はてなキーワード: 毎日とは
先日とある婆さんと話をしている時に、婆さんがこう言った。「好きなものを買い物かごにぽんぽん入れまくるような買い物をしたら幸せだろうね、コストコなどで好き放題買ったら10万円ぐらいで足りるかな?20万円ぐらい必要かな」と。
それから数時間後にふと気づいたことがある。それは、コストコで20万円分の買い物をすることでなぜ幸せを感じることができると思ったのかだ。そして僕が辿り着いた答えは、コストコで20万円分の買い物をすることは、非日常な体験だから幸せを感じると思ったのではないかという事だ。
たぶん僕達人間は、毎日退屈している。機能と同じ今日を過ごし、明日もまた今日と同じ明日を過ごす。その繰り返し。そんな事脳内のどこかで漠然と感じていて、それを退屈だと思っているのかも知れない。だからこそ、ちょっと変わった体験がしたいと考えているんだと思う。そしてちょっと変わった体験の一つが、ばあさんにとっては爆買いなんだと思う。
つまり婆さんは、爆買いで幸せを感じることができると思っていたのかも知れないが、もっといえば非日常的な体験をすることができれば、20万円を払わずとも幸せを感じることができるのではないだろうか。
冒険こそが幸せと言ってるわけではない。コンフォートゾーンから出なくてもいい。なぜかと言うと、爆買いはコンフォートゾーンから出ているわけでも冒険をしているわけでもなんでもない。今の生活の延長線上にある「やってみたいこと」にすぎないからだ。そうであれば、今の生活の延長線上にあり、尚且つお金をそこまで払う必要がない「非日常的な体験」を探し、それをやることでしわ背を感じることはできないだろうか。
そんなものが見つかっていれば、みんなやってるのかな
別に俺はいらないんだよ、ちょっとしたプリンとかそんなんだろうから。
でもね、すげームカついた。ものすげームカついたんだよね。なにもないのに差別されてるなーって。
女性は食べる量が少ないから割引されるのが是とされるのに、こっちは量増えてるし。
こういうナチュラルに少し偏らせるみたいなのが積り積もって、今の日本の「男は馬鹿にしていい」みたいな風潮につながってるんだなーって思った。毎日少しずつ暮らしづらい、それが男性。
例えば、毎日朝に作業環境を作って、帰りに作業環境をちゃんと片付けるとか、俺には難しいんだよね
作業環境を一度作ったら、そのタスクが終わるまでずっとその作業環境をハイバネーションというかサスペンドというかしたいので、
それで結局、出しっぱなしになっちゃうんだよね…😟
他人からすると床に物が置きっぱなしだったり、散らかってるように見えるわけだけど、自分は作業環境に埋もれてる方が落ち着くというか…
毎日が忙しく感じる。
休日はたまった家事や平日の作り置き・子供の世話でいっぱいだ。先ほど終わり、子供の離乳食まで50分ほどの猶予が出てこれを書いている。
Twitterやはてななんか見ている場合じゃない。なんだけど、この50分の使い道は増田に駄文を書くのに使ってしまっている。この後離乳食~寝かしつけ~夜ご飯~風呂で22時、子どもの明け方対応のために寝る時間だ。毎回の土日がそんな感じで、祝日があるとだいぶマシになる。明日は大きめの掃除に取り掛かれるだろう。
平日はテレワークで通勤時間が減った分、家で家事や子供の相手ができるようになった。なったは良いが、通勤中のなんとなくスマホを眺める時間がなくなった。あの時間は焚き火を見ているような時間だったのかも。
書き出してみると実は子供に時間をたっぷり使っているだけなのかも。
10年後にはヒマになって嘆いているんだろうか。
「余計なことしやがって」
「そんなところに金回すなら俺たちの給与上げろ」
とまじで思ってますね
毎日載せられてる満員電車の設計に関わってくれてありがとうとか
思ってるわけないやん
中高年期の勉強の続け方のコツ、仕事しながら大学で学んでる人などのコツを教えてほしい。
最初の大学を卒業した後、通信制大学や社会人向けの修士課程などを経て、35歳までに学士3つ、修士1つ、博士1つを取得した。学士は文系が2つだが、残りは理系である。趣味で人文学領域の学びを継続している。
自分の仕事はホワイトなので、仕事に関係しない分野で学びを深めていこうと思い、学部〜修士レベルの学びを続けていこうと思っているが、35歳を超えた辺りから、明らかに文系の本や論文を読む体力が衰えた。
普通に運動習慣を作れば読書などの体力も戻るかもしれんと考え、スパルタンレースに出るようになって、毎日高強度インターバルをやっているが、文学部的な学びをちまちまと続けていく意欲は戻らない。
きっかけかどうかは分からないが、これまで年に10本ぐらい観た映画の批評を書いてきたが、ここ最近、箸にも棒にもかからない映画批評が多く、これと同じレベルのことをする意義を感じなくなり、批評も映画鑑賞も辞めたところ、他の領域にも無気力が侵犯してる気もする。6年以上、通信制大学などを活用して人文学を学んできたが、これ以上は時間の無駄で、もっと社会の役に立つ学問に転向した方が良いのかとも悩んでいる。
基本的にSNSやネットを見てニヤニヤして過ごしてるけど、争い事にはあまり近づかず、趣味が合う人の投稿とか気持ちが明るくなるものを選んで見ている。読書したりもしている。
ライブを聴きに行くのが趣味なので、同好の士と和気藹々と語ったり、みんなで集まって飲んだりすることも多い。
同年代よりも、少し年上の50代半ばやアラ還の知り合いが多いので、いろいろかわいがってもらっている。男女問わず独身の知り合いも多いし、既婚者の知り合いもその年になると子育ての手が離れているから楽しく一緒に遊んで過ごせているよ。
趣味つながりの知り合いが多いので、飲み会の誘いも多いし、飲み会の幹事を任されることもあるので、行きたい店の情報収集もよくしている。
いろいろスキルアップもしたいけど、勉強はサボってるなー。いろんな業種の知り合いがいるので話を聞くのが面白いし刺激になる。
やりたいことはたくさんあるけど、毎日が忙しくてなかなかね。
1人でライブ遠征に行くこともよくある。たいていのところは1人で行くし、各地の知り合いと落ち合って飲んだりしている。
単独行動はすっかり慣れました。
こんな私でも、10年前までは精神疾患を患って闘病していたので、知り合いや友人がほとんどいなかったけど、健康を取り戻して趣味を満喫して10年経ち、たくさんの知り合いに囲まれて楽しく過ごせているから感謝だよ。
長崎が毎日雨が降るというイメージをお持ちの方が多いかもしれませんが、実はそれは少し誤解があります。
「長崎は今日も雨だった」という歌の影響: この歌がヒットしたことで、長崎は雨が多いというイメージが定着してしまいました。
九州全体の気候: 九州は梅雨前線がかかりやすく、他の地域に比べて雨が多いというイメージがあるかもしれません。
地域差: 長崎県内でも、場所によって降水量は大きく異なります。普賢岳周辺は特に降水量が多いですが、長崎市など他の地域はそれほど雨が多いわけではありません。
海洋性気候: 長崎県は、対馬海流の影響を受けて温暖で湿潤な海洋性気候です。
梅雨期: 梅雨期には、年間降水量の約30%にあたる雨が降ります。
台風: 台風シーズンには、まとまった雨が降ることがあります。
毎日雨が降るわけではない: 長崎は雨が多い地域ではありますが、毎日雨が降るわけではありません。
場所による違い: 長崎県内でも、場所によって降水量は大きく異なります。
季節による違い: 梅雨期や台風シーズンは特に雨が多い傾向にあります。
長崎県の気候について、より詳しく知りたい場合は、以下の情報も参考になるかもしれません。
長崎県の気候に関するウェブサイト: 長崎県の観光情報サイトなどには、気候に関する詳しい情報が掲載されている場合があります。
気象庁のデータ: 気象庁のウェブサイトでは、長崎県の過去の降水量データなどを確認することができます。
まとめると、長崎は雨が多い地域ではありますが、毎日雨が降るわけではありません。場所や季節によって降水量は大きく異なります。
・地方税
・所得税
・健康保険料
・国民年金
などを支払われるのが、とにかく辛い。
・食費:1200円/日
・家賃:1200円/日
・地方税:1000円/日
・健康保険料:1200円/日
・国民年金:700円/日
・通信費:100円/日
・冷暖房費:200円/日
食費を抑えている意味がない。
いや、実際にはこれに所得税や消費税が加わるから、さらにえげつない。
国民年金の崩壊を認めて、いままで積み立ててきたお金を一括で返してくれたら、かなり景気がよくなるんじゃないかなぁ。
私の場合は、積み立て合計の200万ほどの現金が一括で返却されたら、ちょっと未来が明るくなるし。
毎日の出費も、国民年金の積み立てが減るから、だいぶ楽になるし。
年寄りを若者が支えないといけない、という一番の諸悪の根源が国民年金の仕組みにあるわけだから、
これが崩壊すれば、「年寄りを若者が支えないといけない」という根拠は乏しくなるわけで、若者の不満も減るだろうし。
健康保険料で毎日1200円も取ってる割に、まださらに医療にかかれば3割負担をさせられて、
毎日1200円ってよっぽどよ。それが最低ラインとかあほらしすぎる。
自分は共働きの両親の元、不自由なく育った。持ち家に住み、車は二台(地方なので)、進路も私の意見を尊重してくれ、私大理系の修士の学費まで出してくれた。海外旅行にも一度連れて行ってもらった(私の地元では、高校生までの間に海外旅行にいける人はほとんどいない)。
そんな私が得られなかったこと。それは親からの、「あなたのことが大好き」「愛してる」といった言葉。これがなかったから、ことさら困ったという記憶はないのだが、もしこうした言葉をかけられて育っていたら、自分はどのような人間になったのだろうかと思う。
私は自己肯定感が低いのだが、自己肯定感は高くなっていただろうか。
なので、今4歳の娘には、「あなたのことが世界で一番大好き」「世界で一番かわいい」と言って育てている(実際に本心からそう思っている)。
子供は自己肯定感の高い子供になるだろうか。甘やかされたダメな子になるだろうか。でも、自己肯定感高い方がよいだろうと思って、毎日言い続けてる。
本気でやってたら8時間なんか全力で仕事できるわけがないのにな
アホ上司の時にガチで分単位トイレ休憩まで全部記録して毎日送りつけてやったことあるわ
流石にアホでも黙った
まぁ、普通にクビですよね、と思っていたら、なんと新幹線通勤が許可されて泣いてる
ワイ、盛岡でずっとプログラミングとハード設計の中間のような仕事をやっていたが、コロナ禍で転職、首都圏のメイカーに潜り込んだ。
基本的にはテレワーク勤務。普段は月に2回ぐらい出社。忙しい時は2週間とか首都圏にある工場とかで詰めることもあるが、だいたいこれぐらいでやっていた。
ところが、いろんな理由でテレワーク不可、タコ部屋に出勤しろという命令が下った。
ああ、これクビになるやつや、と思っていたら、なんと新幹線通勤が許可されてしまった。
毎日日帰りしてもいいし、泊まってももいいし、とか言われてしまった。
ま じ か 。
ワイはそこまでのパフォーマンス、バリュー?は出せないので、ワイを雇えば雇うほ赤字なんだが
いいの?
と言うことで
で泣いてる。はーやばやば。
会社の拠点って事で言えば地元にはあるんだよ。だけどメイン業務がリモート勤務不可になった理由がちょい特殊で、会社の方針変更とかじゃないのでおいそれとそこに勤務する訳にもいかない感じの奴なの。
前は気が向いたらその拠点へ出社して仕事してもOKだったけどそれも禁止になった。
全社の方針は相変わらず、リモートワークを基本としてその時必要な場所に出勤すると言うやり方。単身赴任は基本的に禁止という状態。
自虐風自慢? 勘弁してよ…。でも生活リズムは整うかも。がんばる。
新幹線の中ではパソコン開くのは禁止の仕事です。でも資料読みとかはできるかなあ。残業は付けらんないけど。
あーもう、マジ不安です。どうなっちゃうんだろ。会社はおまいやめろって感じなのかな。本音は。
まぢ涙出てきた
おまいら地味に反応してくれてありが㌧
せいぜいがんばりますわ
単身赴任禁止いうのは、会社としては手当も何も一切出さないって話です。
単身赴任をさせる人事発令は基本的に不可、単身赴任になっている人は単身赴任が解除されるように業務を調整したり、仕組みを変えたり、設備を整えたりしろということが基本になってる。
そう言う意味だとやっぱりあれかなー、自主的に転居てくることを期待されてるのかなあ……。でも諸事情でそんなことできないんだけど。
昨日の朝、推しがX上で私をブロックしていることに気がついた。
推しの周囲にいるスタッフさんが引用リポストした引用元が見えなくて、推しのアカウントに飛んだところ
「〇〇(推しの名前)はあなたをブロックしています。」と表示され、目玉が飛び出るかと思った。
このエントリはその人たちが「推し ブロックされた」で検索した時、その心に寄り添いたくて書く。長くなります。
ブロックに気づいたあと、私はすぐに
②自分のどのポストがブロックの原因になったのか を確認した。
まず、サブ垢からは推しのポストを見ることができた。最新のポストのいくつかに見覚えがない。10日ほど前のポストをタイムライン上で見た覚えがあった。
推しが私をブロックしたのはここ10日間ほどの間に起こった出来事らしい。
誤操作?とも思いたかったが、誤フォローと違って誤ブロックでは手順が多すぎる。推しが意図的に私をブロックしたのはほぼ間違いない。
次に私は直近の自分のポストを見直した。その時はまだ信じられないと思っていた。
というのも、ポスト内容には注意を払っている方だと自分では思っていたからだ。
ブロックされた推し活用に使っていた。100人を少し超えるFFがいて、日々推しが出ているコンテンツの感想を書いたり、FFと交流したりしていた。
感想ポストをする時はハッシュタグをつけていたし、推しがエゴサやパブサをしていることは知っていたので、以下のようなことに気をつけていた。
(必ず「今日の動画の〇〇さん、最高だった」というようにさん付けで書いていた)
・極端な愛情表現を含むポストをしない(ガチ恋を思わせるようなものなど)
※箱推しで、〇〇が推しメンというわけでもなく、リアコとかでもなかった。
なぜ自分はブロックされたのだろうか?その思いで自分のポストを振り返るが、どれが推しの地雷を踏んでしまったのかわからない。
というかこうなると逆に、全部が可能性があるように思える。
メンバーのうち1人だけ(〇〇ではない)最近仕事が忙しそうだと書いたことか?
タイムライン上でバズった話題について「この件について〇〇はどう思うかな?」と書いたことか?
〇〇が童謡を歌っていたのに対し、「幼少期〇〇がこれ歌ってたのかと思うと愛おしいな」と書いたことか?
〇〇が自分のラジオ番組で大暴れしているのに対して、「あいかわらず情緒安定してないw」と書いたことだろうか?
わからない。。。
正直「ブロックされるほどの内容か…?」と思っている自分がいて、ハッとする。
どのサイトでも「ブロックされるようなことはしていないと思っていても、大抵の場合あなたが何かしてしまっているのです。」と書かれていた。
今回はこっちが先に推しの気分を害しているのだ。推しは自分自身のタイムラインを清浄に保っただけ。
自分はむしろ加害者であり、その上自分のなにが推しを不快にしたのかもわかっていない。最悪だ。
このアカウントでは推し界隈で繋がったFFさんたちと楽しく交流してきた。
でも今は、私だけが、推しから「お前はいらない」と拒絶を突き付けられている。
いや、「お前はいらない」は言い過ぎなのかもしれない。
以前から〇〇は自分のタイムラインを清浄に保つためにわりと気軽にブロックをしていることを話していた。
その時はまさか自分に関係する話だとは思っていなかったのだけど。
今でも他のメンバーはフォローできているし、番組の公式Xなどもフォローできている。
スタッフさんたちが私の感想ポストにいいねをくれることもある。
コンテンツは今まで同様に楽しむことができるし、FFたちとの交流もできる。
できなくなったのは「〇〇のポストを見ること」と「〇〇が私のポストを見ること」の2つだけだ。
前者は、別アカウントで〇〇をフォローして、通知を入れておけばいい。
後者は、別に元々見てほしいと思っていたわけではない。ハッシュタグをつけている時は「もしかしたら本人に届くかな」くらいの気持ちはあったが、
メンションしたりリプを送ったり、DMを送ったりしたことはなかった。
つまり、失ったものは極めて小さく、ほとんど今までと変わらないのだ。
でも。と、どうしても思ってしまう。
私は推しとの間にある境界線を踏み越えたことはないと思っていた。
「番組の感想はハッシュタグをつけてどんどん呟いてください」のアナウンス通りに応援の気持ちをこめたポストを書いて、イベントに参加したりしていた。
でもそれだけだ。
DMで凸ったこともリプライで凸ったこともなければ、動画のスクショを載せるなどのグレーとされることもしていない。
彼が「ここからここまでが公の自分。これ以上は踏み込まないで」と、線を引いているのを想像し、その線を越えようとしたことはなかった。
でも、私は他のファンと違って彼の「タレントとして公にしている」Xのポストをもう見ることができない。
なぜだ。不当では?
私のポストの内容の何が彼を不快にさせたかわからないが、むしろ彼の方が境界線を踏み越えてブロックという手段に出ているのでは?
「悲しみ」が「怒り」に近い感情に徐々に移るのを自覚して、またハッとする。
また被害者ヅラしているな、私は。私は被害者じゃない。加害者のはずなのだ。
ブロックされたことで推しとの距離が急に遠くなったかのように感じたが、実際は違う。
元々この距離だったのだ。元々私が推しのことを見ていただけで、推しは私のことなど何も知らない。
〇〇の視界に私が入り、〇〇が不快に感じたら、私が覗き込んでくる窓を閉じることが彼にはできる。彼は自分のためにそうしただけだ。
もしかしたら同じ状況になった人がいるかもしれないので言っておくが、以下の行動は悪手すぎるのでやめた方がいい。
①サブ垢などを使い、本人に対して
〇〇からブロックされた件について、代わりに話をしてほしいと頼む。
③現場などで直接会えた時に、ブロック解除してもらうよう頼む。
私はこれらの行動を実際に起こさない程度には冷静だが、理性を脱ぎ去った本心ではこれらの行動を取りたがっている。
だから今そうしたいと思っているあなたの気持ちが私はわかると思う。でもその上で、やめた方がいいと言える。
まず、ブロックした本人は「もうあなたの存在を視界に入れたくない」と思っている。
私たちにとっては一大事である。毎日当たり前にあった大好きな存在から、突然理由もわからず完全無視宣言をされてしまった。嫌われてしまったのだ。
でも、インターネットを利用する以上、入ってくる情報を健全で清浄に保つ責任を人はそれぞれ自分で負わねばいけないのだ。
なぜブロックされたのか、理由がわからなくて困惑しているだろう。私もそうだ。
「こういうことする人はブロックします」とあらかじめ明示しているタレントさんもいるだろう。誠実なことだ。
でも、本来ブロックなんて、本人が嫌だと思ったり不都合だと思ったら好きにしていいのだ。
つまり、〇〇は何ひとつ悪いことをしていない、と私は思う。これは本当にそう思う。
何ひとつ悪いことはしていないが、その結果ただ私が傷ついただけだ。
彼にとっては何十万人もいるフォロワーの中の1人が、ただ理由も理解せずに悲しんでいるだけだ。
サブ垢で凸るのは、変装した上で待ち伏せして突撃するのと同じだ。
そんなことされたら警察を呼ぶしかないのと同じで、ただ静かに距離を置かれている今の状態より関係が悪化するのは明らかだ。
推しの周りの人にDMで相談するのもなんの意味もない。そもそも〇〇の周りの人は友人や仕事仲間であって、親でも保育士でもないのだ。
周囲の人が〇〇とそのフォロワーの人間関係の面倒を見てあげる義理などない。
「この子が〇〇にブロックされたって言ってるんだけど、なんでブロックしたの?ブロック解除してあげたら?」なんて
わざわざ世話を焼きにくるようなやつは「お節介」以外の何者でもないし、そんな助言でブロック解除するような人なら、最初からあなたをブロックなんてしない。
この行動によってブロックが解除されることはないし、なんなら相談した周囲の人からも「この子は変な子だな」と思われてブロックされる可能性すらある。
直接会えた時にブロック解除をお願いするのも良い結果になるわけがない。ライブやイベントは楽しむために行くところだ。
そこでもし、推し本人と話す時間を得られるとしよう。その限られた時間に「ブロック解除してください」と言ってみていい空気に転じるわけがない。
「解除するね」となるわけがないだろう。楽しい空気が台無しになるだけだ。
結論、〇〇からブロックされたことに関して私にできることは何もないのだ。
私が今できること、それは一つしかないし、頭ではちゃんとわかっている。
彼らのことをこれまで通り応援することだ。Xアカウントが見えなくなったからといって、それは彼らの活動のほんの一部にすぎない。
今まで通り公開されるコンテンツを楽しめばいいし、なんならポストはサブ垢で追えばいいし、ほとんど全部今まで通りだ。
これまで以上に発言に気をつけて、これまで通り応援のポストを書き込む。
もしかしたら〇〇には届かなくても、〇〇の周囲の人が私のポストを目にしてくれることがあるかもしれない。
〇〇と話すときに「Xでこんなこと言ってくれる人いたよ」と話題になることがあるかもしれない。
その時に〇〇が「なんで俺にはそのポストが見えてないんだろう?」と思って私のアカウントを探して、
「あ、俺この人ブロックしてたんだ。なんでだっけ」と、軽い気持ちでブロック解除してくれることがあるかもしれない。
薄い薄い限りなくゼロに近い望みだが、将来的にブロック解除される可能性があるとしたら、そんなことしか思いつかない。
というか、そんな夢想をすることにしか、気持ちの置き所がない。
だけど。
ブロックされる前と今とでは全くちがう。私の心が。
いつもはただ楽しみにしていた動画も、〇〇が映ると心がチクリと痛む。
この人は私には自分を見てほしくないと思っている人なのだ。なのに私は彼を見ている。
見るなと言われていながらチラチラ覗いているような、居心地の悪さが襲う。
〇〇のポストについてFFさんたちがキャッキャと沸いているのを見て、今まで自分もその輪に加わっていただろうけど、今は違う。
私1人だけ、サブ垢に切り替えてこそこそポストを見に行かなければいけないし、リアクションなんてとてもできない。
〇〇の周囲の人が引用リポストをしている。そこに現れる「このポストは表示できません」の文字。〇〇が私をブロックしているという事実がまた突きつけられる。
同じ界隈の仲のいい人たちは、これがどんなに辛いことで、私が悲しんでいるか理解してくれるだろうが、彼らの中には今でも「大好きな〇〇」がいるのだ。
彼らの中にある〇〇像を不用意に壊したくはない。だって私も〇〇が好きだから。
FFさんから「現地でお会いしましょう」と優しい言葉が送られてくる。
私は〇〇からブロックされている。そのことを忘れて、悲しみを混ぜずに楽しみたい。
でもどうしても悲しい。
最後に、〇〇本人や、タレント活動をしてファンをブロックしたことのある人がこの文章を読んでくれているとしたら、その人に向けて。
これまで楽しませてくれてありがとう。これからもあなたたちの見せてくれるコンテンツを楽しんでいいのだと思ってた。応援していていいんだと思ってた。
あなたたちが見せてくれるコンテンツが好きなのは本当だから、これからもファンでいさせてほしい。
イベントのチケットを買ってしまっているし、イベントにも行きたい。
Xでの発言は怖いから、今までのようにはしないかもしれないけど、せっかく繋がったFFさんたちもいるし、続けたいと思っている。
でも、これから先、あなたたちを見ている時、私が悲しいと感じるのが変わらなかったら、
その時はもうあなたたちを見ないようにする。
私がファンを離れるのは、私があなたを嫌いになったからじゃない。
あなたは私のことなんて知らないし、たぶん本当は好きでも嫌いでもない。
でも、「あなたは俺の視界に入らないで。俺のこともこれ以上見ないで」ってやっておいて「好きでも嫌いでもない」わけないよね。
私は直接お話したこともないあなたに突きつけられたよ、「お前は嫌い」って。
「お前は嫌い」って言われたら「それでも好き」って言い続けるより、
「そっか、ごめんなさい。」って立ち去る方がよっぽど健全だよね。 あなたも本当はそうしてほしいと思ってるよね。
それは本当に素晴らしいことだと思う。
大谷のようなとんでもない化け物ですら、「単に遊ぶのがすごく上手なだけの人」で終わるということに、ある意味でとても大きな価値がある。
「貧困を減らす」とか「病気を無くす」といったリアリストな価値基準の上では無価値なものが、社会において極めて価値のあるものとして受け入れられていること、その象徴として大谷は実に偉大だと思う。
大谷がホームランを何本打った所で、貧しい人のお腹が膨れるわけじゃないし、自然が守られたりもせず、大谷のことを知らない誰かの明日が素晴らしくなったりなんて絶対にしない。
どこかFラン大学の研究室で教授に言われるままに実験の手伝いをしている冴えない大学生の1日の方が、人類にとってはもっとずっと大きな一歩を歩んでいることだろう。
そんな「ある意味では全く無価値なホームラン」が世間をこんなにも騒がせている。
いい歳をして毎日ずっと玊遊びをしているような、言ってしまえば「凄いスポンサーがついているだけのニートのような連中」が、ヒーローとして扱われ、その姿をテレビで見て他人のことであるはずなのに「これを目撃できてよかった」と自分の人生にささやかな満足を感じている人がいる。
凄いことだよ。
現象に対して物語に寄るブランディングを行い、想像力を持つ者にしか知覚できない頭の中だけにある価値を無から作り出しているわけだ。
これは凄い。
有限の資源、有限の時間、有限の人生、有限の未来、それらの中で少しでも幸福に生きる方法として、人類は「想像力の中にだけある価値」を見出してきたわけだ。
これこそが本当に素晴らしいことだと俺は思う。