はてなキーワード: 俳句とは
愛があろうがなかろうが、文章を書けないって配偶者は詰んでいる。
結論から先に言えないとか、枝葉末節がいい加減とか、組み立て方が全く違うのも辛いけどさ。
別に論文みたいに理路整然と根拠のあることしか言わないとか、そんなんでなくても良い。
俳句の一つも嗜んでいなくても良い。
Twitterが趣味でなくても良いし、はてブで辛辣なコメントを入れるとか、ヲチャーでなくても良い。
ヨークシャー・テリアとかどーでも良い。
流石にカタコトだと困るけど。
主題の異なる話題2つを混ぜて書かれたら何で嫌なのか、そんなことすら意識できない頭。
「4コマ漫画」は「コマが4個並んでいる漫画」とは違うんです!
俳句が、ただ五七五のフォーマットに従っているだけでは駄目で、季語を伴っていないと俳句と呼べないように、4コマ漫画も「起承転結」を土台に組み上げられることではじめて「4コマ漫画」と呼べるというのが私の考えです!
じゃあそもそも「起承転結」って何なのよ、と言われそうなので、私の考える「起承転結」を説明したいと思います。
例えば
{1, 2, 3, 4, 5}
という数列があったとします。皆さんはこの後に 6 が続くだろうと予想しますよね?
そこで
{1, 2, 3, 4, 5, 8, 9, 15 ...}
と続きを見せることで、読者に「あれ?予想と違うぞ?」と思わせます。これが「転」です。
事前のストーリーの流れで何らかのパターンを作っておいて、そのパターンをがらっと変えるのが「転」の役割です。
「承」で「{1, 2, 3, 4, 5} と来れば次は 6 だろう」と思わせておき、「転」で 8, 9, 15 と流れを変えて「あれ、おかしいな?」と思わせて、最後に
「実はこの数列は、A(n) = n ではありません。正解は
『n および n + 1 の約数がすべて 5 以下となるような自然数 n を小さいものから順に並べたもの』
でした!」
という種明かしをして「なるほど!(スッキリ)」とさせる、これが「結」の役割です。
和音進行で例えると、ドミナントコードの不安定な状態から、トニックに推移して解決するという構造に似ています。
もしも「転」で「あれ、おかしいな?」と思わせなければ「結」の種明かしのオチが活きてきませんよね。
「転」が充分に機能することで、はじめて「結」の面白さが出てくるのです。
もしも初めに見せられた部分数列が {4, 5} の二つだけだったら、
{4, 5, 8, 9} ... と続きの数列を見せても、あまり「あれ?」という感じにはならないですよね。頭の中でパターンが出来ていないためです。
はじめに {1, 2, 3, 4, 5 ...} というまとまった長さの数列を見せることで、はじめて読者に「次は 6 が来そうだな」と思わせることが出来て、「転」に繋げることが出来るのです。
このように、読者の頭の中に何らかのパターンを想起させるのが「承」の役割となります。
「承」が充分な力を持っていないと「転」が死んでしまいます。当然、それにつられて「結」も死ぬことになります。
なお、一番シンプルで分かりやすい「承」の作り方は、「似たような場面のコマを2つ連続させる」などが挙げられます。(サザエさんによくある)
既に「承」「転」「結」で言いたいことをほとんど言ってしまったので、「起」について特筆すべきことはないのですが、敢えて役割を定義すると
と言えます。さきほど、与えられた部分数列が {4, 5} だけだと「承」が活きてこないということを説明しましたが、「承」を活かすための情報({1, 2, 3})を渡してやるという重要な役割を担っています。
以上で起承転結それぞれの役割について解説しましたが、これらの要素がそれぞれ独立して生きているわけではなく、相互作用をすることではじめて全体として意味をなすこと、どれか一つでも欠けるとその他の要素がすべて死んでしまうことがお分かりになるでしょうか。
この考え方を意識しながら、あらためてサザエさんやコボちゃん等を読んでみてください。話そのものが面白いかどうかは別として、構成がきちんと「起承転結」を意識して練られていることが分かるのではないかと思います。
このエントリで言いたいのは「もっと起承転結を意識して4コマ漫画を構成してほしい」ということであって
ということでは決してありません。
また、起承転結のいろはを充分に理解した上で、敢えてそれを崩す(守破離)という手法も全然ありです。
例えば1コマだけでストーリーのコンテキストを読者に存分に伝えられる能力を持つ漫画家であれば、「起・承」を一つにまとめた3コマ漫画というフォーマットを確立することも出来るでしょう。
最終的には面白ければ何でもありなのですが、少なくとも基本的な型はマスターしていて欲しいです!
クラシックでは、ハイドンやモーツァルトが交響曲の型(ソナタ形式・緩徐楽章・メヌエット・ソナタ形式からなる四楽章構成)を作り、ベートーヴェンなどがその形式を追従しつつ声楽など新しい要素を取り入れ、マーラーが交響曲の体裁を保ちつつフォーマットを大胆に崩す、といった歴史がありますが、それは交響曲というフォーマットが充分に確立されていたからこそ出来たことなのです。
地元の俳句サークルか何かの推薦句一句が載らなかった、掲載を拒否されたと報じられた。
俳句を知らない人が見ても、たぶん良い句とはお世辞にも言えないだろう。
そんな句を一句だけの枠に掲載したら、嫌でも公民館の月報に党派色が出てしまう。
なぜそんな凡作を、一句のみ掲載の枠へその自称サークルが推薦したのか。
「梅雨空に『九条変えよ』の女性デモ」だったら、果たして同サークルの人々は推薦したのか。
俳句を巡る界隈に存在していることはどうやら間違いないらしい。
東京新聞:終戦記念日対談 金子兜太×いとうせいこう:特集・連載(TOKYO Web)
金子兜太先生はサークルがオルグ用の団体である可能性を考えもなさらずに
週刊俳句も、過去記事をちょくちょく読ませてもらっているが、その記事の中から。
週刊俳句 Haiku Weekly: 金原まさ子さん103歳お誕生会
別に金原氏は左派でも何でもない。問題は、聞き手の週刊俳句の中の人々の一部。
「原発、動かさせない、戦争に向かわせないためには、すこしでも、勝てそうなほうへ入れる、となりますか。」
「戦争を起こすぞ、どこそこへ攻め入るぞ」という事を、誰か言っているだろうか。誰も言ってやしない。
原発をどうするという話はこちら日本の政権が行う話だから、それを考えて投票するのはまだ解る。
だが、戦争に向かわせないというのは話が違う。今現在の日本周辺の事情を見て、
日本の側が他国に戦争を起こすか、また日本が中国などの他国から戦争を仕掛けられるか、
まともな知識と判断力を持つ人間なら、どちらがあり得ると思うだろうか。
日本だけでどうにかなる話と、日本だけではどうにもならぬ話を並列で書くことが理解できない。
俳句に関して知見あるはずの人々の中に、国際関係のニュースすらまともに判断できず
日本悪玉論に固執し続けてる人がまだいるのは嘆かわしい限り。
だが何より痛々しいのは、右派的な事柄を発言する俳人が見当たらないということ。
これが短歌なら「正論」に連載を持つ福島泰樹氏がいらっしゃるのだが、
自分が知らんだけで実はちゃんといるのだろうか?
総理 花見で一句 「賃上げの花が舞い散る春の風」を、某番組になぞらえて解説してみましょう。
まずは季語。
次に、意味の重複ですが、舞い散るのは花にきまっているので重複、同じく風がなくては舞い散らないのでここも重複です。
花に賃上げを無理やり例える比喩も、あまりキレイとはいえません。
こうした点から、安倍首相の評価は才能なしに認定(政治能力ではなく俳句についてです)されるのが妥当と言えます。
それでは手直しをしてみましょう。
風が吹いて花が散っていったのですから、”花吹雪”が順当ではないでしょうか。
そして最後にこの句を読んだ意味を伝える必要がありますので、その理由を付け加えると以下のようになります。
安部首相の隠し切れない真意が春風に誘われ思わずほころびだしてしまうような躍動感を生み出すことが出来ました。
おそまつさまでした。
中学三年間で集中して詩集を読む。海外の古典。シェークスピアなど。
創作は、思いきって漫画を描く。早めに画材を揃えて漫画友人を増やす。
高校三年間は、古典の小説に移行。日本文学でも、海外文学でもたくさん読む。
流行の漫画はあまり繰り返し読みしない。もっと多くの漫画を知り、多くの漫画家を知る。
大学では、バイトで金をためて、流行りだしたバックパッカーで海外旅行。
東南アジアなどをうろつく。出版社持ち込みなどの暴挙に出るのもこの頃。
社会人では、もっぱら趣味で漫画と小説、時々油絵や刺繍など趣味を広げる。
もしもその名前が漢字1字の子が結婚する時に名字が漢字1字の物に変わったら、名字1字+名前1字になってバランスが悪い。
そういえばこれのせいで私の小学校の時の担任の先生はからかわれていました。「フルネームが僕の下の名前より短いじゃ〜ん」てな感じで。
読みが2字の名字+読みが2字の名前も同様で、フルネームで読んでみるとなんだか歯切れが悪い。
俳句や短歌が5音と7音で構成されているように、不思議と5音や7音の言葉は歯切れのよい物が多い。字余りの6音や8音もそこそこ。
名字+名前の音数をどんな名字と組み合わせてもも5音から8音の間に収めようと思うと、日本の名字は2音〜5音のものが大多数なので3音の名前をつけるのがベターなんでしょう。
国語のリーディングが極まってくると、共感覚的な何かに触れることって、あると思う。
身近な例で言えば、
・小説を読んでいると、リアルに音声(会話だけでなく、砂利道を走る音、ざわめき、等々)が再生される体験をしたことがある。
・文章を読んでいるとき、ふと気づくとあり得ないような速度でページをめくっている。ものすごく集中しているとき。そういうときは、
どうやら、一語ずつを目で追っているのではなく、それを書いていた筆者の「意識の流れ」のようなものを追体験しているみたいな感覚。
・短歌とか俳句に、ときどき「あり得ないほど」感動する。一瞬で映画を全部体験するみたいに、一瞬で感動が押し寄せて、去っていく。
・びっしりと文字が書かれた書類の一箇所のふっとした誤字に一瞬で目が止まる。「多分この辺にあるだろうな」と思ったところに誤字がある。
音楽で不協和音が一瞬にして感知できるように、言葉の波の乱れが一瞬で感じられる。
…などなど。せいぜい「セミプロ」クラスくらいの自分でもこういった感じはあるので、多分「プロ」の人なら、もっとすごいエピソードがあるんだろう。たぶん。
ソースはググればすぐ出るので、書きませんがまとめ。
これは有名。若手起業家フォーラムに参加した縁で当時首相だった小泉純一郎がはてなダイアリーを一日使ったことがあるのはニュースで見た人も多いはず
こっちも結構有名。1か月ほど使っていました。
キングメーカー小沢一郎は、ブックマーカーでもありました。ブックマークは10件ほどの囲碁サイトのみでやっぱりとも失望ともな雰囲気でしたね。
はてなハイクってそもそも村民でも知っている人多くないような。ともかく、俳句という名前が気に入ったのでしょう。数度投稿しています。
こちらは、成りすましの可能性がありますのであげるだけ。はてなブログにはあまり著名人はいませんね。
今ならYahoo知恵袋でやふれよという突っ込みで埋まるでしょうが、当時はブロードバンドの値段に対してどう思うかをきちんと答える書き込みで賑わっていました。
日本人と欧米人の骨格について質問していた当時の錦織圭に対して、はてなーのお兄さんお姉さんは総合的な優劣は存在しないことを説明しました。
こう思うと、アメブロと聞いて途端に卑下することとかはやりすぎな気がする位、大手なサイトな気がしますね、はてなは。
まぁ、facebookと聞いたら逃げ出さないといけなそうなので、そろそろ世界的に有名な米国人の○○が、はてなを利用!とかなってほしいものです。
自尊心云々はさておき、はてなの利用規約で他人の著作権を侵害する行為を禁止しています。
http://www.hatena.ne.jp/rule/rule
ブクマのコメントに著作権が発生するかどうかですが、100文字より短い俳句・短歌に著作権は「有る」とされてる以上文字数は問題無いでしょう。あとは法律の「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」に該当するかどうかです。全てのコメントに著作権があるとまでは言えませんが、条件さえ満たしていればコメントも立派な著作物であり侵害してはいけないものとなります。
そしたら後は「はてなの利用規約は正しく運用されているかどうか」です。利用規約に同意し守ってるユーザーが保護されるか、利用規約に反しているユーザーがやりたい放題なのか。今回の事例では後者になってるから納得いかないってのが元増田の言い分でしょう。
トデス◯自体については言及をしない。
ブコメやその他ひとことで、
「いい話だ」
「いい話っぽい」
って簡単に良く言ってるヤツ、すげぇ、ダセェと思う。
的外れすぎる。
いや、いわゆる「いい話」じゃない話に敢えてそう言ってるのは分かるのよ?そんくらいは。
フリが全然効いてないのに堂本剛みたいな「オレおもろいでしょ」ってな顔で、
しょうもないジャブ出してジャニーズ的しょうもない笑いを鵜呑みにしてるが如しい。
例はこれだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140415-00000011-kobenext-l28
そういうの、よくないよ!
「ビートルズってオリジナリティあってすごく良いんだよね〜」ってしたり顔で言うぐらい
高卒のオレでも重んじてるんだからお前らには余裕だろ、この野郎。
「オレ、俳句読むの趣味なんだよね」って言いながら季重ねしまくるぐらい傍ら痛いわ。
なぁ、正直に言えよ?「僕はうまいこと言えません」ってよぉ?
誤魔化すなよ、なぁ?つまんない自分を誤魔化すなよ?
「いい話」なんて高等なひとことを言えるのはよーく訓練を積んだ、
つまり、えの素みたいなシュールギャグの基礎をちゃんと押さえたやつだけなんだよ。
西暦2037年、俺は退職金を切り崩しながら、細々と年金でひとり暮らしをしていた。妻には6年前に先立たれた。平均寿命が90年にも届こうという時代であってみれば、ずいぶんと早くに死んだものだ。不摂生の極みのような生活を送っていた俺が生き残り、日々きちんとした生活をしていた妻のほうが召されていくのだから、人生というのもなかなか理不尽なものだ。
そんな俺の日々の慰めといえば、エロゲしかない。もともとオタの第二世代くらいにあたる俺の世代は、二十代で鍵ゲーの洗礼を受け、その後も世代が持ち上がるのにあわせて「我々の世代」向けのメディアが常に存在していた。俺のように貯えらしきものもあまりなく、かつかつの生活を送っているものもいるだろうが、その一方で、日本が名実ともに先進国だったころの最後の余慶があったのも俺たちの世代で、うまいこと逃げ切って余裕のある生活をしているものもいる。
なにより俺の世代は、趣味に金をかけることをさほど厭わない。これが俺の下の世代になると、すでに日本に未来がないという前提のもとで十代、二十代を送っているし、それに、あれはニコ動だったか、ああしたものが登場してから、娯楽は無料であり互恵の精神で相互に提供しあうもの、という意識が育ちつつある。2010年から今年で25年、「素人の時代」ともてはやされた時期を通過して、いまやエンターテイメントは、無料のコンテンツに収益を載せる構造が完全に成立している。
そんな状況のなかで、いまでも「金を払って」たとえばエロゲのようなコンテンツを買う俺の世代は、上客には違いないわけだ。ただ、雰囲気としては商売というよりも、かつて俺が十代を過ごした「同人誌」の世界の雰囲気と、いまのエロゲ業界は似てきているようにも思う。よくも悪くもサロン的な空気がただよっている、というわけだ。
還暦を迎えた俺たちの世代は、エロゲを通販で買うことはあまりしないようだ。これはおもしろい逆行現象だと思う。ソーシャルメディア全盛の時代を経て、俺たちの世代では「ネット経由の知人」を持つ人間が多い。にもかかわらず、こんな業態が細々とでも続いている理由は――決して認めたくはないが――さびしいのだろう。
見かけるようになったのはここ10年くらいのことだろうか。最初は古本屋からの発展形だったと思う。滞在時間が長く、現金払いで直接儲けにつながる客に、休憩スペースを作ったり、茶のサービスを始めた、というのが原初的な形態なのだろう。いつしかそれは、初老のオタ世代の溜まり場的なものとなっていった。
オンラインで呼吸をしていたような俺らの世代が、最終的にオフラインに慰めを見出すようになったのは、この年になってくると、コミュニケーションというものは、やはり顔と顔をあわせなければ通じない、というつまらない真実がひしひしと感じられるようになってくるからだろう。
あれほど夜型の生活をしていた俺も、朝5時となると目が覚めるようになった。軽く散歩をして、朝食を取り、朝7時となると近くのショップに顔を出す。
目が覚めるんじゃない。単に眠りが浅くなっただけか。
俺は自嘲的に思いながら、家を出た。
「よう」
木のテーブルとコーヒーの香り。流れるBGMは、この季節だ、夏影に決まっている。もう40年も変わらない、俺たちのテーマ曲だ。ただ感じかたは昔とは違う。最近の俺は、この曲にどことなく「お迎え」の影を感じるようになっていた。
「俺らの生きてるうちには出るさ」
定番の挨拶を経て、新作の話などをする。
エロゲ業界もクラス化が激しくなった。若年層においては、すでに「テキスト+ボイス+立ち絵」の形式のADVは死滅しているに近い。ここ四半世紀のあいだに画期的なアニメーション作成ツールがいくつも出て、敷居が大幅に下がったためだ。
しかし俺らの世代にとっては、やはり昔ながらのADVがしっくり来る。
ジャンルもずいぶん変わったと思う。いまでも思い出したように学園ものは出るが「こんな学園どこにもねえよwww」は、より切実な響きを持つようになってしまった。いまや学制自体が違うからあたりまえだ。
かつて、そう、俺らが三十代だったころ、冗談半分によく言っていたものだ。将来は孫ゲーが来る、と。その予測は当たったかといえば「なんとなく当たった」というのが実情だろう。結局還暦を越えても「そういう部分」での精神的な構造はあまり変わらない。むしろ老いには直面したくないのが実際で、いちばん多い設定はといえば、やはり若返りもの、ということになる。典型的なテンプレは、癌の告知から始まって、主人公がタイムスリップ、「あの夏」を体験したうえで現実に戻り、幸せな死を迎えるものだ。孫ルートのあるゲームは全体の3分の1くらいだろうか。
特養老人ホームを舞台にした介護ゲー、なんていうのも昔はよくネタとしてあったが、これはむしろ陵辱ものに多い。現状の自分のルサンチマンを反映したような設定が陵辱ものに多いのは、いまも昔も変わらない。最近だと、恵まれない家庭環境にある女の子ばかりを集めて決死の肉体看護をさせるも、それらの女の子にひどいことばかりしているうちに、だんだん精神的におかしくなってきて、瞳の光が失われていき、最後は性奴隷になる描写が秀逸だった「奴隷介護―地獄のエデンで少女たちは何を見たか―」がヒット作だ。
そう、当時予測しておらず、現在隆盛になっているジャンルがある。ロリババアものだ。当時、なんでこれに気づかなかったのか、自分でもわからない。かつては純愛系のゲームならば、たいていは妹ルートがあるのがふつうだったが、いまではそれがロリババアに取って代わられている状況だ。
エロゲ業態全体が同人的な雰囲気になって、大ヒット作というのは生まれづらくなっているわけだが、そんな中で気を吐いた例の作品における、あの名セリフに殺された人は多いだろう。
「時間を止めて、待っていましたよ」
そんなわけで、考えようによっては25年前となんら変わらない生活をしている俺らだったが、最近は俳句がちょっとしたブームだ。俺たちが若いころから俳句なんていうのはジジイくさい趣味だったわけだが、この年になってみて、なぜ年寄りが俳句を嗜むのかわかったような気がする。
この年になると「言葉を紡ぐ」のが億劫になってくる。表現欲がなくなるわけではない。それ相応に人に認められたいという気分もないわけではない。しかしそのために多くの言葉を紡いで「人に伝える」ということに価値を見出せなくなるだけだ。しかし溜まっていく日々の鬱屈を言葉にしたいと思ったときに、俳句のような形式はとても都合がよい。
「それじゃまあ、新作の披露といきますか」
3人のなじみのじーさんを前に俺は言った。そしてそのじーさんたちは、俺の姿でもある。
では一句。俺はのどに絡む痰を切ってから読み上げた。
「コンドームかぶせてむなし秋茜」
「ほぉ……」
「確かにむなしい……」
「もう勃起しねえしな……」
場を、いい感じに絶望的な空気が支配した。ちなみに「秋茜」は人生の黄昏を迎えた俺たちの心境を、秋の夕暮れのイメージに重ねたものだ。
「では次はオイラが」
オイラ。またなつかしい一人称が出たものだ。映画監督としても有名だった某芸能人が他界してから、この一人称を使う人は滅多にいなくなった。
「我慢汁 集めて臭し俺の川」
「川になるほど出ねえだろ……」
「てゆうか我慢汁自体もう出ないよね」
「つーか最近さぁ、オナニーの途中でめんどくさくなるんだよね……」
「あんたまだ現役だったんだ……精液だけに、原液、か……」
「もうだめだ」
「だめだなぁ……」
俺たちがそうやって淀んだ空気の中で薄ら笑いを浮かべていると、店主の孫娘が姿をあらわした。夏休み中で家にいたものらしい。健康的な肉付きの太ももが眩しい。
「あんたらまた来てんの? いい年としてくっだらねえシモネタばっかしゃべって、店内がイカ臭くなるからやめてくんない?」
ああ、罵倒が心地いい。あの太ももに挟まれながら罵倒されたら、そのまま昇天できるのではなかろうか。
「ってうっとりした表情浮かべてんなよ! 歯槽膿漏くせえ口あけてぼんやりすんなよ……」
店主、あんたは勝ち組だ。
人生において、後悔なんぞは役に立たない。そんなあたりまえの事実を笑って受け入れられるこの年になってなお、妄執は残るのだ。
予約しておいたソフトを受け取って、家に帰った。PCの電源を入れてインストールする。
全エンディングが腹上死ということで、発売前から話題になっていたソフトだ。もっともそれだけでは俺は買わない。エンディングのひとつに、顔面騎乗による窒息死があったのが俺の直接の購入理由だ。
ゲームを起動する。
「登場する女優さんは、すべて60歳以上だからね、まちがえないでね、おじーちゃん♪」
老眼の進んだ俺にもやさしい極大フォントとともに、ボイスが流れる。
さあ、残り少ない日々を謳歌しよう。
ディスプレーの中には「あの夏」が詰まっている。