障害者を差別するなということは、手足足りないならそれだけ努力しろ!ということを突きつけることに他ならない。
健常者だったら頭が足りなけりゃ使えねぇやつだって罵られて搾取されるのが世の中。
それと平等に扱えというのだから、足りなきゃ努力と苦労で補えというのが当たり前なのだ。
それを勘違いしているから健常者と同じ生活をさせてやることが差別なき世界だと誤解してしまう。
健常者が住みよい作りをしていることが世の中の効率としてベストなのにも関わらず、余計なコストや面積を使ってバリアフリー化することは擁護以外の何物でもない。
NHKが24時間テレビに感動ポルノを批判する番組をぶつけて話題になっていたが、あれすらも言わせてもらえば完全なる擁護社会だ。
健常者だってちょっと病気になっただけであっという間に感動ポルノの餌食になる。
作者が死んだ後、残された子どもたちが感動ポルノの主演を生涯かけて背負わされ続けることだって決して稀な話ではない。
それだけではない。
震災の生き残り、重大事故の生き残り、テロの被害者の肉親、凶悪事件の被害者。
どれをとっても世の中にとって格好の感動ポルノ主演候補なのだ。
全てに同じ生活を保障しろというのは、差別主義の究極の形であり、被差別を受け入れた結果にしか成し得ないということだ。
なぜなら、自らの被差別を認めない限り、その恩恵にあやかることはできないからだ。
機会の平等を求めるべきか、結果の平等を求めるべきかは永遠の課題だね。