はてなキーワード: 言い逃れとは
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
「言葉の意味とは何か」という問いが一般的であることが了解されたとき、それに対して与えられる解答として未だにしばしば出会うものがある。
それは、言葉の意味を何らかの心的なイメージ(心象)であるとするものである。たとえば、「赤」という言葉の意味とは、この言葉に出会ったときに心の中に生ずる赤い(物体の)イメージである、といった具合である。
こうした考え方を基礎とする「意味の理論」は、その洗練度はさまざまであっても、どれも根本的に誤っている。
言葉の意味に対するこうした考え方(「意味の心象説」とでも呼ぶことができよう)は、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』のなかで徹底的に批判したものであり、その批判は決定的なものであるとみなすことができる。
そして、意味の心象説を批判するにあたって、ウィトゲンシュタインがフレーゲに多くを負っていることは疑いが無い。
フレーゲが主として問題としたのは、数学の哲学、特に算術の基礎づけにおいて、心理的な要素を持ち込むという当時の風潮(心理主義)であった。
『算術の基礎』においてフレーゲが出した問いのひとつは、「数詞、たとえば『5』、の意味は何か」というものである。
言葉の意味とは心的なイメージであるとする、フレーゲ以前に伝統的であった答え(=意味の心象説)の弱点がもっとも鮮明に現れるのは、フレーゲが出したような問いに、その答を当てはめようとするときである。
(言語哲学大全)
さて、元増田は、"語の意味"は究極的には個人の経験、感覚から想起される心象に基礎づけられる、と主張しているのだから、元増田は「意味の心象説」論者です。
意味の心象説論者は、以下のプロセスを経て、言葉の意味を理解します。
1.何らかの言語表現を(音、または視覚、触覚から)受け取る。
2.言語表現に紐づく心象を、こころの中に想起させる。(この時点では、言葉の意味はまだ理解できていない)
3.こころに浮かんだ心象にたよることによって、言語表現が表そうとした"意味"を理解する。
では、元増田は「三角形」をご存じでしょうか?(三角形の意味を理解しているでしょうか?)
意味の心象説論者は、以下三つのプロセスを経て、言葉の意味を理解する、という主張に同意するでしょう。
1.『「三角形」をご存じでしょうか?』という言語表現を、視覚から(もしくは聴覚から)受け取る。
2.かつて、どこかで経験した「三角形と呼ばれたなにか」を、こころの中に想起させる。
3.こころに浮かんだ「三角形」を参照することによって、"三角形の意味"を理解する。
「三角形の意味を再確認」できましたね?では、あなたが想起させたその三角形は、どのような三角形でしょうか?
もしも、あなたがこころに想起させた三角形が、正三角形だったとしましょう。
もしそうだとするならば、直角三角形は三角形ではないということになります。
なぜならば、
・「語の意味は個々人がこころに想起させたイメージである」と(『意味の心象説』論者が)主張するならば、
こころに浮かんだ三角形(正三角形)と異なる図形(直角三角形)は、"意味が異なる"がゆえに、三角形ではないと主張しなければならないからです。
逆も同じです。直角三角形を想起させたのならば、正三角形は三角形ではありません。また、「直角三角形であり、かつ、正三角形であるような三角形」は存在しません。
ところで、あなたがこころに想起させた三角形とはどのような図形なのでしょう?
仮にどのような"三角形"であったとしても、「その図形と異なるにも関わらず三角形であるような図形」は、容易に示すことができるでしょう。
もしもあなたが「私は、あらゆる三角形を含む集合そのものと、集合に含まれるひとつひとつの図形を想起させることができるがゆえに、三角形の正しい意味を理解している」などと言い逃れしてみたとしましょう。
その時、私はこのように問うことができます。「あなたがこころに想起させた図形の集合の中の、一つ一つの図形すべてが、"同じ"三角形であることをどのように知るのですか?」と。
「意味の心象説」論者は、語の意味は個々人の心象に基礎づけられる、などと主張します。
しかし、三角形の意味を心象に浮かぶ図形に求めるならば、異なる性質を持つ三角形を示されたときに"三角形の意味"を説明することができず、
無限の三角形を連想できるなどとうそぶいた場合、「では、あなたの(無限の)心象にうかんだうちの、二つの"異なる三角形"が、"同じ三角形である"ことをどうやって知るのですか」と問うならば、
「意味の無限後退」に陥るのはむしろ「意味の心象説」論者のほうであることになります。
なぜなら、その人は三角形の意味を心象に浮かぶ図形に求めたのだから、心象に浮かぶ二つの三角形が"同じ言葉(三角形)"に対応することを、またさらに心象に求めなければならないからです。
つまり、あなたが主張する「三角形の意味」=「"三角形の集合"の心象」のなかに、実は四角形がまぎれこんではいないでしょうか?という疑いをどのように晴らすのでしょうか?
(この時あなたは、三角形の形式的定義を利用して証明したい、と思うことでしょう。しかし、「三角形の形式的定義」に含まれる語彙は、本来感覚によって基礎づけられると主張したのは『意味の心象説』論者自身です。)
ここで示された無限後退は、あくまでも「意味の心象説」がもつ問題によるものであり、
言葉の意味の厳密な定義を求める方法が、(ほかの)なんであるにせよ、「意味の心象説」がその役目を果たさないことだけは明らかです。
話を元に戻します。
何をするにせよ、少なくとも、語の意味を(さらに限定すると、数学的語彙の意味を)感覚、心象に基礎づけようとする方法が誤っていることだけは明らかでしょう。
今までの経緯のふりかえりと、今回何が起きたかお伝えしますね。
まずは何が起きたか振り返ろう。
※ソースがない、との指摘がありますが、「本人の証言レベル」ですがありますよ。事実ベースです。後で貼っておく。
・原作者はドラマ化にあたり「原作に忠実に描く」条件を出し、日テレと合意
・いざ開始してみると原作から乖離した脚本が毎回提出され、毎回大幅に修正する始末(1話から8話まで)
・原作者と脚本家は最後まで1度も会話せず、間にはチーフプロデューサー1人のみ
・原作死守という条件が一向に守られず、他の脚本家を探す時間も無くなったため、9話と10話は原作者が仕方なく自分で脚本を書いた…が、脚本は素人なので当然不評
・脚本家の元に9話と10話の不出来について視聴者から様々なDMが届くも、脚本家は「9話10話だけ原作者が書いた、私じゃない」とインスタで弁明
・さらに脚本家は「最後は原作者がワガママで書きたがったので、仕方なく協力した」と激怒してポスト
・脚本家のインスタを受け、原作者はブログにて「窓口はプロデューサー1人のみだった。そもそも原作を守る契約が脚本家に伝わってなかったのでは?」と暴露
・暴露ブログについて、ネット上では擁護の声多数
・その後、なぜか原作者は謝罪し、記事を削除してブログも閉鎖
・なぜか原作者「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい」とポスト
・原作者が自殺
・しばらくして2024/02/08、脚本家は「知らされていなかった」、小学館は「日テレには間違いなく伝わっていた」と暴露
https://petitcomic.com/news240208
小学館編集のお気持ち表明記事について批判するつもりはありません。
最後の一文「寂しいです、先生。」についてはXでトレンド入り。「打算的で女性の共感を求める戦略的コメント」などとバッサリ切り捨てた投稿がバズっていましたが、この編集は長きにわたり深い信頼関係があったようなので、救えなかった自分の無力さを嘆き感情を吐露したとしても不思議ではありません。
また、この記事では日テレとのやりとりに関する経緯について説明不足ですが、「編集として」のコメントなので致し方なしかと。
https://www.shogakukan.co.jp/news/476200
組織として検証すると宣言されたのは大きな進歩ですが、結果は公表するということですね?
この2週間何やってたのかわかりませんが、それではみんなで結果の公表を待ちましょう。
第三者検証でないと意味をなさないのですが、一歩前進かと思います。
芦原妃名子先生がが亡くなられてから二週間強、先日(2/5)以下の記事がバスっていました。
■小学館が『セクシー田中さん』に関係する記事を削除したことについて
https://anond.hatelabo.jp/20240205173407
穿った見方をすると、この記事がバズったから「もう精神的に無理です、コメント出させて」と小学館上層部に泣きついたとも推測できます。事実は不明ですが。
衝動的に記事を消すのは不要な疑念を招くことになります。恥ずかしいことがなければ堂々としていればよいのです。
しかし、はてな匿名ブログがバズらなかったら、ひょっとしたらこれらのコメントは出なかった可能性があるのでしょうか。
全部推測ですが、そうだとしたら恐ろしい話です。
え?それってやばくないですか?
終わってない?
今回のコメント表明は、脚本家と小学館が歩調を合わせて公表されています。
つまりタッグを組んだ「日テレに対する徹底抗戦」にも見えるのです。
脚本家は「何も聞いてなかった」と言い、小学館は「日テレにはしっかり伝えていた」と言う。
それに加え「原作者と脚本家の間に入っていたのは日テレの人のみ」だと原作者がブログで暴露していたことを考慮すると、
自ずと「日テレが原作を守るという約束を反故にし、好き放題コントロールしていた」ということになるのですから。
ずっと沈黙を貫くのも流石に無理があるでしょう。
今後の日テレの動向に注目が集まるところです。
知り合いのSNSアカウントがここ10年ぐらいでだいぶ品行方正になった。
昔は嫌儲とかオチとか色々やっていたのに今じゃ淫夢語録さえ避けるように気を使っているのが傍目にも分かる。
昔はネットでしか使わなかった言い回し、とりわけ発達障害や特定人種を馬鹿にするような物言いを現実で使うようになっていった。
ネットとリアル、少しでも安全な方を選んで下手をすれば訴えられるような表現を振り回す。
そういうずる賢さが私の友にはあったようだ。
だが同じような傾向は私の職場でもあるような気がする。
現実社会にふさわしい言葉づかいをすることを辞めて、ギリギリのラインを必死に探るような言い方を繰り返す人間が増えてきた。
ハラスメントの限界ラインを攻めることでそこに線引を作り出そうと必死になっているような言動が食堂や自販機前に溢れている。
そのかわりにチームチャットやLINEのメッセージはビジネスマナーに沿った小綺麗なものが増えてきた。
言い逃れの出来ない文字情報では借りてきた猫のように振る舞い、録音でもされない限りは消えてしまう言語情報では少しでも粗暴さを発散させようとしていく。
現実とネットの倫理観の逆転、個人が内包する暴力性の総量は変わらないままに、それが発露する場所だけが入れ替わっていく。
これが令和という時代らしい。
自分の子にも等しいキャラクターの人物像をねじ曲げ、性行為させたりジャンルによっては強姦や傷害するのは原作者を深く傷つけることもあると思うが、これが「表現の自由」で肯定されるなら原作改変だって肯定されるべきだよね。
「二次創作がアマチュアの手によるものだから」という理由が、人を傷つけたり自殺に追い込む可能性があることを肯定する根拠にはならない。
例えばBLでナマモノ(実在の人物の二次創作)が禁忌とされ、大っぴらに活動することを忌避していることが、二次創作が人の魂を傷付ける刃物になりうることをどこかで自覚していることの現れだろう。
例に出したBLは二次創作全体の極一部だが、加害の可能性に無自覚、あるいは自覚しながら加害の可能性を無視する方が悪質だ。
今まで身内で肯定しあうかファンネルを飛ばして反対意見をねじ伏せて言い逃れてきたが、「原作者への加害」という問題にどう向き合う?
「ヒト」と「動物」みたいなもんだと思うんだよな。
「動物」の中に「ヒト」は含まれるはずなんだけど、「動物」と「ヒト」は全く別物だと扱われることもあるみたいな。
まあ「差別にならない程度の区別」という意味で「区別」という言葉が「差別」の文脈で使われることはあると思うんだが、往々にして「これは区別であって差別ではない」と言ってる人に限って自分がやってることが「差別」以外の何物でもない自覚がないか、自覚はある癖に言い逃れしようと必死になってるだけな感じがする。
逆説的に「人間を区別しようとしたら必然的に「差別」になっちゃうんですよね」と考えられるようになることが「差別」について正しく認識するための第一歩と言うかね
障害者の息子さんが暴れて、福祉施設の職員に脳挫傷を負わせて病院送りにしたというツイートが、Twitterで話題になっていた。
その母親のツイートを責め立てるリプがたくさんぶら下がっているのを見て、子供を産むのが余計に怖くなってしまった。
かろうじて障害者ということで、責任能力がなく、警察的にはお咎めなしで済んだみたい。
しかし、これがもし健常者の息子だったらどうなるのか。
寿司ペロ事件でさえ犯人の親まで四方八方で頭を下げて、人生がボロボロになってる。
まして、自分の子供がレストランやカラオケでほかのお客さんを殺傷したり、車を暴走させて通行人を巻き添えにしたら?
それこそ、善悪の判断がつかないレベルの精神疾患なら逮捕されても釈放されるケースはあるし、親も言い逃れる術はあるかもしれない。
彼に「課長さんよお…」と話しかけ、全裸で縛って野外に放置する(多分想像上の)存在がいて、露出トンボ氏は「やっ、やめてくれ…」と言いつつなすがままそういうストーリーで己の全裸写真をTwitterにアップし続けている変態だった
ガチの豪雪の中、己を後ろ手に縛り勃起しながら兎跳びをしている彼の姿には実際鬼気迫るものがあって、俺はフォローこそしなかったが、ときどき「露出トンボ」と検索しては、その雄雌を見に行ったものだった
捕まったらしい
そりゃあ捕まるよなあ……と素直に思う
あきらかにプライベート・プロパティじゃなさそうな野原で裸になってんのがまずダメで、勃起してるからなんの言い逃れもできねえし、Twitterにあげてんのがトドメだ
捕まるべくして捕まっていて、むしろ遅すぎたくらいだ
捕まったのは2019年とかその辺りだったと思う
それから先は音沙汰なしだ
もしかしたら復活しているのかもしれないが、少なくとも俺は知らない
彼のアカウントはなぜかまだ残っている
捕まる前に彼がハマっていたらしい、「有名商品のCMに、全裸でクネクネ動く自分の姿を縮小・合成した映像」を見るたびに、なるほどなあ、と思う
全国ネットで老若男女に広く見られる、たとえば洗剤なんかのCMで、綺麗な女優さんが洗剤のボトルを手に持ち、それをニッコリ笑顔でカメラに向ける
その洗剤のボトルの上には、変な色で、全裸で、縛られて勃起した露出トンボ氏が、いかにも惨めな様子でクネクネしている映像が貼り付けられている
メタ的というかなんというか、「女の裸を見て興奮」なんてことは実際その辺にいるシカとかでもできるようなことだが、「CMに自分の全裸映像を合成して興奮」というのは、万物の霊長のなかの、さらにある程度限られた個体でなければ到達できない域の、高度に知的な変態行為だ
ちなみにエッチなこと全般を変態とよぶ向きがあるけど、俺はアレには反対で、だって変態っていうのはねじくれた性的欲求の発露に対して向けられる言葉なんじゃないのか
ただのセックスなんてガとかですらできる行為のどこに捻れや歪みがあるのか、定規で引いた直線みたいなモンで、変態のヘの字もねえよ
元気にしていてほしいと思う
何ヶ月か前、ある人にめちゃくちゃ怒られたことがあって、その時の映像が某国営放送で、この前の日曜日に放送された。
まあ、炎上するだろうなと1ヶ月前から憂鬱だったのだが、ネットを見ると予想以上に燃えまくっていた。特にコメントをするつもりはなかったが、知り合いからも、「かわんごさん(仮名)が正しいと僕は思っているから」というような、よくわからない励ましのメッセージがたくさん来るので、一言、ここで書いておこうと思う。
まず、あのシーンにおいて、どちらが正しいといったことはないと、僕は思っている。それぞれ違う考え方、違う感じ方を持つ別々の人間であるというだけの話だ。
事実としてあるのは、僕が「ある人」を不快にさせることを、「ある人」のテリトリーでやってしまったということだ。それについては全面的に僕の失敗であり落ち度だ。
そもそもあの場はなんだったのかというと、CGの世界でどういう技術が開発されようとしているかを知って欲しかったからだ。放送で使われたのは、自社で作った映像の一部が映っていたが、実際は他社も含めた事例紹介の中の一部が切り取られてテレビには放送されたわけだ。
おそらくは否定的な反応だろうというのは事前から予想はしていたが、まあ、なんらかのヒントや刺激になれば十分だぐらいに思っていたのだが、想定していたよりも、かなり、めちゃくちゃ怒られた。
さて、放送されると炎上するだろうというのも予想していたわけだが、こっちの方も想定以上にネットは燃えた。事前から分かっていたのに、なぜ、あのシーンを放映することを許可したのか。事実をいうと一旦、断った。当たり前だ、なんの得もない。
でも、再度、どうしてもと頼まれた時、結局、いいよ、と言ってしまったのは、頼んできたAさんの気持ちになると、そりゃ、あのシーンは使いたいよな、と思ったからだ。自分でもドキュメンタリー映画の制作に関わったから分かる。撮影してもどうしても使えない映像というのが存在する。本当はそれを使うともっといいものが作れるのに使えない。あんな美味しい映像をAさんが使いたいと思うのは当然だよなと思えた。
そして、もう一つは、別にAさんは何か映像を捏造しようとしているわけではない。実際にあった映像を撮影できたんだから使いたいと言っているだけである。本当にあったことをそのまま放送したいと言っているだけだ。まあ、できるなら使って欲しくないけど、彼が本当に使いたいと思っているのであれば、それを断るのは卑怯であり、僕の我儘であると考えたからだ。
実際にどのように映像が使われたのかは、まだ見ていないので知らないが、ネットの画面キャプチャーや感想を見る限り、そこにあったのは本物の僕自身であったと思う。
怒られて、本当に困ってしまって半笑いを浮かべている僕、なんとか言い逃れようとしている僕、そして、でっぷりと突き出したお腹も含めて、全て、本当の僕が映っていたのだろう。
放送を見て、僕を心配してくれている周りの人は多いようなのだが、本当のありのままの自分が映し出されたとして、それで情けないとか、醜いとか、嫌悪感を持つ人がいたとして、まあ、しょうがないよねとしか思わない。誤解されたわけでなく、本当の僕を見てそう思ったんだから、諦めるより他にない。
本当の僕を見て嫌う人間に、嘘の僕を見せて好感を持ってもらいたいとは思わない。
というわけで、僕を心配している人に、一言いっておきたいのだが、心配は無用です。
ただ、今回、僕を攻撃している人たちをがっかりさせても悪いので、正直にいうと、今回の炎上で本当に傷ついたことがひとつあることを告白する。
月曜日から糖質制限を始めた。今回の炎上で改めて、人間は外見でそのひとの人間性を判断するということを確認した。どうやらデブは醜い心の現れであり、人間性を否定するに十分な根拠らしい。そう考えている人間が多いことは認めなければいけない事実だろう。
今回は本気で糖質制限をしようと思う。倒れても、また、立ち上がり、ぼくは前に進み続けるだろう。実際、月曜日の夜は、ついお菓子を食べてしまい、昨日の夜もシュークリームを半分だけ食べてしまった。その度に、僕は立ち上がり、再度、糖質制限を再開している。僕は今度は諦めるつもりはない。
そうだ。最後に書いておくと、放送ではめっちゃ怒られていたが、もちろん、僕は今でも毎週月曜日は、僕を怒ったひとの会社に出社している。まるでジブリのように素敵で暖かい職場だ。むしろジブリそのものといってもいい。特に最近は怒られることもなく平和に暮らしている。