2008-11-29

Re: anond:20081129093133 または伝言ゲーム

http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html

なぜか元の元が消えているのでgoogleキャッシュ

http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja

以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。

  • モノが違うんだから、原作アニメは違っていて当たり前。売るために同じにしたいみたいだけど。
  • 何を語るか、ではなく、どう語るか、で見るべき。それが今の時代だろうが。
  • 富野村上は全然違う。新房山本はまだ違っているけどやりにくい時代のなか先に進んでいる。見ている側、追いついてるか?

まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。

では。

原作至上主義」のふたつの定義

  1. 作る側が原作に忠実であろうとすること。
  2. 見る側が原作に忠実であることを期待すること。

問題の提起

まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。

  1. 原作(マンガとか)とアニメは見た目が違うよ
  2. 見た目が違うのに、原作をそのままアニメコピーなんてできないよ
  3. 見た目が違うのに「同じ作品だよ」と言って商売することが求められているよ
  4. 作る側も「同じ作品にしたいよ」「俺の作品にしたいよ」と言う人がいるよ(他にもいるかも)
  5. 見る側も「作品から生まれた発想を見たいよ」「なるべく忠実に再現してほしいよ」という人がいるよ(他にもいるかも)。

原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作アニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。

自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、

ていうことだよ。

なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。

批評」が利用する原作アニメの「間(あいだ)」という「ギミック

批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去アニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダムエヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。

みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。

また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。

まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、

  1. 原作アニメがもの(メディア)として違う
  2. だから、表現としても原作アニメは違ってくる
  3. だから、アニメ原作を忠実に再現することなんか不可能
  4. でも今は原作アニメは同じものとして扱いたい(「横断可能性」)
  5. だから、表現として違うとか再現不可能とかそんな話は忘れる。

という流れを「忠実に反映」してると思うよ。

ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。

今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作アニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作アニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。

これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作アニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。

物語構造分析(未満)

こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評対象になるかも知れない。ニューヨーク9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀宇野常寛ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。

世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメ2008年を代表しうるアニメだからね。

アニメーション歴史の忘却

アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?

それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。

アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。

けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメ歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーション歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)

原作至上主義」は正しいのか、間違っているのか。

現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。

相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。

アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクションパロディ引用自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作アニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。

ヘーゲル小説のことを「市民社会ブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?

富野由悠季村上隆

ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。

ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメコミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーション歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。

富野ペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆

新房昭之山本寛

なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。

でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信小説アニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本アニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。

そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。

それから

けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野村上には見いだせないものであって。

くだらないテーマの指摘とか、原作アニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。

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