はてなキーワード: 様式美とは
幼い頃にテレビ放送で全話逃さず見ていても、記憶は段々と薄れていくものだ。特に妃英理と毛利小五郎の関係性は、最近の赤井家フィーバーの最中では朧気になってしまう。
こうしてサブスプリクションによって、見たいと思ったタイミングで、ノータイムでアニメを振り返ることができる。良い時代になったと思う。
(一応、自分は熱心なコナンファンというよりは、結末が気になる一心で連載を追うライトファンである。
ガッツリと読み込みファンにとっては、妃英理と毛利小五郎の関係性は、新一と蘭の関係性と同等に重要であろうことは言うまでもない。)
改めて最初から原作を(そしてアニメを)追っていると、少しばかりからかいの目で以て彼らのストーリーを読んで(見て)しまうことがある。
これはライトファン故に、ディープファンにとってはやや失礼というか、無粋と一笑に付されてしまうかもしれない話題だ。
ずばり毛利小五郎の頑丈さについてだ。
毛利小五郎は何度か死んでもいても可笑しくないほどの打撃を、妃英理から受けていると思しき場面がある。
最近だと、映画「ゼロの執行人」のED映像の中の一場面。疑惑が晴れ、釈放された毛利小五郎を、妃英理が手料理によって祝う場面だ。
あの場面で小五郎は英理の料理の味に青ざめ、料理を吹き出してしまうのだが、それに怒った英理が、言い争いの末に煮物のたっぷり盛られた土鍋で小五郎の頭を殴るのだ。
小五郎の頭にはたんこぶが出来、白目を剥いて伸びてしまった。それだけといえばそれだけのシーンで、ギャグチックに処理されているためか、深刻さは見受けられない。
こうした少年漫画における女性の男性に対する暴力描写は、最近では眉を顰められることも多々あるそうだが、自分くらいの世代だと、ギャグとしてスルーされることが多いという認識だ。
クレヨンしんちゃんで言うところの『げんこつ』的な描写と言えよう──かの描写がコンプライアンスの関係で喪われて久しいが、表現の自由という意味では、中々に悩ましい事例だ。
もちろん、5才児を拳骨で強く殴ったり、頭をぐりぐりと圧迫してはいけないのだけれど。現実とコミックリリーフは、切り分けて考えたいものだ。
そうした様式美として片付けていた描写は、『コナン』という作品の中ではやや趣を異にする。何故なら『名探偵コナン』はタイトルの通りミステリーの側面があり、結構な頻度で殺人事件が発生する漫画だからだ。サスペンスドラマでももう少し加減するんじゃないかという頻度で人が殺されている。
その殺人事件の、殺人手段の中には様々なバリエーションが存在するが、その中でも最も手近な方法といえば『撲殺』であろう。
撲殺とは、ほぐして言えば叩き殺すことである。何らかの鈍器を、或いは自らの拳を凶器とし、叩いて殴って、息の根を止めることである。
殴って殺すといえば『殴殺』という言葉もあるが、ここは撲殺で統一させて頂く。
『コナン』の作中では、撲殺事件は、ブロンズ像だとかお高い壷だとか、そういった身近な重たいオブジェや家具によって引き起こされてしまう事が多い気がする。
計画性も低く、犯人の動機もカッと頭に血がのぼって、思わず──というシチュエーションが多い。
(何だかんだ動機の薄さが槍玉に挙げられるコナンだが、現実的だと感じるのは筆者だけだろうか。現実の事件も、ドラマチックな犯人の動機などあまり聞かないものだ。むしろドラマチックだからといって納得できたとしたら、そちらの方が問題である)
さて、ここまで読んでくださった皆様の中には、筆者の言いたいことがぼんやりと分かってきた方もいらっしゃるのではないだろうか。
つまり、『自分の料理を貶されて』『夫婦喧嘩に発展して怒りのあまり』『煮物のたっぷりと入った鍋で殴りつける』──という、動機と手段とシチュエーションが三拍子揃った場面なのだ。
鍋を振り上げてから変な溜めがあったからか、ちょっといつもより洒落にならない絵面だったように思う。
前述の通り、深刻さはないのだが(尺稼ぎだったのだろうか)
もしも彼らが、一週限りのゲストキャラクターだとすると、確実に小五郎は亡くなっている筈だ。
コメディと一言に言ってしまうのは簡単だが、その裏でコメディ的な行為がしっかりと殺人に発展している作品の中では、かなりギリギリな描写なのではないかと思う。
そんな『鈍器で殴られる』という場面なのに、何故小五郎は生きていられたのだろうか。
ゾウでも一瞬で眠る程の麻酔薬を毎週近く射たれているのだから当然だ、という冗談は受け流すとして、それは恐らく、妃英理の愛故にだろう。
端的な話、英理は実際には鍋を振り上げてはいないし、振り上げていたとしても、毛利小五郎の頭に振り下ろしてはいない。
びしゃっと机の上にぶちまけて、ビンタでも食らわせたのではないだろうか。
『名探偵コナン』はミステリーだが、同時にラブコメディーでもある。コメディ描写は通用しないかもしれないが、ラブコメディな描写は通用してしまうのである。
あの鍋を振り上げるシーンなのだが、発端は妃英理が久しぶりに毛利家に上がり込んでいるという事実に、小五郎がちょっぴり照れている所から始まっている。頬を赤らめている小五郎に、英理が何事か話しかけた時に、小五郎が照れ隠しに煮物を一口頬張ってしまうのだ。
つまり小五郎のツンデレが発動したシーンなのだ。(まるで毒でも食んだかのようなリアクションである)
まあそのツンデレが高じて彼らは別居状態なのだが、関係性とは常に変わり行くものである。
ややフィーリングな結論なのだが、妃英理は手加減をしていたのだ。
それを受ける毛利小五郎も、甘んじて受けていた。
深刻なように見せかけて、冗談だった。
愛がある見方をすれば、そんなふうに見える。
仮にも警察に拘束されていた所を開放された、という、それこそ深刻な雰囲気を、夫婦喧嘩というロールで和らげた、という見方もできる。意識にしては怒りが強いので(いくら下手とはいえ、自分の作った料理をぶちまける心情は、察するに余りある。英理がかわいそうだ)、無意識だろう。
ともすれば作中の『犯人と被害者』の関係に至ってしまいそうな所を留まれるのは、ひとえに、そんな言葉のいらない信頼関係が成立しているからであろう。
『コナン』の世界では、ラブが全てを凌駕するのである。蘭が絡んだ事件では新一(コナン)が空回ってしまうように、和葉が絡むと服部がばかになってしまうように。
ラブがきっかけで阿呆なやらかしをしてしまった小五郎が受ける暴力は、同じくラブによって阿呆になっている英理からのものだからこそ、威力が軽減されるのである。
恐らくあの世界で『犯人と被害者』になってしまうカップルは、ラブなパワーバランスが崩れてしまったカップルなのだ。
そしてその「ラブによってだめになっている」部分は、読者、ひいては視聴者は、愛すべきポイントなのかもしれない。
なんだかふわふわとした結論に至ってしまったけれど、夫婦喧嘩は犬も食わないと言う。筆者もここまで考えて、なんだかどうでも良くなってきてしまった。
あの夫婦はかわいらしい。
ただそう思うだけで良かったのだ。
さて。
(終わり)
こんな記事開いている時点で多少はブギーポップという作品に興味がある人間だろうが、様式美のために簡単に説明しよう。
「ブギーポップは笑わない」とは、著者 上遠野浩平。電撃文庫から1998年に刊行されたライトノベルで、その後のラノベ界に大きな影響を与えたと言われている作品だ。
2000年にも一度アニメ化されており、2019年に再アニメ化された。
こんな感じでいいだろうか?
さて、私はブギーポップを書いている著者、上遠野浩平先生のファンである増田だ。
この記事はファンから見たブギーポップの再アニメを記したものである。
さて、まず結論を書こう。
これは残念ながら事実だろう。
ネットで調べれば円盤の売り上げが散々だったと言われているし、グッズもアニメイトなんかの店頭でもほとんど置かれなかったし、出ると宣伝されたfigmaは出ないし(受注生産でいいので売ってくださいお願いします)。
アニメがつまらなかった。話が理解できなかった。監督と絵師がもめた。再アニメ化にあたってのキャラデザが良くない。そもそも原作が20年前で現代に合ってない。
さて、こういった評価について、またアニメそのものについてブギーポップ、そして上遠野浩平という作家の本気のファンである私がどう思っているか。
1.アニメについて
つまらない。という意見もわかるが、正確にはストーリーごとにわかりやすさが変わってしまっているという印象を受けた。
2019年のアニメは原作に沿ったストーリーで展開しており、原作では巻で分けられていた以下の内容でがらっとわかりやすさが違う。
正直一番理解が難しいと思う。ここで脱落した人もかなりいると勝手に思っているし、原作の魅力が伝わっているのか不安になった。
笑わないは時系列がかなりシャッフルする作品なのだが、アニメでは「登場キャラの削減」されて登場時系列が整理されており、これが一番問題なのだが「心の声の描写がない」。
私は原作ファンなので、場面を見るだけでその場面の背景や心理描写を思い浮かべて普通に楽しめてしまうのだが、初めてブギーポップを見た人が理解できるか不安になった。
(ただ、一話がまるまる浪漫の騎士として竹田くんとブギーポップの会話にあてられているのはファンとしてはマジでうれしかった。これで口笛吹いてくれたらさらに完璧だったが、そこまでは望むまい)
②vsイマジネーター(4話~9話)
笑わないに比べればかなりわかりやすい。が、初めて見た人がどこまで理解できるかは原作既読組から見ると少し不安になる。
めちゃくちゃよかったし、なんならブギーポップ初めての人にはこれから見せても許されるんじゃないかと思うぐらい。
少女な霧間凪はかわいいし、黒田さんの描写も、モ・マーダーもピジョンも最高なので、笑わないとvsイマジネーターの後にあるのがもはやもったいないと感じる。
④歪曲王(14話~18話)
普通に良かった。
音楽的な描写が多い作品なので、アニメのBGMがいい仕事をしていたし、ゾーラギとの戦闘シーンの動きはアニメでしか味わえないブギーポップだった。
なによりスタートである笑わない編がわかりにくい、というのが何よりも大きい。ファンとしても万人に勧められる作品ではないと思っている。
なので、小説を読めばいいと思うよ。
正直、監督と原作でキャラデザ・イラストレーターを務めている人がもめた話は語りたくないので、詳細はネットで調べてもらうとして、これがアニメ好きと呼ばれるアニメライト層(ここでは原作を知らないがアニメなら何でも見る層を指す)に悪影響を与えた可能性は否定できない。
ただ、再アニメ化にあたっての原作からのキャラデザの変更がよくなかったという話はファンとして否定したい。
そういうことはだな、原作や原作に忠実にキャラが描かれている「ブギーポップファントム」(2000年アニメ)でキャラ同士の判別が完璧にできるようになってから言え!!!
失礼。
ファンにも様々な意見があるのは踏まえたうえで、私はキャラデザに関してはブギーポップが原作通りのマントと帽子をかぶってワイヤー使っているなら、割と後はなんでもいいとか思っている。
なので、再アニメ化のキャラデザは末間博士とか、委員長とか原作に似た見た目で、いいキャラデザもあれば、スプーキーEとかゾーラギとか原作とは違うけどいいデザインもあるのでファンとしては全然ありでした。
(欲を言えばフォルテッシモや、十助をアニメ化するならどんなキャラデザになるのか気になるのでこっそりください)
3.原作について
原作が古いから現代の人には受け入れられないという意見について。
「ブギーポップは笑わない」は1998年に初版が出版された作品だ。
その人気が高かった2000年に一度アニメ化し、2018年の末ごろアニメ化の発表が会った時我々ブギーポップが好きな増田は、驚きを持ってそのニュースを迎えたのだ。作者が10周年記念の時何も無かった電撃文庫がどうした!?再アニメ化だと!?
そこに「今さら!?」という感情が無かったと言えば噓になるだろう。
だが、それは我々が何年、何十年も前に書店や学校で「ブギーポップは笑わない」の小説を手に取り、そこに歴史を感じるから古く感じるんじゃないかと思うのだ。
古い作品の再アニメ化で成功した事例として「おそ松さん」や「ジョジョの奇妙な冒険」があるだろう。原作が古いから受け入れられないという意見には反対だ。
それは1998年代とかそういう話ではなくて、あなたが学生時代に読んだブギーポップを知っているから古く感じるんじゃないかという話だ。
ブギーポップの描く独特の閉塞感があの時代特有のものだと言うのは、あなたの学生時代がその時代だったからじゃないのか。
「現代に通用しない」のは現代のあなたに通用しないだけではないか?
しかし、2021年になった今も通用する作品だと一ファンとして確信している。
そしてもしも、この作品の価値というものが本当に問われることがあるならば、それは例えば、今から20年後の2040年。1998年のブギーポップを知るものがほとんどいなくなった時に問われるのだと思う。
4.まとめ
というか、アニメが失敗したところで原作の良さは損なわれないのに、原作に言及するヤツはマンティコアの食糧として献上してもいいと思うんですがね。
ブギーポップの再アニメ化の成功失敗については再アニメ化した時点で割と成功だと思っている(刊行20周年に二度目のアニメ化がされる作品の一つにブギーポップがあるという時点でファンとしてはとても嬉しい)のですが、アニメの完成度については話毎に差があると思っているし、誰にでも勧められる良アニメとは言えないでしょう。
しかし、2000年のブギーポップファントムが2000年のブギーポップだとするなら、2019年の再アニメ化は2019年のブギーポップだった。
画面は明るくなり、BGMもキャラデザも変わって、スマホを使う。
(これで2040年に奇跡的に再々アニメ化なんてされて、また今までと違う2040年のブギーポップが出たら奇跡的過ぎて、失敗だと言われていた話も成功になりそうですね。歴史というものが後から修正されるように)
ところで、ここまで読んだ人はかなりブギーポップが好きか、頭がおかしいのだと思うのだが、ブギーポップと同じ著者の書いた他の作品もとても面白いので是非勧めたい。
「ぼくらは虚空に夜を視る」
「殺竜事件」「ソウルドロップの幽体研究」
さて、この駄文もそろそろ終わりである。もちろん締めの言葉はファンとしてこうするべきであろう。
(結局、再アニメ化って失敗だったのかよ?)
(まあ、いいじゃん)
・相手が知らないことを言って煙に巻いたりマウントを取ることが多い人
・気に入らない相手に対して手っ取り早く圧をかけたい人
職業病や統一されたマナーが存在すると若い時は思ってたけど、どうも違うらしい…
これね…私がADHD多めのアスペっぽい部分も持ってる広汎性発達障害だから、ある時期まではマジで気づかなかったんです。
でも、落ち着いて考えてみると間違ってたり一般常識でないマナーで人を攻撃する人ってけっこう多いから
ってなってる
これが科学だったり、正解のある知識だったらまだいいんですが…マナーで攻撃するのって
「それ本当に誰の目から見ても正解で、みんなが気にすることなの?」
客観的な正解があったり、知ってて当然であろうモノで攻撃するなら、相手が変わるチャンスはあるからまだいいよ?
公開から三日、はてぶ見てるだけでも様々な感想が、アニメカテゴリからはみ出すぐらい飛び交っていて楽しく読ませてもらっている。
だけど、一つだけ誰もあまり気にしていないように見えて自分にはどうしても納得できない点がある。
それはシンジの復活具合、というか変貌ぶりだ。
冒頭からかつてないほどの壊れっぷりだった彼が、チョーカーを見ただけでロッパーしてしまう状態だった彼が、ゆっくりと第三村の生活の中で回復していく話なのはもちろん分かる。
だが、そのあとヴィレの面々の信頼を勝ち取り、初号機に乗りゲンドウと対峙し、各登場人物を救う碇シンジの変貌ぶりは、ちょっと心の傷が回復したなどという生易しいものではない。復活しすぎて別人格になってませんか?
少なくとも自分はかつて見たことがない碇シンジだ。とんでもない極限状態の中、落ち込むこともなく激昂することもなく自らの考えを伝え、どこまでも冷静に他人を思いやって適切な判断を下していく。
圧倒的に大人だ。控えめに言って悟ってる。これじゃまるで別人だろ。これは別人です。ストーリーとしてつながっていないのだ。いくら作劇の都合だからといってやりすぎだ。
そうぶつくさ思いながらインフィニティの如くホッテントリを埋め尽くしたエヴァの感想群を徘徊していて、突然気がついた。
日本?の物語の様式美としてひとつだけ、男子が一生のうち一回だけ、一日いや一瞬で全人格を換装できる儀式が存在することを。
やりやがった。
それともアスカとマリの寄り道のときか?どっちだよ?まさか両方か同時にか犬畜生!
劇中ではっきりと描写されていないのが悔やまれるが間違いない。庵野に聞いてみろ。あの手のアニメ主人公が人格変異を起こす理由はそれ以外にないのだから。
という両面を、右も左も双方が理解してくれればいいんだけどね。
海外からしたら日本も中国も「対等」なはずなのに、そこに偏りが生まれるのはなぜ?というのは当たり前の問。
まあ、ウヨ系陰謀論者が考えるように「中国に肩入れしている」わけじゃなくて、「敵国の中国と違って日本は実質植民地だから、白人の思い通りに統治してよい」と勘違いしているだけだろうけど、それはそれで日本人としては面白くないよね。
一方、日本人が中国のことより日本のことに興味があるのは当たり前。
むしろ、日本国内と中国のことを「対等」に扱ってたら、ただの偽善者だろう。
しかしまあ、日本国内にも「敵国の中国と違って日本は実質欧米の植民地だから、白人様の意向通りに統治されるべき」と勘違いしている人がたくさんいるけどね。
それをウヨ系陰謀論者が「中国に肩入れしている」とレッテル貼るまでが様式美。
森会長の性差別問題については、IOCが参戦した時点で日本だけの問題でもなくなってしまったので、以上の議論が使えたのもこの間までの話なんだけどね。
前作で遂に圭一が魔女になったのを見てもうついて行かねえと決めて20年、やっぱりまた続編が出てくると見てしまった。
平行世界と繋がっているのをいいことに相変わらず雛見沢が広がる広がる。
旅番組のパロディのために平気で日本列島より長くなったのは苦笑しか無かった。
オチ?
まあ相変わらずやね。
惑星連盟CEROに合わせるために首が飛ばなくなったのに爆発で血しぶきが出るのはセーフなのか……。
というか今回も兄の呼吸最強ですか?
そろそろ新参者呼吸を活躍させてもいいのではと思うものののこれも様式美か。
アサクリと公式に世界観繋げたのに相変わらずアサシン教団はかませのままなのでそれも様式美か。
そこまでやる情熱が凄いんだが、そもそも2章が前すぎてスタッフですらストーリー誰も覚えてないという。
タイトルでもうなんか、色々と察せられてしまうような気がするのですが。
最近、オタクっていう言葉の意味がなんかもう違うんじゃないか?って思うことが多くて。端的に言えば175と言われたりする、旬ジャンルを追いかける方々のことなんですけども。
この文章では別に、旬ジャンルを追いかけることを批判したいわけではなくて、175って本来、食い尽くしてダメにするみたいな意味合いだと思うけど、「ダメにしない」で追いかける分には別にいいわけで。私も旬ジャンルの中でも気になるものは手に取る。旬ジャンルの、覇権の、あの浴びるような供給って、「シャブ」なんですよね。公式や神絵師から毎日ご馳走がふってきて、色んなコラボに盛り上がって。同人をやられる方も描いた絵が万バズしたり本が売れまくったり(人によっては)するんでしょうし。日々の憂さを忘れる、お祭りみたいなものです。
にしたって、旬ジャンルが来るたび追いかけてはグッズを買い、綺麗に並べて「推ししか勝たん」などと言いながら数ヶ月後にはメルカリで売却したり、神絵師に「今流行りの○○は描かないんですか?そのほうがバズりますよ」と焼きマロを送ったり、なんというか、「旬ジャンルを追いかける」というファッションを楽しむ人があまりも多い。それはオタクじゃなくて、「ジャンルがアニメ漫画ゲームなだけの流行り物好き」だよなって思う。
上記の描写がいわゆる「量産型オタク」になってしまったけど、グッズを綺麗に並べたりデコったり可愛い服を着てピューロなどの映えスポットで写真を撮る傾向にある人=「オタク」と思えない人と言いたいわけではなくて。ただそういった様式美が生まれて、そういった行為を「オタ活」と呼ぶことが、オタクのファッション化を加速させていることは否めないかもしれない。(私も量産という概念は好きだし、推しの概念服着て映えスポットいったりするけどね。)
じゃあどういう人が「オタク」かと思うかって、「オタク」って多分めんどくさい人なんですよ。公式の1シーン1シーンにああでもないこうでもないと解釈をつけたり、情緒を乱されたりする。別に古いジャンルや供給の少ないジャンルをいつまでもこねくり回せってわけじゃないけど、そういう一欠片も映えない静かな狂気みたいのが「オタク」だと思ってる。アニメ漫画ゲームじゃなくても、デパコスや筋トレや美容にそんぐらいの執念をもってる人も「オタク」だなあって思う。
別にオタクがファッション化するのはいいし、アニメ漫画ゲームが好きでも肩身の狭くない世の中に、どんどんなってるという面もあるんだとは思う。ただ、5年前ぐらいよりどんどん一つのジャンルにとどまる人が減って、そのたびに垢移行したりするからネット上でオタクの友達作るみたいな楽しみは得づらいし、一つ一つの作品を作るのには膨大な積み重ねがあっただろうに、あっという間に毎回同じノリで消費され炎上されオワコン扱いされるのってなんだか虚しいなあと。でも多分その傾向はどんどん強まるんだろうなあ。この文章、めちゃくちゃ早口な感じがするね。おわり。