はてなキーワード: 終活とは
なんで私以外のみんなは、他者に興味を持つことができるのだろう。
単なる性的な関心とも、博愛精神とも、友情とも峻別できる他者への好意が自分の心に存在することを、
さらには、自分と親しく関係することを他者に求めるわがままを自分に許す。
なんで私以外のみんなにはできて、私にはできないのだろう。
寡黙な父の遺伝子のせいだろうか、会話の少ない家庭で育ったせいだろうか、
私には他者に興味を持つことを自分に強いる必要があるのだろうか、とか。
人種が違う。悲しくなりこそはすれ、うらやましいと思うことはなかった。
そんな私だけど、婚活を始めようと思っている。
年のせいで、あれこれ真面目に考えることができなくなってしまったからだ。
それにあれこれ考えたところで、人との関係は自分一人で作るものではなく人と一緒に作るモノだ。
今さら人を愛したいとも、人から愛されたいとも思わないけれど、
一緒に登山に行き、温泉に行き、少しうまいモノでも食べましょう、
くらいのノリから始まって、一人で死ぬ人生よりも、まだましな人生が見つかるかもしれない。
30代
若い頃はいつ死んでもいいやという心意気が大事と教わり、そう心がけてきた
自分の身の回りは常に整理整頓しミニマムに生きることにも慣れきった
結婚もしていないしから自分の後には何もないスッキリとした状態なのが心地良い
あと今年は遺書の書き方を習おうと思う
だけど今は少しだけ不安だ
いつ死んでもいいのは変わらないけど、死ぬ時期を選ぶことはできないのが苦しくなってきた
早まるならまだ踏ん切りが付くしむしろ明日癌と告知されても驚かないだろう
けど、これが80歳まで続くとしたら恐ろしいよな
自分ただ一人のためにこれから50年近く生きるのは相当無理がある
常に整理整頓を心がける必要があるし都会でなければかなり難しい
そうすると住処が固定化されるので、高齢者になっても現状維持は厳しい
その時に考えればいいのだが、その時に考えて動けるかなんてわからない
そしてなにより、数十年後の自分が今と同じ心構えをしているかわからない
一寸先の闇には無類の強さを誇るのに、何十年も生きる耐性がない
anond:20230623190452 同じような体験に遭遇して誰にも言えないモヤモヤを整理する為にここに書き起こしました。
35歳 男
■相手
35歳 女
同い年という事もありお互いに共通の話題が通じやすく、やり取りをしている中でお会いしませんかとの事でお茶をする事に
七月の後半 待ち合わせ場所で待機していると
アプリのプロフィール内でよくある「人見知りで~」や「消極的で自分から声掛けは出来ません~」
のところからは程遠い位置にいるくらい、対面しても話しをしてくれる方だな
というのが最初の印象だった。
「○○さんの地元は何処ですか?」
「○○です」
すると彼女は
「○○ってことはB中学ってこと?」
「どうして」
「私もそこなので」
「…………」
「もしかして○○ 私○○ ワロタw」と手を叩く動作をする彼女
この時に初めて相手が小・中の同級生というのが認識が増田の頭を駆け巡った
当然、見た目も変わっているのとこういったアプリは使っていないだろうと思っていたので
そんなことはあるとは思わなかった。
むしろ「同窓会」に近い雰囲気に近かった、さっきまでは丁寧語だったのが急にタメ口に変わり
今までの恋愛遍歴について語り
今まで付き合った元カレについて(生々しい事も含む)
事を何の恥ずかしさもなく私に喋っていた。
ああ、これは異性として増田を「対象外」してみているから出来るんだろうと思うと途端に
話しているとしきりに「○○ 私を異性として真っ直ぐに見すぎないでね、束縛されるのは苦手やし」
「貯金をしてたり、単純に優しいだけの真面目君はおもんないしな、私、刺激がないとダメやねん」
「○○も異性は他にもおるんやしもっと遊びな笑」
と言ってくるのもモヤモヤした。
中学校の印象だと勉強も部活も真面目で休み時間は気さくに話してくれて面白い印象だった
社会人になって環境が変わるとここまで「遊び」をする女に変わるかと思うと、ただただ悲しい気持ちになった
自分の男性に求める価値観や条件(相手の容姿など)を下げることがどうしても出来なくて悩んでいるという点
帰る(地元に)と家族に度々お見合いの話を出されていて、困るなどと言っていた
別れた後、自分の仕事観や人生を否定されたような感覚に苛まれてしまい
気が付くとコンクリート壁を拳が血まみれなるまで殴り続けていた。
ああ、「真面目」や「優しさ」はこういう場面においては本当に役に立たないのだなと(つまらない奴)という見方をされるだなと
何故か相手からLINEを交換しようという事で交換(なぜ交換したんだと思う)
LINEのやり取りしたものの最初の返信のみで後は既読無視(なぜかブロックはしていなかった)
① こんな扱いなのだから何もせずもう放っておく(異性に対してよく言われる そっとしておく 距離を置く)
② 本当に無意味だと思うが不快だった点を伝えて相手の様子をみる
(怖いと思われて返信もなく即ブロックだろう)
③ 自分の「終活」の準備をする(今までこの年齢まで生きてきて真面目に取り組んだ結果がこんな扱いを受けたので)
(自分の貯金は甥っ子の為に残せるようにしておく、こんな思いをしてほしくないので)
大体①と③だと思うが②に傾いしまう自分がいる伝えても悪い思わない(変えないのが)異性なのだが
【追記】
そして、どう考えても曲解しまくりでまともじゃないこと書いてるコメントには霹靂としている。
俺が男性で自分のことを考えているだけなのに、なぜ女性やほかの弱い立場の人まで考慮する必要があるんだい?
自分の立場で自分のことを書いている個人の日記に対して、なぜ「他にもこんな立場の人がいるんですよ」って言われなきゃならないんだ?
こういうこと書いた人は本当に日本語を小学生からやり直してくれ。
ko2inte8cu 「独身男性は働き者。搾取されるだけ!」という思い込み。これがあるから「女性は家庭を守れ!」ってなるのよ。医者とか高い地位で労働して、税金を大量に払っている独身女性もおるで
nanamino 何故男性限定?男性は独身でも既婚でもさして生活は変わらないでしょうに。女性への配慮が出産子育て前提で設定されている分、独身女性の方が大変なのに。
ledlizerd 女性も一緒だよ。そこわざわざ男性で括ると人が少なくなって蓋されやすくなるから括らない方がいいんじゃないかな?
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仕事仲間で夕飯食っているときにテレビで子育ての話題が放送されていた。
普段はそんなこと考えないんだが、ふと「そういえば子育てしている人は家族や社会全体に生かされているけど、俺たち独身は仕事以外では憲法程度でしか人権保障されていないよな」って感情に包まれてしまった。
親や兄弟がいればまあギリギリわかるが、はっきりって子供のいない人が親戚から受ける扱いなんて「血のつながった他人」以上のものはない。そこに子供がいるだけで加わるバフは独身のそれとは桁が違いすぎる。
金銭面だけじゃなく、行政や職場からも扱いに明確な温度差がある。単純に人としての扱いの基礎ポイントが違う。
バイトと正社員以上だ。もちろん子供がいるからって理由で過度な配置転換を強いることも昔はあったんだろうが、今はそれも少なくなっている。
俺も仕事ができる程度でイキッてられるのも10年もないだろう。逆に、結婚しろとか言われない社会だからこそ、結婚して子供作る人がどれだけ頑張っているかが可視化された。
俺たちに与えられる評価は「独身だから金持ってるんでしょ」や「子供いないなら残業できるよね」や「若くない上に結婚もしていないなら仕事くらいちゃんとやれよ」って感じに益々なるだろう。
大病患ったら自分の価値はどこにあるのか。婚活失敗し続けてる俺の評価って何なのか。税金払って趣味に金銭投じているとはいえ、子供を含む家族と個人では価値が違いすぎる。
自分がいなくなっても誰も困らないだろうが、子供や伴侶がいる人は明確に不幸になる人がいる。
孤独に生きることには慣れているが自分が老いていくことを自分だけで受け止めきれるかは未知数だ。
「君たちはどう生きるか」感想。
具体的なネタバレはそれほど無いと思うが、作中のかわいい一キャラクターのみ個体言及する。
一言で表すならば、眠りの浅い時に見た夢。
ナウシカ、ラピュタ、トトロ、魔女の宅急便、紅の豚、もののけ姫、ハウル、ポニョ、そして風立ちぬといった宮崎駿歴代作品イメージボードをブンブン振り回されて巡らされた。
呆然とした。
映画が終わった時には、なるほどね、と口から漏れていた。何故広告を打たなかったのか、得心したからだ。むしろ広告が打てなかったと言う方が正しいのではないかと思う。
ストーリーが訳がわからんかったのは別にいいというか、この作品自体が夢みたいなもんだからどうでもいい。
まず引っかかったことの第一、台詞回しが説明的だったのに結構なダメージを受けた。
映像だけで説明できているはずのシーンで重ねて行動の意図を口に出して「今この台詞言う必要あったか?」となったのが、覚えている限り少なくとも二回はあった。
他にも感情の流れの描写がなく、どうにも唐突に結果だけが放られる台詞が多かった。細田守を彷彿とさせる台詞回し。辛かった……
私はキャラクターへの共感については特に必要性を感じない方なのだが、感情の流れだけはしっかり描いてほしいと思っている。その流れがブツブツ途切れていて、最後に繋げたい結論だけを口にさせていて、気持ちが悪かった。
それも意図的なのかもしれないが。
第二にショックだったのは、ワラワラがただ可愛いだけのゆるキャラだったこと。
駿の中にはもうマスコットになりうる「可愛くて、でも不思議な」キャラクターはいないんだなと痛感した。
安直でなんの捻りもない造形には、宮崎駿の原体験や自然の中にある生命の伊吹を感じることができない。そこに「いる」必然性は描かれず、ただ丸く、かわいい、特徴の廃された「マスコットらしいマスコット」でしかない。
子供向けにフックとしてマスコットが要るだろうという「思いやり」もしくはジブリと言えばという商業的要請から出されたキャラクターにしか感じられなかった。
DNA螺旋なことは分かるが、それにしたって安直なデザインには宮崎駿の興味・関心が感じられない。
まあそこは今の宮崎駿にとってはどうでも良かったのだろう。でもシンプルながら風変わりで、動物や幼児の見せる原初の感情や愛嬌を細やかに描いたキャラクター達を愛していたので、個人的にショックが大きかった。
現在の宮崎駿の中で鮮やかに表現されるのは、戦争であってファンタジーではないというのは今作を観て強く感じられた。
最も切実にこちらに訴えかけるのはやはり空襲のシーンであったし、街が燃え、人が炙られ彷徨うシーンだった。
主人公が自らを傷付け、結果二兎を得るが上手いこと加減できず割と深い傷になる小賢しさと迂闊さも少年らしく良かった。
背後に不穏さが漂う陰鬱な現実こそが「今」の宮崎駿なのだろう。現代情勢からも必然だろうとも思う。
私は宮崎駿の、普通エンターテインメントに乗りきらない切実で繊細なものを、エンターテインメントという砂糖をまぶして結実させ、本来のターゲット外の人までより広く世に送り出す手腕にこそ心酔していた。
「風立ちぬ」なんかはその真骨頂で、あんな純文学を大々的にお出ししてきたのは正気ではないと思いつつ狂喜乱舞したし、そこに込められた宮崎駿の諦念を目の当たりにし、これで創作活動を終いとするのは悲しすぎると涙した。庵野が棒すぎて頭に入らないから嫌と内容以外の部分で周りに否定されたのも悲しかった。
結果的に言うと「風立ちぬ」は宮崎駿の終点とはなり得ず、私の望みは叶えられた。
「君たちはどう生きるか」を鑑賞し、ここまでただ狼狽した心情を書いてきたが、今の宮崎駿に非常にショックを受けつつも、なんとなく心穏やかになった部分もある。
宮崎駿作品から既にひりついた表現への欲を感じなくなったのは、それはそれで救いであるとも思う。
そういう意味では、私にとっても「宮崎駿」への餞というか、終活になった。
どんなに作品の底に込めた意味があろうと、こちらに伝えようという意思が感じられない、というか作品を観ながら「伝えたかったもの」を考える余地がある、物語に没入できない時点で出来の悪い作品と考えているので、作品単体で言うと★1なのだが、監督が宮崎駿ということを加味すると★3になってしまう。
「君たちはどう生きるか」を宮崎駿ではなく、例えば米林宏昌あたりが作っていたら私は激怒し、オマージュを大義名分にジブリブランドを体良く利用して棄損するなと気炎吐き散らして暴れ回っていただろうが、宮崎駿ならばこれを作る権利がある。
サンソンの流れ
(1) まず、番組冒頭にCMなし音楽なしで「現在、一部世間をお騒がせしている…」と釈明から入ります。
(2) 自分たちはプロのミュージシャンとして云々…と御高説を賜ります(玉音放送)。
(3) おそらく「性加害」「ジャニーズ」という単語は一度も使いません(重要)。
(4) 「それでは番組をお楽しみください」と通常の番組が始まります。
期待していた人々を中心に「独善的だ傲慢だ」とSNSで炎上しますが、そもそも達郎さんは昔からずっとこんな感じです。
記者会見無理。映像無理。インタビューもお気に入りの相手だけ。音声と活字のみ。100%自分が支配できない場所には出てこられません。皇室のメンバーかよ。
今後はCMや楽曲提供の仕事はなくなり、今よりも小規模の全国ツアーをコアなファン相手に行う形になると予想します。
ラジオも終わるかも(スポンサーが引く)。そろそろ音楽活動も終活に入る年齢です(70歳)。
ぼくはコロナが終わって活動を再開したジャンクフジヤマと地元に帰ってバイトしているらしいポセイドン石川を応援しようと思います。