「東インド」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 東インドとは

2023-11-22

JavaJavaScriptはインドインドネシアくらい違う」ってよく言うけど

JavaScriptJavaあやかって名付けられたけど、インドネシアインドあやかってんのかな。

と思って調べてみたら、

という流れのようなので、どっちかというとC++Objective-Cみたいな感じか。

2023-05-17

インドオランダ東インドインディアン、Indisch、Indiesは語源てあるの?

indigene(先住民族原住民)やて

他民族がやって来ると人は先住民族と呼ばれる羽目になる、がしか先住民族のほうから見ればやって来たほうが外来民族なのだ

2023-04-18

TruthGPT、黒船ペリーを弁護

日本人1860年代まで蝋燭を持っていなかったそうですが信じられます

日本鎖国をしていて新技術は輸入されませんでしたからそうでしょう(等々

日本に入れる国が1つだけありましたが、知っています

→それは米国です。1854年外交関係を構築し、1856年にポータン号が初めて入港しました

・? その前の1718世紀はどうでしたか

オランダ東インドです。1639年に出島に商館を立てて1953年まで営業していました

オランダ東インドの船は商船ポータン号は軍艦ですね

→そうです。ポータン号は軍艦日本との外交関係を築くために1956年米国から派遣されました。オランダ東インドのは商船で入港は許可されていました

ポータン号は、大砲を使わずに入港できたと思います

→それは無さそうなことですね。入港を許可できるよう、軍艦で来て欲しいと日本政府から予め要請されていた可能性があります

  

その視点はなかった…w

オランダ米国人フルベッキもいたし否定できない

微妙発言を変えてるのと渡来年が違うけど)

2022-12-30

ステルス外資会社

19世紀においては、海底ケーブルの主導権はイギリスにあった。イギリスゴムのでしょうか原料産地マレーシア植民地としており、元イギリス東インドメンバーが1845年に設立したガタパーチャ社がケーブルの絶縁物質を独占的に販売していた。1901年の時点で海底ケーブルの63%はイギリス製であった。

この力を背景に、イギリス他国電報を盗聴したり、伝達を遅らせたりするなど、外交面でケーブルを利用した。たとえば、1899年ボーア戦争の時に、イギリスフランス南アフリカ電報をすべて検閲し、暗号化された電報通信しないという対応をとった

イタリアマルコーニが完成させた無線技術は歓迎された。

開戦宣言が届かなかったKDD海底ケーブル事件がありましたっけ

ガタパーチャ社は機械調帯も輸出しており日本では代理店山崎商店が造兵廠や大手工場販売

なお被服廠は帝国製糸(英国外資からミシン糸を調達製造しており、ミシン米国製であった

そこでドイツ海軍斎藤実(のち首相)を買収したシーメンス事件も起きたわけである

防衛予算が増えれば再び国際汚職が起きるだろう(もう起きている)

英国報道からすればロシアウクライナ戦争もやる気満々そうだった(ボリス・ジョンソンが)

2022-11-24

ケチャップって元はケチャップじゃなかったんだな

元々はアジア地方(当時の東インド)で作られていた「魚醤」「醤油」の呼び名から来ている説が濃厚らしい。

それがヨーロッパに伝わって「なんか漬けて染み出た汁」に変化した。

そしてアメリカで「なんか漬けて」の「なんか」が当時食用になりつつあったがめっちゃ酸っぱくて美味しくもなかったトメィトゥを漬けたものが主流になり、1800年代に今のトマトケチャップ、いわゆるケチャップの形になったらしい。

 

こういうどうでもいい知識簡単に拾えるのがネットのいいところだよな。

正しいかどうかはよくわからんが。

リアルだと「そもそもケチャップってなんだ?」と思って語源まで拾おうと思うと膨大な手間と時間必要になるし。

2022-11-19

浮世絵技術欧州リトグラフ技術を取り入れたんだろうな

しかし当時の欧州科学医学発達時代であったし、幕府の輸出品もおおむね銅とか金属だった

鉱山に耐える植物を知りたかったのか、1780年代にはツンベルク(ウプサラ大学)、1830年代にはシーボルト(ヴュルツベルク大学)が日本植物誌を出した

ウプサラ大学と旧オランダ東インド提携して、幕府妨害に遭いながらも調査をしていたようである

明治時代欧米蒸気機関車兵器などを日本に輸出する義理なのか、浮世絵もよく売れたようである

2022-11-10

アジアでは中国数千年前から天文学があったが、欧州天文学16世紀ガリレオが祖と言われている

 

しかガリレオカトリック司教らに断罪された

新興宗教プロテスタントには天文学(航海術)を使うヤクザ貿易族が多くいた

一方カトリ傲慢司法族には既得権益があり強かった

そこでプロテは80年戦争を起こし、武器貿易でも儲けた

オランダ東インド証券取引所が栄えてしまいにはアメリカ植民地をつくったそうな

米国中間選挙民主党優勢ってさあ…

2022-05-20

平成5年まれが選ぶ平成邦楽BEST50から漏れた曲。

anond:20220520013638の中に書いてたけど文字数制限で省かれてしまったので別に載せる。せっかくの苦労を無駄にしたくない。

以下、BEST50から漏れた曲。

2021-07-11

為政者目録

物部   (飛鳥前半)

蘇我   (飛鳥後半)    →隋、唐

藤原   (飛鳥奈良・平安)

道教   (奈良

源氏   (平安・鎌倉

平氏   (平安)

白河  (平安)

北条   (鎌倉平氏

足利   (鎌倉室町室町南北朝源氏

島津   (鎌倉室町近代源氏系   → ポルトガル鹿児島大隅国の銃)

醍醐  (室町室町南北朝源氏

細川   (室町近代源氏足利

大友   (室町室町南北朝室町室町戦国藤原

亀山  (室町南北朝

小松  (室町

織田   (室町戦国安土) →ポルトガル

豊臣   (桃山)  →イギリス東インド

徳川   (江戸)  →フランス東インドオランダポルトガル

薩長藩閥 (明治昭和平成・令和)  →イギリススイスドイツイタリアアメリカフランスベルギー

その他閥 (昭和平成

 

中世源氏系と近代薩長藩閥はほぼ同じで長すぎ

殺し合いがないわけではないのに

司法政治が腐敗している

 

2021-01-26

anond:20210126012231

1600年の出来事とされている関ヶ原の戦いは、信憑性の高い一次史料による記録は僅かである

ただ、折から証券取引所設立ブームで、多くの武器商または探検家活動していたことは間違いないだろう

1531年、ブラバント公国アントワープ証券取引所が創立 当時最大の国際貿易港となった この国はハブスブルク領

1565年、イングランド王国ロンドン王立取引所設立

1580年、ポルトガルスペイン併合されリスボン経由の取引が困難に

1600年、貿易会社イギリス東インドが発足

1601年、オランダ株式会社オランダ東インド設立

1602年、オランダ東インドアムステルダム証券取引所設立 株式有価証券取引を始める

結局、オランダ江戸貿易をほぼ独占したと言って良かろう

ということは関ヶ原の戦いが1601年以降であっても不思議でない

もしくはオランダ関ヶ原の両軍から潤沢な資金を得て取引所設立した

2018-06-22

推して参るという表現の乱発はいただけない

カッコいいのはわかるんだけど、サムライ的な設定のキャラ、果ては騎士団長的立ち位置キャラまでみんながみんな推して参るというのはいかがなものか。

ていう話を寿司屋で兄としてたら、

そもそも推して参る」の語源スペイン領東インドでオス=テ=マヒル公爵が現地の酋長の娘との結婚をかけてフィリピン相撲決闘した逸話宣教師を通じて明治時代に伝わり、その武勇あやかって突撃の掛け声として広まったものであるから江戸時代レベル武士的な世界観で使われるのはそもそもおかしいんだよね、

などと大ボラを吹いてきたので、民明書房かよ、つまんねえよ、とあしらいつつ、うっかり本当だったらどうしようかと思って、スマホ検索した。自身を持ってこれはガセ、と断定できぬ我が身の学のなさが悔しい。

2010-07-07

アクション書評  「東インド会社アジアの海」羽田正 (講談社

 サムスンVSソニートヨタVSフォルクスワーゲンナショナルフラッグを体現した大企業間の競争はますます多くなっているが、その起源はおよそ400年前に遡る。それは「東インド会社」。欧州の国を代表する企業がこぞって東アジア権益をめぐって激しい企業競争を行った、そんな時代が過去あった。ヨーロッパ各国の東インド会社はいかにしてアジア交易圏に食い込んでいったか。そして各国の東インド会社はそれぞれのどういった性格を持ち、どうして衰退したか。歴史的でありながら、そんなグローバルビビッドなテーマを論じている。

「第一段階」 ヨーロッパによるアジア市場の”開拓”―ポルトガル人の川上進出―

 当時の香辛料交易は複数の中間業者が介在し、コスト高だった。

カリカットからペルシャシリアベネチア多くの商人運送業者を経て、陸から海へ、海から陸へ、荷を積み替えながら途中で何度も関税をかけられる」(p48)。それを喜望峰経由の交易ルートを開拓し、一気に中抜きしようとたくらんだのがポルトガルバスコ・ダ・ガマ以降、武力によるインド洋海域の制圧(ゴア、マラッカなどの港町を次々と砲撃して交易を強制、異教徒の追放、船の略奪など)を推し進めて、拠点網を整備した。ただしこの航海は原則的にポルトガル王(小国!)の単独事業で、次第に資金や物資調達面で苦しさを露呈してしまう。東インド交易で得た余剰資金も拠点網維持費に消えるという経営のまずさもあった。そりゃあ十分な資金調達とトップラインを安定確保できないまま、先行投資ばかりイケイケだったら誰だって行き詰るだろう、と言うことだ。

「第二段階」 オランダイギリス東インド会社」の参入と、その顛末

 会社形態にすることで広範囲から資金を調達できるようになった。利潤最大化を行う企業でありながら、現地で国が行うような政治的な行動をよくおこなった。18世紀に入ると自由貿易の風潮が高まり、独占の東インド会社国民に支持されなくなっていった。

オランダ東インド会社:1602年設立イギリスの10倍超の資本金スタート

・民間会社だが準国家的な独占事業:事業内容は東インドでの特権的な貿易。加えて要塞建設する。総督を任命する。兵士を雇う、現地の支配者と条約を結ぶことも許可され、国営企業ではないが国を代表して事業できた。イギリスとは違って、株主からの出資金は航海が終わっても据え置く、今の株主会社に近い形態をとった。

株主経営に参加しない:会社の特徴:造船部門まで内部化。経営方針は年2~3回開かれる取締役等の重役から構成される17人会で決定。株主経営参加権をもたない。経営は分権的で東アジアの事業運営は実質的バタヴィアの支社が握った(1年半の情報伝達期間!)。

東南アジア香辛料に事業を照準:ポルトガルが頓挫した方式を見習い、しばしば武力を用いた拠点拡大策を積極的に採用ヨーロッパへの香辛料貿易利権を掌握した。現地政府から力づくで奪い取ったジャカルタを中核拠点に、セイロンインドシナインドネシア中国台湾長崎などに次々商館設置。

・栄華からの急降下。1960年代まで各国の東インド会社の中で最大規模を誇っていた。が、その後業績は急落して1799年に解散する。理由は複数あげられる。1780年に起こった第四時英蘭戦争の影響で、オランダの船はイギリス船に次々と拿捕され大変な損失を被る。また、香辛料がその時期にコモディティ化し始めたため,価格の下落が収益を圧迫した。会計制度の欠陥や帳簿の不備なども理由として挙げられている。

イギリス東インド会社:1601年設立

・民間会社だが準国家的な独占事業:東インドでの特権的な貿易。現地の司法権貨幣鋳造権、貿易活動を守る軍事権、違法貿易船を検挙する権利

比較的強い本部:株主取締役投票権を持ち、経営に参加した(毎年4月に開催される株主総会取締役投票できた)。事業運営は週に1度ひらかれる取締役会で決定される。資本金オランダとは違って1回の航海ごとに株主にすべて分配され、航海ごとに資金を集めた。造船部門はアウトソース

インドの綿織物に着目しオランダ差別化:参入当初はオランダと同様、東南アジア香辛料交易を狙っていたが、経済大国オランダに船の数や武力で太刀打ちできず、しばしばオランダ船にも拿捕される自体に。そこで、差別化のためインド亜大陸の綿織物に着目。拠武力よりもインドペルシャなどの地場為政者に取り入ることで平和裏に拠点網を整備した。

・現地所領当地という多角化が仇に:インド国内の紛争に介入してベンガル地方の徴税権(ディワーニー)を獲得(1765年)。しかし現地の文化言語、慣習も不案内だったので徴税活動は難航した。他方、治安維持などの統治コストは膨れ上がったため、結局、財務内容は急速に悪化していく。その後、1794年に実質国営化。インド中国貿易特権の廃止を取り上げれつつも会社はさらに50年存続するが、1858年のインド大反乱を機についに解散。

フランス(東)インド会社:1664年設立

・後発参入:イギリスオランダ東インド進出を見たフランス政府が”上から”設立株主も王や王室関係者が多かった。イギリスオランダと違って巨大な商業資本が集まるほど豊かな街はなく、自立的な東インド会社の形成はなされなかった。

・東西インド貿易を一体運営:事業的な最大の特徴は、東西インドアフリカ貿易を一体運営したこと。東インドの綿織物で西アフリカ奴隷を買って、西インドに送りそこで作られた砂糖を銀貨に変えて、東インドの綿織物を買う。この円環である。

・国の後押しで急成長:1720年~60年まで絶頂期。後発参入という事業的なアゲインストにもかかわらず、取扱額はイギリスとほぼ同等に達した。

政府主導事業の弱さを露呈:英仏7年戦争に敗北(1763年)したことで、政府財政危機に陥いると資金繰りが一気に悪くなる構造的弱点が露呈。一方、民間資本はクラウディングアウトされていたので潤沢に集まらなかった。そんなわけで1769年にあっけなく解散。


気になった点、疑問など

1、スペインハプスブルク帝国)の活動が目立っていないが、彼らはlucrativeな東インド交易に対しどういうスタンスだったのか。

2、ポルトガルの弱点を当時のオランダイギリスはどう認識したのか。そして、それをいかにして超克しようとしたのか。

3、イギリスの強い本社はどうやって成立したのか。経営方針や情報の伝達環境オランダと大差ないようにみえるが。

4、イギリスオランダの全体経済に占める東インド会社の割合はどの程度だったのか。

5、東インド会社という企業競争勝敗は結局どうなのか。一番儲かった会社はどこなのか。どのような背景によるものなのか。


http://twitter.com/zaway/status/17875881079

2010-05-17

外国人日本経験した心理体験

1978年、私が15歳の頃だった。親が近所の大学客員教授としてアメリカに来たという日本人の子がうちの中学校で1年過ごして、それから日本に帰ったんだけど、やっぱり無性に会いたくなって、おじいさんに夏休みの間に遊びに行かせてもらえるよう頼んだらOKしてもらえた。7月の夜に日本に到着して、ヘトヘトだったけどそれ以上に凄いテンションが高かった。友達とそのお母さんに客室へと案内してもらうと、そこは畳の床で、襖で仕切られた、その家唯一の和室だった。一室だけ和室にして残りは近代的な作りにするというのは、比較豊富日本の家では一般的なのだそうだ。友達のお母さんが部屋の押し入れから布団を出した時、押し入れの中から冷たい空気が抜けていくのを感じたけど、密閉された空間なら外気に影響される事もないだろうと、その時は特に気に留めはしなかった。その日の夜はぐっすり眠れた。

次の日の夜、目が覚めていた私は電気スイッチが消える音や二回の寝室の扉が閉まる音といった、夜が更けていく音を布団の中で耳にしていた。明日はどんな楽しい冒険が待ってるんだろうとワクワクしていると、微かに笑い声が聞こえてきた。きっと隣の家で集まりがあるんだろうと思ったけど、笑い声はどんどん大きく、そして近くなっていく。そしてやがて笑い声は・・・何というか、狂気じみたものになり、徐々に音量を上げつつ耳のすぐ側まで近づいてきた。起き上がって二回の友達の所へ逃げようと思った。目は完全に冷めていた。でも、筋肉一つ動かす事ができなかった。ここで私は子供の頃、日本へ発つまで受けていたヨガのレッスンの事を思い出した。きっと本能的に思い出せたんだろう。ヨガインストラクターは、その名前を口にするだけで負のエネルギーを浄化するという、東インド聖人マナの事を教えてくれた。もう何だろうがやってみようと思い、その聖人名前を言おうとした。しかし、言葉すら発する事ができなかった。恐怖は身を硬直させると私の本能が告げ、この恐怖の中とにかくリラックスしようと、夜の星空の中を浮遊する自分の姿を必死にイメージした。すると、やがて嵐のように乱れた私の周囲に落ち着きが戻り、今度こそ聖人名前を言おうと口を動かした。声に出す事は出来なかったけど、私の唇は微かに「ラマナ」という言葉を紡いだ。すると、あの耳に響く邪悪な笑い声はピタリと止まった。まるでスイッチを切ったかのように。体を動かすことが出来るようになった私は、二回の友達の所へ駆け込もうと思ったけど、何故かもう安全だと感じ、わざわざ起こすまいとそのまま眠りに落ちた。

翌日、友達の友達が私の歓迎会と称したお茶会に来てくれた。昨日起こった事を話すと、それは「カナシバリ」というものだと教えてくれた。霊体等が休んでいる人間にそうやっていたずらをするそうで、日本ではよくある事なのだそうだ。その他にも、子供が寝ている間に頭の向きと足の向きを変えるオバケの話など、日本幽霊の事を色々と話てくれて、私の経験も夢ではなく私が実際に起きていたという事を、特に抵抗もなく怖がりもせず信じてくれた。私の説明からして、あれは何か妖怪の類だと言い、あの笑い声を聞いたら誰だってそう思うだろうと思った。あの笑い声が、前の夜に寒気を発したあの押し入れの方角から近づいてきた事には後から気付いた。

この経験から、たとえ邪悪存在が近くにいても平常心を保つ事は大事な事である事を学んだ。その後に格闘技を学ぶ際に教えられた事も更にそれを裏付けた。かつてチベット僧侶がこのような事を言っていたのを覚えている。「怒っている時に攻撃してはいけない。外してしまうかもしれないからだ」

http://www.yourghoststories.com/ghost-stories-categories.php?category=10&page=1

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん