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はてなキーワード: 叙事詩とは

2017-04-18

20170406_ミュシャ

ちょうど仕事の谷間も時期だったので、衝動的に有休を取って平日の昼間に六本木国立新美術館まで行ってミュシャ展を観に行った。

連休にぶつかると混雑は必至なのはわかっていたので、そうなる前に観に行きたいと思って行ったのだが行って正解だった。

はいえ、平日にも関わらずそれなりに人が多かった(ちょうど草間彌生展も同時開催してたので、そちらの客入りの影響もあったのかもしれないけど)。

少し前のNHK特番を見て予習したのだが、やはり生で観るのとでは迫力が全然違った。

まず、ミュシャの画風がスラヴ叙事詩とそれ以前(パリポスターとか広告絵を書いてた頃)で全くの別人のようで大変驚いた。

スラヴ叙事詩はそこに描かれた苦難の時代を生きるスラヴ人眼力の凄まじさに、まさに射竦められる心地がした。

「残りの人生スラヴ民族のために捧げる」というミュシャのの真摯姿勢が感じられた。

一般的ミュシャイメージといえば、パリ時代サラ・ベルナール舞台ポスター代表される作品群だが、これはこれでもちろんよかった。

花と女性四部作に描かれる女性官能的だけど、決して下品ではないエロティズムが魅力的だった。

「花と女性」だけでなく、宇宙的なモチーフ(太陽・月・六芒星星座)も取り入れられてるのも特徴的だった。

故郷チェコ(当時はチェコスロヴァキアか…)に戻ってからパリ時代ポスター画みたいな作品をいくつか描いているが、

そこに描かれる女性は少し趣が異なる、スラヴ系特有の丸顔が特徴的だった。

朝の10時半頃から昼過ぎの14時までゆっくり鑑賞することができて満足した。

帰りは遅めの昼食を東京ミッドタウンの中の店で採った、新宿にもあるだし茶漬けえんで冷汁を食べた。これは美味しかった。

後はついでに近くにあった日本酒ショップで取り扱ってる日本酒三種の試し飲みセットを注文したがこれは正直微妙だった。

保存のせいなのか…どれも苦味が気になってしまい味に違いがあまり感じられなかった。

2016-12-16

オタベックアルティンにかこつけて話をしたい

ユーリ!!! on ICE 、見てる?

オタベックアルティン、どう?

カザフ英雄」っていう字面を見て以来、ソワソワしていたものが、ユーリ・プリセキー友達になったあの瞬間に全てが弾けた。

カザフスタンを含む中央ユーラシア・テュルク系諸民族が持つ「民族英雄」の姿をはっきりと感じ取ったからだ。

カザフスタンは、歴史的にテュルク系諸民族が多く暮らしてきた土地である

遊牧騎馬民族繁栄した土地であり、彼らはテュルク系の言語と、それに基づく言語文化を持つ。

彼らの文化信仰あるいは歴史は、口承文芸によって伝承された経緯があり、口承文芸のうちの一大ジャンルとして数えられるのが「英雄叙事詩」と呼ばれる物語形態だ。

カザフに限らずテュルク系諸民族の中で広く伝播した『アルパムス・バトゥル』や、キルギス英雄叙事詩マナス』は邦訳出版されており、母語によって英雄叙事詩世界観に触れることができる。中央アジアを題材とした創作物でおそらく現在もっとも有名なのは森薫の『乙嫁語り』だろうが、作中に登場する馬などの名は、先述の英雄叙事詩にて確認できる。アルパムスやマナスとは叙事詩中での主人公にあたる英雄名前であり、英雄たちは作中でもっとも強く、激しく、時に美しい。

英雄叙事詩」の歴史形態などについては省略するが、重要なのはカザフの地に育まれ文化には「英雄」の存在を待望し、受容する姿があるということである

彼らは街や、施設などに英雄叙事詩中に見られる名付けをし、また街中では英雄の像を見ることもできる。余談ではあるが、キルギス首都ビシュケクに立つ騎馬マナス像の馬には、立派なちんちんがついている。あと動物園の馬もなかなかのブツをボロンしてる時がある。

さて、その英雄についてである

英雄叙事詩の主なテーマの一つに「外敵との戦い」がある。英雄が戦う相手は「異民族」や「異教徒であることが多い。たまに超自然的な怪物と戦うこともある。

敵対する異民族や異教徒を、英雄苛烈に打ち倒していくわけだが、全ての異民族や異教徒が敵となるわけではない。

英雄は、時に異民族友達になる。

英雄(オタベック)は、異民族(ユーリ)と友達になるのだ。

盟友となった異民族とともに、英雄さらなる敵を打ち倒していくのである

(英雄叙事詩中に現れる異民族は大抵がモンゴル系の遊牧騎馬民族な訳だが、細かいことはいいんだよ)

敵についても、少し話をしたい。

英雄異民族敵対し、彼らを倒して強さを示す。異民族の長との一騎打ちはしばしば物語クライマックスとなり、もっとも盛り上がるシーンであると言っても良い。

敵の王との一騎打ちである

YOIにおける王といえば、J.J.ルロワに他ならない。

11話でオタベックアルティン対峙したJJの姿は各位の記憶に新しいことと思うが、ここでもオタベックアルティンが持つ英雄性を感じ取ることができる。

そうして「勝利」を得た英雄は、やがて自集団を束ねる長となり、後世へと名を残す偉大な存在となるのだ。

英雄叙事詩はその他様々なエピソードによって構成されているので、興味を持った皆さんには是非読んでいただきたい。

ここまでの参考文献は以下の通りである

 坂井弘紀2002『中央アジア英雄叙事詩:語り伝わる歴史東洋書店

 坂井弘紀訳2015『アルパムス・バトゥル:テュルク諸民族英雄叙事詩平凡社

 若松寛訳2001『マナ少年篇:キルギス英雄叙事詩平凡社

 若松寛訳2003『マナ青年篇:キルギス英雄叙事詩平凡社

 若松寛訳2005『マナ壮年篇:キルギス英雄叙事詩平凡社

我々は幸運にも日本語でテュルク系英雄叙事詩に触れる機会を持った。最大の感謝をここに表す。

以下、蛇足

オタベックアルティンサマーキャンプを経てバレエからは離れたようだけど、彼はその後どこに行ったのだろう?

個人的に、例の演技終了時のポージングからコサックダンス(ホパーク)の匂いを感じた。

12話で明らかになるのだろうか、期待は大きい。

あと、「サマルカンド序曲」っていうタイトルも気になる。

2016-10-25

http://anond.hatelabo.jp/20161024212812

ギルガメシュ叙事詩は、とてもよかった。ペーソスがある。

あとは万葉集とか。齋藤茂吉の『万葉秀歌』がよみやすい。

哲学は、あまり読んでないけど『ソクラテスの弁明』がよかった。

パルメニデスヘラクレイトスの、わけのわからなさも面白かった。

2016-07-12

ハイファンタジー」の定義をめぐる問題

小説家になろう」のジャンル再編の影響で、「ハイファンタジー/ローファンタジー」の定義について議論になっている。

http://syosetu.com/teaser/genre/

問題の原因は、「ハイファンタジー」の定義が、異世界舞台としたファンタジー異世界歴史文化が作りこまれ重厚ファンタジーとに分裂している点にある。特に後者定義採用している人物が、Web小説ライトノベルファンタジーを指して「あんものハイファンタジーではない」と発言し、周囲の反発を招くことが多い。以下、便宜的に前者を「舞台」派、後者を「重厚」派と呼ぶ。

まずは「小説家になろう」の定義を見てみよう。ジャンル改編に際しての説明の中で、「なろう」の運営は「ハイファンタジー」を以下のように定義している。

ハイファンタジー

現実世界とは異なる世界を主な舞台とした小説

ローファンタジー

現実世界に近しい世界ファンタジー要素を取り入れた小説

まり舞台」派である異世界転移系の扱いについて当初は混乱があったが、「主な舞台」が異世界であれば、異世界転移系でもハイファンタジーに分類するのが、「なろう」基準では妥当だと思われる(実際に多くの作品がそう分類されている)。

次にWikipediaを参照しよう。

ハイファンタジー (High Fantasy) は、ファンタジーサブジャンルの1つ。「異世界ファンタジー」と呼ばれる事もある。

独自世界観や歴史もつ架空世界異世界)を主な舞台とし、現実世界(の直線的な歴史風俗)とはかかわりが薄いのが特徴の物語で、ロー・ファンタジーと対比して使われる語句である。明確な定義ではないが、

どうやら「舞台」派の定義採用されているようである

ただし続けて、

本稿では主にハードファンタジー視点とした内容を記述する。

として、「その世界に生きる者や世界の成り立ちそのものから作られている」「作品傾向としては重厚」「シリアストーンで進行する」「叙事詩エピック)的である」「勢力の壮大な対抗をテーマとする」などの特徴が挙げられている。「重厚」派にも配慮した記述と言えよう。また、異世界転移系は基本的にはハイファンタジーに含めるが、ときに分類されないことがあるとも書かれている。

英語版Wikipediaも見てみよう。筆者に英語力は皆無なので誤訳もあろうかと思うがご容赦願いたい。

High fantasy is defined as fantasy set in an alternative, fictional ("secondary") world, rather than "the real", or "primary" world. The secondary world is usually internally consistent, but its rules differ from those of the primary world. By contrast, low fantasy is characterized by being set in the primary, or "real" world, or a rational and familiar fictional world, with the inclusion of magical elements.

ハイファンタジーは「現実世界」とは異なるもう一つの架空世界を描いたファンタジーとして定義される。異世界の内側には一貫した法則性存在するが、それは現実世界のものとは異なっている。対照的にローファンタジーは、現実か、もしくは現実に近い架空世界の中に、魔法的な要素が内包されるという点で特徴づけられる。

やはり「舞台」派である

ハイファンタジーにしばしば含まれる特徴的な要素として、「特別な才能を持った主人公」「ビルドゥングスロマン」「善と悪の対決」「エルフドワーフゴブリンドラゴンなどの種族」「魔法使い」「人工言語」などが挙げられている。

また、「異世界召喚ものであるナルニア国物語』は、こちらでもハイファンタジーに分類されている。

重厚」派の一部には、「エルフゴブリンが出てくるようなゲーム的なファンタジーは(始祖たる指輪物語を除いては)ハイファンタジーとは言えない」とか、「善なる英雄が悪を倒すというようなファンタジー(いわゆるヒロイックファンタジー)はハイファンタジーではない」とする者たちも存在するが、英語版Wikipedia記述は彼らの主張とは異なるように思われる。

ローファンタジーの項目では、

The word "low" refers to the level of prominence of traditional fantasy elements within the work, and is not any sort of remark on the work's quality.

「ロー」という言葉は、作品内における昔ながらのファンタジー要素の度合いについて語っているもので、作品品質についてのことではない。

などとわざわざ書かれていることにも触れておこう。

ちなみに英語版Wikipediaが「High Fantasy」の命名者として指定しているLloyd Alexanderのエッセイ『High Fantasy and Heroic Romance』(1971)はこちら。

The Horn Book

In modern literature, one form that draws most directly from the fountainhead of mythology, and does it consciously and deliberately, is the heroic romance, which is a form of high fantasy.

現代文学において、神話という水源から最も直接的に流れを汲んだ一つの形態として、それは意識的かつ意図的ものだが、ハイファンタジーの一形態であるヒロイックロマンスがある。

微妙に訳しづらいのだが、要するに「神話を源流とするヒロイックロマンスハイファンタジーの一形態である」としてしまってよいのか。

さらヒロイックロマンスで高い評価を得ている作家として、『世界のかなたの森』のウィリアム・モリス、『ペガーナの神々』のロード・ダンセイニ、『ウロボロス』のエリック・エディスン、『マニュエル伝』のジェームスブランチ・キャベル、『ナルニア国物語』のC・S・ルイス、『永遠の王』のT・H・ホワイト、そして『指輪物語』のJ・R・R・トールキンらの名前が挙がっている。

ハイファンタジー定義を具体的に説明している箇所は無く、あまり参考にならないような気がする。

実際に「ハイ異世界」「ロー=現実世界」が明確に定義された最初期の例としては、R.H.BoyerとK.J.Zahorskiによって編纂された『Dark imaginings』(1978)の序文がある。

Dark imaginings: a collection of Gothic fantasy - Google ブックス

Dark Imaginings is also unique in bringing together two distinct types of fantasy under one cover: High Fantasy with its imaginary, secondary worlds and Low Fantasy with its realistic primary world.

想像上の異世界を扱ったハイファンタジーと、現実的なこの世界を扱ったローファンタジーという、二つの異なるファンタジー類型を一冊にまとめている点もDark Imaginingsの特徴です。

これで少なくとも「舞台」派の用法が、ごく最近になって現れたものではないということが分かる。

もちろん、これをもって「重厚」派が完全に否定されるわけではない。

昔は「異世界舞台にする」といえば「異世界歴史文化を作り込む」のがほとんど自明だったのだろうし、また現在ほどの多様なファンタジー形式を想定していたとも思えない。

ただ、とにもかくにも現代においては「ハイ異世界」「ロー=現実世界」という区分けのほうが、より明確で、より普及し、より平和であることは間違いない。

追記

ハイファンタジー」「異世界ファンタジー」を巡る問題についてはこちらも参照のこと。

『ロードス島戦記』は異世界ファンタジーではない……のかもしれない。 - 限界中年生存日記(仮)

追記2。

異世界召喚もの」についてもう少し言及しておく。

舞台」派を採用するならば、多くの「なろう」系作品ハイファンタジー問題ないと思われる。

多くの場合ナルニアハイファンタジーに分類されるのであるし、主人公知識現実に由来するものであっても、作品舞台異世界であることは紛れもない事実からだ。

ただし「異世界かどうか」の判断は実のところ難しい。

たとえば、ハイファンタジー代表格たる『指輪物語』の世界は、現実地球古代の姿であることが明言されている。

ハリー・ポッターシリーズホグワーツ魔法魔術学校は、まるで異世界のように描かれつつも、設定では「イギリスのどこかにある」とされる。

深く考えるほど、異世界舞台にしているか現実世界舞台にしているか判断するのは困難となる。

2016-06-10

なぜマンガキャラ覚醒パワーアップすると髪が伸びるのか?

髪が伸びるキャラたち

覚醒したり、パワーアップしたりするときに長髪になるキャラって多いですよね?

ぱっと思い付くだけでも、

ドラゴンボール(1984~)におけるスーパーサイヤ人3

うしおととら(1990~)の潮(獣の槍所持時)

※厳密には髪が伸びているわけではないらしい

幽遊白書(1990~)における幽助

ハンターハンター(1998~)におけるゴン(さん)

BLEACH(2001~)の一護最後の月牙天衝

ぬらりひょんの孫(2008~)のリクオ

などなどたくさんいます

(変身すると髪が長い、というとWILD HALFワイルドハーフ)もそうですね。)

なぜみんな髪が伸びるのでしょう?

演出上の要請

まず、覚醒したり、パワーアップしたりしたことを分かりやすく示すためには、見た目ががらっと変わることが必要です。

そのような演出上の必要性があるから、髪が伸びるのかもしれません。

髪が伸びる以外だと、以下のようなパターンがありますね。

・眼の色が変わる、瞳に模様が浮かぶ

ハンターハンタークラピカNARUTO写輪眼輪廻眼、仙人モードBLEACH虚化Get Backers-奪還屋-の聖痕スティグマ)、新世紀エヴァンゲリオン

ブコメで指摘を受けて、キングブラッドレイは削除しました。

・髪の色が変わる

ドラゴンボールスーパーサイヤ人武装錬金ヴィクター化、東京喰種

・肌の色が変わる、紋様・模様が浮かび上がる

武装錬金ヴィクター化、七つの大罪のメリオダス、アメコミハルクONE PIECEルフィギア4、進撃の巨人金色ガッシュ!!

・光をまとう

ドラゴンボールスーパーサイヤ人テニスの王子様無我の境地

これらのパターンと違って、髪が伸びた場合キャラクターのシルエットそのものが変わるため、使い勝手が良い、ということはありそうです。

ロン毛ブームの影響

江口洋介木村拓哉などに人気が出て、男性の長髪が流行したロン毛ブーム

これが起きたのが1990年代でした。

当時の、男性の長髪がかっこいい、という風潮が影響しているのかもしれません。

野生化の象徴としての長髪

覚醒すると、強力になる代わりに理性を失ったりするのもお約束の一つです。

そういった性質象徴として、髪が伸びて野生化した姿になるのかも。

ライオンのたてがみのイメージ根底にあるのかもしれませんね。

怒りの表現としての長髪

覚醒シーンにおいては、その人物の怒りが伴うことも多いです。

怒髪天を衝く」という言葉もあり、髪の毛が逆立つのは怒りの表現

髪の毛が伸びて逆立つのは、そのキャラの怒りを象徴とも読み取れます

魔法少女モノにおける変身との関係

詳しくは知らないですが、プリキュアシリーズ(2004~)や美少女戦士セーラームーンシリーズ(1992~)など、魔法少女モノでは、変身して髪が伸びるイメージがあります

これらについては、ターゲットとする女児のあこがれ、「大人の女性」の象徴として、髪が伸びている側面もあると思います

ただ、少年漫画等とも、「髪が伸びて、変身・パワーアップ」というところでは共通しているので、こちらの方にルーツがあるのかもしれません。

旧約聖書における力の源としての髪の毛

旧約聖書登場人物サムソンは、怪力の持ち主ですが、その力の源は、髪の毛にあります

髪の毛が力の源という発想は、このあたりから来ているのでしょか。

ブコメでの指摘によると、髪の毛がというより、髪の毛を切らないという誓約問題のようです。

神話宗教呪術・昔話における髪の毛

丑の刻参りの方法として、相手の髪の毛が必要とされる場合があるように、宗教呪術的にも髪の毛が重要場合があります

日本の昔話でも髪が伸びるエピソードがあるようです。

まんが日本昔ばなしデータベース〜 - 山姥の毛

http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=507

きちんと確認できていませんが、ギルガメシュ叙事詩におけるギルガメシュギルガメッシュ)は、長髪が抜けると力を失うようです。

ブコメで指摘を受けて、「髪を失う」を「力を失う」に修正

ギリシャ神話では、髪の毛に関するエピソードとして、メドゥーサやかみのけ座の話がありますね。

古来から髪の毛には何らかの力が宿るとされきたんですね。

憶測疑問形だらけで結論は分かりませんが、思っていた以上に「覚醒して髪が伸びる」のルーツは古いところにありそうです。

追記

ブコメであがっているワンパンマンは逆のパターンですね。

あれは、アンパンマンビジュアルありきの設定なのと、髪の毛があったころが描かれていない(たしか)のでちょっと事情が違いそうです。

フリーザは、元々髪がないですが、シルエットがすっきりするという意味では逆のパターンですね。

ブコメでは、時間の経過の表現、異形化系の説話と設定上の都合、動物の威嚇、成熟期の発毛、歌舞伎など色々な指摘があって興味深く読ませていただきました。

ありがとうございます

2016-05-22

[]

はじまりの竜とおわりの龍を読んだ。すごい。本当にすごい。すごすぎる。内容と世界観に圧倒される凄まじい漫画だった。

馬鹿の一つ覚えみたいにすごいとしか繰り返してなくて恥ずかしいんだけど、本当にすごい漫画だった。四つの短編からなる連作集なんだけど、どれもこれも何冊もかけて大きなエピソードを読みきったかのような充実感が味わえる内容で、どれもこれも濃密極まりなかった。これひとつひとつ短編でそれぞれ一本ずつアニメ映画が作れそう。過剰なところがあるのかと言われればそうじゃなくて、過不足なく充実しているのが本当にすごいと思う。壮大。本当に壮大な叙事詩だった。

タイトルにもある通り、この作品は竜が重要存在になっている。一章では、天から落ちてきた竜と地上の人が交わる過程を描いていて、全体的に神話みたいな話なんだけど、神話ありがちな朧気な所がなくてリアリティ神秘性の両立がいい塩梅で成し遂げられているのがすごい。二章では弥生時代っぽい時代背景で竜が政に関わっている様子が描かれている。最後の龍と鳥の姿が圧巻。獣の奏者のような里が描かれている三章では、竜が政争の道具になってしまっていて悲しくなった。四章では竜の終焉が示されている。

これら短編世間感がそれぞれ本当に凄まじい。ひとつひとつ時代を切り取って一つの大きな物語が描けてしまえるほど壮大で濃密な空気感を醸し出している。おかげで没入感がすごい。一つの短編を読み終わると、物語世界から浮かび上がってきて一息つきたくなるくらい。また。人間ドラマも適切でいい。過度な肉付けをしていないせいか物語登場人物リアリティを内在させながら配役にきっちりと収まってる。反面、ありがちでスケールの大きさが物足りないエピソードになってしまってはいるんだけど、この作品世界観が何よりなのでかえって功を奏しているような気がした。キャラクターが張り切って表に出てこないために、広大で深遠なスケールを描き出しているのだと思う。

もちろん、それぞれの登場人物にも愛着が湧いてくる。一章以外には分かりやすい悪役がいるんだけど、彼らの心境にも思いを馳せることができるのがすごいと思う。みんながみんなちゃんと起立した人格を有しているのが味わい深かった。種類なんて言葉で表したくないけど、それぞれの短編多種多様な人が描かれてるのもすごいと思った。

何度も同じ言葉を使って頭が悪いんだけど、本当にすごい。圧倒されてしまう。すごい。なんだろう。自分にはすごいとしか言いようが無い。

これで新星っていうんだから信じられない。本当にすごい。信じられない。もう一度読もう。

2015-06-06

最近読んだ漫画

片隅乙女ワンスモア (1)(2) 伊藤正臣

特に印象に残らなかった。先は気になるといえばなるけど。夏の空気感の醸成にかなり手間かけてるのはまあ評価できるかな。なんだろう、このどうでも良い感。主人公キャラが、いろいろどうでも良さそうな感じで、それがそのまま作品全体を覆っているのかなあ。そんぐらいの感じがリアルで好きって向きもあろうかとは思う。1巻買ってモヤモヤして、とりあえず2巻も読んでみようと読んだが、あんまり印象は変わらなかった。



向ヒ兎堂日記 2-4 巻 鷹野 久

1巻が気に入ったので、そのまま継続購入。



ヴォイニッチホテル(3) 道満晴明

鉄板面白かった。

百年の孤独 - マシアス・ギリの失脚 - ヴォイニッチホテル とか言ったら大げかな。

フリーダムかつ脈絡のないエピソード構成される叙事詩。それでいて笑いも取れてるとか。もちろん画も楽しい



ふしぎの国のバード 1巻 佐々 大河

画やキャラの味付けが濃いので、ちょっととっつきにくいけど、なれると結構楽しめた。

今となってはファンタジックですらある、やさしい異文化交流



くまみこ 4 吉元 ます

エンヤネタは笑った。警官2人のエピソードはあんな引っ張る必要あったんかね?




波よ聞いてくれ(1) 沙村広明

1話目のタイトルが「お前を許さない」なんだけど、個人的には「ブラッドハーレーの馬車みたいなグロを世に放ったお前を許さねーよ」とは思った。それはそれとして作品面白かった。笑いを取りに行ってるとこで、ちゃんと笑える。登場人物が全員芸人脳。画ももちろん楽しめる。



二兎物語 (2) 滝沢聖峰

1巻が気に入ったので、購入。完結してた。




千代八千代に  大澄剛

ちょっと気になった作家だったので購入。

表題作不器用で誠実なおじさんと若い女性恋愛ものなんだけど、最近こういう構図流行ってんのかね。マンガにカネ出す層が高齢化しているか需要があるのか、それともイマドキの若者がこういうの好きなのか。昔から常にあるのか。

話はどれも恋愛がらみで、バリエーションありつつもどれもイマイチ突き抜けない感じが。。とはいえ、それなりに読ませるし、つまんないわけではない。とけちゃう女の子の話は良かった。画は揺らぎがあるけど、後半の作品は良かった。人体に自然な立体感パースを感じさせてるし、人の表情は大げさではあるけど、大味ではなくて好感が持てる。



サーバント×サービス 1巻 - 4巻

WORKING!! 13巻

  高津カリノ

それぞれ完結。サーバント結構前に完結したみたいだけど、最近まとめ買いした。

サーバントでは控えめに、WORKINGでは盛大に、イカれたキャラたちが繰り広げるドタバタギャグ要素だけではなくコメディ要素が強くて、それぞれ良い感じの日常感を作りだしていると思う。画はある時期以降うまくなった印象。基本的に顔アップとバストアップばっかりだけど。。まあ、4コマだしね。まひるとめぐみの顔が好き。




イチゴイチハチ!(1) 相田裕

学園スポーツものと見せかけたお仕事マンガかと思わせて、ラブコメらしい。

すっごい面白いってわけではないけど、つまんないわけではない。




それでも町は廻っている(14) 石黒正数

あいかわらず面白い

アイディアが優れていて、話運びにはムダがない。洗練されていて、何度読んでも面白いってのが凄い。

なんど読んでも面白い漫画って、面白いってよりも、もはや気持ちいいって感じなのかも。





制服あばんちゅーる(2)伊丹澄一, さぬいゆう

1巻と変わらないけど、やや進展も感じさせていて良いのでは。画は1巻のほうがよかったような?




ラストゲーム 7  天乃忍

安定して面白い。構図はマンネリなのにちゃんと笑える。

2015-04-13

海外企業っぽい社名の日本企業

ブリヂストン

世界大手タイヤメーカー

社名は創業者名字石橋)を英語に直訳したもの

アシックス

世界第4位のスポーツ用品メーカー

社名は「Mens Sana In Corpore Sano(健全なる精神健全なる身体にこそ宿るべし)」のMens(才知)をAnima生命)に置き換え、その頭文字を取ったもの

エドウィン

国内大手ジーンズメーカー

社名は「DENIM」の「D」と「E」を入れ替え、「NIM」を180度反転して「WIN」としたもの

ローランド

電子楽器メーカー

社名は叙事詩ローランの歌」の主人公より。

ブラザー

電機メーカー

社名は創業者10兄弟長男だったため。

ウィルキンソン

元は飲料メーカーだったが現在アサヒ飲料ブランドとなっている。

ブランド名創業者クリフォードウィルキンソンより。

2015-01-26

物語には、穴に落ちて這い上がる話と、穴に落ちて這い上がれない話

http://anond.hatelabo.jp/20150114231342

しかないよ畢竟、とハルキは言った。

穴に落ちて這い上がる話と、穴から這い上がれない話の二つしかない、という主張、直感おかしいのがわかるだろう。

まず、その他の話がある。

群像劇叙事詩的な話はどうなんだ、登場人物Aが勝って登場人物Bが負ける話はどっちなんだ、と。

その他の話を除けばいい。例外は除いて考えよう。

除いたあとで穴に落ちて這い上がる話と、穴から這い上がれない話、とに分けよう。

登場人物Aが勝って登場人物Bが負ける話を、登場人物AかB、どちらかを主人公とみなして、どちらかを小道具見立ててれば確かにどちらかのハコにいれられる。

直感は解決されただろうか?

されない。

間違ってはいない。

しかし、その分類に果たしてどれだけ意味があるだろうか。

まず、波瀾万丈、という言葉があるように、主人公は上がったり下りたりする。禍福は糾える縄の如し。

上がったところで終われば確かにハッピーエンドに見える。

もしも毒りんごで殺されたところで終わってしまえばバッドエンド。

生き返って王子結婚したところで終わればハッピーエンド

だが、その後を追い続けて、喧嘩の絶えない家庭になって、そこで切ればバッドエンドである

人間万事塞翁が馬

バッドエンドとハッピーエンドは紙一重である

登場人物が全員死んでしまうような1ページを最後に追加することもできるし、

死んだはずの主人公不思議なことに何故か生きていた、と書くこともできる。

無敵の殺人鬼を死に物狂いで倒したホラー映画主人公たち。ハッピーエンドだ。

だが、稲光をバックにヤツの死体が動くカット最後に付け加えたら?

(see also 井伏鱒二の「山椒魚」の改稿)

試写会のA/Bテストラストが変わった映画の話などよく聞くではないか

「昨日の忘年会料理どうだった?」

最後にデザートが出たよ」

 きのう君が行ったのは焼肉屋だったろうかフレンチだったろうか。

 鍋料理だろうが中華だろうが、アイス杏仁豆腐かなにか、最後に甘いものが出てきてもおかしくない。

ハッピーエンドか否かによってその物語がどういうものであるか知ることはできない。

冒頭の二分法を受け入れるのに直感的な抵抗が生じるのは、それゆえかもしれない。

7 おまけ

 もうひとつ

「助けの必要負け犬が主役のストーリー」と「お仕置き必要成功者天罰が下るストーリー

 という二分法もあるそうだ。

 これは中身に言及があるという点で、ハッピーエンドかどうか、という分類にはない特長がある。

 だけど、やっぱりこれも物足りないんだ…

 前者の方が圧倒的に多くて、後者はあんまり見かけないよね?

物語には、穴に落ちて這い上がる話と、穴に落ちて這い上がれない話しかない。とハルキは言った

http://anond.hatelabo.jp/20150114231342 <h3>o- *</h3>

穴に落ちて這い上がる話と、穴から這い上がれない話の二つしかない、という主張、直感おかしいのがわかるだろう。

まず、その他の話がある。

群像劇叙事詩的な話はどうなんだ、登場人物Aが勝って登場人物Bが負ける話はどっちなんだ、と。 <h3>o- *</h3>

その他の話を除けばいい。例外は除いて考えよう。

そのあとで穴に落ちて這い上がる話と、穴から這い上がれない話、とに分けよう。

登場人物Aが勝って登場人物Bが負ける話を、登場人物AかB、どちらかを主人公とみなして、どちらかを小道具見立ててれば確かにどちらかのハコにいれられる。 <h3>o- *</h3>

直感は解決されただろうか?

されない。

間違ってはいない。

しかし、その分類に果たしてどれだけ意味があるだろうか。 <h3>o- *</h3>

まず、波瀾万丈、という言葉があるように、主人公は上がったり下りたりする。

上がったところで終われば確かにハッピーエンドに見える。

りんごで殺されたところで終わってしまえばバッドエンド。

生き返って王子結婚したところで終わればハッピーエンド

だがもし、その後を追い続けて、喧嘩の絶えない家庭になって、そこで切ればバッドエンドである。 <h3>o- *</h3>

バッドエンドとハッピーエンドは紙一重である

登場人物が全員死んでしまうような1ページを最後に追加することもできるし、

死んだはずの主人公不思議なことに何故か生きていた、と書くこともできる。

井伏鱒二の「山椒魚」の改稿を見よ) <h3>o- *</h3>

「昨日の忘年会料理どうだった?」

最後にデザートが出たよ」

 焼肉屋だろうが鍋料理だろうがフレンチだろうが中華だろうが、最後アイスかなにか出てきてもおかしくない。

ハッピーエンドか否かによってその物語がどういうものであるか知ることはできない。

冒頭の二分法を受け入れるのに直感的な抵抗が生じるのは、それゆえかもしれない。

<h3>o- *</h3>

 もうひとつ

「助けの必要負け犬が主役のストーリー」と「お仕置き必要成功者天罰が下るストーリー

 という二分法もあるそうだ。

 これは中身に言及があるという点で、ハッピーエンドかどうか、という分類にはない特徴がある。

 だけど、やっぱりこれも物たりないんだよな…

 前者の方が圧倒的に多くて、後者はあんまり見かけないよね?

2008-11-29

Re: anond:20081129093133 または伝言ゲーム

http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html

なぜか元の元が消えているのでgoogleキャッシュ

http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja

以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。

  • モノが違うんだから、原作アニメは違っていて当たり前。売るために同じにしたいみたいだけど。
  • 何を語るか、ではなく、どう語るか、で見るべき。それが今の時代だろうが。
  • 富野村上は全然違う。新房山本はまだ違っているけどやりにくい時代のなか先に進んでいる。見ている側、追いついてるか?

まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。

では。

原作至上主義」のふたつの定義

  1. 作る側が原作に忠実であろうとすること。
  2. 見る側が原作に忠実であることを期待すること。

問題の提起

まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。

  1. 原作(マンガとか)とアニメは見た目が違うよ
  2. 見た目が違うのに、原作をそのままアニメコピーなんてできないよ
  3. 見た目が違うのに「同じ作品だよ」と言って商売することが求められているよ
  4. 作る側も「同じ作品にしたいよ」「俺の作品にしたいよ」と言う人がいるよ(他にもいるかも)
  5. 見る側も「作品から生まれた発想を見たいよ」「なるべく忠実に再現してほしいよ」という人がいるよ(他にもいるかも)。

原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作アニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。

自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、

ていうことだよ。

なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。

批評」が利用する原作アニメの「間(あいだ)」という「ギミック

批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去アニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダムエヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。

みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。

また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。

まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、

  1. 原作アニメがもの(メディア)として違う
  2. だから、表現としても原作アニメは違ってくる
  3. だから、アニメ原作を忠実に再現することなんか不可能
  4. でも今は原作アニメは同じものとして扱いたい(「横断可能性」)
  5. だから、表現として違うとか再現不可能とかそんな話は忘れる。

という流れを「忠実に反映」してると思うよ。

ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。

今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作アニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作アニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。

これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作アニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。

物語構造分析(未満)

こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評対象になるかも知れない。ニューヨーク9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀宇野常寛ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。

世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメ2008年を代表しうるアニメだからね。

アニメーション歴史の忘却

アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?

それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。

アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。

けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメ歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーション歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)

原作至上主義」は正しいのか、間違っているのか。

現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。

相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。

アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクションパロディ引用自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作アニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。

ヘーゲル小説のことを「市民社会ブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?

富野由悠季村上隆

ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。

ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメコミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーション歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。

富野ペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆

新房昭之山本寛

なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。

でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信小説アニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本アニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。

そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。

それから

けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野村上には見いだせないものであって。

くだらないテーマの指摘とか、原作アニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。

2008-11-27

宇野常寛というのはつまり、

満身創痍のナルシスが、怨霊となったオイディプスの父の力を借りて最後の戦いに挑むという英雄叙事詩なんじゃないか

2008-01-27

http://anond.hatelabo.jp/20080127134150

世界最古の長編小説言われてるけど、ほんとうなのかね。

もし「長編小説」というのを、storyのある長めのfictionという程度に定義するなら、それこそギルガメッシュ叙事詩から始まりホメロスその他ギリシャ悲劇とか旧訳聖書とか各地に伝わる神話伝説の類でテキスト化されたもの全てが当てはまるだろうから、最古なんてことは言えないでしょう。

ただ、現代日本の我々がイメージするような「心理描写」とかそのほか日常の描写とかそういった要素を持つ、日本的「小説」観から見て、「世界観歴史を含み込むような一定量以上の長さを持った散文芸術」のことだといった感じに定義するとすると、なるほど源氏より以前にそれに相当する物はないとも言えます。

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