はてなキーワード: ビジネスマンとは
思うことをだらだら書いてみた。支離滅裂な部分もあるかもしれないが、独り言として読んでほしい
私は継続ということがつくづく苦手な人間だ。人間関係がうまくいかないこともあり、何かをすることもここ数年はためらう状態だ。
これまで、多くの仕事、趣味などに手を出してきたが長続きしたためしがない。おそらく、その先に見据えるものが見つけられたのだろう。
手段、目的、見据えるゴールなどが頭の中で混乱して続ける意味を見出せなくなっていたのだ。自分を信じてやれていないのだよ。
継続のできない人間に精神的な平穏は訪れないということに気づいた。常に何かに追われる生活をしているようで精神はむしばまれていく一方である。
仕事、趣味、娯楽などの人間活動としての一部は人の人生を良くも悪くもするだろう。物事が続かない人間にとってはひと時の娯楽、趣味は心を満たしてくれるかもしれない。
風俗に行きひと時の快楽に溺れるようなものである。でも、その時が過ぎると虚無感に襲われてくる。目的のない人間の人生とはそういうものだと。
代り映えしない、今日という日が死ぬまで永遠に繰り返される壊れたレコードのように。今年で30になったが、目的なく生きることが自分を危うい存在にしているか気づく。
家族がいれば、妻、子供のためにという目的を見出すことができるだろう。おそらく、これまで人生の人生の指針を示す体験、経験はあったはずだ。
しかし、若さ、チャンス、タイミングをうまくつかむことができずにここまで来てしまったのだ。おそらく、今後も目的を見つけることは簡単ではないだろう。
これまで、見つけることができなかった人間が今後見つけることができるだろうか。自分を否定したところで何も変わることではない。
人生は終わらせない限り、いつ終わるか分からない。それが、お金、不安、ストレス、健康などの問題を引き起こしているのだろう。
人間、命の長さが決まっていたら、逆算して生きるだろう。どれだけ充実した人生が送れるだろうと考える。少なくとも、無駄なことをする時間が減るだろう。
しかし、何を無駄と捉えるかは各個人次第だが。私は継続して何かを成し遂げることができる人間ではない。Doのあとに続くBecomeをもってないのだ。
ゆえに、やりたいことがあったとしても、短期的なものである。例として、「南米を横断」、「エベレストに登頂」のような始まりと終わりが明確なものである。
ただ目的を達成して終わりである。先ほどの風俗の例と同じである。その先に続くものがないのだ。継続ができなければ将来はない。
だらだら意味もなく生きることは生きるだけで苦痛になる。苦痛の中を生き続けることは拷問である。
まさに経験していることだ。健康問題、お金、仕事の3つは生きる上で直面する問題であろう。自分で人生を終わらせる人はこの3つが主な原因だろう。
これが100歳近くまで続くとなると、もはや言葉を失う。おそらく、金は尽きてるだろうから餓死してるだろう。
人生とは「お金」、「健康」、「時間」、「人脈・人間関係」の4つをいかにバランスよく保つかで幸福度が変わってくるなと思う。
良い思い出は描きながら死ぬことができたら幸せこの上ないだろう。しかし、人は死ぬときになってみないと、自分本当に何者だったのかわからない。
ある時はニート、ある時はフリーター、ある時はビジネスマン、ある時は経営者。今、自分で自分を語ることが浅はかな考えなのかもしれない。
若いクリエイターがより他に行ったというのはその通りだと思うが、「世代交代に失敗した」というわけではない。
そもそもにおいてエロゲーがブームになったこと自体が異常であるし時代が産んだ奇跡と言ってもいい。「世代交代」など出来るはずがない。
エロ漫画もエロアニメも、売れた作品はあるし、素晴らしい傑作もあるだろうがブームになってはいないだろう。
ポルノ映画もそう。ポルノ映画から名俳優や名監督が登場したり、ヒットしたポルノ映画はあるだろうがブームにまではなってないだろう(あったしても一過性)
コアなエロゲーユーザーも多くいたが、ブームになったときのユーザーの大半がライトなユーザーだ。エロシーンに絶対的必要性を求めていないユーザーのほうが圧倒的に多い。
だからこそ増田が言うようにクリエイターが発信できる場が増えたことによってブームが終了するのは必然なのである。
エロゲ業界は衰退したというより、「ブーム」は起きたけど、「文化(ビジネス)」には出来なかった。
ここでいう「ブーム」とはまぐれ当たりが出て業界に人が流入してくること。「文化(ビジネス)」とは収益構造が確立し、作り手や客が世代交代して持続していくこと。
蛭田(エルフ)とか剣乃(シーズウェア)とかTADA(アリスソフト)とかの活躍によって市場と認知度を獲得した90年代後半の業界はエロつきならある程度の売上が見込める状況だった。そこに髙橋(Leaf)とかだーまえ(Key)とかぶっさん(ニトロプラス)とかきのこ(TYPE-MOON)といったワナビーだった過去を持つ連中がそれぞれ得意とする世界観にエロを足したゲームを世に送り出してブームが発生した。それによって新規メーカーやユーザーが大量に流入したが、後が続かず一過性で終わった。
エロゲ衰退論の多くは何故ユーザーが離れたかという観点で論じるが俺は逆だと思ってる。ヒット作(ブーム)が新規ユーザーと次代の作り手を呼び込む(つまり世代交代)のであり、ブームが発生している間に次のヒット作が生まれる土壌を作っておく必要があった。蛭田らに髙橋らが続いたように。しかしそうはならなかった。
その要因のひとつに、若いクリエイターがよりローコストで、より好き勝手に作品を発表できて、あわよくば儲かる場が他に出来てしまった、という点が挙げられるだろう。
それが2ちゃん(99年~。電車男、まおゆう)であり、ニコニコ動画(06年~。アイマスP、ボカロ小説)、小説家になろう(04年~。さすおに他)だ。若いクリエイターが作品発表の場をそれらに移した結果、サブカルの最前線(今現在ブームになっている業界)がエロゲから他に移り、新規ユーザーも次代の作り手も流入しなくなってしまった(それに唯一抗ったのがニトロプラスだと思う。ネットで作品を発表していた鋼屋ジンや奈良原一鉄、下倉バイオを発掘して世に送り出している)。
企画/シナリオの話ばかりをしてしまったが、原画や音楽担当も同様だ。90年代後半から00年代前半はエロゲンガーがコミケの壁をはっていたが、pixiv(07年~)やTwitter(06年~)の登場でエロゲンガーは若いクリエイターの憧れではなくなり、サウンドクリエイターもエロゲの同人音楽から東方アレンジやボカロ曲をYoutubeやニコ動で発表する形に活動の場所を移していった。
これらの状況分析から、エロゲの衰退を、安易にスマホやSNSやフリーミアムの登場に結びつける論調には同意できない。
任天堂は未だに据え置き機兼ゲームメーカーだし、集英社は週刊少年ジャンプを発行し続けている。それでいて『あつ森』や『鬼滅の刃』のような最新のヒット作を生むことが出来ている。それは次代を担うクリエイターを発掘・育成し、そのヒットによって新規ユーザーを呼び込むという世代交代ができているからだ。
任天堂や集英社のような巨大メーカーと泡沫のエロゲ業界を比べるなよ、という意見はあるだろうが、ゲーム業界だって漫画業界だって最初は泡沫にすぎなかったし、スマホやSNSやフリーミアムの登場といった時代の荒波にさらされてもいる。しかしビジネスモデルを作り上げて作り手と客が世代交代して業界が持続するようにしたから今があるのだ。ちょっと儲かったからって社長がランボルギーニを痛車にしてるようじゃダメなのである。
結論:エロゲ業界は衰退したのではなく、ブームを文化(ビジネス)に転換させられる商才あるビジネスマンがいなかった。だから世代交代できなかった。以上(よく武内が社長として評価されているが、きのこが死んだら終わりの状況から脱せてない以上ダメだろう。同様に、蛭田も剣乃もだーまえも後進を育てられなかった。この論で評価できるのはでじたろうぐらい)。
ところで鏡が定期的にエロゲ衰退論を語って耳目を集めようとする(https://togetter.com/li/1505761)のなんなの? 仕事ないの?
【追記】
jou2 抜きゲーと泣きゲーで完全に別れてたと思う。Fateとかエロゲーとしてはマジでエロに対して真摯じゃないからね。「絶対命令権である令呪」をえっちな事に使うシーン一切無いという。選択肢選ぶタイプのゲームなのに
なんでや! セックスで魔力供給するシチュ最高にシコいやろ! あとセイバーがキャスターにとらわれてエロい格好させられるやつとかアニメで強調されてたけど、あれ若い子をリョナに目覚めさせるの狙ってるよね絶対。
ところで抜きに関してもちょっと面白い観点があって、オタクがエロ同人(ここでは二次創作エロを指してる)で抜くようになったってのもエロゲから客が抜けていった理由として結構あると思うんだよな。
もちろん当時からエロ同人はあったけど、当時はSNSがなかったから情報そのものにリーチしにくかったんだよね。個人ニュースサイトとかからたどる時代だったわけで。それでもアンテナ張ってたやつは即売会やショップで仕入れてたんだろうけど、それはそれで大変だし、特に地方民には厳しい。
今はSNSが発達してるから自分の好みの同人作家や本を探すのも容易だし、市場が形成されてるから昔に比べて数も質も飛躍的に向上してる(昔は落書きみたいなのも普通にあったんだよ!)。ゲームはソシャゲやって、抜きはそのエロ同人って人それなりにいるんじゃなかろうか。このへん、オタク白書で市場規模を年次比較すれば見えてくるものがあるかもしれん。ないかもしれん。
まあエロゲは早い段階で回想をボタンひとつでフル解放できるようにしとくべきだったな(SAGAOに探しに行くのダルい並感)。
至るところに現れるマナー講師ビジネスマンのようにマナーについていちいち言及したくはないのだが、Slackのオープンコミュニケーションに対する捉え方に問題のある人間が多いように感じたので書く。
Slackでは意思決定の透明性や、脳内同期を円滑にするために皆の見ている場で議論や意見交換をすることが良いことだとされ、DMなどでコソコソ会話をするなというプラクティスがよく話題にあがる。
一方で問題となるのが、皆のいる場で叱責したり晒し上げるような使い方をする人間が一定数いるということだ。厄介なのは本人は透明性を高めるためと自身の正義感からやってることだ。
これは、バカッターを晒し上げて裁いた気になっているTwitter民や、オフィスで怒鳴り散らす上司とだいたい同じだと思っているので、この記事を読んだら自身の行動を振り返って欲しい。
本人に伝わればいいことは、本人にこっそり伝えて上げればよいだろう。そのためにSlackにはDMの機能がちゃんと用意されている。
文章を皆のいる場で投稿するとき、これは本人に恥をかかせてしまわないか、周囲のモチベーションを下げていないかもう少し考えて欲しい。
通勤時間帯とかも結構空いてるし、普通に座席に座れるくらい。ほんと人減ったよ。
休日はだいたい角の席に座れるし、そうでなくても周りと間隔があるくらい。
電車が空いてるってのはいいことなんだけれど、平日とかは複雑な気分だ。空いてるってことはみんな出勤してないわけで、そんな中仕事しに行かなきゃならんのかってね。リスクは多少減ってんだろうけど。
結構駅前とかには人いるんだよなー。さっき用があって出かけたんだけど、人一杯歩いてんのよ。通勤時間帯とか全然人いないけど、みんな買い物とかなのかな? 結構店とかにぎわってるわけ。
電車に乗ろうとする人が減っただけで、まあ何だかんだ外には出るもんだよな。俺だって用があって出かけたわけだし。電車に乗らずに地元で何とかしようってんだろう。土日はこうなんだなって書いたのは俺が家にいるのが土日しかないからであって、平日の昼ももしかしたらこんな感じなのかもしれない。
俺はまだ家で仕事する環境が整ってないから平日は出社してるけど、家で仕事してる人も多いんだろ?
平日の昼間にご飯買いに出かける人ってのもこんな感じで多いんだろうな。
職場の近くってオフィスだけじゃなくて結構住宅街にもなってるんだけど、今まで夜しかやってない寿司屋が昼に机出してちらし寿司売ってるの見た。イタリアンバルとかもピザのテイクアウト始めました、とかね。結構需要ありそうだけどどうなんだろ。ビジネスマンをあんまり見なくなったからランチに入る人も少ないだろうし、夜営業できなくなってる店としては苦肉の策なんだろうな。ランチってそもそも安いのに、テイクアウトってもっと安くない?
これらが日本・社会のためになること、同時に教育を受けた人個人の人生にも有益な可能性が高いことには同意する。
しかし、子どもたちから若い大学生までを対象にした議論ばかりで、大人が学ぶという流れが一向に盛り上がらない。私はそれが実に気に入らない。
STEAM教育の必要性を認識する政治家、経営者、メディア、親、ビジネスマンたちは、自分たちはなぜ努力しないのか。
論理的思考にすぐれ、忍耐力があり、経験も積んできたはずの我々大人が、 なぜ子どもたちにだけ努力を強いるのか。
STEAM教育が日本のため、社会のためになることを認識しているなら、まず我々大人から範を示すべきじゃないのか。
大人でさえ尻込みするような難しい課題を、子どもにだけ強要してうまくいくはずがない。
80歳まで労働する時代になったとして、約20歳までの教育で学びをやめ、残り約60年を若者を搾取して乗り切るという社会構造は明らかに持続可能性が無い。
だから私たち大人もプログラミングや英語や数学やデータサイエンスを学ぼう。
先ず隗より始めよう。
子どもたちだけに苦労をさせるのをやめよう。私たちも苦労しよう。
日本ではほとんど報道されてないようなのでお前ら今からでもブクマしとけ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/jp.reuters.com/article/china-health-singapore-meeting-idJPKBN2080IU
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-02-09/Q5GHAODWRGG801
イギリスでスーパースプレッダーが確認されたという話があったがそのビジネスマンが感染したと思われるのがこのシンガポールである
https://www.businessinsider.jp/post-207610
「恥の意識」だよな
親兄弟とか友人の世話になったり借金するのは構わないと思っても
赤の他人の助力を受けるのはみっともない
助けられる先方もそのように考えるだろう(だから相手に恥をかかせてはいけない)
また、赤の他人を助けると「ええかっこしい」「偽善者め」と見られるのが怖い
――ここまでは多くの人がすでに同じ事を考えてるだろう
ではなぜ、赤の他人に助けられると恥だと思うのだろうか?
***
駅までは一緒に運んでやるとか苦には思わない
以前、階段で乳母車を押してる人がいたんで下から支えてやったことがある
この場合、大荷物を持った老人にも乳幼児連れの人にも何の落ち度もない
学生時代は新聞配達の店で働いていたが、夕刊の配達時にはたびたび
前カゴに数kgの新聞を満載した自転車を上手に停車して降りられず
このようなとき、見ず知らずの通行人――確実に俺より身なりの良いビジネスマンだの
汗臭い新聞配達員の俺に近寄るだけで可哀相な若い女性などが拾ってくれようとすると
申し訳なさの余り切腹でもせねばいけないような気分になったものであった
だって、どう考えても、五体満足な成人男性の自分が、上手に自転車を停められず
自分に夕刊の束をぶちまけてるのは、言い訳のしようなく自分のせいだ
相手に対して感謝の念をすっ飛ばして「加害者」になったような罪悪感を覚えてしまう
無論、地面に散らばった夕刊を拾ってくれた人は
俺のせいで被害を受けたなどとは一切思ってない「かも知れない」
が、「かも知れない」であって、本心は分からない、それが怖いのだ
***
ではなぜ、人に助けられると罪悪感や加害者意識を覚えてしまうのだろうか?
つまり、助けられたら相応のお礼をせねばならない
乳母車で段差を越えるのを手伝ってもらった……といった程度のことなら
が、「本当なら相応のお礼(自分の失敗に起因するなら「お詫び」)」
をしないといけないのに、それをせずに他人の善意を受けるというのは
(まあ、別の機会に別の赤の他人に親切にすればいいんだが、そんな機会はいつあるかわからない)
***
要するに、因果応報とか、権利には義務が伴うとか、目には目をとか
そういう「世の中はプラスマイナスゼロの均衡があらねばならない」
という価値観が、無償の人助けを「自然に反する異例なこと」のように
思わせているのではないか?
***
金持ちが見ず知らずの貧乏人を助けたりすれば死後アッラーに高く評価され
逆に助けられた方も「助ける機会を作ってやった」という善行と見なされるとかいう
この後段部分が重要だ
つまり、一方的に助けられることを精神的な負債と思わずに済むような
(仏教渡来の初期には皇室が悲田院とかやってたけど恒常的には定着しなかった)
ただまあ、この日本の「他人に助けられるのは恥」という文化のおかげで
日本では生活保護を忌避する人が多く、社会保障費が安く済んでいるのは確実
悪い意味でも、世の中よくできてるよなあ……と感じるばかり
ウォルト・ディズニーは天才ビジネスマンだから、儲かって喜んでるよ。