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2017-07-16

https://anond.hatelabo.jp/20170716154421

真実が全てで偽りの歴史は破棄しろなんて誰も言ってないし、

そもそも、やっぱり西郷の顔はあんなんだった、やっぱり直虎は女だった、

って説が普通に盛り返してきてもおかしくないのが歴史学から

2017-06-30

マスコミ同士の忖度が凄い

匿名報道

TBS家宅捜索 社員女性危険ドラッグかけた疑い 警視庁

http://www.sankei.com/affairs/news/170621/afr1706210035-n1.html

TBSテレビの50代の男性社員女性の顔に液体をかけ、けがを負わせた疑いがあるとして、警視庁久松署が今月、傷害容疑で、TBSテレビ男性の自宅などを家宅捜索していたことが21日、捜査関係者への取材で分かった。久松署は男性任意事情を聴いており、容疑が固まり次第、書類送検する方針

 捜査関係者によると、男性社員TBSテレビ海外事業部に勤務。今年4月、東京都中央区ホテルで30代女性に無理やり液体をかがせようとして顔にかかり、約1週間の炎症を負わせたとして、女性が久松署に相談していた。

タクシー運転手暴行

NHKディレクター書類送検

https://mainichi.jp/articles/20170629/k00/00m/040/048000c

警視庁渋谷署は28日、タクシー運転手暴行したとして、NHK制作局の40代男性ディレクター傷害容疑で書類送検した。NHKによると、ディレクター来年放送大河ドラマ西郷(せご)どん」の演出担当する予定だったが、担当から外した。

 書類送検の容疑は、4月19日未明東京都渋谷区タクシーに乗ろうとした際、60代の男性運転手トラブルになり、暴行を加えて腰を骨折するけがをさせた疑い。当時、酒を飲み酔っていたという。

 NHKによると、ディレクターは「申し訳ないことをした」と話している。NHKは「運転手の方や関係者に深くおわびいたします。捜査の状況を踏まえ、厳正に対処します」とのコメントを出した。【屋代尚則、春増翔太】

これも匿名報道。別の報道ではタクシー運転手は全治3ヶ月の大怪我らしい。

マスコミ天下りを受け入れれば、重箱の隅を突くような報道はされないし、自分らの不祥事もお互いに忖度しあうんだから、素晴らしいねマスコミって

2017-05-19

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

2017-05-04

http://anond.hatelabo.jp/20170504173504

いや、巻数は初登場巻だ

正確にマッチョ系(ゴルゴ系)の歴史を書くと

星逃田17巻~

後流悟十三24巻に一度だけ登場

ボルボ西郷(54巻~

左近寺(99巻~

左近寺への切り替えなんてしなくても、

別にボルボゲームマニアって設定にすれば済む話だと思うんだが

100巻以降ではそれぞれが共演してたり後流悟が再登場したりするようだが、面白くないから読みかえす気ない

こち亀読み返してるんだが

マッチョ担当ボルボ西郷(54巻)から左近寺(99巻)に切り替わってから微妙だな

そもそも、なんで切り替えたんだろ

2016-11-02

何で大河って男色を無かったことにすんのかなぁ

西郷でやっと初のホモ要素が出てくるらしいけど、そもそも日本の歴史と言えばホモやん

信長が利家との関係をのろけたり、農民育ちでホモ理解できなかった秀吉が、体面を繕うために美少年を雇ったりするくらい当たり前にホモやん

何でことごとく無かったことにされてるんやろ

男女の恋愛捏造してでも中心に盛り込む熱心さなのに

2016-07-23

日本起源説(2chで見つけたコピペ)

日本起源説

石川県・・・石川県の"モーゼの墓"は税金管理されている』

青森県・・・梵天山の釈迦堂山には"釈迦の墓"がある』

広島県庁・・・広島県庁社団法人広島県観光連盟は葦嶽山を"世界最古のピラミッド"と発表している』

青森県新郷村・・・新郷村役場は"キリストの墓""キリスト遺書"の存在公式に認めている』

出口王仁三郎・・・日本人シュメール起源説』 『世界最古の文明を作ったのは日本人

日本画家鳥谷幡山】・・・ピラミッド日本起源説』 『日本ピラミッド発見

漢方医学中山忠直】・・・日本ユダヤ共同起源説

国学者大石凝真素美・・・神代文字論』

牧師勲五等酒井勝軍・・・日本ユダヤ共同起源説』『ピラミッド日本起源説』 『日本ピラミッド発見』『古代イスラエルオニックスを日本発見

アイヌ研究家小谷部全一郎・・・源義経ジンギスカン説』 『日本ユダヤ共同起源説

【皇祖皇太神宮神主竹内巨麿・・・竹内文書』 『神代文字』 『日本人類発祥の地』 『モーセキリストムハンマド釈迦来日天皇に仕えた』 『青森で"釈迦キリストの墓"を発見

政治家考古学地質学山根キク】・・・キリスト日本渡来説』『青森キリストの子孫を発見

日本探検協会事務局長幸沙代子】・・・漢字発明したのは日本人

東大経済学部探検協会会長高橋良典・・・『太古、日本の王は全世界を治めた』

【帝大(東大)卒歴史学者木村太郎・・・世界文明起源日本だとする"新史学"を提唱』 『世界中古代遺跡日本人によるもの』 『邪馬台国古代エジプトにあった』

ホメロスの「オデュッセイア」は「平家物語」や「太平記」を元に書かれた』『ムハンマド日本神話の本牟知別命であり桃太郎。この伝説英国に伝わり「ハムレット」になった』

ソクラテス日蓮プラトンは日昭』 『西郷隆盛自刃せずベトナム脱出した。"サイゴン"は"西郷"の名からつけられた』 『イタリアシシリアン江戸の町奴だった』

2016-01-22

明治政府退職しました

去る明治6年10月24日、私江藤新平明治政府を辞職し下野することになりました。

皆さんご存知の通り、私は征韓派でありまして、志を同じくする西郷氏、板垣氏、副島氏、後藤氏とともに陛下にその重要性を述べてまいりました。

しかし、こうした動きに対して、あえて隠す必要もないかと思いますが、大久保利通氏が強硬に反対しておりました。

無論大久保氏の言い分は充分に解っているつもりです。朝鮮を征伐することが国際的不安をもたらす、と。

その通りかもしれません。しかし我々は西郷氏を挑戦へ派遣することを閣議で決定していたのです。

どうして岩倉氏は両論を陛下に奏上したのでしょうか。三条さんはぶっ倒れてるし。


ええ。負け惜しみです。大久保さんの方が一枚も二枚も上手でした。

今年明治7年、私たち民撰議院設立建白書という文書政府左院に提出しました。

ええ、負け惜しみ反動です。これから政府官僚だけでなく、人民が広く政治に参加して、同じ意見の人々が政党を作り、その意見政権に反映されるべきなのです。

負け惜しみです。だからこそ、この立場政治を考えたいのです。この動きは絶対に広まっていくでしょう。何百年もかけてね。その礎にしたい。板垣君が頑張っています

最近故郷佐賀がなんだか騒がしい。士族鬱憤が溜まっていると伝え聞いています

なんだかそういうの聞いていると、故郷に帰りたくなってきます

みんな何故かめちゃくちゃ私が故郷に帰ることを止めようとしてきました。

故郷が同じ大木君なんかめっちゃやめろ! って言ってきます、笑。 退職したんだから別に良いじゃんw

板垣君も副島君も慰留します。みんなそんなに東京が好きなの? まだ東京で消耗しているの?

私は佐賀で育ちました。幕末には桂君と会ったり(今は木戸君ですね)、姉小路さんに会ったり。大隈君や大木君、副島君、島君あたりとサークル作って活動したり。

維新後は学校を整備したり、四民平等なんて訴えたり、あと民法について仕事したり。警察制度作ったり。いろんなこと中央でをやらせいただきました。

自信あるのは警察制度の中に、新しい技術である写真」を使った捜査を盛り込んだこと。写真ってすごいですよね。これを人相の手がかりにすると効果てきめんだと思います。我ながら先進的な施策だと思います。多分100年以上これ使える手段になるんじゃないかな? とにかく、いろんなことをやらせいただきました。

負け惜しみ反動で書いてます。今佐賀でこれを書いています板垣君、副島君。留めてくれてありがとう大久保氏が私の帰郷するよう権謀術数をめぐらせているということ、聞きました。

でもいいんです! 東京で消耗するより、今は佐賀です。生まれ育った佐賀はいろんなことが今起こっています。あの島君も佐賀に帰ってきているようです。昔は島君といろいろケンカしましたが、今また会ったら。この佐賀で会えたら。また違ったケミストリーを生むことができるんじゃないかと思ってます

板垣君や大木君、副島君等とは遠く離れてしまいましたが、また皆で議論したり、政治をしたりしたいなーと思ってます! まだまだ日本はこれからなんだから!! 今は・・・故郷ゆっくり考えることにしようと思いますそんじゃーね。また連絡するからね。

2015-12-06

http://anond.hatelabo.jp/20151206111329

西郷隆盛のお相手は僧月照だな。ともに入水して月照は死に西郷けが生き残っている。

それから藤原信頼を出すんだったら日記台記』を遺した藤原頼長も出そうよ。

信頼は後白河院の寵愛を得て権力絶大と言われながら権中納言までしか出世できなかったが

頼長は「悪左府」の異名通り左大臣まで上り詰めた。

2015-09-20

結局反米

戦争反対」のムーブメントが起きているわけだが(もう下火?出遅れてすいません)、なんだか重大な矛盾があるように見えるし指摘もされてる。アメリカにくっついちゃう戦争ちゃうよ(この70年でアメリカは何度か軍事同盟国を動員して戦争してる)、それはやだ、ってわけだけど、アメリカにくっつかないと中国戦争しかけられちゃうかもよ(この70年で中国自分より弱い国に何度か戦争しかけたり侵攻してる)、それいいの?ってとこがどうも無視されてる。

いや、無視してんじゃないと思う。そこ、本質じゃないと思うんだよね。

いろいろな考えを持ったいろいろな人が参加してる。それは当然だと思う。大きなムーブメントにおいてすべての人の意思統一されてる、なんてのはフィクションであり北朝鮮だ。いろいろな考えを持ってるのは当然。戦争ちゃうかもを最重要視してる人もいれば、違憲性を最重要視してる人もいるだろう(個人的には後者立場の人には共感する思いが強い)。

でも、そういう人たちを結びつける何かがないとムーブメントにはならない。それはなにか?このムーブメント本質とは?なんだか戦争反対平和主義っていうのは語感がいいからスローガン化してるように見えるが、冒頭に挙げたようにそれが本質であるように思えない。もちろん、単に騙されてる(あるいは暴走してる)人も多いだろうが、頭のいい人達もかなり動員されてるので、みんながみんなそうではない。

何が彼らを結びつけているのか?

結局、反米じゃね?

って思った。

証明手段はない。個人の感想。すまんね。しかし、過去日本ムーブメントを観察し、それで今のムーブメントについても同じ特徴をもつ蓋然性が高いだろう議論は可能だと思う。ちょっと言葉を変えると、尤度ベースで考えてみよう、みたいな感じのことだ。専門家からバカにされるだろけどね。だから増田に書いてるわけさ。

さて日本過去の大きなムーブメントを見てみる。

さてどうだろうか。戦争については、起こしたかったり起こしたくなかったりいろいろだ。護憲主義かどうかについては、冒頭の明治維新がすでに国体をひっくり返してる。しかしどれも明確に同じであるのは、反欧米姿勢じゃないですかね。過去の大きなムーブメントはどれも反欧米姿勢であって、それが過去の3つのムーブメントのどれにおいても起こっていることからベイズの定理によって反欧米姿勢があるために大きなムーブメントが起こったのだとする仮説の事後確率が高いのだと思えますね。問題点:観察したイベントが3つしかねぇ。超事前分布を置こう。めんどくさいからやんない。

他に日露戦争後の三国干渉への強い反発・日比谷焼き討ちだとか、湾岸戦争イラク戦争時のアメポチ批判とかは、強いか弱いかにかかわらずやはり反欧米姿勢に見える。太平洋戦争の本とかよむと、国際連盟脱退して帰国した時、松岡洋右は非常な非難覚悟したのに、大歓迎されて却ってとまどったとかいうのがあったが、それもこれかもだ。太平洋戦争時には他に、満州事変から日中戦争の時には日本国民はあきらかに戸惑っていたが、太平洋戦争戦時にはだれもが意気揚々として喜んだというのも読んだ。

さて、まともな議論のような皮を被った確証バイアスだらけのようにも思われる話はここまでで終わり。みんな批判的思考を持ちましょう。

あとは完全に個人の感想

逆に親欧米にはどういうのがあるかっていうと、

日英同盟とその後の日露戦争第一次世界大戦国際連盟

戦後高度経済成長

中曽根とき

小泉とき

ってとこでしょうか。

さて単純にどう思うかって話なのだ

私がどう思ったかは、もうわかっていただけたと思うけど、日本国民感情的に動かしてムーブメントを作りやすいのは反欧米姿勢だけど、日本国繁栄させてるのは常にアングロサクソンにくっついてる時じゃないのってことです。明治維新なんて説明するまでもなく、ムーブメント自体尊皇攘夷運動だったはずが、最終的に親欧米政権つくって西郷さんと大久保死んじゃったみたいな話なわけで。

さてこういう話をするとき明治維新ときから続く歴史の長いレッテル貼りがあって、それは今で言う「アメポチ」ってやつだ。言ってみれば、アメポチ初号機は井伊直弼であったともいえよう。戦時中には、鬼畜米英とか言ってる人を非難するような人は「非国民」とか言われていた。もちろん逆方面に対してはチョンとかなんとか言ってたわけで、究極的には自分最高って思ってるだけだろうけど。

で、アメポチ。アメポチ悪いの?ってこと。ていうか犬バカにしてね?まあそれはいい。

「情けない」とか帝国軍人みたいなこという人もあろう。でもさ。国家がアメポチであってそれが情けないなら、個人でアメリカいって勝負すればいいだけじゃないか。本当にアメポチにならなくて済むような有能な人は、当然アメリカで全くやっていけるし、あの国人種国籍にかかわらず、能力だけで天下を取れる、そういう国だ。ヨーロッパ人だってそうしてるよ。われわれ極東日本人が「あれはアメリカ人」と思ってる人たちの中の相当数に、元ヨーロッパ人が相当隠れてる。ドイツオーストリア系とか特にね。敗戦国ですし。日本もだよ。

それだけの能力がない人は?そうやって能力もないのにこの冷酷な世界の中で平和を望む・・・そんならアメポチになれってことなわけ。自分一人で世界の中でアメポチにならずに立ち回れる能力がないくせに、日本国家に守られてアメポチではない立場になりたい、でも日本国家は嫌いだ、とかそんな都合の良い話はあるめえよ。

この世の中はローマ帝国漢王朝時代からまったく変わっていないと僕は思うコーカソイド東アジアに2つの帝国が出現するところまで変わらない(たぶん、20世紀のある一時期には日本がそれになりうる可能性を考えられていたかもしれないが、今は誰もそう思ってないっちゃ、ライジングサン)。

戦争法案反対」論者の中には一定数、「すぐに中国世界最強になるから敵にするのはまずい」と思ってる人がいるかもしれない。こういう人とは酒は飲める。まあわたしはそんなの数十年先以降なんじゃねーのって思うけど(だって科学力が違うからね〜)。

2014-11-13

西郷隆盛維新三傑に相応しいのか?

大久保利通木戸孝允政治家として最大級評価されているのに対し、西郷隆盛評価されているのは軍人としてであるため、ちょっとチグハグさを感じる選出になっている。

イタリア三傑に範を取っているのかもしれないが、西郷はその最期もあまりにあまりであるし、功績が維新前に偏りすぎているのではないかと思うのである

維新三傑政治家に限るなら、大久保利通木戸孝允岩倉具視を加えれば、薩長公家バランスも良くなるように思える。

西郷を入れるならば、大村益次郎と合わせて「倒幕二将」のようなものを作り、三傑とは分けたほうが良いのではないか。

2009-08-03

http://anond.hatelabo.jp/20090802224938

で、この講義もちょっと面白くて覚えていたのだが、「警察は元々軍隊であった」という話。

あれ?西南戦争日本陸軍西郷軍に勝てなくて、恥をしのんで(って、言葉の使い方、合ってるか?)警察抜刀隊(旧会津藩主体)を投入したんじゃなかったっけ?

2009-04-15

http://anond.hatelabo.jp/20090414170911

おお、珠玉のラインナップですね。完璧ですな。

確かに芥川には、ブログ書いて欲しいですね。彼は何故かネットに合ってる気が。ただ、裏で2ちゃんメンヘル板とかに常駐してたりもするのかもなあ。ああ、老いてからの作品読みたかったです。どんなん書いてたんだろう。

豆wwwww 徂徠、大喜びですね。

そういえば絵の人にも戻ってきてもらわないとねえ。西郷孤月にリクエストかけたいです。

2009-02-13

書評: 中村彰彦・山内昌之黒船以降 政治家官僚の条件』(中公文庫

 あまりに面白いので休日に半日を費やして読了した。

単に幕末維新の歴史の知識だけなら、百科事典講釈師のような物知りも沢山いるが、この対談は人物評が現代的で、政治家として官僚としての力量を問う通信簿的な作業でもあり、ことごとくがリアリスティックなのである。

 しかも幕末維新を、本筋を外さないで不思議な逸話で溢れさせ、しかし歴史観の骨髄をしっかり守っている。

 経済視野から薩長会津を比較してみると、京都守護職を越前松平春嶽から押しつけられた会津松平容保は、財政的艱難辛苦に耐えなければならず、藩士1000名の京と駐留経費の捻出は並大抵ではなかった。京都島原遊郭で遊ぶカネがなく、だから会津武士京都人から嫌われ、薩長はすかれた。

なぜか。長州竹島経由で、薩摩沖縄を梃子に「密輸」をやっていて資金が潤沢、最新鋭の軍艦鉄砲も買えた。中村彰彦によれば加賀前田藩も日本海の北と密貿易を展開した銭屋五兵衛を黙認した形跡があるという。

密輸で設けた諸藩の志士らは、経費をちょろまかして島原で遊興もできた。

 本書で両人からコテンパンな酷評を受ける一つは御三家のなかでもイデオロギーの強い水戸藩、天下の副将軍勝手に僭称した水戸光圀は、伝説では「名君」だが、じつはとんでもない御仁だった。

水戸学が、やがて水戸藩を分裂させ、悲惨な内訌が天狗党の悲劇を生んだが、じつはその後も明治三年まで復讐劇が続き、難を逃れて群馬栃木あたりに逃げ、その末裔現在もいるという後日談も、なんだか、西南戦争に負けた西郷軍のうちの1500名ほどが台湾へ逃れ、現地民に同化したという歴史の裏面の話に通じる。

結局、水戸藩の“正義”の史観徳川幕府を毀した。

 

本書は、薩摩長州歴史意識政治構造科学天文学への心構え、軍事思想など似ているようで全く異なることを、これまた目から鱗のように別の視点からえぐり出している。

たとえば坂本龍馬が斡旋した薩長同盟の基軸の発想は公武合体の実現だった。

山内教授は「オーストリアハンガリー二重帝国」の例があるように、天皇を頂き、徳川薩長が二分するアイディア存在を告げる。

イギリスオールコックなどの歴史観世界の情勢から、倒幕に踏み切っていくプロセス西郷大久保坂本邪魔になったという闇の部分にも光を当てる。これは中村がまだ直木賞受賞前にかいた『龍馬伝説を追う』(世界文化社)にも詳しい。

また榎本武陽の「蝦夷共和国」構想も、じつはハプスブルグ家の「オーストリアハンガリー二重帝国」が発想にあった、と示唆する。

 脱線ながら、評者(宮崎)が鹿児島指宿の「伝承館」でみたパリ万博記録展示の或る部分に驚いた。パリ万博薩摩徳川幕府が出展した。薩摩焼など、パリジャンの度肝を抜いた。ともにそれぞれの勲章をつくった。

 薩摩は「薩摩琉球国」として勲章をだした。つまり独立国として、国際社会にアピールしていたわけである。

 もう一人、こっぴどく批判されているのは福沢諭吉だ。

福沢が欧米派遣のおりに経費を誤魔化して図書を買いあげたが、それは小学生程度の英語の本が多く、小栗上野介は「あの男の選択眼は節穴、語学能力はその程度だ」と評した逸話は有名だろう。

福沢は本来なら切腹ものだが、ばれて詮議にかかろうとしたとき徳川幕府が瓦解した。

他方では講釈やら近年の小説の裁き方や世評はともかくも、食えなくなった旧幕臣らの面倒をよくみた勝海舟と榎本武陽への評価が高い。

 

 さて表題も示唆する「黒船来航以後」の話であるが、アメリカロシア日本にとって最初の接触だったのは、幕末の混乱期における日本にとって僥倖であり、もし英仏のような『ならず者国家』が日本に先に乗り込んできたらどうなっていたか。

 シナにしかけたアヘン戦争のような略奪と、国内分裂は防げなかったのではないか。幕府フランス薩摩英国に頼ったが、本気で内戦にのめり込んでいったら、日本は良いように利用されたあげくに英仏の植民地化されていた恐れがあった。

 しかし幕末徳川幕府をさしおいて薩長が最新鋭の武器を大量に買えたのも、その先見性や薩英戦争、馬関戦争敗北の体験から軍事知識と実践があり、おりしも南北戦争が終わって大量の武器をもてあましたアメリカから大量に買い付ける。

 市場開拓を狙うドイツ人武器商人だったスネル兄弟は河井継之助長岡藩にガットリング銃を売りつけたが、会津に強力にテコ入れし、最後は榎本軍に従って函館戦争をともに戦った。

 ドイツはむろん、英仏米露の隙間を狙って日本での武器外交が主眼だった。

 しかし幕府敗戦により、スネルは代金を回収できず、兄はやがて会津武士団の食い詰め組を率いてカリフォルニアに移住したり、弟は御維新後、浅草落語を聞いていたとか。脱線する逸話もまた本質に付随した、人間の描写なのである。

 それにしても幕末維新を縦横に語る中村彰彦は歴史作家だから回天の内幕に詳しいのは当然にしても、なぜイスラム中世専門家である山内昌之が、ときに中村を唸らせるほど幕末日本精通しているのだろう。

 もう一つ不思議に思ってきたことがある。山内昌之教授は、『世界』と『諸君』の両方に論文を書く器用な論客でもあり、保守なのか旧左翼なのか、いまもよく分からないところがある。

 山内がいみじくも「後書き」に書いている。

国際会議で、オスマントルコ帝国解体過程やイスラム政治歴史と、日本近世近代との比較をよく問われる。国際的要請でもある。まして日本史を知らずして世界史を語れる筈があろうか、と。

 最後節あたりの日露戦争から大東亜戦争に至る山内の歴史講釈には、ちょっと首肯できない史観部分があるが、山内教授主観だから、その部分は聞かないことにする。

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