はてなキーワード: 24時間テレビとは
のではないか、と思った。
アスリートでもない、むしろ運動不足気味な人が100kmとかいう距離を一人で走るのは確かにすごい。
だけど、最後の最後でしんどい顔を見てお涙頂戴を誘うのも、昔はよかったと思うけど、今じゃ「なんか違うんじゃないの」と感じてしまう。
100kmを一人で走るんじゃなくて、色々な分野から五輪の聖火リレーみたいにタスキをつなぐようなリレー形式にしたほうがいい。
司会業もそうだ。24時間ずっと起きっぱなしで無精ひげ生やして、眠くなっている人を「頑張っているね~」と励ましたりしている限り、長時間労働や苦労が美徳とされる世界は変わらない。
24時間起きる続けるんじゃなくて、8時間おきにローテーションさせるのがいいと思う。
朝の顔と呼ばれる人が6時から14時まで担当して、14時から22時は夕方の顔の人、22時から翌朝6時までは夜の顔っていう感じの人に司会を変えたい。
そしてフィナーレで「今年の24時間テレビはみんなで頑張りました!みんながいなければ、番組も成立しませんでした!」みたいなアナウンスをして、イエーイ!みたいな。
つまりは「一人で頑張る」というものじゃなくて「みんなで頑張る」という番組に転換しない限り、苦労が美徳とされる価値観は変わらないのだろうな、ということだ。
仕事なんだから当たり前かもしれないが、チャリティー番組と銘打ってる以上、受動的ではなく能動的に「ギャラはいらないので出演します」ぐらいは言えないのかなと思う。
その君が手にするお金で何人の人が救えるのだろう?
2.お涙頂戴の過剰演出
身体障がい者の方が何かにチャレンジすることは素晴らしいことだと思う。
それを見てすごいとは思う。
でも良い大人がスタジオで涙で顔をぐちゃぐちゃにするほどなのだろうか?
全く理解できない。
笑顔で「よく頑張ったね、すごいね」と言えないのだろうか。不思議だ。
もう普段から全く運動しないような人に走らせるのはいい加減やめないか。
今年は運良く猛暑を逃れ、涼しく走りやすい気候になった。(素人なのでそれが良いことかはわかりません)
でも、「熱中症に気をつけろ」「激しい運動は控えろ」だの散々注意勧告してくる報道の人間がぶっ続けで長距離を走らせている事実についてどう感じているのだろう。
それに、苦しそうに顔を歪めながらマッサージを受けて、走り続ける姿を見て感動する人間はどのような思考をしているのかわからない。
4.2日限りの募金活動
なあ、それは365日できないのかな。
芸能プロダクションが何社か協力して、小さめの会場でも借りて、日替わりで何人か募金活動でもすれば一年で数え切れないぐらいの大金が集まるのではないだろうか?
この世には未知の難病があって、数え切れないぐらいのたくさんの人が苦しんでいるのもわかっている。
けれど、それを世に広める方法が間違っていると思った。
福祉の問題を同情や共感で解決しようとするから貧困JKや24時間テレビみたいなのが出てくるわけで。
「この人はこんなに可哀想」というアピールしかしないから、同情できない部分や共感できない部分があると一気に叩かれる。
既出だったらごめんなさい。
24時間テレビの雰囲気は好きになれないので、毎年毎年どーでもいいなぁと思いながら、チャンネルを変えてるんだけど、逆にどんな企画だったら見たいと思うのかなと思ったので、他の人のアイデアを聞いてみたい。
以下、とりあえずたたき台。
24時間かけてやるわけだから、それなりに長時間の企画がいいよね。
日本の救い方を24時間でアイデアソンさせて、どのアイデアが実現するかを問うような形で視聴者に募金してもらうとかなら面白い?
(やっぱ、誰も見ない気もする。。。)
24時間テレビは、普段障害のある人をみているようで「見ない」人にはいい番組だと思う。
NHKでもっと現実に寄り添う番組あるけど、わざわざチャンネル合わせて見ないでしょ。
元々そういうのに興味ないと見ないよね。
その点24時間テレビは若い人に人気なアイドルつかったりして元々障害に興味ない人にも知る切欠が多いカタチになってる。
いいじゃん。
自分は「そっち側」じゃないって思ってるから、映画見てるようなモン。感動ポルノってよく言ったもんだ。
でもね、ある日突然「そっち側」にいく切欠なんて日常でめちゃくちゃ溢れてるんだよね。
ただ24時間TVって所詮「そっち側」を他人事としてみてる人が作った番組だよね。
当事者側が作ったらどうなるかなぁ。なんて思ったりはする。
なんだかんだ言って24時間テレビ無かったら障害者の事を俺が考える機会って無いのかもなぁって思う。
24時間テレビの話題はテレビ見てなくたってツイッターで流れてくる。
まず、無理矢理やらせてるようには見えない。
難病の子がジャイアンツの選手とキャッチボールするのも見たけど、その子は喜んでたよ。
ですが、それはちやほやされている人に嫉妬してる人が言っているだけだと思います。
それは見世物ですか?違いますよね?自分から世の人に見てもらいたいから書いているわけですよね?
企業が売名してるとか芸能人が売名してるとかそういうこという人もいるけど
そういう人がサエコが熊本の震災に募金したっていうインスタグラムを叩いたんだろうなって思いますよ
有名な「やらない善よりやる偽善」
その通りだと思います。
あなたは24時間テレビ批判以外に障害のある人のためになることしているんですか?
やらない善は価値無いですよ。
あなたの意見には24時間テレビが無くなったら福祉車両とかの寄付はどうするんだって僕の懸念に対しては何も反論出来てないですよね?
現実に24時間テレビから福祉車両を寄付された福祉施設があって助かっているならそれは24時間テレビが役に立っている証拠じゃないですか。
b:id:misisippitan 言ってることすごいわかる。/24時間テレビより24時間テレビ批判してる人のほうが世の中にとって有害だからなぁ。 - misisippitan のコメント / はてなブックマーク
b:id:dotamania 障害のある人だけでなく、震災の被災者も支援しているからな。/私事だが、娘がジャニーズに会うために募金に行ったからそういうのもありだと思う。 - dotamania のコメント / はてなブックマーク
b:id:kusanagi_smap 私も24時間テレビは好き。津久井やまゆり園の事件の時も散々言われていたが、不寛容な社会になったって事なのかねぇ。 - kusanagi_smap のコメント / はてなブックマーク
以下追加予定
募金しているの?
アイスバケツチャレンジの批判の時も思ったけど、
アイスバケツチャレンジでALSの研究費用が集まるならいいじゃないか。
なんだかんだ難癖つけてアイスバケツチャレンジやめさせてALSへの募金はどうなった?
批判した人がアイスバケツチャレンジで集まるはずだった募金額寄付するの?
24時間テレビも同じで、募金で福祉車両とか寄付してるわけだろ。
批判している人はそれがわかっているのか?
あと障害のある人が24時間テレビだから泳いだり山登ったりできるわけじゃん。
普段は障害があるからって諦めてることを24時間テレビが支援して夢を叶えている事がダメなの?
そういうのすごい心狭いと思う。
俺は国会議員をやっているのだが(信用されなくても構わないが)
国の税金ですべての福祉施設に福祉車両を買ってすべての難病の研究費用も全部出して。。。
ってどうやりくりしてもできないからね。
公式には映画『幸福の黄色いハンカチ』からの拝借であるらしい。
黄色は障碍者が好む色である と、まことしやかに言われる。俗にキチガイ色とも。キイロのキはキ印のキである。
かの有名な「黄色い救急車」の いわゆる都市伝説も、この手の印象から派生したと思われる。
さて「24時間テレビ」とは何かと言えば、丸一日たっぷりと時間をかけたお涙頂戴の障碍者見世物劇である。
例えば闘牛は赤い布に滾って突進する。血のような赤は、あの舞台には欠かせない色だ。(実際には赤で無くても良いと聞いたこともあるがさて置き)
色には少なからず意味がある。あの黄色は、それが本当に効果をもたらしているか否かは抜きにして
万単位の観衆から一身に注目を集め・照明が焚かれ・カメラを向けられ、という健常者であっても取り乱しかねないような非常な状況下において
「~がらみ」、とか「~にからんで」、とかいう言い回しがなんとなく気になる。
仕事柄、すこし古めの新聞記事とか読むんだが、どうも1990年代中盤くらいから、新聞報道などでも普通に使うようになったが、
それ以前はこれ、あんまり改まった文章では使われていなかった印象がある。
それが、最近では「都知事選にからんで」とか、普通に使ってる。
「当初は、『24時間テレビ』の番線がらみで、××らと出演予定だった。」という言い回しがあった。
いや、お前が「からみ」って言葉に変に反応するのは、AVの「からみ」とか想像するからだろう、と言われると完全否定はできないが、
でもそれだけじゃない。
大体、報道で使われている「からみ」「からむ」と言う言い回しは、「関係する」「関連する」「かかわる」「まつわる」などと、文脈に応じて言い換えられる場合が多い。
さっきの二世俳優の記事で言えば「番宣がらみで」なんていわないで、「番宣のために」と言ってしまえばいいのに。
そういえば、玉突き事故なんかの報道で、昔は「車十台以上が巻き込まれる事故がありました」といっていたようなところで
なんだが、分かったような分からんような言い回しでお茶を濁して、考えればもっと的確な言葉があるのに手を抜いている感じが、たまらなく下品だ。
推測するに、この手の「からむ」の言い回しは、いわゆる業界用語なんじゃないのかな。
その辺も、下品な原因だと思う。大体この手の言葉をいきがって使う輩は下品だし。
いや、想像だけど。
http://anond.hatelabo.jp/20160806123148
少し前に書いたらえらいたくさんの反響をもらった。
一応自分の中に取り込んだ後にあれこれ考えてみたけれど
根本的な考えは変わってない。
http://highsoneet.hatenablog.com/entry/2016/08/08/224009
まったく同意。
こういうことが起こり得るからこそ、
ひとりが抱いた「気持ち悪い」「怖い」といった想いは
カムアウトされても「へぇー」って言える世の中を実現すべきとか
理想ばっかり掲げる人に聞きたい。
それまでに何人の自殺者を出せばいいのかね?
理想の社会を実現するまで多くのゲイにカムアウトするように仕向け
その何割かが失敗して世を儚んで自殺すればいずれ良くなるってか?
放っておいて欲しいことが傲慢?
社会に生きてるんだから、自分達は受け入れる腹づもりもあるんだから
さっさとセクシャリティを吐き出せよ、マイノリティですって言えよ。
半ばレイプ的に引き出させる世の中ではないでしょ。
「私は理解あるつもりよ、さぁ!胸の内を語ってちょうだい」と言われて
残念ながら亡くなってしまったけど
本人がその気にさえなれば男性版の蒼井そらにもなれたはずだけど
彼はそうしなかった。その理由の一端はYouTubeでも語られている。
https://youtu.be/ilOa3E4U5FY?t=3m36s
人間が突然テレビに出てきてゲイですって言っても分かり辛いと思うんですよ」
そう言いつつ彼のしゃべりはほんのりとオネェなんだけど、
まぁそこは置いといて話を進める。
連れション感覚でパレードに参加してるゲイ達よりも遥かに多く存在する
1日24時間生きていて、ゲイでなければ生きられない瞬間なんて
少なくとも今の自分には1秒もない。
ほんとそれぐらいしかないんだよ。
特に不自由を感じてもないのに、「公にできないのはさぞ苦しいでしょ?
不自由でしょ?さぁカムアウトしなさい、受け止めてあげるから」って言われても
そりゃあ余計なお世話だろって話になるじゃん。
「マイノリティを受け入れる覚悟はあります」って表明する人達は
放っておいて欲しい自分達のような存在の気持ちは理解しようとしない。
いい加減、そこに気付いてくんないかな。
自分からすれば、今の「皆で認めてあげなくちゃ」みたいな風潮は
ホモなんてのはマイノリティの中ではまだメジャーなほうであって
じゃSMやスカトロやロリコンの人達が「私達も受け入れて」って来たらどうすんの?
「俺、男が好きなんだ」も「俺、ウンコ食べたいんだ」も
セクシャルマイノリティってことに関しては同じ。
「チンコ好き」と「ウンコ好き」を等しく受け入れられる人ってどれぐらいいるかね?
「まだゲイならいいけど、スカトロは・・・」って思う程度の見識なら
二度とこの手の話にクチバシを突っ込まないで欲しい。
時代はノーマライゼーションなんだよね。だったら、健常者がパラリンピックに全く出られないのっておかしくね?
障害者に比べて健常者のほうが体力あるからダメなの?障害者だって障害の程度によって体力著しく違うじゃん。だから車いすバスケはもってるハンデで点数つけるよね。健常者もハンデの点数決めれば対応可能だし、日本の大会ではそれやってる。ローカルな大会ではできるのに国際大会で出来ないのって何のせいよ。
障害者の生きがいを奪うからダメなの?ブラインドサッカーって、弱視の人間も完全に見えなくなるようにアイマスクするよね。普段見えてて試合や練習の時だけ目隠しする人より、元から見えない人のほうが有利じゃない?
義足ランとか対応できないものもあるのはわからないこともないけど、車いすマラソンなんか、車輪使うから普通のマラソンとは全然違うタイムでゴールするよね。そこに健常者と障害者を分ける意義、ある?
けっきょく、いたいけな障害者が頑張ってる、っていうイメージにお金を払ってもらうために障害者以外の参加ができなくなってるんじゃない?そうとしか考えられないんだけど。
だとしたらパラリンピックってかなり欺瞞の多いイベントだよね?感動を求めてとかって放送しているNHK、24時間テレビのこと笑えないよ。
劇場版を見たことがなかったのだが、
リメイク版の評判が良いのは知っていたし、週末に改めて褒めてる記事を見かけたので、
見てみたのだが。
悪い。つまんねえ。何だこりゃ。
随所でつまらない。
道具全部流されたと言った舌の根も乾かないうちに、ピー助のサイズが元に戻ってるんだけどスモールライトなしにどうやったの。
24時間テレビのマラソン的な「最後まで自分の足で歩くことに意味があるんだ」みたいな意義を旅に見出しちゃったの?
っつーか、原作でもあった問題で、結果オーライ的にスルーされた点ではあるんだが、
地球は自転しながら太陽の周りを公転しつつ、太陽系ごと宇宙空間を凄い速度で移動してるんだよ。
まあそれは余談だけど。
とどめに、帰ったあとの「うん、ちょっとね」を言う時のタメ時間と、皆の表情なに?
全員の目が『生徒諸君!』でマイムマイムを見守る先生みたいな気持ち悪い感じになってるんだが。
こういう所で素直に楽しめなくなったのって、俺も歳とったなあと思いながら、ついでに1980年版ののび太の恐竜も見てみたんだが、
面白くてショックだった。
OPやEDなんかドラえもんの歌だし、本当に「TVアニメの長いやつ」ってクオリティなんだが、なんか普通に大冒険してて飽きなかった。
不満点といえば、プテラノドンの所でのび太がジャイアン助けるシーンがなくて、その流れでその後のジャイアン最大の見せ場もなかった事だが、
それ以外特に不満もない。
帰った後の「うん、ちょっとね」も、即答&ママをスルーして「お邪魔しましたー」で外に出てく皆が、普段通りで逆に凄くインパクトがあった。
あれだけの大冒険をしても、終わったら「うん、ちょっとね」で片付けて日常に戻れるのび太たち凄えって感じだった。
まあ、短編でも彼ら割ととんでもない体験してたりするから、視聴者的には劇場版の大冒険でも、彼ら的には「ドラえもんの道具でまた一騒動あった」という程度の感覚なのかもしれないなとか思わされる演出だった。
両方同じ日に見なかったら気づかなかっただろうけど、旧版を作ったスタッフ凄えわ。
というわけで、
歴代の名作アニメが流れる中「花は咲く」が流れるバージョンがある。NHK以外のなんでもありのアニメオールスターだ。
いいか若者よ。こういうのに絆されるんじゃねーぞ。
震災の復興はもちろん重要だが、こういうただ何か歴史性のあるものをひたすら羅列しただけのもので感動してはいけない。
このような「感動の構造」はあなたの感性を鈍らせる。これで感動してはいけない。こんなただの羅列で心を動かすな。
これは罠だ。大人の、しかも大したことのない大人の罠だ。
若者よ。お前がこの後一生プライドもなくプライドが何たるかもわからず、蒙昧として生きるならあれで感動でもしていればいい。
だが僅かでも、サブカルチャーに対して自分の頭で考察し楽しもうとするのであるならば、プロでも同人でも読者でもなんでも、少しでも自分自身で楽しもうとするならば、ああした構造には注意しなくてはならない。このあともいくらでも感動の構造は襲いかかってくる。24時間テレビとかがその典型例だ。気を付けてほしい。