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2023-09-30

ふるさと納税菅義偉推し進めていたことをあげつらって「売国奴総理大臣してたようなものだ」という人たち

ちょっと理解が出来ないな。

ふるさと納税ってそんなに悪政か?

自治体労働力無駄遣いしてると言われるけど、そもそも地方税の収支バランスを取ることはもとから無駄な労力だったわけじゃん。

今はそれを弱肉強食かすることで死んだ地方自己責任論のもと強者目線では効率化されていってると思う。

中央に手間だけ押し付け自分たちピーピー悲鳴を上げているだけで済まそうとする受け身体質の自治体の多くが自立心に目覚めてる。

そもそも地方創生の本質地方に「自分たちが頑張ることしか道はない」という自立心を促すことであり、へその緒から栄養を貰えばいいという甘えさえ産んでいた今までの地方財政制度はそれを阻害してたんだよね。

それはまるでパート賃金の見えない上限のごとく「下手に頑張るだけ損じゃね?」という閉塞感を産んでいた。

でも今は頑張れば頑張るだけ結果が出る理想的競争社会地方財政に開かれている。

一見強みのない自治体であっても様々な創意工夫に寄ってふるさと納税で優位に立つことが可能

「弱いままでもいいんだよ」という態度は一見優しい用に見えて実際は相手いつまでも弱者として縛り付ける見限りでしかなかった。

強くなることを義務付ける野生の価値観に戻ったことで地方は再び活力を取り戻していってる。

そういう見方は出来ないのかね?

ペシミズムニヒリズムを一度脇において世界フラットに見てごらんあれ。

2022-04-10

手塚先生パヤオもどっちも偉人

個人的には、大阪人ギャグセンスのあった、手塚作品ユーモアが好きかな

ケモナー近親相姦元祖でもあり、ものすごくドロドロしたところもあって二面性がいい

パヤオ倫理観とか自然観は壮大だし、文芸人としての発言や主張は学ぶものが多い

石原慎太郎文芸面白さに近い

手塚先生ももちろん文学者だったけど、エンターテイナーだったところがいいと思う

どっちも偉人

宮崎駿手塚治虫から多大な影響を受けた。

 宮崎駿少年時代に、手塚治虫のデビュー長編新宝島」に衝撃を受け多大な影響を受けたという。

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宮崎駿若い

新宝島」、当時4ページ程度だった漫画というジャンルを200ページを超えるボリューム制作され、40万部のベストセラーとなった。

新宝島 手塚治虫文庫全集

新宝島 手塚治虫文庫全集

作者:手塚治虫

講談社

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 漫画家を目指していた宮崎駿は、自身が受けた手塚治虫の影響について、こう語っている。

手塚治虫の持つ悲劇性が魅力的だった。

小中学生の頃のぼくは、まんがの中では彼の作品が一番すきでした。昭和20年代単行本時代最初アトムの頃ーの彼のまんがが持っていた悲劇性は、子ども心にもゾクゾクするほど怖くて魅力がありました。ロックも、アトムも、基本的悲劇性を下敷きにしていたでしょう。

漫画を描き始め、手塚の影響からいかに逃れるかが重荷だった

18才を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思ったときに、自分にしみ込んでいる手塚さんの影響どどうやってこそぎ落とすが、ということが大変な重荷になりました。(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)

ぼくは全然真似した覚えはないし実際似ていないんだけど、描いたもの手塚さんに似てると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。手塚さんに似ていると自分でも認めざるを得なかった時、箪笥の引き出しにいっぱいにためてあったらくがきを全部燃やしたりした。(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)

風の谷のナウシカ漫画版も手塚の影響下にある

庵野秀明宮崎駿最高傑作と呼ぶ「風の谷のナウシカ漫画版でも、手塚の影響があるのだという。

風の谷のナウシカ 全7巻箱入りセット「トルメキア戦役バージョン

風の谷のナウシカ 全7巻箱入りセット「トルメキア戦役バージョン

作者:宮崎 駿

徳間書店

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──だけどまあ、『ナウシカ』を観れば、そのスキルたるや、すさまじいですよね。

宮崎:いやいや、そんなことないです。やっぱり僕自身アニメーションをやる前に手塚さんの影響下にいてね。そこからどうやって抜け出すかっていうので、にっちもさっちもいかなかったっていう、その影がね、いまだに『ナウシカ』の中にありますよ。だから自分で見てて嫌になるんですよね。結局、そこらへんをほったらかしにしてアニメーションをやってたから。だからいざ漫画を描くとね、手塚さんとは全然違うように見えるかもしれないけども、やっぱり手塚さんの背負ってた時代的な制約みたいなものが、僕の世代の制約としてちゃんと影を落としてると思いますね、例えば、女の子の描き方とかね。今の連中のほうがずっと自由に描いてますよね。それはものすごく感じます。(風の帰る場所 ナウシカから千尋まで より)

手塚治虫は、宮崎駿の才能に嫉妬

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手塚治虫

 

宮崎駿嫉妬し、「ナウシカ」の手塚賞受賞に反対!?

 方や、手塚治虫は宮崎駿の才能に嫉妬していたのだという。手塚賞の大賞に漫画版「風の谷のナウシカ」が選考の中で、推されたているも、嫉妬した手塚治虫の一言選考がひっくり返った際のエピソードジブリプロデューサー鈴木敏夫が語っている。

 当時、選考委員より鈴木のもとに電話があり、「宮崎駿さんは、受賞を受けてくれるだろうか?」と言われたのだという。鈴木が、「多分、大丈夫でしょう」と返すと、選考委員は、「ありがとうございます。今、選考委員の中で決まっているんですが、手塚先生が遅れて参加するので、最後手塚先生確認だけとって、正式なご連絡をします」とのこと。

 その日の深夜、鈴木のもとに選考委員より気まずそうに電話があり、「手塚先生ナウシカの受賞に反対された」と言われたのだという。手塚の反対意見の内容を、鈴木ラジオでこう語っている。

手塚宮崎君が描かれたものから、大変素晴らしい。僕もちゃんと読んでますし、漫画賞にふさわしい。だけど、まだ完結してないですよね!?残念ですね!漫画賞には、完結しないと。(鈴木敏夫ジブリ汗まみれ より)

 だが、漫画賞は、完結しているもので賞をもらったものはこれまでもなかったのだという(笑)完全に、手塚治虫の嫉妬である

鈴木手塚さんは、当時から宮崎駿のことをよく知ってたんですよね。だから、宮さんのことをライバルと見なしたんでしょうね。あの人の負けず嫌い面白かったですね。

手塚自分総監督になり、宮崎駿アニメをつくろうとした!?

 また、鈴木は、手塚治虫が総監督となり、宮崎アニメをつくろうとしたというエピソードも明かしている。

 「カリオストロの城」公開前、才能があるのに、なかなか、世の中に受け入れられていない宮崎駿にどうしても映画を撮らせたいプロデューサー鈴木ではない)が、手塚治虫に相談に行ったのだという。すると、手塚

手塚:あぁ~宮崎君というのは、素晴らしい!僕もぜひ応援したい!(宮崎映画化する企画について)ああ!あれを映画にするのか!僕も良く知っているよ。じゃあ、君がプロデューサーで、宮崎君が監督だ。わかりました!では、私が総監督をやりましょう!(鈴木敏夫ジブリ汗まみれ より)

後に宮崎は、手塚アニメーション悲劇性を全否定

 そんな、「新宝島」にとんでもない影響を受けたと語る宮崎駿だが、手塚アニメーション仕事にはかなり否定的である

アニメーションに関して、手塚さんが主張したことは全て間違い

アニメーションに関してはーこれだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うので言いますががーこれまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです。(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)

一時、彼が「これからリミテッドアニメーションだ。三コマがいい三コマがいい」とさかんに言っていましたが、リミテッドアニメーションは三コマという意味ではないですし、その後言を翻して「やっぱりフルアニメーションだ」とあちこちで喋るに至って、フルアニメーションの意味を知らずに言っているんだと思ってみていました。同じようにロートスコープをあわてて買い込んだ時にも、もう僕らは失笑しただけです。(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)

自分義太夫を習っているからと、店子を集めてムリやり聴かせる長屋大家落語がありますけど、手塚さんのアニメーションはそれと同じものでした(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)

後期作品の安っぽい悲劇性にうんざりした。

さらに、宮崎駿は、手塚治虫作品が持つ魅力「悲劇性」が、後期の作品では、ただの安っぽいペシミズムに成り果ててしまったと痛烈に批判している。

彼の初期のアニメを何本かみた時です。漂流している男のところに滴が一本たれ落ちる「しずく」や「人魚」という作品では、それらが持っている安っぽいペシミズムうんざりした。かつて手塚さんがアトムの初期の頃持っていたペシミズムとは、質的に違うと思って(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)

これは先輩から聞いた話ですが、「西遊記」の製作手塚さんが参加していた時に、挿入するエピソードとして、孫悟空恋人の猿が悟空が帰ってみると死んでいた、という話を主張したという。けれど何故その猿が死ななくてはならないかという理由は、ないんです。ひと言「そのほうが感動するからだ」と手塚さんが言ったことを伝聞で知った時に、もうこれで手塚治虫にはお別れができると、はっきり思いました。(COMIC BOX手塚治虫特集インタビューより)

2020-11-26

anond:20201126011931

自分ペシミズム出家考えて調べてみたんだが

仏教世界も、高学歴僧侶 MBA持ち僧侶 世襲僧侶 意識高い僧侶 メディアポピュリズム僧侶がいっぱい

崇高っぽい雰囲気演出でき、釈迦権威を借りられるので、俗世間より酷いのかもしれない

僧侶上下関係マウンティング?はエグいから憧れで来るなら止めろと忠告する僧侶複数いた

2020-07-05

底辺絵師は神絵師を乗り越えられるのか?

底辺絵師お気持ち表明です。

最近、なにかと話題のおけけパワー中島ですが、あの作中に出てくるキャラクターの実力は中堅以降クラスで私みたいな底辺から見ればクラスカーストの奴らの内輪話じゃん、というような感想しかなりませんでした。

勿論、主人公の七瀬、そして先日出てきた新キャラの友川においても最初底辺だったのかもしれないですけど結局(努力もありますが)実力をメキメキと身につけ、ある一定の評価基準まで到達しています

この真田さんの漫画において提示されているのは、『神に到達するなら自分も神同等の実力を身につける』という手法で、底辺は神へ接近・接触できるということです。同人界隈は特にこの傾向が強いと言ってもいいでしょう。

ですが、現実ではどうでしょうか。ここで、ジェームズフレーザーの金枝篇より王殺しを引用してみます

森の王と呼ばれる祭司がいた。逃亡奴隷けがこの職につく事ができるが、「森の王」になるには二つの条件を満たさねばならなかった。第一の条件は金枝を持ってくる事であり、第二の条件は現在の「森の王」を殺す事である

このように、実際に神との原始的宗教的体験というものを考えると、寧ろ神殺し底辺な者にこそ与えられていたパワーでしょう。

しかし、同人界隈というのは、いいねRTといった数的なものが良さに変換するプロテスタンティズム的な考えが主流であり、例のようなカトリック的な神それ自体神聖から神聖であるというような考えとは異なります。すると、ここで二つに考えが分裂します。

一つは、神絵師はいいねRTが多い人間であるというテーゼです。これはツイッターpixivにおいても閲覧数が多い方が神(結局上手なのだから見られる)というような考えであり、主流なものです。しかし、(閲覧数が高いから・売れているから)素晴らしいというのは、権威主義ともはや同じです。

そして二つ目に、その絵それ自体神聖であり作者は尊いのだという考えです。こちらもある程度支持する人はいるかもしれないですが、いいね1の絵を神なんだと言ったところでその当人にとってしか神でないというような話になってしまます。それでは、神としての効力というのは非常に弱いです。

では底辺絵師持っている力とはなんでしょう。それは数字神聖さもないということです。このようなペシミズムが、サド遺言のように誰にも作品を見せずこのまま消えてしまいたいというような感情へと移行することができれば、その時ついぞ神絵師を殺すことができるでしょう。

ここでなぜ神絵師神聖さを持つのかを理解することができます。すなわち神絵師とは、絵が上手い・閲覧数あるといったことではなく、多くの人間創作活動へと導いてきた人間であるから絵師なのです。

ですから底辺絵師は神絵師を殺す時がなければいけません。それは数的なものでなく神絵師思想を乗り越えるといった形式において考えられるべきでしょう。

友川は毒マロという形式を用いましたが悪手でしょう。本来ならば創作という土俵で、つまりA×Bの作品で表すべきだったはずです。

そして神絵師が神である以上、神は気まぐれであり何をしても許されるからあなたが信じた神だったのです。それをもう許せないのならあなたにとってはもう神は死んだ状態であります

我々底辺ペシミズムが神絵師を揺さぶる時、初めて神絵師との合一ができるのです。そしてそれを乗り越えて神を超越することができるというのが、底辺の強みです。神絵師になってしまったら神同士の馴れ合いしかありません。

結論として、底辺努力絵師天才絵師古典的王殺しレズが次の話として来るのではないかという予想です。

2017-06-19

誰も指摘しないけどさ、そこそこ知名度のあるアイドルって男ぐらい普通に警戒すると思うわけ。

それで、今回ばかりでなく今までを見ても普通に泊りに行ったりするわけじゃない?

ってことは、男に対する警戒心が希薄になるくらい日常的に男とお付き合いするっていうことが、普通にある環境ってことじゃない。接待だろうが打ち上げだろうが、打ち合わせだろうが。

それで恋愛禁止とかね、もういい加減信じてる奴馬鹿かと。

学校で考えてみ?体育会系部活マネージャーとかのレベルでこそこそ付き合ってるって。顧問先生に見つからないように。

あと、東浩紀だよ。やってる事はそりゃ立派かも知んないけど、ツイッター世間を知ったような口聞くな、と。みんな頭の中はめちゃくちゃな事考えてるかもしんないけど、普段は真面目に気使って生きてんだよ。

日本人を頭の中だけで考えるとおかし人達だよな。そりゃ多分100年前ぐらいかおかし人達って言われてんだよ。でもな、だからってそんな捨てたもんじゃないって。お前が一人で悲劇ヒーローになってるほど、悪くないよ。望めばキリないのはわかるよ。でもね、君が考える世界にもあんまり希望がない気がするよ。

頭の中とは別の居心地の良い世界があるんだよ。これからはわかんないけどね。

いつだってからないんだけど、日本人の良さは頭で考えてもよくわかんないと思うな。頭は大事だよ。でもそれは道具なの。大事な事は心で決めるんだよ。それが日本人の知性だと思う。君の知性は、正しいよ。正しいけど、嫌いだよ。安いペシミズムに見えてしまうよ。

あとな、太り過ぎだよ。死んじまうぞ?長生きしてくれよな。

みんなさ、なんで一記事に一つの話題なわけ?別に色んな話題があっても良いと思うな。

2015-06-11

http://anond.hatelabo.jp/20150611170805

それは「いつか死ぬなら、今日自殺しても一緒でしょ」というペシミズムと同じ。

人が種の保存に意味付与するならば、そのために最善を尽くそうとする態度も良いものとして評価すべきだろう。

2014-08-20

http://anond.hatelabo.jp/20140820015153

とても微妙問題を提起していると思った。

元増田の論点に乗れば、確かに、解釈(妄想)と実行のあいだには無限の距離があって、エロい妄想をするということ自体性犯罪の予備軍扱いするなら、共感は得られない。

だけど、今回のテーマは個人の解釈に留まるものではなくて、解釈する共同体(お笑い鑑賞)に矛先が向かっている。

自分どぶろっくというのは知らないから確信もって話せないけど、要約から察するかぎりは、たんに女性の振る舞いを性的解釈するだけでなく、その解釈をアイロニカルに提示することで笑いを誘っているのだろう。

これを鑑賞するひとはどういう考えを内面化するか? と言うと、ひとつには、この種の妄想家の愚かしさを相対的に眺めることができるようになるから男性妄想けん制する役割を果たすかもしれない。

しかアイロニー効果は、たんにその対象を相対化するだけじゃなくて、保存しもする。つまり、「こういうひとって馬鹿でしょ、でも世の中そういうもんなのよね」っていう。アイロニーメタ的な目線から

それだけじゃなくて、この笑いが描く女性は、対象としてしか登場しない。元増田性的主体として現れている(からこれを否定すると女性性的主体性のもの否定するんじゃないか)と書いてるけど、妄想のなかで男の性的欲望に照らして解釈されている女性が「主体的」だなんて(そしてそれを否定したら主体性のものが消えてしまうなんて)、まさか元増田も本気で書いているわけじゃないだろう。

ましてこの笑いにはその妄想嫌悪なり拒絶なりで反応する女性がお仕舞いに現れるわけでもない。自滅する振りをする男芸で閉じていると言っていい。

そういうわけで、自分としては、性差別的な状況を容認するような笑いだと思う。

でも、これが個人の妄想に過ぎないのなら、それはどうしようもない。

だけど、これは公共放送にのってて、その流通には社会メンバーひとりひとりが少なから責任を負ってると思う。

さっきも書いたように、解釈(妄想)と行為あいだには無限のへだたりがある。

問題は、両者を隔ててるものが何か、わからない、ってことだ。

けっきょくは、結果論的に「犯罪を犯したやつ」と「犯さなかったやつ」との区別しかできないかもしれないんだけど、それじゃ犯罪を予防することもできない。

メディアの影響はしばしば指摘されている。

今回のケースでは、どぶろっくお笑いが直接性犯罪を引き起こす、なんてことは言われなくて、そういうものを「ただのお笑い」として流通させようとする社会メディアのありかた全体が問題にされていると思う。

からといってもちろん、規制するための法律を……なんてことは、現状では受け容れられない。

表現の自由は大いに保証されるべき。

でも、そもそも法制度に頼るのって、社会の最終手段とまではいかないまでも、とりうる手段ひとつに過ぎないのでは?

たとえば、隣人がうるさいからという理由で、即警察通報するのって、近隣住民とのコミュニケーションが不在だからこそ起きることだと思う。苦情を直接言う、ということがなくなっている。

同様に、いま、何か世の中でまずいことが起こってると考えたときに、頼れるもの法律しかない、って事態になってるんじゃないか。

ほんとは道徳とか倫理とか、そういうことが語られてもいいと思うんだよね。

表現行為ポルノお笑い加虐性問題にしたいからって、即規制だ、とかそういうことにならずに。

話し合いじゃなにも変わらない、個人では社会を変えられない、そういうペシミズムが、すぐに法や規制行為に頼ろうとする振る舞いに繋がってくるんだと思う。

記事だって元増田だって、これが社会の考え方を変えるとまで信じるのは、ちょっと楽観的すぎるかもしんないけど、でもこういう提案を受けて、規制とまではいかないでも、自分がそれを変えるひとりなんだって意識することは大事なのではないかな。

移動中なんで支離滅裂でごめん。元増田の疑問にちょっとは応答したつもりです。

2014-07-09

http://anond.hatelabo.jp/20140708153106

「正さなきゃいけない」って考えをまず捨ててみそ。

お前の余暇の使い方は、手持ちの金と社会道徳が許す限りはお前が自由にしていいんだ。

変な喩えになるが、お前が買った無数のショートケーキがここにあったとして、それを一個ずつ味わって食べていくのも、

頭のイチゴクリームだけかたっぱしかつまみ食いしてくのもお前の自由だ。お前の人生の使い方は本当にお前の自由なんだ。

効率を追求している内に本当の楽しさを見失った気になってペシミズムに暮れる生き方をお前が心の底で望んでるなら、

それをあえて正す必要なんてない。

お前の本質が赴くままに生きろ、お前自身何となくでとっちまう行動はお前が思っている何十倍もお前の本質に直結している。

2013-11-20

日本の tech 業界蔓延ペシミズムをなんとかしたい

http://hardware.slashdot.jp/story/13/11/19/0426238/

始まる前からスキミング技術と紙一重なので、あっという間にクラックされるような気もする。』とか『店頭で利用が拒否されそうな予感も 部門より』とか、こんなんだから何も新しいことが始まらないんだよ…

2008-11-29

Re: anond:20081129093133 または伝言ゲーム

http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html

なぜか元の元が消えているのでgoogleキャッシュ

http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja

以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。

  • モノが違うんだから、原作アニメは違っていて当たり前。売るために同じにしたいみたいだけど。
  • 何を語るか、ではなく、どう語るか、で見るべき。それが今の時代だろうが。
  • 富野村上は全然違う。新房山本はまだ違っているけどやりにくい時代のなか先に進んでいる。見ている側、追いついてるか?

まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。

では。

原作至上主義」のふたつの定義

  1. 作る側が原作に忠実であろうとすること。
  2. 見る側が原作に忠実であることを期待すること。

問題の提起

まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。

  1. 原作(マンガとか)とアニメは見た目が違うよ
  2. 見た目が違うのに、原作をそのままアニメコピーなんてできないよ
  3. 見た目が違うのに「同じ作品だよ」と言って商売することが求められているよ
  4. 作る側も「同じ作品にしたいよ」「俺の作品にしたいよ」と言う人がいるよ(他にもいるかも)
  5. 見る側も「作品から生まれた発想を見たいよ」「なるべく忠実に再現してほしいよ」という人がいるよ(他にもいるかも)。

原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作アニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。

自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、

ていうことだよ。

なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。

批評」が利用する原作アニメの「間(あいだ)」という「ギミック

批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去アニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダムエヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。

みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。

また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。

まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、

  1. 原作アニメがもの(メディア)として違う
  2. だから、表現としても原作アニメは違ってくる
  3. だから、アニメ原作を忠実に再現することなんか不可能
  4. でも今は原作アニメは同じものとして扱いたい(「横断可能性」)
  5. だから、表現として違うとか再現不可能とかそんな話は忘れる。

という流れを「忠実に反映」してると思うよ。

ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。

今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作アニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作アニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。

これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作アニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。

物語構造分析(未満)

こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評対象になるかも知れない。ニューヨーク9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀宇野常寛ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。

世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメ2008年を代表しうるアニメだからね。

アニメーション歴史の忘却

アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?

それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。

アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。

けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメ歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーション歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)

原作至上主義」は正しいのか、間違っているのか。

現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。

相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。

アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクションパロディ引用自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作アニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。

ヘーゲル小説のことを「市民社会ブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?

富野由悠季村上隆

ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。

ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメコミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーション歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。

富野ペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆

新房昭之山本寛

なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。

でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信小説アニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本アニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。

そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。

それから

けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野村上には見いだせないものであって。

くだらないテーマの指摘とか、原作アニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。

2008-08-06

http://anond.hatelabo.jp/20080806215940

綺麗なまとめありがとうございます。そう、キモいのは変化のスピードと、それを支える思想の淡白さ。そしてどこに連れてかれようとしているのかよくわかんないところ。恐ろしいと思うのは、「あ、これはまずいぞ」とみんなが思ってももう引き返せなくなるポイントを越えてしまっているような気がするところ(こんきょのないペシミズム

グーグルが強固な信念に則り、確信犯的に創造破壊活動を行っているのはわかる。が、「さすがグーグルッ!(中略)そこに惹かれる憧れる!」とは思えない。自分にはグーグルのやり方は性急で荒っぽく見えるし、技術に対する無邪気すぎる信仰も傲慢すぎていやだ。ま、これはもう完全に好みの問題かも。グーグルが駆逐しようとしている「旧勢力」を弁護したいわけじゃない。その点ついては面白いからもっとやれ、と応援している。でもだからといってグーグルが導く未来がバラ色とはこれまた思えない。急激すぎる変化のしわ寄せもきっつのがくるんじゃなかろうかと思っている。まあネットリテラシーに長けていらっしゃる勝ち組の皆様なら大丈夫でしょうけど。

最後のは「いまどきネットもしてないやつは滅んで当然」みたいなことを平気でいう人への皮肉です。ごめんなさい。

2008-06-13

http://anond.hatelabo.jp/20080612235233

ペシミズムというのは自己責任批判でのほうが当てはまると思う。努力しても解決しないとかよく聞くがこれってどう見ても悲観的だろ。

あと自己責任強調するのは強者のレッテル貼られてなんでもかんでも責任転嫁されるのがいやってのもある。

2007-03-12

意志の介在

「ただ在る」ということはそれはそうなんだけど、

流れに身を任せればいいということではなく、

ペシミズムに陥らない「生きる意志の介在」は重要

どう生きるべきか、或いはどう「生きたい」か。

自分の人生神の手から取り戻すための

青年期の人生の選択に直結するのだよ。

2007-03-11

人は何故これほどまでに悲しいことを伝えたがるのだろう。

優秀なペシミズム量産機械のように。

2007-02-18

永劫回帰

http://anond.hatelabo.jp/20070218144839

増田ペシミズムを超克する。

増田は無数におり、話題は有限である」という前提に立ち、無数の増田が思いつく有限の話題を組み合わせたものがはてな匿名ダイアリーであるならば、現在の議論と似たような議論が過去存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。ニーチェにおいて、このはてな匿名ダイアリーの円環的構造は、たんに存在論的なものにとどまらず、自由意志の問題と結びつけられる。すなわち、永劫回帰はしばしばペシミズムと結びつけて語られるが、その一方で、同じような議論が何度めぐり来ても、いまここにあるエントリーがかくあることを望む、という強い生の肯定の思想でもある。その意味で、永劫回帰は生の苦悩を超出している超人にのみ引き受けることが可能な、存在と意志との自由の境地である。永劫回帰はたんなる宿命ではなく、自由意志によって招来されるはてな匿名ダイアリーの根源的なありようなのである。

(参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%8A%AB%E5%9B%9E%E5%B8%B0

 
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