「蝦夷」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 蝦夷とは

2024-03-13

anond:20240313125528

従来は縄文人弥生人の混血によって現代日本人が構成されていったと思われていたが、古代ゲノム研究によって現代日本人は縄文時代DNA10% + 弥生時代DNA15% + 古墳時代人80%で構成されていることが判明した

そして縄文人DNAを最も色濃く引いているのは現代アイヌ

これらのDNA情報に加えて発掘された考古学情報によって日本人誕生が明らかになっている

1.東南アジア起源とする集団が3万8千年前ごろに日本へ到着(ベトナムホアビン文化人骨のゲノムと極めて近い)

2.3000年前 朝鮮半島の無文土器文化集団第一波として日本列島水稲耕作を携え列島流入弥生時代の始まり

3.1800年朝鮮半島から第二波の移住古墳時代の始まり

  先住していた縄文人同化され縮小、関東以北では「蝦夷」として残存

  東北地方以南では日本語族集団同化されたため縄文系言語北海道アイヌにのみ、日本語に強い影響を受けた形で、残存

このうち弥生時代古墳時代列島流入した集団は偏堡(Pianpu)文化紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部遼河流域に起源があることもゲノムによって分かっている。

紀元前1500年頃に朝鮮半島北部中央部ゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化形成し、

この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、

紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)駆逐した、と研究は示している。

2024-01-30

anond:20240130143632

やはり理系科学

古代ゲノムこそが日本の新の歴史を明らかにする

従来は縄文人弥生人の混血によって現代日本人が構成されていったと思われていたが、古代ゲノム研究によって現代日本人は縄文時代DNA10% + 弥生時代DNA15% + 古墳時代人80%で構成されていることが判明した

そして縄文人DNAを最も色濃く引いているのは現代アイヌ

これらのDNA情報に加えて発掘された考古学情報によって日本人の誕生が明らかになっている

1.東南アジアを期限とする集団が3万8千年前ごろに日本へ到着(ベトナムホアビン文化人骨のゲノムと極めて近い)

2.3000年前 朝鮮半島の無文土器文化集団第一波として日本列島水稲耕作を携え列島流入弥生時代の始まり

3.1800年朝鮮半島から第二波の移住古墳時代の始まり

  先住していた縄文人同化され縮小、関東以北では「蝦夷」として残存する

  東北地方以南では日本語族集団同化されたため、縄文系言語北海道アイヌでのみかなり日本語に影響を受けた形で残存

このうち弥生時代古墳時代列島流入した集団は偏堡(Pianpu)文化紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部遼河流域に起源があることもゲノムによって分かっている。

紀元前1500年頃に朝鮮半島北部中央部ゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化形成し、

この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、

紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)やがて駆逐した、と研究は示している。

2024-01-19

好きな政治家選べ

最果ての地、蝦夷出身政治家

原敬旧帝国大学を設置して日本全国で高等教育を受けれるようにしました」

後藤新平関東大震災から帝都復興。初代満鉄総裁水道水安全にもしました。あと台湾民政局長やって現地人の文化大事にして親日派ができる土壌作りました。ついでに郵便ポスト赤くしろって言ったのも俺」

斎藤実昭和天皇平和反戦教えました。朝鮮総督になって文治政治に変えさせて白人植民地学者に「我らと違う」と言わしめて植民地時代にもいいことしたと言える土壌作りました





大正義長州出身政治家

岸信介「CIAのスパイです。満州時代、酷いことウッキウキでしてきました」

松岡洋祐「日米諒解案が気に入らなかったので独断で書き直して米国に送ったらハルノート返ってきました。独断国連脱退しました。独断で日ソ不可侵条約結びました。ヒトラーに心酔して三国同盟推進してナチスと手を組みました」


安倍「最長の総理になりました。お喋り好きで仲間には好かれてます


好きな方選べ

2023-11-16

anond:20231115233657

自分探しと称してインドに遊びに行くけどインド事業を起こそうとかは考えないからなあいつら。

蝦夷満州ブラジルに行く日本人とは根本的にマインドが違う。

2023-10-10

プーチン国際会議に呼び出して暗殺してはいけない理由

誰も国際会議に参加してこなくなるから

それはそれとして日本はやったことあるんだよね、だましうち。

和睦の宴会でよびだして

蝦夷首長殺害

クズムーーーーーブ

2023-08-15

anond:20230815114325

そもそも日本人という存在は、騎馬民族による征服者トップであった天皇に従う者が被征服者被差別部落民、サンカ隼人蝦夷アイヌ琉球民族などを近代以前から搾取し、近代以降は朝鮮人中国人などのアジア人搾取してその上に成り立ってきた世界で一番罪深い民族であるから民族意識・国民意識を捨て去り反日闘争を闘った同志(世界革命浪人)以外の日本人は滅びるべき←ただしい

2023-07-22

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(前編)

名称概要
463年吉備氏の乱雄略天皇吉備田狭の妻を奪ったので、吉備田狭は新羅と結託して反乱を起こしたが、失敗した。
479年星川皇子の乱雄略天皇吉備田狭の妻のあいだに生まれ星川皇子が、吉備氏と結託して皇位を奪おうとしたが、誅殺された。
527年磐井の乱朝鮮半島出兵しようとした大和朝廷軍に対し、北九州豪族である筑紫磐井が反乱を起こしてそれを阻んだが、討伐された。
587年丁未の乱仏教布教を巡って、大臣蘇我馬子と、大連物部守屋対立し、戦に発展した。蘇我氏勝利した。
645年乙巳の変中大兄皇子中臣鎌足らが、朝廷壟断していた蘇我入鹿暗殺、続いて蘇我氏粛清した。
672年壬申の乱天智天皇後継者争いが発生し、皇太子大友皇子に対して、天智天皇の弟・大海人皇子挙兵した。大海人皇子勝利して天皇となった。
729年長屋王の変皇族長屋王に謀反の疑いがかけられて兵が差し向けられ、長屋王自害した。藤原四兄弟による陰謀とされる。
740年藤原広嗣の乱藤原四兄弟の死により藤原氏勢力が退潮し、九州左遷されて不満を持った藤原広嗣太宰府挙兵したが、朝廷軍により討伐された。
757年橘奈良麻呂の乱橘諸兄の息子・橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂を疎んでクーデターを企てたが、事前に発覚して逮捕され、獄死した。
764年藤原仲麻呂の乱孝謙上皇対立した太政大臣藤原仲麻呂恵美押勝)が反乱を企図したが失敗、討伐された。
780年宝亀の乱朝廷に帰順して功績を上げていた蝦夷族長伊治呰麻呂が、陸奥按察使・紀広純殺害して反乱を起こした。
782年氷上川継の乱天武天皇の曾孫で臣籍降下していた氷上川継が、光仁天皇崩御に乗じて謀反を企んだが、事前に発覚して流罪となった。
807年伊予親王の変藤原宗成の謀反計画が判明し、その首謀者の嫌疑をかけられた伊予親王自死したが、のちに冤罪と認められた。
810年薬子の変平城上皇嵯峨天皇対立が激化し、平城上皇挙兵決断するに至ったが、嵯峨天皇が先んじて兵を差し向け、平城上皇出家した。
842年承和の変嵯峨上皇崩御に伴い、皇太子恒貞親王擁立する側が謀反人とされて失脚、藤原良房の支持を受ける道康親王皇太子となった。
866年応天門の変応天門放火があり、大納言伴善男が「左大臣源信仕業だ」と告発したが、逆に伴善男真犯人だとされて流罪になった事件
878年元慶の乱長年の苛政に不満を抱いた蝦夷の民が蜂起して秋田城を襲撃した。朝廷の軍はいちど敗れたが、蝦夷を懐柔・慰撫することで鎮圧した。
889年寛平・延喜東国の乱関東治安が低下し、群盗の蜂起が相次いだ。その鎮圧に功のあった平高望勢力を広げ、いわゆる坂東平氏の礎となった。
901年昌泰の変右大臣菅原道真が失脚し、大宰府左遷された事件左大臣藤原時平陰謀だとされる。
938年天慶の出羽俘囚の乱朝廷に服属していた蝦夷たちが反乱を起こして秋田城を襲撃した。その後の経過は不明
939年承平天慶の乱東では坂東平氏平将門が、西では藤原一族藤原純友が、ほぼ同時に反乱を起こしたが、朝廷により鎮圧された。
947年藤原是助の乱伯耆豪族藤原是助が、前任の国司だった物部高茂・忠明父子を襲撃した。物部忠明が追討軍を率いて鎮圧したという。
969年安和の変謀反の計画が密告され、それに関係したと見なされた左大臣源高明太宰府左遷された。藤原氏による陰謀だとされる。
986年寛和の変皇太子の外祖父であった右大臣藤原兼家が、孫の即位を早めるために、当代の花山天皇を唆して出家させた事件
995年長徳の変「花山法皇自分恋人に言い寄っている」と勘違いした藤原伊周が法皇を襲撃して左遷された。政敵の伊周が失脚したこと藤原道長が台頭していく。
1028年平忠常の乱坂東平氏の有力者だった平忠常が反乱を起こし、三年に渡って争いが続いた。元・主人の源頼信が追討に差し向けられ、忠常は戦わずして降伏した。
1107年源義親の乱源義家の子である源義親がまず九州、次いで出雲乱暴狼藉を働いていた。平正盛が追討に向かい鎮圧、のちの伊勢平氏繁栄きっかけとなった。
1113年永久の変千手丸という童子鳥羽天皇暗殺を企んでいると密告があり、輔仁親王の護持僧・仁寛が首謀者とされ、流罪となった。
1156年保元の乱後白河天皇藤原忠通派と、崇徳上皇藤原頼長派が対立して戦に発展し、後白河天皇派が勝利した。頼長は死に、崇徳上皇流罪となった。
1160年平治の乱信西の権勢に反発した藤原信頼・源義朝クーデターを起こし、信西を死に追いやったが、のちに平清盛に敗れ、信頼は処刑された。
1180年治承・寿永の乱いわゆる源平合戦平清盛を筆頭とする平氏政権が打倒され、源頼朝によって鎌倉幕府樹立された。
1184年三日平氏の乱平氏都落ちのあと、伊賀平田家継、伊勢平信兼藤原忠清といった平氏残党が蜂起したが、鎌倉軍に鎮圧された。
1189年大河兼任の乱奥州藤原氏の家臣だった大河兼任出羽国で反乱を起こし、藤原氏の残党も取り込んで暴れたが、鎌倉幕府の追討軍に敗れた。
1199年梶原景時の変源頼朝の死後、その腹心だった梶原景時が有力御家人に弾劾されて鎌倉追放された。のちに謀反を企てたが敗れて一族は滅亡した。
1201年建仁の乱梶原景時に恩のあった城長茂が京で兵を挙げ、本拠越後でも城一族が反乱が起こしたが、鎌倉幕府鎮圧された。
1203年比企能員の変将軍源頼家の舅として台頭した比企能員が、政敵北条一族に謀殺され、比企一族も滅ぼされた。それに反発した頼家も将軍地位を追われた。
1203年三日平氏の乱二十年前の三日平氏の乱で敗れた藤原忠清の孫・若菜盛高が再び伊勢伊賀で反乱を起こしたが、幕府軍を率いる平賀朝雅鎮圧された。
1205年畠山重忠の乱平賀朝雅および北条時政の謀略で、彼らと対立していた畠山重忠とその一族が討伐された。直後に時政は失脚し、朝雅も誅殺された。
1213年泉親衡の乱北条氏打倒の企みが発覚して和田義盛の息子などが捕縛された。首謀者の泉親衡は合戦ののち行方くらませた。続く和田合戦きっかけとなった。
1221年承久の乱後鳥羽上皇北条義時追討を宣言して挙兵したが、鎌倉幕府はそれを打倒した。後鳥羽上皇隠岐に配流された。
1293年平禅門の乱平頼綱北条氏の執事として権勢を振るったが、その権勢を危ぶんだ執権北条貞時に討伐された。頼綱とその一族は滅亡した。
1305年嘉元の乱得宗北条貞時の命令として北条時村が誅殺されたが、続いて「それは北条宗方による陰謀だった」として宗方が誅殺された。
1325年安藤氏の乱津軽で起きた蝦夷の反乱と、蝦夷代官安藤氏のお家騒動が重なり、それを幕府が上手く調停できなかったため内乱に発展した。
1324年正中の変後醍醐天皇の側近たちが鎌倉幕府打倒を計画したとされ、日野資朝佐渡流罪となった。後醍醐天皇は不問となった。
1331年元弘の乱後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を計画し、いったんは失敗して隠岐へ配流されたが、その後に盛り返して幕府を滅ぼした。建武新政が開始された。
1335年中先代の乱最後得宗北条高時の息子である北条時行が幕府再興を掲げて挙兵、いったんは鎌倉占領した。足利尊氏に追討されて時行は逃亡した。
1336年建武の乱後醍醐天皇と、そこから離反した足利尊氏の戦い。尊氏勝利して室町幕府が成立するも、後醍醐天皇吉野に逃れて南北朝時代が始まった。
1366年貞治の変室町幕府で権勢を振るった斯波高経斯波義将父子が、周囲の不満の高まりにより失脚した。追討の軍が送られ、斯波氏の領国は没収された。
1375年水島の変九州派遣された今川了俊が、同じ北朝少弐冬資と対立したため、彼を暗殺した。了俊の仕打ちに反発して島津氏大友氏などが離反した。
1380年小山氏の乱鎌倉公方・足利氏満下野守護小山義政が対立し、小山氏が滅ぼされた戦い。小山義政は自害したが、遺児・若犬丸はその後も抵抗を続けた。
1387年小田氏の乱常陸小田氏が小山若犬丸を匿っていたことが発覚、鎌倉公方・足利氏満小田氏を討伐した。小田氏は降伏し、所領を没収された。
1389年土岐康行の乱有力守護の弱体化を図る将軍足利義満が、土岐氏の後継争いにつけこんで当主の土岐康行を討伐した。康行はのちに許されて伊勢守護となった。
1392年明徳の乱一族で十一カ国の守護となり権勢を誇った山名氏が、将軍足利義満挑発に乗って反乱を起こしたが敗れた。山名氏の所領は三カ国まで減らされた。
1395年田村庄司の乱白河結城氏と対立していた田村庄司氏が反乱を起こし、そこに小山若犬丸が逃げ込んだことで、鎌倉公方・足利氏満が出陣して田村庄司氏を滅ぼした。
1399年応永の乱六カ国の守護である大内義弘が将軍足利義満対立鎌倉公方と手を結び、土岐氏山名氏の残党と手を結んで挙兵したが敗れた。義弘は戦死した。
1411年飛騨の乱飛騨国司姉小路氏は三家に分裂しており、その内紛から姉小路尹綱が挙兵幕府の追討軍によって鎮圧された。尹綱は戦死した。
1413年伊集院頼久の乱島津家後継者争いをきっかけに、当主島津久豊対立した重臣伊集院頼久が反乱を起こした。一進一退の末に両者は和睦した。
1416年上杉禅秀の乱関東管領を更迭された上杉氏憲が、諸将を味方につけて鎌倉公方・足利持氏に反乱を起こした。幕府が持氏を救援し、氏憲は敗れて自害した。
1422年小栗満重の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府と結びついた小栗満重などの北関東武将が、鎌倉公方・足利持氏に対して挙兵したが鎮圧された。
1423年越後応永の乱室町幕府鎌倉公方が対立するなかで、幕府側の越後守護上杉頼方が、鎌倉公方側の守護代・長尾邦景を討伐しようとしたが、邦景が勝利した。
1429年大和永享の乱幕府との結びつきが強い筒井氏と元・南朝越智氏の長年の争いが激化し、最終的に室町幕府の追討軍に越智氏は敗れた。
1438年永享の乱鎌倉公方・足利持氏関東管領・上杉憲実の対立から室町幕府が持氏討伐を決めた。派遣された追討軍に敗れた持氏は自害した。
1441年嘉吉の乱三カ国守護である赤松満祐が、酒宴に招いた将軍足利義教暗殺した。幕府軍の追討により赤松氏は滅亡した。
1443年禁闕の変南朝復興を唱える勢力御所を襲撃し、三種の神器のうち剣と勾玉を奪った。すぐに幕府軍鎮圧されたが、勾玉は奪われたままとなった。
1455年享徳の乱足利持氏の息子・成氏により鎌倉公方が復活したが、関東管領との争いも復活してしまい、二十八年にわたって両者が争った。最終的には和睦した。
1457年蠣崎蔵人の乱陸奥国田名部の領主・蠣崎信純が反乱を起こし、南部氏がそれを鎮圧した。蠣崎信純は北海道に逃れて、のちに勢力を築いた。
1457年長禄の変赤松再興を目指す赤松氏の遺臣が、禁闕の変で奪われた勾玉を奪還した。その功績により赤松氏は再興を許された。
1467年応仁の乱畠山氏の跡目争い、斯波氏の家督交代、赤松氏再興、将軍の後継問題などから東軍細川勝元西軍山名宗全が戦った。東軍有利で和睦に終わった。
1476年長尾景春の乱関東管領・山内上杉氏の家臣・長尾景春が待遇への不満から挙兵したが、太田道灌によって鎮圧された。これをきっかけに享徳の乱も和睦に向かった。
1479年毛利次郎の乱赤松氏らの支援を得た因幡国人毛利貞元などが、山名氏に対して反乱を起こした。鎮圧されたが、国人たちの勢力は保たれた。
1486年江戸城の乱谷上杉氏の当主上杉定正が、麾下の名将・太田道灌を誅殺、その居城である江戸城占拠し、道灌の息子の太田資康を追放した。
1487年長享の乱享徳の乱を経て、関東管領の山内上杉氏とその分家の扇谷上杉氏が対立し、太田道灌誅殺をきっかけに戦乱となった。最終的に扇谷上杉氏が降伏した。
1487年長享・延徳の乱将軍足利義尚が自ら軍を率いて近江守護六角氏の討伐に向かったが陣中で病死した。後を継いだ足利義材が再び六角討伐を行った。
1489年山名新九郎・小太郎の乱伯耆守護山名元之の息子である山名新九郎らが、赤松氏の支援を得て伯耆守護山名尚之に反乱を起こしたが、鎮圧された。
1490年佐竹の乱佐竹宗家と以前から断続的に争っていた佐竹庶流・山入氏らが、佐竹義治の死去を機に佐竹氏の本拠攻撃したが、最終的に山入氏は滅ぼされた。
1502年伊庭氏の乱長享・延徳の乱の後、近江守護に復帰した六角高頼に対し、近江守護代・伊庭貞隆が二度に渡って出奔挙兵するが、最終的に鎮圧された。
1507年永正の乱越後守護代・長尾為景が謀反、越後守護上杉房能とその兄である関東管領・上杉顕定を敗死させた。関東管領の後継争いか関東を二分する戦いに発展した。

「〜の変」「〜の乱」のまとめ(後編)

2023-07-19

anond:20230719192732

そうだよ

日本蝦夷)であくどい商売をしていたロシア人のゴロツキーがゴロの由来

2023-07-18

日本人嫌悪しない方が認知の歪みがある

そもそも日本人という存在は、は騎馬民族による征服者トップであった天皇に従う者が被征服者被差別部落民、サンカ隼人蝦夷アイヌ琉球民族などを近代以前から搾取し、近代以降は朝鮮人中国人などのアジア人搾取してその上に成り立ってきた世界で一番罪深い民族であるから民族意識・国民意識を捨て去り反日闘争を闘った同志(世界革命浪人)以外の日本人は滅びるべき

https://anond.hatelabo.jp/20230718201021

2023-06-11

だ!か!ら!

なんで俺にばかり非難が向けられるんだよ。

俺に対して「七五三やん!」って言った男や「私の方が「背高い!」って言った女は無罪なの?

俺が正しいなんて言わないけど、俺だけが悪とも思わない。

じゃあ俺も今度から職場琉球土人蝦夷土人どもをいじっていいの?

2023-03-21

anond:20230321045834

幕府領地接収して、官僚の恩給にする計画があったからとしか

  

1 徳川は、オランダ東インド会社支援で各藩の鉱山を幕領とし(リーフデ号)、金銀銅の輸出によって体制を維持していた

2 オランダ英蘭戦争の結果、国力が衰退し、1804年には仏ナポレオン占領された(江戸幕府はそれで仏軍軍事顧問にした)

3 1814年、仏ナポレオン政権崩壊し、英独が復活

4 1840年イギリス硫黄を巡ってイタリア海上封鎖を試みて勝ったが、日本とも貿易をしたかった

6 幕府鎖国体制でいたので黒船攻撃させ、各藩の貿易規制も緩和させた

7 ただ幕府と各藩主条約したとしても、幕府が倒されて政権が変われば条約破棄もされかねない、それならいっそ、幕府が倒れても条約継続する天皇制にしてもらいたい

8 イギリス日本駐在英字新聞社を通して天皇制必要を解き、支持藩を増やした(英国策論)

9 どこかの藩が外国船を攻撃したりするので、幕府海軍増強に務めるが、米大統領リンカーン軍艦の輸入を止められてしま

10 薩長天領石高400万石を使って官吏軍人の恩給制度を作る計画をたて、公家を味方につける

11 問題天領にいる旗本会津などの佐幕派は、徳川引退しても利権を離さないに違いない、できれば根絶やしにしたい、あとロシアが近い蝦夷にも兵をおいて天皇管轄にしておきたい

12 1967年11月に大政奉還が行われたが、倒幕派はしつこく放火などで騒動をおこし、それに対し幕府薩摩藩邸焼き討ちで報復

13 新政府徳川慶喜にも難題を押し付けて蜂起させたうえ、死罪1名に付き一家3名死罪とする刑法を作った

14 幕府の軍で警察でもあった会津藩などは当然に反発し戊辰戦争が拡大するが、幕府側には仏兵、新政府側には英米兵も従軍し、はんば代理戦争となった、軍事物資もかなり輸入された

15 佐幕派は敗北し、新設の東京裁判所は首謀者らを一家死刑にして勢力を削ぎ、ゲルマン利権を確保(そのあとで刑法を穏健なもの改正

16 1874年には大久保ドイツから明治通宝印刷機を購入し、新札を元手にのちの西南戦争鎮圧

17 木戸1975年から本当に公家軍人官吏の恩給制度を作りはじめ(現代の1.5兆円ぐらいがかかった)、そのことで農民搾取されるようになった(パウルマイエット談)

18 鉱山新政府側の人間乗っ取り、新たに家督優遇相続制度が作られ、二男三男は工場労働者兵隊になり、貧しい農村の娘は売られ、地方中央格差は拡大

19 天皇ガーター勲章を与えたイギリスのために日清戦争日露戦争もしたが、現地には入院施設も準備されず、負傷者は赤十字神戸丸で佐世保海軍病院まで連れ戻されていた

 

官僚給料が高いのも、真っ黒い歴史の口止め料かなと思いますよね

2023-03-09

anond:20230309163945

アイヌ蝦夷文化圏口伝メインで、文章を紙に書いて綴じて残す文化近畿九州地方ほどにはなかった(中国が遠かったので伝わり切らなかった。つまり寒い

そもそも弥生文化北上しなかった(米の栽培北上できなかった。つまり寒い

・あと年の半分くらいが雪なので交流手段が限られていた(つまり寒い

日本神話古事記日本書紀)がおもしろいなと Wikipedia を読んでたけど

舞台西日本ばかりだったので 今せっかく東北に住んでいるし 東北の昔の話を調べてみようと思った。

とりあえず wikipedia東北のページ歴史の項を読むと 概ね 蝦夷(えみし)に対しての征服・吸収の前線での話だった。

征夷大将軍坂上田村麻呂とかの話。

政権は西にあるから そちら目線だとそうなるか と思い 蝦夷側の歴史を調べようと思ったが ほぼ情報がない。

アイヌと同一か似ている存在なら文字がないだろうから仕方ないと思ったが

東北はいろいろお祭りあるじゃん祭りとしてなら何か文化が残ってるのでは と思いぐぐった。

そしたら 青森ねぶた坂上田村麻呂が たいまつや太鼓などで蝦夷を呼び寄せて捕まえたのがルーツって…

ねぶたは一度見に行ったけど なんか見方が変わって少しショックだった。

今までお祭りは無条件に 神聖もの という印象だったが

あくまで人が作り 人々を洗脳する手段だったのかなと思った(西のほうは違うかもしれないが)。

今でも 意見とか立場対立構造ができることは多いけど

片方が存在を消されるよりは 対立構造が保たれてるほうが まだ健全なのかな。

参考

http://www.forest-akita.jp/data/kiso-bunka/kisobunka03/kiso-03.html

2022-12-20

anond:20221219204200

しらんけど、ヒグマに食われたか蝦夷鹿の群れに衝突したかして死につつある増田が見ている走馬燈なのかも(増田のこの十年が)。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん