はてなキーワード: 土工とは
兵庫県知事が炎上してるのは港湾利権に手を付けたからだ、という棘が話題になっているが、それ自体は他愛もない陰謀論だ。
更に「大企業グッドウィルが潰れたのも港湾利権の闇」とかいう陰謀論の重ね掛けにもなっている。
このグッドウィルが潰れた理由と経緯はちゃんと認識されて居ないしWikipediaなどにもちゃんとまとめられていない。どこかで書きたかったので説明するよ。
表面的には東和リース社への二重派遣がトドメとなって派遣業免許を取り消されたと世間に認識されている。
でも結論から言うと戦後労働行政の2本の柱であった建築と港湾への違法派遣を行っていたのが大問題だったのだ。
でも事件の背景とGW社(グッドウィル)の成り立ちと労働行政の来歴を説明しないと意味が判らないはずなので、どうしても長くなるが説明する。
>「売上8000億円のグッドウィルが一発廃業」港湾利権は地面師が可愛く思えるレベルでやばかった
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2433890
戦後労働行政で建築(土木)と港湾は特別な扱いになっていて特に手厚く労働者が保護されている。これはこの二つが前近代的な雇用形態になっているという事と、ヤクザの問題だ。
終戦後~90年代まで、行政は縦割りのセクショナリズムが強く、職分を超えて協調的に仕事をするという事が少なかった。だがヤクザが絡むと別で、ヤクザ対策は国策と言っていい。
ヤクザなんか追い出せばいい、そう思うかもしれないが、それは今だからそう見えるのであって、昔はヤクザとカタギの線引きが難しい職業というのが沢山あった。線引きをしたのは警察で、今は警察の長年の活動後であるからヤクザとカタギの職業がきっちり分かれているのが当然に見えるのである。
そして建築と港湾はそもそもその職分からヤクザが生まれたりしていた業界なので特に不可分だった。
建築土木は請負構造になっていて、仕事の元請けが熊谷組や大成建設のようなゼネコン、その下に○○組のような中小の建築会社、設備会社があって、職工はその中小土建に直接雇用される。つまり実作業をするゼネコン社員は居ない。現場にいるゼネコン社員は監督か設計である(事務所で躯体完成後の図面を書く)。
因みに〇〇組などの会社社員は自社の事を「組」と言ったりする。
これからも判る通りに、ヤクザと出発点は同じだった。片方は裏社会、片方は資本主義に順応して分化してきたものだ。
そして戦後の時点では元請けゼネコン以外の土建はヤクザと未分化の所が多かった。
これらの中小土建の職人も社員という訳ではなかった。仕事を請け負った土建会社は親方に仕事を投げる。親方の下には親方に喰わせてもらっている弟子の職人が居るので彼等が仕事をする。
また土工(所謂ドカタ)など単純労働系の職分だと日雇いの人夫を使う(人夫は差別用語らしく変換候補に出ない)。朝6時頃に手配師のトラックかハイエースが来る場所というのがあり、そこで待っている人間をピックアップして各現場に送る。山谷が有名だが東京だと高田馬場と新大久保間の今は西戸山タワーホームズがある場所も有名で、早朝の山手線から見えた。
仕事が終わる時間に迎えに来て賃金を払って終わり。雇用期間は当日だけ、その日払い。
この手配師は親方だったり親方に雇われてる人間だったりするのだが、この親方は一人頭いくらで請け負って、そこからピンハネして日雇いに渡す訳だ。
そしてこの手配師にしろその上の土建にしろヤクザの舎弟というのが多かった。
そうなると日雇い労働者としては普通の会社の福利厚生というのが受けられない。特に怪我をしたり障碍者になったりした場合ヤバいことになる。
コンテナ船が一般化するまで、内航(国内航路)にしろ、外航にしろ船で貨物を持ってきたら沖仲仕の世話になった。主に手作業、時にクレーンや台車を用いて貨物の荷卸しをする荷役人夫が沖仲仕である。
昔の貨物線は船底から船倉で、そこからクレーンを用いて手作業で岸壁に貨物を下ろし、それを次に載せる船や貨物列車に載せる為の集積所に運搬する。船に載せるのも同じだ。
ただ、付けられる岸壁には限りがあるし、岸壁使用料を港湾長(都府県)に支払わなきゃならない。この金額は結構高い。
そこで艀(はしけ)を使う荷役が一般化した。艀はただの四角く平たい台船で、動力船に引っ張られて移動する。沖仲仕が船から艀に貨物を下ろし、一杯になったら次の艀を付け、とやって列車みたいに幾つも繋げて次に載せる船に付け、貨物を載せ替える。因みにF1カーなどのサイドポンツーンのポンツーンとは艀の事だ。
この場合、艀が資本であり、艀を持っている人間が親方となって沖仲仕を使役するという形になる。
で、この沖仲仕だがやはりヤクザと不分明であった。特に戦前から戦後すぐまでは土建と同じようにドヤ街近くでピックして人を集め艀や岸壁に分配していた。
この沖仲仕の親方から巨大暴力団になったのが山口組だ。これ以外にも港湾近くにはヤクザの組や右翼団体が多く、その事務所は陸の上だけでなく係留されたボートハウスにある事も多かった。
港湾近くには「〇〇水上警察署」という警察署があるが、これはその名の通り、こんな訳で事件やトラブルが頻発する港湾の水の上を管轄する警察である。現場が艀や船の上なのでパトカーはおまけで、主な移動手段はパトボードであった。
この事情は海外でも同じで、ギャングというのは沖仲仕の班を指していたが、そこから犯罪者集団化したものが現れたので、犯罪/虞犯集団の事を指すようになった。
沖仲仕も土建と似た構造と利害関係にありヤクザとの関係も似ている。
そこで労働行政の重点項目になった。目的は日雇いが多い労働者の保護、特に労災時の保護と、ヤクザからの切り離しである。
その為に日雇いは原則禁止となった。しかし船会社や倉庫会社が艀の親方に仕事を発注し、その親方が人夫を連れてきていてそれが日雇いという体なのであまり効果はない。
だが沖仲仕のこの構造は一気に無くなって殆ど解消してしまったのだった。それが
コンテナ化へのシフトで、人力での積み下ろしからコンテナ輸送に切り替わってしまった。荷主が倉庫でコンテナに入れて埠頭に輸送し、岸壁ではそのコンテナをガントリークレーンでコンテナ船に積む。
すると必要な人手はクレーンオペと場内の車両誘導整理、フォークリフトでのコンテナ移動がメインとなった。これらは日雇い人夫に出来る仕事ではない。故に手配師も必要が無い。
という事で、沖仲仕の保護の為の労働行政特別扱いの根拠というのはかなり解消してしまったのだ。
だが、行政としては別にそれによって困ったことが発生しているでもないのに前例主義を止めるつもりはない。
だからこの労働者保護、使用者から見たら規制はまだ生きていて現用である。これが大事なポイントだ。
また解消されたとは言っても、港湾内倉庫でコンテナ移し替え(海コンから鉄道コンテナなど)のような仕事はまだあり、そこでは沖仲仕時代と同じ作業が行われている。
更に、今では一般的な港湾労働者が居るのは、港湾長が管理する埠頭近辺だけだが、元の規制趣旨から言って規制対象域はもっと広範囲に及び、明白な区切りはない。これも大事なポイントだ。コンテナ化で港湾長管理域だけに労働が集約されたにすぎないからだ。
・EV車普及の影響
→廃棄ガソリン車の鉛バッテリーや鉄鋼、ステンレスから生じる有毒スラグ(鉱さい)がリサイクル建材の原料になることが増えることが予想される
→スラグは1974年には、取扱事業所が全国532所あり300万トンが全国各地で埋立処分となったが、今は99%がリサイクル
→建材試験センター「土工用製鋼スラグ砕石」規格は、鉛・六価クロム・セレン・フッ素・ホウ素の溶出量基準と含有量基準を定めている
→群馬県で大同特殊鋼(2014、強アルカリ性)、千葉県で新日鉄住金(2016、強アルカリ性)、群馬県で東邦亜鉛(2019、鉛・ヒ素)
・コトワザ「急がば回れ」
大正生まれの祖父は、坊主頭でメガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子である父から聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。
対照的に祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。
祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父の遺影はインテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真の遺影の人でしかなかった。
そんな祖父の遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父へ政府が贈ったものだ。戦後、日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父は戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。
去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父は戦後も抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎の山中にある村で、家業は農家という典型的な家だった。時代が時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。
その頃から興味が沸いていたんだと思う。
遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。
私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日、実家で終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。
兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父は陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要なものは、対象者が故人の場合は申請者との繋がりがわかるための除籍謄本と戸籍謄本といった、役所で簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。
まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父の戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言の事実のみであるのだから。
当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。
読み解いてまず驚いたのが、祖父は1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州で国境警備をしていたらしい。大きな作戦や戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。
次に驚いたのは1944年2月、祖父は除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父が満州で終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父の人生はガラリと色を変えた。
千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。
千島列島といえば、日本の降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島(ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵、終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。
お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島にソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前で漠然としているだけで、よくわかっていなかった。
どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。
祖父のいた部隊は結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。
得撫島はもとより、千島列島は自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい、今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空からは米軍の攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれて沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。
得撫島はラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意の戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずにはいられない。
兵籍簿には、祖父の召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的な情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。
古ぼけた紙は語っていた。戦争は8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ、祖父は戦後も長らく闘い続けていた。自分の血縁者である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父の存在への深みが増した。
シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気が流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ。戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。
祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去な抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父は日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷の山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。
ここでは政治的な話はしない。
兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父の存在がぐんと近づいた。存在そのものを実感した。祖父はちゃんと生きていた。過酷な時代を生き抜いた。ドラマや映画の主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷な環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和な世界でツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。
兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分の流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。
仏間へ行き、再び祖父の遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影は漠然とした無機質なものではなく、凄惨な時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。
そんな話はどこででも聞けるのだけど、現実問題として技術者及び職人の不足と公共事業の増加でミスマッチが起こっており、どうにか現場をやっつけないといけないということで日本中で奮闘と徒労、場当たり的な対策が積み重ねられていく。
最近はもっぱら省エネ化に技術が特化しているのだけど、例えばドローンを使った測量、簡易化された積算方法、無人で動き、あらかじめインプットされた計画図に合わせて土工を行う重機群なんかがどんどん広がっている。
これらの機能自体は意外に簡単に使えるので、初期投資さえできれば(リースでもいいが)技術の発展に伴って回収も可能だろうとは思う。
が、この新技術群は簡単とはいってもやはりそれまでの技術を追いかけてきた人材にとっての話である。
昔からいて、作業員と一緒になって汗をかくことが仕事の名ばかり代理人や基礎のない新人にとっては仕組みがさっぱりわからないらしい。
なんというか、この最新技術の先鋭化が、今まで土木業にいた人間の半分くらいを振るい落としそうで恐ろしい。
もっと進めば僕もおいて行かれるかもしれない。
人手不足を解消するための技術革新ではなかったか。ハードルが高くなっていることで新規参入が減り、戦力外が増える。
結局、技能を身に着けた人が日本中の現場を駆けずり回って、対処し、一人だけ経験値を貯めていく。
初期のコンピュータもそうだったのかな。
ほんだら ワシのホンマの仕事を教えたろか
ニコヨンいうても わからんやろな ニコヨンいうたら土方のことや
スポーツ新聞の求人欄で土工とか人夫とかで募集してるやろ あれや
昔はニコヨンいわれてたけどな 今では日給で12000円から14000円くらいやで
なんで 金に幅があるんかわな ピンハネの度合いや
直でやったら 13500円でも 飯場通したりすると12000円(ワンツー)とかになりよるんや
ワシらが やり始めたときは8000円とか9000円とか1万以下やったけどな
バブルの時に 一気に値上がりしよったんや
あの時は ホンマに景気がようてな とにかく人夫が足らんかったんや
そやから 手配師とか番頭があっちこっちから人間かき集めてきとったんや
それでも 足らんかったんやで実際
そういう時にも タコ部屋ができるときもあるんやけどな
(タコ部屋については またあとで 教えたるわな)
夜勤いうて 晩方から朝までの仕事やったら 日当は昼間の2倍くらいあるで
体力に自信があるもんは 通しでがんばってや ワシは堪忍やで
日雇労働者のこと 労務者
昭和24年 「緊急失業対策法」の施行により職安を通して日雇労働者を受け入れた
その定額日当が当時240円だったので そこからきている
そういう仕事にどうやってありつけるか いうたらな
そやけど ワシらも含めて ほとんどの人間はセンターからの斡旋やな
センターいうたら 西成のあいりん総合センターや 環状線の新今宮駅の近所
南海電車の新今宮駅の下や 俗に言う釜ヶ崎やな 西成でも霞町でもエエで
そこで 窓口にはられた 求人の紙を見て選ぶんや
ほんで センターの横付けしとる ワンボックスかマイクロに乗り込んで現場へ行くんや
そのバスのフロントガラスにも おんなじような 仕事内容の書いた紙が貼ったあるからな
それで 選んで乗り込むんや
まずは その人夫出しのとこか飯場へ行くんや
(この人夫出しは「ニンプだシ」と「だ」にアクセントがあるんやで)
飯場についたら まず朝飯や 粗末なな
全員同じ現場いうことはまずないで あそこは5人 あそこは2人とか
そうやって振り分けするわけや 飯場は現場とは直接関係ないからな
人夫を斡旋するだけやから 人材派遣業になるんとちゃうかな
ワシらのかっこ言うたらな 昔はニッカーボッカーで地下足袋がトレードマークやったけどな
今は普通の作業ズボンにジャンパーやな これも季節によるけどな
絶対 半袖のシャツでは作業せんで なんでかいうたら 日焼けや これが 体力奪いよるんや
靴も一足580円くらいの スポーツシューズで マジソンバッグみたいなもんに
(これはどんな現場にも対応できるようにや 通常=足袋 生コン等=長靴)
最近の作業ズボンで文句言いたいのはな あの 足首までぶかぶかのズボンや
ワシのは ちゃんと足元にまとわりつかんように ゲートルみたいになっとるやつやけど
あんなもん なんの意味があるんや 余計に危ないやないか
流行やろうけど 機能美が全然ないやないか ぶさいくなだけや 腹立つで
仕事の内容いうたら いろいろあるで もちろん 建築関係がほとんどやけどな
まず ホンマの土方やな スコップもって穴ほったりするやつや
今時はユンボ(土すくう アームのついた機械や)があるさかい ユンボが使われへんとこ
つまり 隅とか いりくんだとことかの 穴掘りやな これが 汚れるんで いやがる人間もおるな
他には 解体屋の手伝いやな 解体屋が家とかビルとか壊しとるやろ
その手伝いとか その廃材を ダンプに載せる手伝いとかやな
あの 道路工事とかで見る ガガガガいうて 道路の穴開ける機械 チッパーいうねんけどな
それも やらされるで あれは 目にカスが飛んでくるからな 防護めがねは必需品やで
ここで ワシはエライ目に会うたで
箕面の風呂屋の解体に行ったときに 柱を引き倒すから 柱の上にロープ結んで来てくれ
それに ほとんど壊し終わっとるから 登る足場もぐらぐらなんや
そんなとこに 登らせるないうねん ワシは鳶(とび)やないで
あとで 文句いうといたけどな
という具合にな ワシら土方はなんでもできる万能選手なんやで
実際 ええように使われてるだけやねんけどな
その分自由というもんがあるんや 働きたい時だけ働いて 休みたいときに休む 何者にも縛られへん 自由がな
ホンマはこれがあかんねんけどな これに浸かってしまうとな なかなか 一般人には戻られへんのや
しかし わかるやろか この感覚 今自分にあるすべてのしがらみからの開放
親や兄弟 妻 子 友人 近所 上司 同僚 得意先などなど 諸々の自分にとって大切であるからゆえのしがらみ
自分が自分であるためのつながり こういう 一切のもんからの開放や
あるときは 自分を救ってくれたりしてくれるんやけど その反面 多大に自分を苦しめ 制約するもんや
完全な自己完結の世界やな ある人は自由といい またあるひとは 負け犬のねぐらとも言うな
まあ 一遍 その世界から抜け出して見るのも ええかも知れんで
そうすることによって 自分のホンマに大切なもんが見つかるかもしれんしな
(全部が いらん いうこともあるかもな)
平々凡々と暮らしとったら 本質を見抜く目ぇが 雲ってしまうかも知れんのやな
当たり前と思ってることが なんでそうなんかが 分かるかも知れんで かもやで かも
そやから そこいらでゴロゴロしてるおっさん 見かけても 乞食 とは違ういうことを認識してや