はてなキーワード: 24時間テレビとは
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170831-00010498-jprime-ent
って。
前回の放映内容見れば、いや見てないとしても適当にぐぐりゃ出て来るストーリー解説サイトでも見れば
政次は完全に死んだものと作中で扱われているのが分かる筈なんだが
次で視聴率が1.2%下がった事を把握してから(これも24時間テレビと被った事はスルー)書いた記事なのに、それは把握してないのか
それはあの処刑シーンにはいくつか疑問が残るからなんですが、もともと政次を処刑する役割の雑兵がとどめを刺していないこと。斬首された様子もなく、埋葬や弔いのシーンもありません。
磔ってのは見せしめの意味もあるから死んだ後もしばらく晒し者にされるし
そもそも反逆者なんだからまともな弔いをする事も許されないんだが
死んだ後もそんな悲惨な扱いを受ける所まで敢えて描く必要はない、と判断しただけだろ
「皆頑張っている」という同調圧力が働くと、従わざるを得ない。
流行もそうだ。皆が流行りに乗っているから、始めなければならない。日本人はそういう自分だけ違う精神性を保つ事を嫌う。要するに、皆程々に適当に好きな事だけ頑張るのが良いよねという空気を常に背負っているのだ。
このムラ社会では、社会性ばかり重視され独立独歩が許されない構造になっている。
そういう意味では24時間テレビのような、所謂「辛い人が頑張っている」様子を放送する番組は、叩かれる要素をふんだんに含んでいる。その光景を肯定してしまえば、社会で甘えている宙ぶらりんな状態の自分を許して貰えなくなる。しかも、得てして努力とは日進月歩で必ず結実するとは限らない。ネットに蔓延り生存する民達は、その事実をよく理解している。努力し過ぎてしまったが為に、カーストの最底辺に追いやられる可能性すらある事。努力程度では、カーストはひっくり返せない事。
大体、24時間テレビで特集されるような「成果」など、自己満足に過ぎない。人間の社会で生きる者が独断的に「こういう努力は善」と決め付けている。それは、マスメディアの公共性からは程遠く、私が情報源に求めている物とも乖離している。容姿、才能、あらゆる面で「諦める」事を突き詰めてきた人間が何人もいる。そういう人達にとって、誰かの努力を押し付けられる事は苦痛以外の何物でもないだろう。
24時間テレビって「養殖された感動」だよね。網で養殖場を囲って稚魚を仕入れてエサを与えて。
稚魚はエリートじゃなく努力家で問題を抱えた個体がいい。ストーリーが引き立つから。魚が大きく成長したら出荷。ほら美味しいでしょ!みたいな。
筋書きのあるドラマは面白いけど、もうそれならフィクションでいい。養殖された淡白な感動に寒気がしました。
じっちゃんが瀕死になっているシーンで大人になってから一度も泣いてない悟空が涙してるのを見てこっちも泣きそうになってしまった
でもよく考えるとスーパードラゴンボールあれば生き返れるんだよなぁ。そう考えると急に冷めてくる
制限なく生き返られるようになったのは本当失敗だわ
正直、24時間テレビ批判できるのって毎年ガンガン募金してるやつだけだろ
結局のところ募金しない奴が勝手に悪者扱いされた気分になるから偽善だと貶めて、自分が募金しないことを正統化してるだけ
海外を見てみろよ
イスラム国家では喜捨ってのが定着しててみんな身銭を切って直接金を寄付するのが当たり前
欧米でのチャリティーなんかも宗教的価値観や合理性が合わさって寄付額は桁違い
お前らだけだぞ
24時間テレビに募金とかいうこの世の金の無駄の境地なんかする暇あるなら
かーちゃんと一緒にご飯でも行って奢ってやれよ間抜け
母親が近所の公園でやってる祭りが24時間テレビで紹介されたのを見たので行きたい、と言った。
どうも、うちから近いけど畑とスーパー、郵便局1軒しかないので行ったことのない郊外の住宅街の中に大きい公園があって、
24時間テレビの募金箱も置いているので募金を呼び掛ける中継が入ったようだ。
俺は20年以上この街に住むが、近くにそんな大きい公園があったことも、毎年そこで祭りをしているのも知らなかった。(なんせ、畑しかない郊外の住宅街だから、用がないので一度も行ったことはないのだ。)
車で公園に向かうと、公園から車がひっきり無しに出入りしていて、さすがテレビの効果というか、大盛況だった。
公園に着いたのは夜七時。中では季節外れの盆踊りで子供たちがはしゃぎ、それを囲むようにテントが張られ、24時間テレビのTシャツを着た町内会の人たちがヤキソバやかき氷などを売っていた。
「ハンドスピナーくじ」なんてのもあって、子供の流行はすぐ取り入れるんだなあと感心した。
ペットボトルのドリンクを氷に浸けて売っているテントを見つけたので、早速買おうと思いお茶をふたつ注文した。
この時に気づいたのだが、町内会の人はどうも券を持っており、その券を渡すだけでドリンクやヤキソバなどと交換しているのだが、
こちらが300円ピッタリの現金を手渡しした瞬間、露骨に嫌な顔というか迷惑な顔をして「ありがとうございます」もなくペットボトルを突き出してきた。
何か悪いことでもしただろうか?
気を取り直して、外出嫌いの父親は家で待っているので、おみやげでも買おうと思い
けど、何やらテントの奥で焼き鳥をパック詰めするのにもたついている。
カウンター側には何もせず、ただ突っ立っているオバサンがいる。
カウンターで突っ立っているオバサンの知りあいらしき人が俺の後ろに並んで、声をかけた。
「おつかれー!まだ焼き鳥ある?」
何もせずただ突っ立ってるだけなんだから、
後から並んだ俺に対して「すいません、もう売りきれなんです」の一言くらいあってよくない?
何分も待った俺の番が来てはじめて「売りきれです」って言うつもりだったの?
そして、立て続けに衝撃の一言。
「24時間テレビでやったもんだから、普段は来ない町内会以外の人たちがいっぱい来て食べ物全部無くなっちゃった~本当に迷惑~他のテントも全部売りきれちゃったみたい~」
耳を疑った。24時間テレビのTシャツを着て、焼き鳥を売っているオバサンが
いや、町内会外の客を呼びたくてわざわざ募金箱を設置してまで24時間テレビで中継してもらったんじゃないのか。
動揺していると、やっとパック詰めが終わった焼き鳥を突っ立ってるオバサンへと手渡しされたのだが、それを地面に落としてしまった。
プラスチックの薄いパックに詰められただけの焼き鳥は、半分パックから出てしまっている。
それを突っ立ってただけのオバサンは、拾って詰めなおして当然のように袋に入れ出した。
それを待っている女子高生は、盆踊りを見ていて落としたのに気づいていないようだ。
「ああ、これはないな」と思い並ぶのをやめて、
「24時間テレビを見て来た人」のせいでもう食うものは何も無いんでしょ、
町内会じゃないのに来てどーもすいませんでしたね!
ってなって、ベンチで座って待つ母親の「どうしたの?他の食べ物は買わなくていいの?」という問いかけに対し
「24時間テレビ見て来た外部の人のせいでもう何も売ってないんだって!」と伝え、帰った。
滞在時間は10分くらいか。買ったのはペットボトルのお茶2本だけ。
せっかく24時間テレビの募金テントもあったから、少しくらい募金しようかなとも思ってたけど
誰がテメーラんとこで募金するかクソが。
町内会の身内だけで祭りしたいんだったらな、今すぐ24時間テレビのTシャツなんか破り捨てて外部にアピールすんなボケが。
もう二度と募金箱設置すんなよ。せいぜい身内だけでこじんまりやっとけ。
帰ってすぐに増田にこのこと書こうと思ってたけど、結局帰りにコンビニでおでんとビール買ったんで酔っぱらってすぐ寝ちゃった。
結局昼まで寝ちゃった。
まさか、テレビで取り上げられたお祭りに行ってこんなに気分を害するとは思わなかった、てな話でした。
あ、結局落とした焼き鳥をそのまま女子高生に渡したかどうかは知りません。そこまでは見てないので。
でも、落としたのを詰めなおして袋に入れるの見たらそのまま渡したくさい。
ツイッターを眺めてると、今年も24時間テレビ叩きのコメントを大量に見かけて生暖かい気持ちで見守っているところ。いやあ俺もそんな時代があった。24時間テレビは偽善だ!とか言ってね。ああ、あのころの俺は青かった。
今でも「24時間テレビは偽善か否か?」と聞かれれば「まあ偽善だろう」とは思うけど、だからといって24時間テレビをやめろとは言わないし、叩く気はない。
実際のところ、募金も目一杯集めているのも凄いし、何より「募金をしようぜ!」という空気を作り出しているのが凄い。普段、募金なんかまずやらんからね。24時間テレビを批判して潰したところで、批判してた人らは、代わりに募金をなんかやらんだろうし。当たり前だけど、俺ももちろんやらない。
24時間テレビを放送するためにカネをジャブジャブ使っていようが、それは日テレのカネであって税金でも何でもないし、ジャブジャブ使ってくれることで経済が回るんだから、それもそれでいいことはじゃないか。日テレのカネの使い道を批判したってしょうがない。どうせ他人の金なんだし、無駄遣いしようがそれが原因で傾こうが知ったこっちゃない。
物事を批判的に見るのはいいことだし、まず24時間テレビを批判的に見るのも良いことだと思うけど、そこで立ち止まらずに「悪いところもあるけど、良いところももちろんある」くらいのフェイズにはやんわり移行して欲しいと思うところ。
正直チャリティー番組って募金に対する金払い良くするための啓蒙活動と化してるだろ
だから、募金を根付かせるための広告活動として24時間テレビって一定の価値があると思う
例えばイスラムでは喜捨って言って自分の私財をなげうって募金するのが、宗教的な名誉の意味合いを持った活動になってるし
正直、もっと募金に対する金払いが良くならない限り24時間テレビみたいな広告活動はなくならないだろ
80年代前後の24時間テレビのメインテーマは、必要な支援は何かということを明確化していた。
気持ち悪さはあまり感じない。むしろ誠実さや実直さといった、プラスのイメージを抱くテーマである。
回数(放送年) | メインテーマ |
---|---|
第1回(1978年)・第2回(1979年) | 寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を! |
第3回(1980年) | カンボジア・ベトナム・ラオスの難民のために! |
第4回(1981年) | アジア・アフリカの障害者のために!国際障害者年記念 |
第5回(1982年) | ストップ!ニッポン姥捨て時代! |
第6回(1983年) | 君の地球のボランティア!アフリカ飢餓緊急援助!世界コミュニケーション記念 |
第7回(1984年) | この地球の未来は子どもたちのもの! |
第8回(1985年) | アフリカ飢餓救援 |
第9回(1986年) | 寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!そしてアジア・アフリカの飢えた子どもたちのために! |
第10回(1987年) | SAVE THE CHILDREN |
第11回(1988年) | 君は地球のボランティアお年寄りに在宅福祉を、障害者に社会参加を! |
第12回(1989年) | アジア・アフリカの子どもたちに海外援助を! |
第13回(1990年) | 地球を救え!10年計画 |
第14回(1991年) | 雲仙・普賢岳災害救援!寝たきりのお年寄りにお風呂カーを!障害者に社会参加を!アジア・アフリカに海外援助を! |
90年代ごろ、何が必要な支援かということがメインテーマから消えた。
その代わり、メインテーマが薄っぺらい美辞麗句だけで構成されるようになった。
個人的にはポジティブの押し売りみたいな薄気味悪さを感じるし、一抹の気持ち悪さすら感じる。
回数(放送年) | メインテーマ |
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第15回(1992年) | 愛の歌声は地球を救う |
第16回(1993年) | 出会い |
第17回(1994年) | チャレンジ! |
第18回(1995年) | もう一度、チャレンジ |
第19回(1996年) | ONE LOVE〜つなげよう!ひとつの愛〜 |
第20回(1997年) | 勇気を出して |
第21回(1998年) | いま、始めよう |
第22回(1999年) | 伝えたい…夢のちから! |
第23回(2000年) | がんばる…君のために! |
第24回(2001年) | 家族って何? |
第25回(2002年) | 家族で笑ってますか…? |
第26回(2003年) | あなたを一番愛する人… |
第27回(2004年) | あなたの夢はみんなの夢 |
第28回(2005年) | 生きる |
2000年代の中ごろ以降、メインテーマは90年代以降の薄っぺらい美辞麗句路線を維持しつつも、
本来漢字やひらがなで表記すべきところを意味もなくカタカナで表記(キズナ・キセキなど)したり、
一般受けしやすい単語(絆・愛など)に薄っぺらいポエムをドッキングさせたりしている。
回数(放送年) | メインテーマ |
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第29回(2006年) | 絆(キズナ)〜今、私たちにできること |
第30回(2007年) | 人生が変わる瞬間(とき) |
第31回(2008年) | 誓い〜一番大切な約束〜 |
第32回(2009年) | START!〜一歩を踏みだそう〜 |
第33回(2010年) | ありがとう〜今、あの人に伝えたい〜 |
第34回(2011年) | 力(ちから)〜わたしは、たいせつなひとり。〜 |
第35回(2012年) | 未来 みらい |
第36回(2013年) | ニッポンって…?〜この国のかたち〜 |
第37回(2014年) | 小さなキセキ、大きなキセキ |
第38回(2015年) | つなぐ〜時を超えて笑顔を〜 |
第39回(2016年) | 愛〜これが私の生きる道〜 |
第40回(2017年) | 告白〜勇気を出して伝えよう〜 |
数十年もの間、毎年数億円単位の募金を集め、それを社会福祉のために役立てている24時間テレビの存在には頭が下がる思いだ。
そういう実績がある以上、今後も続けていくべき番組だろうとは思う。
24時間テレビを巡って、ネット上で「障害者を見世物にしている」などとネットユーザーの方々から“心配の声”を我々障害者に頂きます。
皆様、そんなに私どものことを心配してくださって(?)ありがとうございます。
ですが、私どもは決して見世物にされているなどとは感じておりません。
にもかかわらず、ネットユーザーの方たちから、毎年のように心配の声を頂き、私たちのためを思って(?)批判をしてくださいます。
ですが、私どもは“言葉の暴力”で守られることを喜ばしく思っておりません。
貴方がたは常に暇そうにネットに張り付き、暇つぶしにと常に誰かの代わりに正義(?)を振りかざして、言葉を使い“戦って”くださいますが、他人の心配よりもまず、自分たちの心配をすべきなのではないでしょうか。
貴方がたが常に自宅に居るのかどうかは分かりませんが、そうなのだとしたらきっと何らかの事情があるのでしょう。たとえばリアルでは人と話すのが苦手とか。
しかし、はっきり申し上げますが、そのような暮らしは建設的ではありませんし、生産性などは全くありません。
もし貴方がたがこのような暮らしを十年、二十年、あるいはこの先ずっと続けるようならば、それは“人間らしい暮らし”とはほど遠いでしょう。
・・・などと言ったところで、貴方がたには何一つ届かないのでこれ以上は何も申し上げません。
本当に心配してくださっているにしろ、単なる“建前”にしろ、私どもはそのような汚い言葉により守られるようなことは望んでおりません。
やめろとは言いませんが、良いこととは言えないでしょう。
私たちのことを“心配”してくださっている方々がどのような年齢かはわかりませんが、生産性のない生活は人間らしさを失うだけです。
他人のことですのでそれ以上は言いませんが、私個人としては「やめたらいいのに」と思います。
私どもがこのような“真夏の大戦争”に心を痛めておりますこと、ご理解頂けたら幸いです。
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各種メディア様
ないとは思いますが、本件に関しまして何かしらの形で報道をされたいのであれば、私への許可は必要ありません。
ただし、この投稿をもって、私は本件への関与を一切しないものとします。
書き逃げのような形となってしまう事を、先にお詫び申し上げます。
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