら巻き込まれる前にさっさと撤退すること、これらにつきるのだなぁ。
1.ひろゆき・2ch発の「荒らしはスルー。少しでもかまえば餌やりになって増長する」というルールをネットマナーとして浸透させる。なんならスルー力検定を文科省が本当につくればいいよw検定ビジネス大好きだから。もともとはてなブクマってそれができない人のためのものではあったけど、2階建てブクマとかやりようは自然発生したのに、まだまだみんな純朴。
2.小泉政権がゆうせい潰しのためにつぶした労働組合を、もうちょっとまともな形で再生。富の再配分をヨーロッパくらいうまくやれるようにする。あのときの公約されたはずのセイフティーネットは「ない」っていう認識がはせがわ某らをかりたてている。
3.パソコン中級者はhagex本やらトピシュの本でも読んで、グーグル八分とか、ウェブサイトの通報行動を有効につかう
ってあたりですねえ。
「死ぬべきではない」「悲しむ人がいる」「生きたくても生きられない人が世の中にはいる」「個人的に死んでほしくない」など、
おおむね自殺しないでほしい、自殺するべきではない、という返信がつく。
もちろん、「死ぬべき」「死にたいなら死んだ方が良い」などという返信もつく。
でも、どうして、そう言うのか知りたい。どうして人の自殺を止めるのか、その動機が知りたい。
エゴである事が問題なのではない。それはどのようなエゴであるのかが知りたい。
認めると自分も自殺するべきだと思えてしまう状況にあるからだろうか。
また話したいと思うからだろうか。
どちらかというと、生きていてほしいからだろうか。
そう思った時に、次の行動としてとるべきものはどれか?
私は、自分のことを、死ぬべき人間だと思っているが、自分ではそれを選べている気分にはなれない。
人間、どんな言葉からでも自分の欲しい情報を探そうとするものではないだろうか。
人の言葉で救われる人は、人の言葉に救いを見出す力を持っている人なのではないだろうか。
救われるか、救われないかは、事の当人が既に決めている事で、説得者は、あるいは説得の定型は、本当には無力なのではないか。
そうでなければ、鬱になるべくして鬱になる人がいるのではないだろうか。
相手の言葉をそのまま受け止めようとする気持ちは、ほどほどのスルー力無しでは維持が不可能だ。
相手の言葉をそのまま実行しようと努力する人は、大人数の発言を前に、混乱してしまうがゆえに、憂鬱に陥るのではないか。
つまり、自殺を止める言葉は、説得としては、そのままの意味では、
もし自殺を止められたとしても、発言者の意図では、通じていないのではないか。
あらゆる言葉は、自殺志願者のかすかな衝動を引きだすだけのものではないのだろうか。
そうならば、自殺をやめろという説得は、いったい何故行われるのだろうか。
自殺を止める人は、自分の説得を、有力だと思っているのだろうか。
結局のところ、成功した説得の大部分は、誤解や語弊、拡大解釈で出来ているのではないだろうか。
だとすれば、人の自殺を止める人は、それを無力に感じないのだろうか。
人間、生きるために、自分を保つために、何かしらの無視をしている。
自分が生きるためのルールを発見し、生き延びるために利用できる意味の選定をしている。
その人が放つ言葉の意味から逆算して、その人を知る事は、できると思う。
あなたが日常で感じている、生存におけるルール。つまりあなたの生をあなた自身で規定したものが、あなたの言葉を選定しているはずなのだ。
自殺をやめてほしいと願うのか。
あなたには何故、人の自殺を止めたいと思う欲望、衝動があるのか。
あるいは、ないのか。
多分学問的領域では、社会心理学とか、脳科学だとか、文化人類学とか、生物学とか、いろんな方面から、自殺について語られた論文があるんだろうと思う。
多分、大方の言動は、何がしかの研究に分類されうるものだと思う。
そこにあるものを分類することで、何か進展があるのだろうか。
自ら自己を類型化し、分析した上で、死ぬべきではないという結論が、どうして出るだろうか。
そうは思えない。私は今、何を読んでも、自分は死ぬべきだと思う。
自分は、自殺志願者で、人の自殺を止められなかった事がある。その人は未遂に終わったが。
私は衝動的に、他人の自殺を止めようとした。今でも、今から自殺をすると連絡が入れば、警察を呼ぶと思う。
自分は、自殺したい、自分は自殺しなければならない、と思っている。
自殺という概念は、他者に向けた時、自分に向けた時で、相当意味が違う。
他者の自殺は自分にとっての不快感であり、自分の自殺は解放なのだ。
しかしなぜ、自分を変えられるから、あなたは変われるから、死ぬべきではないと言えるのだろうか。
私はいったい、何に変わるというのだろう。
死にたくない状態で生きていられる、あなたの生存ルールを参考にした身体に変わるのだろうか。
自殺を止めようとしたその人が、死なない事で楽になるなんて、まったく思っていない。
ブコメページを見ていると時々「あれ、この○○○って人、もしかして×××という人と同一人物?」と思う事がよくある。
「よくある」と言っても両手で数えられるぐらいしか無いと言えば無いのだけれど。
はてなではメイン・サブ併せて5つのアカウントを使い分けられるのだから別におかしな事では無いのだろうけど。
「何でわざわざそんな面倒な事してんの?」という疑問がわく程度に興味を引く。
プロフィールのページに「○○○は×××のサブアカです」とはっきり明示している人もいるし(滅多にいないけど)、IDで明らかに同一人物と推定できる人もいる(アナグラムになっていたりとか、[id]_sub みたいなあからさまな奴とか)
言及・反応する話題についてもカテゴリ(クラスタ?)で明確に使い分けている人は少数派。
大半の人がそれぞれのアカウントでの活動の分量がさほどあるわけでも無いので「いっそ1つに纏めた方がいいんじゃないの?」と思ったりもする。
気になるのが「○○○は×××のサブアカ」という事について言及する際の微妙な空気について。
空気というか全力でスルー力というか抑止力というか何ちゅうか本中華。
これは「メインアカウント-サブアカウントの紐付き情報は個人のプライバシー」という事から来ている変に微妙な圧力だという事は知っている。
だからってどうって事も無いのだ。「結局お前は何が言いたいのだ?」って言われる事も判っているのだ。つまりは
「あれ?この人どう見てもサブアカで自分のダイアリーのエントリに自分でスター付けてんじゃね?」
「わざわざ別アカウントでレスポンス返してんじゃね?それを皆承知した上でそのまま言及続いてカオス空間の不思議時空じゃね?」
「別アカ同士でフレンドになってんじゃね?」
はてブホッテントリに上がってる半分以上が穴だらけの記事で、そこに躍起になってブクマで指摘するのやめよ?「間違ったニュースをブクマで正す!」とか思ってるのかもしれないけれど、逆効果だから。ブクマが増えれば増えるほどホッテントリに上がって拡散されて間違った情報が世に知れ渡り(一般人はブコメなんて見ないからね)情報提供者は潤い味をしめてまた間違ったニュースを広める、悪循環だよ。「善意の正論!」のつもりでブクマつけてるか「俺のほうが正しい」と思ってるのか知らないけど、それ全部悪影響与えてるんだよ。やめてくれないかな?正しい情報や有益な情報にもブクマは付くけど、逆のほうが多いよね?そうやって間違った情報の拡散に手助けするのが社会悪だってことにブックマーカーは早く気づいて欲しい。気づいているのならやめてほしい。そんなの俺の勝手だろって?そう、これは私からのお願いです。無理強いはしませんから、どうかお願いします。いい加減うんざりするし、ホッテントリの質も下がる一方だし、もうちょっとスルー力を身につけてくれないかな?ダジャレのブコメよりよっぽど悪質だよ?
昔は切込隊長などという恥ずかしいハンドルを使っていたやまもといちろう氏の昔の事を知らない人が増えたのか、ただのおもろい投資家のおっちゃん+たまに告発するおっちゃんぐらいのポジションになってて大変悲しい。
もっと全力でうんこを投げるような、投げ合っている本人は楽しそうだがその飛び散ったビチクソが強烈な悪臭を放ち、近くの人間が片っ端から腐っていくようなそう言う光景を被害がない遠くから匿名の傘に隠れて眺めていたいんだが、なんか美人の奥さんを騙したかなんかした上に二児の父とか、おまけに氏はテレビのコメンテーターになり、善人ぶってどや顔でコメントとか、挙げ句にmixiは復活とかありえんだろ。
経団連の社交場ことプロ野球リーグ、その最大の地雷と評される楽天だかのなんたらとか言う役職に就いたときは往年の全力うんこなげがみられるかと思いきや普通に活躍とかもういい加減にしろ、ネトヲチの楽しさはお前が一番知ってるだろうに何故サービスしないのかと思う。
挙げ句の果てになんだこれは。普通に反社会的企業をつるし上げとか、馬鹿じゃないのか。是非とも反社会的企業だと思ってつるし上げをしたら完全に人違いで、撤退戦も失敗して炎上、そして爆発四散した上、鍛え上げられたスルー力によってサンドバッグになる姿が見たいんだが、氏は全然わかってないよな。
これはその通りの部分もあるけど、そもそも元増田にとっては「女性物の服が楽しい」という一方で、男性物は「永久ベーシック」でつまらんのでしょ。もし元増田が女性だったらつまらん男性物を着る必要なんてなくて、楽しい女性物を着れる。もちろん仮に女性であっても、「スルー力」が試される機会は出てくるけど、女性物を着るときに必要な「スルー力」は着用者が男である場合より女である場合のほうが概して軽微で済む。
少なくともファッションに関しては元増田は女に生まれたほうが抑圧もスルー力も軽微で済んだ可能性が高いし、「性別関係ない」わけじゃぜんぜんない。
女に生まれても全くストレスなく女らしいことができるわけじゃないからねえ。
ブスだったり、そういうキャラじゃなかったり、年齢が年齢だったら、陰で笑われる。
「その顔でその服w」「あいつ勘違いしてね?w」「似合ってるつもりなんだw」「いい歳してみっともないわ」とかさ。
自分のしたいファッションを貫こうと思ったら結構な自信、もしくはスルー力が必要。
パフェ食べてヒソヒソされてくじけちゃうんだったらたとえ女になっても自分が好きなファッションとかできないんじゃないかなあ。
生きづらいのは性別のせいじゃなくて人の目が気になるところじゃないの?