はてなキーワード: 24時間テレビとは
24時間テレビに始まり、笑ってコラえて、ケンミンSHOW、行列、さんま御殿等々……。
日テレ好きな家族がテレビのチャンネル選択権を有している関係で、嫌でも目にする機会が多くなっている。
日テレの番組は面白い。しかし、どの番組も優等生といった感じで、ある意味で安心して見ていられるが、教科書的な規範を逸脱することは(あまり)ない。
安心感というのは、日本社会での常識や価値観を、ちゃんと踏まえているということに尽きる。
ケンミンSHOWはそれが顕著で、特定の地方公共団体に対する印象(常識、価値観)を軸に、番組が展開する(Ex:北関東は云々)。
しかし、その常識や価値観そのものにメスを入れるようなことはしない。むしろ、偏見ともいえる常識を再強化しているようにもみえるのだ。
偏見を改めようとする試みも、「常識的に」行われるだけで、揺るがされることはない(Ex:しかし、素晴らしい特産物が云々)。
さんま御殿でのトークも、さんまの司会芸としてパターン化されており、ゲストの話はさんまの理解できるレベルに調整され、結果としてわかりやすい常識や価値観に変換されて終わりである。
多くの番組が教科書的過ぎて息苦しい。教科書的に振舞えと言われているように感じるのだ。世間一般の感覚に従えと。
24時間テレビでの障がい者は清廉であれという言外のプレッシャー。日テレの番組は、世間一般の感覚を強化する。
デブはデブらしく、ハゲはハゲらしく、イケメンはイケメンらしく。
日テレの番組は、そのズレを許さない。許されるのは、わかりやすい教科書的なズレだけだ。
これってすっごく今流行りのPC関連な話だけど、2chはもとよりはてブでも宮崎氏の発言を白々しいものとして捉えている人が結構な数でいるので、自分なりに補足してみたい。
パラリンピックなんかで活躍するような、四肢が欠損した人物だろうか?
あるいは、24時間テレビなんかで見かける知的障碍の子供だろうか?
ひと口に障碍者と言っても、その病状、症状は様々だ。
例えば、脳に障害を負ったとする。後天的なもので多いのは、やはり脳梗塞。いわゆる脳の血管が詰まることで起こるそれは、急性期においては命に係わる危険なものだ。また、一命をとりとめたとしても、後遺症として深刻な障害を負うことは避けがたい。左の脳に梗塞ができた場合、右側の身体に後遺症が出る。四肢の麻痺やあるいは半身麻痺、言語障害となる場合も多い。
麻痺とは自分の意志で体が動かせない状態のことだ。それとは逆のパターンで、不随運動と呼ばれるものもある。自分の意志とは関係なく、体が動きコントロールできない状態のことだ。パーキンソン病の主な症状のひとつ安静時振戦などがそう。震えのような症状から手足をくねらすような動きまである。
こういったことを念頭に置いて、川上氏の提出したCGを観たとしよう。その動きはどんぴしゃであの障碍者の動きだ! というものではないが、四肢の奇抜な活用の仕方は、身体のコントロールがきかないそうういった方々を容易くイメージできるものだと言える。
おそらく宮崎氏もそういった連想により障碍者の友人に思い当たったのだろう。故に川上氏の「気持ち悪い動き」を面白がる態度を強く批判した。
要は、かなり平たく状況を述べるなら、駅で見かけた変な動きの人(あえてこう書かせていただく)を見て面白がる無邪気な小学生を怖そうなおっさんがゴラァ! とした、とでも言おうか。
……表題としてはこれで以上ではあるが、ポリティカル・コレクトネスを考えるうえで、個人的に気になることを書く。
今回の件は確かに川上氏の態度に嫌悪感を抱いたし、宮崎氏はそこを鋭く突いたなと感じている。
が、同時に川上氏に対して「他人の痛みが理解できていない」といった批判はできんなーとは感じている。
といのも今回は、自分がたまたまそういった障害を持った方を知っていたからにすぎないからだ。
こういった配慮を想像力だけで補うのは不可能だろうとは感じている。要は知識の問題で、それ故に川上氏を無邪気な小学生と例えたわけだ。
これが企業ならそういった豊富な知識を買うことができるんだろうけど、個人レベルにおいては難しいよなあと、2chやはてブの反応を見て思った次第。
結局のところ、「知らないものは配慮しようがない」といった話になってしまうが、そう考えたときにアイスバケツ・チャレンジのようなムーブメントほ重要なのかもなと思うが……(どんどんと取り留めなくなってきそうなので終わる)
ポルノのポルノたる所以は,女性の複雑な主体性を無視して,その劇中での人格を観客である男性の性的興奮を刺激することにのみ隷属させることにある。
で,24時間テレビ〜バリバラ近辺で知られるようになった感動ポルノもまた同様に,障害者の複雑な主体性を無視して,その番組中の人格を観客である健常者の感動を呼び起こすことにのみ隷属させることを指している。
食欲ポルノというのもあるらしいが,それもまた,料理本来の複雑なありようを無視して,その映されかたを視聴者の食欲を刺激することにのみ隷属させることを言う。つまり,本来は不要なクリームなりチーズなりが,本来は不要なほどに熱せられて溶けしたたっていた方が美味しそうなのであればそう見せる,ということだ。
だからポルノか否かの違いは,岡田斗司夫が言うように安直であるかどうかにあると言ってもいいのだが,同時に彼が言っている「感動させようとしているかどうか」にはない。
そんなの,誰だって感動させようとはしている。
ただ,感動させようとするときに,時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか,気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ,ポルノか否かの分かれ目はある。
クライマックスでいかにもなBGMを流すのは安直だと,岡田は安直に否定するが,話はそう単純ではない。
例えば対位法はいかにも安直ではない雰囲気を可能にする手法だと言えるが,何故そうなのかといえば,例えば残酷なシーンであればそれが持つ複雑さの中にある悲しさや可笑しさをBGMに担わせれば対象の複雑さの一端が担保されるからである。
しかし,本当の現実に寄り添えば,そもそもBGMなんて流れないわけで,何かしら音楽を流した時点で対象の複雑さを毀損してるとも言える。BGMが流れていなければ如何ようにも解釈できたはずの対象に,一定の方向付けをしてしまうからだ。
それでも,繰り返しになるが何かしらの芸術的作品を作るからには誰だって受け手に感動してほしいと思っている。ただ世界の複雑なありようが描かれていればそれが正義だというわけでもない。
もう一度言う。
感動させようとするときに,時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか,気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ,ポルノか否かの分かれ目はある。
つまり,例えば目の前の女性に対して,自らの性欲に隷属させようとして彼女の主体性を踏みにじるような,そんな行動様式で何かを伝えようとすることこそがポルノを作るという行為なのだ。
女性の,障害者の,料理(を丹精込めて作った料理人の心)の,その尊厳を一顧だにせず自分勝手な目的の手段にすることがポルノを生むのであれば,それはもはやレイプと言えよう。
感動ポルノに感動するということは,レイプの映像を見て性的興奮を覚えるのと同じくらい,道徳的には救い難く,精神分析学的には,まあしょうがないのかもね。
途中まで上手く行っていても、話すと断られました。相手の親御さんに反対された事もありました。
もし結婚できたとしても、子供は産むなと言われてしまうかもしれませんし隠し続けてもバレたら離婚になりそうです。
勿論、障害者のきょうだいでも結婚できている人も世の中にいますので、それだけが原因と言うつもりはありません。でも、そうでない人よりも不利になるのは確かではないかと…。
私自身の性格や色んな点にも問題はあると思います。でもそれだってきょうだい児である事が人格形成に関わっている可能性はあり、一体何処まで私個人の原因なのか。
とにかく、「障害者が身内にいる相手とは結婚したくない」という社会通念があるにも関わらず、
結婚したくともできない独身女性について語られる時、それが結婚できない理由として上げられるのは見掛けないのは何故でしょう。
ネットでも婚活関連の記事は沢山見掛けますが、家族の障害に触れられているのを見た事がありません。
辛いですが、家族に障害者がいる女性とは結婚したくない事自体は個人の自由だと思います。しかしそういった現象がまるで存在しないかのように、話題にならないのは納得がいきません。
家族に障害者がいる人とは結婚しないという不文律があるのに、少子化や未婚率について語られる際にはその問題は無視されるというのが不思議に思います。
家族に障害者がいるので子供を産まないという人も数多くいると思われるのに、それについても語られません。高齢出産によるダウン症の可能性が語られる事はあっても。少子化を語るならこの問題にも触れて欲しいです。
相模原の施設での事件や24時間テレビなどで障害者差別について語られるようになったのに、障害者個人の人生について語られることは多くとも家族に障害者がいる人の苦悩はあまりにも考慮されていないと思います。
その他にも家族の借金や宗教問題など、ある年齢以上になっても結婚できない理由は本人以外にも色々あると思うのですが婚活について語られる時には何の問題もない家庭で当人だけに原因があるかのように語れるのでとても違和感があります。
ポルノのポルノたる所以は、女性の複雑な主体性を無視して、その劇中での人格を観客である男性の性的興奮を刺激することのみに隷属させることにある。
で、24時間テレビ〜バラバラ近辺で知られるようになった感動ポルノもまた同様に、障害者の複雑な主体性を無視して、その番組中の人格を観客である健常者の感動を呼び起こすことにのみ隷属させることを指している。
食欲ポルノ(?)もまた、料理本来の複雑なありようを無視して、その映されかたを視聴者の食欲を刺激することにのみ隷属させることを言う。つまり、本来は不要なクリームなりチーズなりが、本来は不要なほどに熱せられて溶けしたたっていた方が美味しそうなのであればそう見せる、ということだ。
だからポルノか否かの違いは、岡田斗司夫が言うように安直であるかどうかと言ってもいいのだが、同時に彼が言っている「感動させようとしているかどうか」にはない。
そんなの、誰だって感動させようとはしている。
ただ、感動させようとするときに、時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか、気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ、ポルノか否かの分かれ目はある。
クライマックスでいかにもなBGMを流すことを岡田は安直に否定するが、話はそう単純ではない、
例えば対位法はいかにもハイドラマな雰囲気を出す手法と言えるが、何故そうかといえば、例えば残酷なシーンであればそれが持つ複雑さの中にある悲しさや可笑しさをBGMに担わせれば対象の複雑さの一端が担保されるからである。
しかし、本当の現実に寄り添えば、そもそもBGMなんて流れないわけで、何かしら音楽を流した時点で対象の複雑さを毀損してるとも言える。
それでも、繰り返しになるが何かしらの芸術的作品を作るからには誰だって受け手に感動してほしいと思っている。ただ世界の複雑なありようが描かれていればそれが正義だ、と言うことでもない。
なるべく複雑さを保ったまま、感動に向けて受け手を誘導したいというのがすべての作り手の想いだ。
だからポルノか否かの分かれ目は作り手の意図にあると同時に受け手の読解力にもある。
複雑さが捨象されていることに鈍感であれば何でも(ターミネーターでも)ハイドラマに思えるだろう。
あるいは逆に、一般にはベタでも、敢えてそこに身を委ねる可笑しさや悲しさや、果ては残酷さなどをそこに込めることで、ベタなハイドラマを超える感動を生むことができる。逆か。感動を得ることができる。
障害者を差別するなということは、手足足りないならそれだけ努力しろ!ということを突きつけることに他ならない。
健常者だったら頭が足りなけりゃ使えねぇやつだって罵られて搾取されるのが世の中。
それと平等に扱えというのだから、足りなきゃ努力と苦労で補えというのが当たり前なのだ。
それを勘違いしているから健常者と同じ生活をさせてやることが差別なき世界だと誤解してしまう。
健常者が住みよい作りをしていることが世の中の効率としてベストなのにも関わらず、余計なコストや面積を使ってバリアフリー化することは擁護以外の何物でもない。
NHKが24時間テレビに感動ポルノを批判する番組をぶつけて話題になっていたが、あれすらも言わせてもらえば完全なる擁護社会だ。
健常者だってちょっと病気になっただけであっという間に感動ポルノの餌食になる。
作者が死んだ後、残された子どもたちが感動ポルノの主演を生涯かけて背負わされ続けることだって決して稀な話ではない。
それだけではない。
震災の生き残り、重大事故の生き残り、テロの被害者の肉親、凶悪事件の被害者。
どれをとっても世の中にとって格好の感動ポルノ主演候補なのだ。
全てに同じ生活を保障しろというのは、差別主義の究極の形であり、被差別を受け入れた結果にしか成し得ないということだ。
なぜなら、自らの被差別を認めない限り、その恩恵にあやかることはできないからだ。
「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって / 前田拓也 / 社会学 | SYNODOS -シノドス- | ページ 2
小田嶋隆さんは、『超・反知性主義入門』(2015)のなかで、「本音」の痛快さが消費されていく現状に疑義をさしはさみます。
近年、「『学級委員長』的言説」が忌避され、「『本音』が、まさに『本音』であること自体によって免罪されるはずのものだということを、強烈に信じ込んでいる」(p107)人の声がとても大きくなってきているように感じます。
「善悪や正邪とは別に、『本音』と『建前』という座標軸が現れた時、無条件に『本音』を神聖視する考え方が力を持」ち、「『露悪的な人間ほど信用できる』という倒錯が生じ」ています(p109)。
引用されている部分以外で小田嶋というひとがどういうことを言ってるのかは本がないので知らないが、
ここで「『学級委員長』的言説」といわれているものはいわゆる「心にもない綺麗事(上の引用部では『建前』)」というやつだろう。
「心にもない」という部分が重要だ。
「綺麗事」の脆弱性は、まさに「本人が心にも思っていない」点にある。
だから、露悪的な『本音』トークが『建前』に勝つのは当たり前だ。信じていないものと信じているものが衝突したときに、残るのはかならず後者だ。
『聲の形』という漫画がある。映画化されて、昨日公開されたばかりの作品だ。
この漫画にはまさに「委員長」である川井という少女が出てくる。彼女のキャラを一言で説明すると、偽善者だ。
小学校のクラス内のいじめに消極的に加担し、しかしそのいじめが糾弾されるようになると「わたしは止めようとした」と一転して自己保身に走る。高校生になると入院したクラスメイトのために「千羽鶴を作って贈ろう」とクラスで提案する。自分の容姿の優位性や「涙は女の武器」であることを巧みに利用して周囲を操り、それでいていかにも私は良い人ですという面で歩いている。
しかし彼女は自分自身を偽善者だとは思っていない。「私はいじめに加担してない」と本気で思っているし、「千羽鶴を折ることが良いこと」だとも本心で信じている。
メタ認知になれたネット民からすれば「浅い」人間に思われるだろう。漫画で後半、彼女は自分の無意識の計算高さに勘付く展開になる。それは置いといて、現実にも「千羽鶴を折って送ることがいいことだ」と何の留保もなしに信じている人間はいっぱいいる。
それをネットでは「自己満足にひたりたいだけの偽善者」と呼ぶ。でも本当にそうした人々は「自己満足」なんだろうか。
こと千羽鶴に関しては「ごみ処理する手間がかかる」「送られる本人は千羽鶴なんかより欲しいケアがあるはず」などといった「送られる相手を慮れ」問題が絡んでくるので一概には言えないが、「良くなって欲しい」と虚心坦懐に、千羽鶴にまるでまじないでもかかっているかのように信じている人は一定数いる。
素朴な人々、とネット民なら言うだろう。
だがその浅薄な思いやりはかつては「本音」だった。今だってそうだろう。
それが、「建前」や「心にもない綺麗事」であると、いつのころからか批判されるようになった。
思いやりには相手の事情を勘案しない「浅い思いやり」と相手に寄り添った「深い思いやり」があって、後者だけが本当の「親切」であると、いつのころから、そういうことになった。
単に「こう言えば賢いように思われる」「こう言えば周囲の仲間たちにデキるやつだと思われる」という、昔からよくある付和雷同的な同調圧力の結果なんじゃないんだろうか。
「反知性主義」だの「本音主義」だの言ってる人々は、自分の「本音」が何で、どういう部分が「建前」なのか、一回も考えたことのない人たちなんじゃないのか?
これはすごくわかります。
隣近所の付き合いが減ったことで、助けを求めることのハードルが近年上がっているような気がしています。
助けてほしい気持ちはあっても、
自分で声を上げて助けてもらうことはためらわれる、というような感じ。
何もせずに助けてくれればよろこんで助けてもらうんだけども、といったような。でも、もう、関係が断絶されていて気づきようがない、みたいなことはあると思います。
でも、正直、他人を助けたいっていう人はそんなに少なくないと思うんですよね。
助けるっていうと大げさでためらう部分はあるけど、ちょっと手を貸すだけでもよければ、ってことなら、
見返りを求めるかは人によるかと、ただ、お礼の言葉は必要だと思います。
だから、もう少し他人を頼ってもいい気がしてるんですよね。もっとカジュアルに助けてって声をあげる人が増えて、カジュアルに助ける人が増えて、ありがとうっていう、そんな機会がふえたらいいかな、って思います。
この、他人に助けを求めるって問題に関しては、前に24時間テレビのドラマを見たときに、ちょっと痛感したところがありました。
事故によって車いすになった青年が、川に身を投じようとしている母親と子供に対して、これからの人生どうしたらいい、みたいなことに対して、一言いうんですよね。
検索したらあったので引用します。http://news.livedoor.com/article/detail/6929730/
”『助けて』って言えばいいんじゃないですかね? そういうのって、死ぬほど恥ずかしくて、情けないことなんですけど、結果、死なないから。大丈夫なんですって ”
あの人がこういうことをするのは今に始まったことじゃなくて昔からだし、なんで鬱憤晴らしなんていう風に言葉を濁すのかわからない。普通に男性差別でいいじゃん。あれだけ堂々とヘイトスピーチを書いてもスルーされるんだから、ポリコレってのは便利な隠れ蓑だね。
あの人はアイヌ差別の話題を書きながら男性差別を持ち出すことに違和感を感じないレベルのただの差別主義者なんだよ。私は差別と黒人が嫌いだを笑っちゃうくらい地で行ってる。しかも本人にはまるで自覚なし。その差別もカウンターの構造ですらないんだから、しばき隊以下。
記事の男性〜の部分を黒人とか韓国人とかに直せば異常性がわかる。異常と言ったけどネットではお馴染みの光景でしかないんだけど。記事の内容も都合のいいことだけ拾ったり嘘書いたり、それ系のサイトとそっくり。
他の部分ではいいことも書いてあるとか言う人いるけど、差別を煽る人ってそういうやり方をするものだから。宗教とか詐欺師が道徳方面から責めるのと一緒。
24時間テレビの車椅子登山のデマですら、親が障がい児をいじめている!って方向の内容だから。でも道徳的に正しいからデマを擁護しようとはならないし、他の差別を糾弾してるから黒人差別には目をつぶろうとはならないでしょう。
要するにアイヌから男性差別に持ってくような異常な差別主義者なだけ。それ以上でも以下でもなく、今回の件で話が通じないのもみなさんわかっただろうしかまう必要なんて一切ない。
24時間テレビで登山してた子供が殴られてました、虐待です、ってデマが出たじゃん。
んで「それはデマ」ですって訂正も出たでしょ。
そしたら「デマかどうかはどうでもいいんだよ」みたいな反応がわりと多くてさー。
いや、どうでもよくなくない?
お父さんが子供を殴りました、って情報が無責任にブンブン回ってんだよね。
Twitterって正直、デマはいっぱいRTされるけどそれの訂正ってあんまRTされないじゃん。
なのにデマか本当かどうかはどうでもいいの?
24時間テレビを叩いてるのって「障害者とその家族を思いやるあまり」みたいな正義の人が多かったじゃん。
なのに障害者家族がデマで間違った認識されてるの事実をどうでもいいと思うわけ?
自分だってあの番組を絶賛することはないけどさ、あれ見て偽善者がどうとか騒いでる人達ってこんなもんなの?
もうわけわかんない。
何でもかんでも疑念をいだいて、色眼鏡で見ようとしなきゃいいじゃん。
『自分たちの周りでそういうことが起こっている』
という話を聞いた。それだけでいいんじゃない。
本当は関心がないのに、コメントするから、脊髄反射的って言われるんだよ。
動物かよ。
24時間のテレビの件だって、偽善な番組でもそれで助かっている人はいるわけだ。
ただ、疑念を抱く人たちの手によって、それは偽善な番組にさせられているわけだ。
これは、NHKがもしも隠蔽したというなら、やっていることは同じだ。
相対的な貧困は隠蔽して、絶対的な貧困でないなら、貧困ではないという意見は
隠蔽していることとなんなら変わらない。
結局その記事を上げた者、特定者に踊らされている過ぎないわけだ。
そこで関心を持てば貧困について少しは調べるはずだ。
どちらにしても、良い面もある。それを無視して悪いところばかり叩いてもしかたないだろう。
なんなの、褒めるの疲れちゃった? クズ上司の部下か何かかよ。
どうでもいい 社会なんて。って考えてればいいと思う。
それでも、いつか社会を救うためにと思えるなら、こういう疑念は自分を病む原因になるから考えない方がいい、
なんなら、こんな社会は壊してしまえ。と思うレベルになる可能性もある。
あれーどこで心の育て方間違えちゃったんだろうとか思う前に引き返すほうがいい。
24時間テレビが好きっていうのは、箱根駅伝が好きっていうのと同じ理屈。
でも箱根駅伝ほど支持されていないのはなぜかというと、箱根駅伝は基本的にスポーツマンが好きなスポーツに取り組んでいるからだし、選手の好きなもの(ガチオタ暴露とか)も遠慮なくやってるから。
一方24時間テレビは、出演する障害者の個性は無視。絶対に清く正しい人イメージ。
好きかどうかも判らない無理難題に挑んで「やらされてる感」が出てるからなんだよね。
もう少し、笑いとか、それこそNHKでやってるような差別や偏見とどう闘うかという真面目な議論とか
方向性が色々あればこんなに嫌われる事もないんじゃないかと思うよ。
24時間テレビで募金が集まるんだからいいじゃないか!って増田も見たけど
別に感動させなくても募金は集まるでしょ、アイスバケツがそうだったじゃない。
それに24時間テレビでは身体が不自由な人しか取り上げないから、例えば内蔵の障害とか、見た目健常者と同じ人はスルーでしょ。
そういう目に見えない障害がどういうものかを知ってもらうコーナーとか作ればいいよね、
それをしないで、「不自由な障害者が頑張ってます!感動ですね!!」ってやってるから、うんざりするんだよ。
まあ今のテレビじゃ無理だろうけど。
スペック:大学時代月1で登山する(登山系の中では)ゆるめのサークルに所属。
富士山登ったことない。テン泊で65リットルくらい?のザック背負って北アルプス登ったくらいの山にわか。高校の体力テストDだったのでそれでもきつかった。
ぱっと見思ったのは「健常者の大人ですら登山はしんどいのに、それを1合目から、大雨の中子供に歩かせるのはどうなの」ということだ。
「天候」
まず気になったのは天候である。大雨で登山はまず足元が滑りやすくなるため危ない。プラスして長時間は低体温症で動けなくなる…なんてこともあるだろうし危険である。
そして何より楽しくない。ウチなんかは緩いサークルだったので登山で綺麗な景色が見たいーって思う人が殆どで、雨が降って景色が見れないと「最早修行だなwww」と笑っていた。自分もそう思う。そんな修行を子供に体験させるというのはあんまりにもな所業である。
また、自分たちのサークルでは夏登山は8月前半、遅くても中盤までに終わらせるようにしていた。理由は後半になると台風先生にやられる確率が上がるからである。まあ早くても運が悪いとやられてたんだけど。ひどい大雨なら中止…なんてことも良くあったが、テレビが関わっている企画で果たして中止が易々と出来たのだろうか
「難易度」
あと気になったのは難易度の高さである。富士山はサークルの女性の先輩曰く「酸素ボンベがなければやられていたぜ…!」だったという。酸素が他の山よりも薄いことがダイレクトに体力を奪ったらしい。「ヤマノススメ」という登山漫画でも女の子が富士登山中に高山病に罹患し泣く泣く富士登山を諦めるというエピソードがあった。(まあ漫画だからって言われたらそれまでだけど)そんな大人、十代の少女でも苦労する山を恐らくそんなに体力のない子供に登らせて大丈夫だったのだろうか。
下山の問題もある。登山は山頂登って終わりではない。下山も結構な体力を使うのでけして楽ではない。体力ない奴だと足がガクガクになる。また下山は登りの方がやって来たら端に避けて、登山者が通過するまで待たないといけないのだがこれも何回もやられると足がやられるし、下るのに時間がかかってしまう。自分が北アルプスを1日で一気に下った時に最後の方で尻餅をついてしまったのだが、足に力が入らずしばらく立ち上がれなくなってしまったという感じだ。足が弱くて座ったら立ち上がれなくなってしまった祖母を介護したことがあるが、その時の祖母の気持ちが分かったような気分になった。本当に力が入らなかった。
「安全」
さらに山には「救急車」を気軽に迅速に呼べない。例えばしんどくなったとしても、サークルの登山とかで尚且つまだ歩けそうなら車道がある道までとか歩かないといけない。最悪ヘリコプターのお世話になる。24時間マラソンは辛くなったら即辞めれるし救急車も呼べるからあまり死の危険はないが、山だとそういう救援がすぐにやってこられないので死の危険度は上がっている。子供なんて大人より体力なくて体調崩しやすいのに救急車呼べない状況に落とすのはヤバイ気がする。
因みに体力テストDだった自分は下山してからだが、疲労で38度の熱を出したことがある。
24時間の子供が心の底から富士山大好き!制覇したい!という子供だったら救いはあったのかもしれないが…ていうか思ってもそんなん安全面考慮して止めろよとも思う。
そもそも24時間で子供にハードなことさせる企画自体やるのに良い気分はしない。もしそれでも24時間で登山を子供にやらせたいなら、「登山が好きな子供に、もっと低い山で、天候の良い日に(台風の来ない時期に)登らせる。そしてその録画を本放送で流すべき」だろう。天気の良い日に登らせた方が登山好きな子供だったら景色見れて喜ぶかもしれないし、大雨真っ白な画面よりはテレビ映えもするだろう。
…しかし大菩薩の下山ですら大学時代足がガックガックになった身としては、やっぱテレビの企画という失敗があまり許されない奴で子供に登山させるのなんてやめた方がいいと思わざるをえない。まあ何言ってもやめなさそうだけど。
余談だが北アルプスとかでも親子でイキイキと歩いてる登山者とかいて、後ろで死にかけてた自分はいやあ子供って体力ある子はほんとすげーなと尊敬しました。