はてなキーワード: 騒音とは
②guldeen氏は別に強い同調圧力をかけてはいない。苦労することによる他人に対する許容力を向上させる方法の提案ではあっても強制ではない。提案の拒否もできる。
「同調圧力」なんてなしでも、拒否の自由ありでも、シバキあげる事は可能です。
そもそも
「飲食業でもっと辛い思いや忍耐を経験するのがお勧め」というコメントは、
形式上は「提案」ですが、実際に元発言者(若い人でも無職でもない)が飲食業に転職するわけがないことは
guldeenさんも☆つけてる人もみんなわかってますよね。
これは実態的には「提案でもなんでもなく
「修行が足りない」「苦労が足りない」って言ってるだけですよ。
「飲食業でもっともっと辛い思いをするまではお前は何にもわかってない」
「修行の足りないお前の『子供の騒音が辛い』はただの甘えだから却下」
と言ってるだけ。
「お前が修行しない自由はあるよ?
でもお前が修行するまではお前の意見は半人前だから認めない。却下。
おっと、お前には拒否する自由があるんだからシバキ上げなんて言うなよ?」
「ベビーカーもちの子連れ母親です、エレベーターがない駅の長い階段は本当に辛いんです」
とい声が議題になったとしますよね。
これを
「この母親は、近場のジムでもいいのでウエイトトレーニングをオシシメ(提案)。
masudamaster masudamaster
差別発言を禁止するのは言論弾圧だ!と同じ骨子のことを言ってるな増田は。
「頼む、親子で死んでくれ」って言ってる奴の方が同調圧力側なんだよ。
2011/12/19
いや全然違うでしょ…
失礼だけど、話の主旨がわかってますか?
「『親子で死んでくれ』は言いすぎでしょ」っていうブコメが人気1位を取ってたなら別に疑問もわかずに流しましたよ。
「接客業を体験してもっと辛い体験をしろ」っていうブコメが人気1位だったから、これは違和感があるなあと言ってるんですよ?
実は寛容やリベラルとは正反対の論法なのにそう扱われていないのが不思議なわけですよね
「車内では歌うのぐらい我慢しろ!しつけが足りない!」
と
「騒音や迷惑行為ぐらい我慢しろ!接客業での辛い体験が足りない!」
と
実は同じこと言ってんじゃんね
こういうのってはてなでチラホラ見るけど
みなさんいったい寛容になりたいのかしばき上げたいのか
どっちなんでしょうね
と言ってるんですよ
あと個人的にはどっちでもいい
よほどこの「静かな秩序」に腹が立つのか知らないが、それに対抗するようにガタガタと余計な音を立てないと気がすまない陰険なキチガイババアのような人間というのは世間の中にどこにでもいる。にもかかわらず、あまり論じられないのが不思議である。日常生活で普通の日本人をいらだたせるのは、警察でもヤクザでもなく、世間の中にことのほか多いこうした鬼畜のイカれた迷惑行為であり、それが犯罪に発展することも多いのに、誰も触れないのは日本の七不思議である。
たとえば掃除をするのでも、他人に迷惑をかけまいという精神のある者なら、無音でできるようにいくらでも工夫できるし、やむをえず音が出るなんてことも最近の掃除機などではありえない。というか、そもそも掃除をしなければ生活が立ち行かないというほど不潔な環境もいまや存在しない。にもかかわらず、しなくてもいい掃除をわざわざやって、そのたびに騒音を立てないと気がすまない恨みがましい鬼畜が世間にはことのほか多いのである。
この点で東京拘置所の職員などは極めて優秀である。彼らは規則どおりに一切の余計な騒音を立てずに業務を遂行する。なぜ世の中の鬼畜どもは彼らの真似ができないのか。これなら、世間などより、東京拘置所で育てられた方がどれだけかまともな人間に育つか分からない。警察の留置場になると、ろくな留置係官がいないから問題なのだが、東京拘置所の刑務官は選り抜きの精鋭集団なのか、みんながああなればいいのにと思う。
「お前んちのガキの歌をバスの中で聞いて可愛い!なんて思うのはお前だけだということが。頼む、親子で死んでくれ」 - Togetter togetter.com
というtogetterがある。
内容はまあタイトルで大体わかると思うけど
バスの中で歌う子供とそれを注意しない親について怒る人のツイート他。
これについたはてなブックマークの反応で
ぶっちぎりの一番人気を獲得したのがこれ↓
guldeen guldeen society, communication, もめごと, traffic, 子ども, family
片岡K(@kataoka_k)さんは、コンビニでもいいので接客業を体験してみる事をオシシメ。
いやホント、接客業をしてみると、忍耐力というか他人の失敗の大半は笑って許せるようになるよ。
2011/11/21Twitterでのツイートを閲覧26 clicks Add Starshadow-toon52tsugo-tsugo
この論理の骨子は要するに
・もっと辛い目に遭えばわかる
・お前は苦労が足りない
・文句言うな、不満は甘え
ってこれ
なんでこれだと絶賛するんだろう。
他にも
「それを禁止するルールはない」「うるさいこというな」「尻の穴が狭い」のように
寛容さや自由さを押す声が多い。
一方で
「絶対譲れ」「譲らないなんて許せない」のように
厳しいルール主義の声で一色になる。
別にどっちに賛成だ反対だというわけではないんだけど
筋と言うか、一貫性に欠けるような気がする。
それ以外でも周りの気に障る事っていうのをネットや本から抜き出しました。
・ペンを机や下敷きに打ち付けるように書く。
本人は勉強してる感が高まっていいのかもしれませんが、周りにとっては単なる騒音です。下に紙を数枚敷いて音を軽減しましょう。
・ペンなどを放り投げて置く。
ノートを色分けして書く人は頻繁にぺんを変えて、その時にペンを放り投げている人がいます。
同様に耳障りなので、そっと置くとかハンカチ等の上に置くようにしましょう。
これらは本人は勉強に集中しているだけなので、迷惑かけているっていう自覚がないみたいですね。
注意するときは感情的にならずに、「音が響くので○○して下さい」
っと具体的にお願いするようにしましょう。
大きな大きな振動と、とてもとても、とてもうるさかった騒音が止んでしばらく経ちました。
私はいま、窮屈な檻に閉じ込められています。頑丈そうな鉄の棒が、循々と周りを囲っているのです。立ち上がることはできますが、歩くことはできません。同じ場所でくるくると尻尾を追いかけ回ってみれば、確かに多少なりとも運動にはなるのですが、目一杯走りまわることが何よりの楽しみである私にしてみれば、少々どころか全く物足りない状況に陥ってしまっているのです。
厳重に施された不自由は、身体はもちろんのこと精神をも蝕んでいくものです。鬱積し続ける不満によって、私の心身は内側から漆黒に染め上げられつつある――。
抗おうとは思うのです。けれど、行動を大きく制限された檻の中では、体制を変えたり、意味もなく回ってみたりすることがやっとなのです。それ以外には、丸まってふて寝をすることしかできません。そればかりか、少し前までは眠ることさえもが容易ではなかったのです。私が入れられた檻は、なんだかよく分からないランプがやたらめったらに点灯している円錐型の箱に囲われているのですが、この箱もまた異様なほど狭く小さくて、つまるところ私は極小の檻に捕らわれたまま、狭っ苦しい箱物に乗せられるや、いつ終わるともわからない唐突な振動と騒音とに怯えることを余儀なくされていたのです。
そうなのです。本当にけたたましい振動と騒音だったのです。私がまだ人に捕まることもなく、広い森の中を、あるいは街の中を自由に歩いて回っていた頃には体感したこともなかったほどの揺れと音だったのです。身体が芯から揺さぶられ、鼓膜が破れてしまうのではないかと怖くなったくらいです。いまも足元が揺れているような気がしますし、耳の奥がきーんと甲高い音を立てているような錯覚を覚えています。もう過ぎ去ってしまったことなのできっと幻覚なんだろうとは思うのですが、酷いものだなあと感じないわけにはいかないのです。
ため息混じりに、私はついつい考えてしまいます。ただただひたすらに死を恐怖し、生きることだけに全力を注いで日々を過ごしていた私を捕らえて、温かな毛布と、安全な空間を与えてくれた人間という存在は、どうしてこんな場所に私を閉じ込めたのでしょうか。人間でありながら独特の雰囲気を纏っていた彼女もまた、結局は他の人間と同様、小汚い私を忌み嫌い、時には石を投げつけたり蹴りあげたりする悪童や暴漢などの類と同じだったということなのでしょうか。
とてもとても優しくしてくれたのに。額を撫でてくれた手のひらが大きくて暖かくて、とうの昔に失くしてしまったはずの温もりを思い出しかけていたというのに。思わず寄りかかってしまいそうな、くっついて眠ってしまいたくなりそうな安らぎが、確かにあったはずだったのに。
どれもこれも私が抱いていた幻想だったというのでしょうか。ドロドロとした液状のご飯や、なぜこんなことをしなくてはならないのか全く意味のわからない厳しい訓練を終えた後、あらん限りの言葉と抱擁でもって褒め称えてくれたことの全てが、単なる演技だったと言うのでしょうか。
私を騙すために?
いいえ、そんなことはないはずです。長らく生きることだけに執着していた私にはよくわかるのです。相手の感情の機微というものが。真贋を見極める眼にだけは、確固たる自信があるのです。何が危険で何が安全か。鋭利な感覚を持ち合わせていなければ、私はこれまで生きてこられなかったわけなのですから。
主に彼女が私に与えてくれたものども。それは今まで口に含んだこともなかったような食事であり、おおよそ誰も経験したことのなかった訓練の数々でありました。それらは、正直なところ嫌なことばかりで、何度も何度も施設から逃げ出してやろうと考えてしまうくらいでした。伏せることも座ることも許されずにじっと立ち続ける訓練では、足ががくがくとしてくるのはもちろんのこと、身動きが取れずにもどかしい思いをしなくてはならなかったし、ごわごわとした衣服を着せられたことも、またへんてこな装置の中で外側へと押しつぶされるような力に耐える訓練も受ける羽目になったのです。
捕まえられた当初、私はそれらの訓練が心の底から嫌で嫌でたまりませんでした。自由に外を走り回りたかったし、物珍しそうに私を覗き込む人間たちが怖くておぞましくて我慢ならなかったのです。何度も何度も大声で威嚇しました。牙を見せ、爪を剥き出しにして、絶え間なく吠え続けることだけが、私に安らぎを与えてくれるものだと本能的に思い込んでいたのです。
でも、彼女は違いました。彼女だけは、意固地なまでに獰猛な態度をみせる私に歩み寄ろうとしてくれたのです。私と同様、人間たちに捕らえられたものたちの世話を、彼女は一手に引き受けていました。人見知りな私は、彼らとの接触すら断とうとできるだけ近寄らず、檻の隅っこで丸まる毎日だったのですが、彼女はそんな私に近づき、側にしゃがみ込んで、何をするでもなくただただ優しく見守ってくれていたのでした。
鉄の猜疑心と鉛の恐怖心とでがちがちに固められていた私の心を、彼女の眼差しはゆっくりと剥がし溶かしていったのです。ある日、そっと差し出された彼女の手のひらを、私はくんくんと嗅いでみました。素敵に柔らかな匂いがしました。寒くて余所余所しい無機質な施設の中で、彼女の手のひらからはミルクのような穏やかさが漏れ出していたのです。
それが彼女の本性なのか、それとも作り出した仮面だったのか、依然として私には確証が持てなかったのですが、取り敢えず気を許しても大丈夫そうだと判断しました。以降私は彼女にだけ従順な態度を取るようになったのです。
彼女は私の変化を大変嬉しがり、より一層私との距離を縮めようとしました。時たまその一歩が大きいことがあり、私の爪牙が彼女の手のひらを傷つけることもあったのですが、彼女の優しさは変わることなく、かえってより一層深いものへと変貌していくようでした。
この空に向こう側には何があると思う? 穏やかな声で彼女が問いかけてきたことがありました。その日はちょうど訓練も休みの日で、私は彼女に連れられて久々に施設の外へとやってきていたのでした。高台の上にある施設から少し離れたところになる平原で、私の隣に座った彼女は真っ青な大空を見上げながらそんなことを口にしたのでした。
無論、私には答えることなどできません。私の言葉は彼女には伝わらないし、そもそも空の向こうなんてものを想像したこともなかったのですから。だから私は内心、何も無いよ、ずっとずうっと空があるだけだよ、と思うだけ思って、黙っていました。
宇宙には何が待っているんだろうね。髪を押さえつけながら彼女はそう呟きました。ぼんやりとした夢見るかのような口調でしたが、その眼には溢れんばかりの光と希望が満ち溢れていました。
ああ、これが人間なのだな。刹那に、見上げたていた私は心底打ちのめされてしまいました。私なんぞが思いも至らない、想像することもなかった世界を見上げて、あまつさえその場所に名前を与えて、遂には到達することさえ見据えている。外へ外へと向かうことのできる、好奇心と云う名の侵略性を持ちえている存在が人間なのだなと。
がんばろうね。そう言って私に微笑んだ彼女の笑顔が、脳裏に焼き付いてしまいました。訳もわからないまま吠えて尻尾を振った私は、なんとも単純で愚かで滑稽でさえあったのかもしれません。それでもあの瞬間そうすることが何よりも正しかったし、そうあるべきだと自発的に思えたのです。驚いた様子の彼女は、すぐに満面の笑みを取り戻すと、ぎゅっと私の身体を抱きしめたのでした。ぎゅっと、ぎゅうっと抱きしめてくれたのでした。
それからどれほど時間が経ったのでしょう。訓練は次第に厳しさを増していき、それにともなって私が入れられる檻も小さな物へと変化していきました。最終的にはその場で立ち上がり一回転するのが精一杯な檻になったのです。狭くて心地よくなくて私の苛々は加速度的に増していきましたが、彼女の笑顔と時折見せる辛そうな表情とが頑丈な堰となって日々を乗り越えさていくことができたのでした。
私が入れられた極小の檻が狭っ苦しい箱物に搭載される直前に、私は彼女とお別れをしました。がんばってね、と彼女は真剣な表情で口にし、あなたならきっと大丈夫、と抱きしめてくれました。いつもと変わらない暖かくて安らぐことのできる抱擁だったのですが、その奥底に到底隠し切ることのできない感情があることに、私は気づかないままいられませんでした。
それは青い滴のような感情でした。爛漫な彼女が、穏やかで底抜けなまでに優しいはずの彼女が、気丈なほどいつもどおりに振る舞いながら、はたはたと湖面に水を漲らせている。後もう二三滴、滴が落ちればわっと決壊してしまいそうな静かな緊張感を、貼りつけた微笑の裏に懸命に隠そうとしている。
私にはもう、与えられた役目を見事遣り遂げることしかできなくなってしまったのでした。檻の中でじっとしたまま、何日間か我慢し続ける。寝食の問題はそれほどでもないにせよ、重なりに重なる苛々に耐え続けなければならないという辛抱のいる役目を負わないわけにはいかなくなったのです。
もちろん、私には我慢し続けられるだけの自信なんてありません。我慢しなければならない確固たる理由もないのです。しかしながら、彼女とのお別れをしている最中に、私の運命は定まってしまったのです。
私はライカ。クドリャフカのライカなのです。彼女に与えられた名前を、その時私は初めて意識したのでした。
私が入れられた檻を乗せた箱物は、依然としてたくさんのランプを点灯したまま変化がありません。宇宙への航行は順調に進んでいるようです。だから問題は私の方。じっとして我慢しなくてはならない私の方にこそ、この任務を遂行するための因子は偏っているのです。
一時はとんでもなく暑くなった船の中ですが、現在は然程でもありません。むしろぐんぐんと気温は下がってきていて、肌寒い気さえします。いいえ、もしかしたらまだまだ船の中は暑いままなのかもしれません。私にはもうよく分からないのです。もうずっと同じ景色のまま、朝も夜もわからず我慢し続けているのです。食事の回数までもが朧気になってしまっては、今が何日目の航行なのかを判別する術は残されていないのです。
狭い檻の中での排泄は、綺麗好きな私にとっては屈辱以外の何者でもありません。が、それさえも与えられた役割であり任務であるというのならば、私は彼女のために我慢し続けなければならないのです。もう少しだけ。もう少しだけ。我慢し辛抱し続けなければならないのです。
ああ、でも、なんだか疲れてきてしまいました。行動が制限されているので、食べては寝続けることしかやることがないのです。始まりこそそんなに眠ってばかりいられるかと思っていたのですが、案外眠れるもので、近頃は眠っている時間のほうが多い気さえするのです。とにかく眠くて眠くて堪らないのです。加えて眠っていると彼女との夢を見られるので幸せです。起きていると我慢しなくてはならないのですが、寝ていれば幸せなのです。とてもとても幸せなのです――。
かしゃんと、餌箱が開く音が微睡みの中に響き渡りました。また今回もドロドロとした美味しくもない食事が始まります。夢現な私の味覚はもう死んでしまっていますが、それでも食べないことには死んでしまいます。死ぬわけにはいかないのです。私の任務には生き続けることも含まれているのですから。
綺麗に器を舐めきって、私は再び丸まって檻の中に伏せます。次の食事の時間まで、また寝続けなければならないのです。あと何回このサイクルが繰り返されるのかはわかりません。でもとにかく続けなければならないのです。そのためには少しでも体力を温存しなくてはなりません。船内の景色を見続けるのは辛いので、眠って彼女と会うのです。会って彼女と戯れるのです。戯れたいのです。
広い高原で、彼女はずっと遠くで私を呼んでいます。私はその声に向かって全力で走るのです。カシャカシャと。檻が立てる音をも気にせず、夢現のまま全力疾走し続けるのです。まだ彼女の元まで届いたことはありませんが、きっといつの日か届くはずです。その時こそ、私の役目は、任務は遂げられるはずなのですから。
カシャカシャ、カシャ……カシャ……。
微笑を湛えた彼女の胸に飛び込む瞬間を今か今かと夢見ながら。
いや、個人対個人の話じゃなくて、国対国、民族対民族、そういう話だろ今回は。
大体差はあれどどこの国民とだって、一対一で話せばそれなりに「イイ奴」なもんだよ。
日本人だって、韓国人と直接会えばいきなり嫌悪感をあらわにする奴なんかまずいないだろ。
もしいたとしても、それは恐らく同じくらいの割合で、同じような奴が韓国にもいる。
日本や韓国を含めどの国にも言えることだけど、「国全体としてのふるまい」と「個人個人のふるまい」は完全一致しない。
人間は、集団で動く時と個で動く時では異なるものだ。まぁ、個それぞれの性質が同一でない以上、それは当然のことなんだけど。
ただ、「彼らはわがままではあった」というそのわがままさが、少なくとも日本人から見れば彼ら韓国人の全体的に「困ったところ」で、国対国の対応でもその困った所が出ている。つまりそれが彼らの民族性という事だろう。
例えば日本人が世界の中では弱腰と見られるように、そういう特長はどの民族にもそれぞれある。
しかしだからといって、民族性と言えば何でも許容されるかと言えばそうでもない。
韓国が日本に対して「国家アイデンティティレベルで強烈かつ執拗な敵意と挑発を送ってくる」事の中には、国際法レベルで筋が通っていない事がある。
その問題をも、「彼らはわがままだけど、直接会えば反日感情なんか露わにしてこないよ」という理由で反論できると思ったら大間違いだ。
そういう人情あふるる解決法は、お隣さん同士との騒音トラブル、つまりは個人個人のイザコザなんかで使えばいい。
勿論逆もまた然りで、個人対個人の問題を、国対国のレベルで解決しようとすればそれは間違いになる。
「お前が反省しているのは分かったが、お前の国は俺の国に対して悪事を働いている。だから許さん」みたいに。
ここいらをごっちゃにしている人間が大声で騒ぐと、問題がややこしくなるわけだ。
「国対国」の問題を、会って話した事があるのかとかふらっと観光に行くところだとかいう「個人対個人」のものさしに落とし込んでも正解にはならないよという事。
ご近所には鳩山会館や椿山荘などのハイソなところもあるけど、それとはまったく関係のない庶民。
土日は、鳩山会館目当てのゴスロリ甘ロリ・椿山荘に行くドレスアップ組・街ハイクのお年寄りがいり混じってカオスな状態になっているステキなところだ。
昨日静かにまどろんでいたところ、突然の騒音に叩き起こされた。街宣車。
大音量で軍歌を流し、拡声器でなにやら激高しながら主張しているが、何を言っているかわからない。
どんなにあの人たちがあそこで正しいことを言っていたとしても、誰も耳にとめないだろう。
騒音だと判断して耳をふさぐからだ。せいぜい「また迷惑なうるさいのが来た」くらいにしか思わない。
そんなこともわからないほど馬鹿なのか、騒音で気を引かないと聞いてもらえない情けない内容か、いずれにせよ傾聴するだけの価値はなさそうだ。
それ以前に気がつかなければいけないんだけど、鳩山さんはあそこには住んでません。
(16:17追記)
タイトルを右翼→街宣車に乗ってる人たちに変更し、本文内を右翼の街宣車→街宣車にしました。
確かに、右翼を騙って好感度が低下するようなことをわざとやる人がいる可能性はあるので。
昔ながらの日本の村社会が機能していた時代なら、騒音に対する文句は本人に直接言って問題の解決を図っていたはずだけど
村社会が機能しない時代になっても、西洋型の個人主義、問題があったら即裁判に持ち込む行動原理も身についてないので
不満をどこにも吐き出せず、問題解決の糸口も見えず、不満を溜めこんで、殺人事件に発展したと言われていた。
私は不動産会社にクレームを入れるべきではなかったのだろうか。私が窓を閉め耳栓をすれば万事丸く収まったのだろうか。もしかしたら、階上の子どもは情緒や発育に何かしらの障害があるのかもしれない。母親はギリギリのところで子育てに奮闘しているのかもしれない。しかし、その母親に「目が覚めるほどの騒音を立てないこと」を期待するのは間違っているのだろうか。
間違ってない。自分にはどうしようもないことで自分を責めるな。その子のお母さんがもし追い詰められているのなら、その家族が相談先と解決法を見つけてくれることを祈ろう。あまり心配なら、「虐待が心配です」と不動産屋に相談するといいと思う。
私も以前、隣のマンションで発達障害の子が金切り声を上げてて、参ったことがある。それでも45分も続いたことはなかったが。そして、隣のマンションだから相談する不動産屋もなかったのだが、町内会の人が話をつけてくれ、その家の人が窓を閉めておいてくれるようになった。その後、私が引っ越したのでどうなったのかはわからない。
ところでブクマ見たら「クーラーつければ」的なこと言ってる人がいるが、エアコンなしで窓開けて過ごす季節のない場所に住んでるのかな、その人は。
今年と去年、夏の過し方はどう違う?こう尋ねられたら、「今年は節電のために冷房をつけず窓を開けている」という人は多いのではないだろうか。
かくいう私もそうである。そして、私が住まうマンションの、私の部屋の真上の世帯もそうだった。
少し前、いよいよ暑さも本格化して、就寝時も網戸にするようになったところ、目覚ましよりも2時間早い7時に目が覚めた。暑さのせいではない。上の部屋の小さな子どもが絶叫していたためだ。月曜日のことだった。
絶叫は、困ったことにその後たっぷり10分は途切れず続いた。暑いわ蒸すわ睡眠時間は足りないわ、という状況で聞く子どもの絶叫は、なかなかに不快指数が高い。そして、同様の状況は金曜日まで休みなく続いた。
「子どもの絶叫ってどんなの?」と思われた方もいるであろう。「そんな大したもんなの?お前が神経質なんじゃないの?」と思われた方も。ここで簡単に階上の子どもの絶叫について説明したい。それはまさに絶叫で、恐怖映画でしか聞けないような類の、「きぇー」ど「ぎゃー」の間を取ったような金切り声である。ボリュームは極めて大きい。持続時間は短くても10分、平均20分程度、いちばん長いときは45分ほど続いた。驚くべき体力だ。合間合間に母親の「○○ー、やめなさーい」という低いテンションの注意が入る。その後数秒は声が止むが、基本的に注意は成果を上げない。走り回る足音も結構に響く。
虐待ではないようなのだけが救いだが、どうにもうるさい。集合住宅で生活する上での騒音の上限を、遥かに超えている。
金曜の買い物帰りに、同じ階に住む若い女性と会った。挨拶を交わすと、彼女は眉根を寄せ声を潜め、「あの…お子さんの声、凄くないですか?」と尋ねてきた。「そうですよね、私もう毎日睡眠不足で…」と苦笑すると、彼女は苛立ちと疲れを滲ませながら、「私きらいなんですよ、子ども。ほんとイヤで。もう限界なんですよ。これって我慢すべきなんですか? 私が窓閉めたり耳栓したりしろっていう話なんですかね?」と吐き捨てるように言った。
絶叫は次の土曜日も容赦なく響き渡った。私は7時に目が覚めた。シャワーを浴びて汗を流し、もう一度ベッドに入る。今日くらい、目玉が溶けるほど眠りたい。もうフラフラだ。せっかくの休みに…などと思いながら眠り、そして子どもの絶叫で目が覚めた。その時は訳がわからず、自分が24時間眠っていたのかと思ったが、時計を見るとベッドに入ってから1時間も経っていない。思わず舌打ちし、ウィークデーはバタバタして成せなかった不動産会社への電話をすることに決めた。
昼ごろ電話した。電話口で名前と物件名を告げた瞬間、「恐れ入りますが騒音の件ですか」と尋ねられた。担当氏いわく、今日になって何件も苦情が入ったらしい。小さな子どものことだし、と気後れしていたが、週末まで睡眠を妨害されては我慢ならない、と何人もが話していたという。ちなみに苦情は私で何件目ですか?と何気なく聞いたら、5~6件目とのこと。部屋数が15もないマンションとしては異例の数だ、よほどひどい状況だろうから午後に早速調査に行く、という担当氏の話を聞き、すこしほっとした。
階上の子どもは出かける気配もなく、順調に騒いでいた。不動産会社が来たときだけすごく静かだったらどうしようかとの心配も、まったくの杞憂だったようだ。
午後3時ごろ、「だって子どもなんですよ!」「他の部屋が何時に起きるかなんて言われても知らないですよ!」「じゃあ節電節電言ってる中でうちだけ冷房つけろっていうんですか?うちだけ冷房代払うんですか?」といった内容の女性の金切り声が聞こえた。不動産会社が来たのだなと思った。それにしても、あれだけの騒音にクレームがつかないと考えていたのなら凄い話だ。そもそもあの子どもは、歌うでもなく喋るでもなく、悲鳴だけをあげ続けているって…大丈夫なのだろうか。前にすれ違ったときは4歳くらいに見えたけれど。母親はなんか…ナチュラルっぽいスタイリングのわりにトゲのある雰囲気の女の人だったな…などとぼんやり考えていたら、浅く眠っていた。そしてその眠りは、階上から聞こえた「何であたしだけ…!」という凄まじい叫び声と、力いっぱい窓を閉める衝突音で破られた。
それからは静かなものだった。叫び声は聞こえるが、今までを10としたら1か2程度のボリューム。突き刺さるよう鼓膜を攻撃してきた音の質も、くぐもってマイルドになっている。これなら眠れる。それがただただ嬉しかった。
それからしばらく経った今、階上からは相変わらず、小さくくぐもった音で叫び声が聞こえる。前とは違う点は、母親の金切り声が聞こえるようになったことだ。たまに、父親の声らしきものも。
「子どもが嫌いだ」と話していたご近所さんと顔を合わせたとき、彼女は話していた。あの騒音のおうち、お母さん凄いこわいんですよ。すれ違うと睨んできたり。この前挨拶したら、なんか知らないけど鼻で笑われて。意味分かんないですよね。私が怒られてんの?はぁ?っていう。むしろご迷惑かけてすみませんとか無いわけ?みたいな。なんか完璧こっちが悪者だと思われてるっぽくて。
私(あるいは私たち住人)は、きっと母親を追い詰めたのだろう。いま、子どもへの虐待に発展する可能性を考えると恐ろしい。
では、私は不動産会社にクレームを入れるべきではなかったのだろうか。私が窓を閉め耳栓をすれば万事丸く収まったのだろうか。もしかしたら、階上の子どもは情緒や発育に何かしらの障害があるのかもしれない。母親はギリギリのところで子育てに奮闘しているのかもしれない。しかし、その母親に「目が覚めるほどの騒音を立てないこと」を期待するのは間違っているのだろうか。