最近、織田信長関連のYouTube動画ばかり見ているが、天正元年(1573年)のスピード感にうっとりと酔いしれてしまっているので、少し語らせてほしい。
大前提として、信長の天下取りのあゆみは、秀吉のそれと比べると結構ぐだぐだしてる。これは、戦国時代の時間の過ぎ去り方というのがそういうものであり、また、何事もそうであるが、物事は趨勢が決まるまでが大変なのであるということしか意味しないが、単純な年月の経過からいえば比較的ゆったりしているのである。
信秀が死去したのが1552年(天文21年)、そこから桶狭間の戦いが1560年(永禄3年)なので、8年が経過している。また桶狭間の戦いのあとの直後のようなイメージのある松平元康との清洲同盟は実は合戦の2年後、美濃平定にはさらに5年を要する。本題の朝倉・浅井関連でいえば、コトの起こりにあたる、信長の越前出兵からの金ヶ崎の撤退戦が1570年4月(元亀元年)で、その2ヶ月後に姉川の合戦で勝利するものの、1573年(天正元年)に至るまで3年以上、朝倉氏浅井氏とは対立を続けている。繰り返すが、織田信長がのんびりしていたわけではなく、それが、俗に言う信長包囲網などの当時の状況における当然の時間の経過である。問題はこの後の経過の早さだ。
天正元年8月8日に、浅井配下の武将が織田方に裏切ったのを契機に小谷城に向けて信長が出兵、救援に来た朝倉軍を4日後の8月12日に小谷城付近で撃破、撤退した朝倉軍を越前まで追撃して、その8日後の8月20日に朝倉義景を自刃に追い込んだ後、とって返して小谷城を攻撃し9月1日までには浅井長政も自刃させている。この間、1ヶ月に満たない。本当にすごい。