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はてなキーワード: 終戦直後とは

2020-11-26

anond:20201126164716

昭和22年労働基準法改正により生理休暇という制度ができ、法文の中に「生理日の就業が著しく困難なる者は」といって、生理日という言葉が突如現れたのです。

しかも、生理日とは何を指すのか、ここでは全然説明されていませんでした。

それまで生理という言葉は、月経に対しては普通使われていなかったのです。

当時は終戦直後の混乱期で、法律をつくる際の国会審議などもあまり十分ではなく、アメリカ軍GHQが「よかろう」と言えば、それで法律が通ったような時代ですから、そういうことも起こり得たと思います

その際、少なくとも医師全然相談にあずかってなかったろうと思います

もし医師が関与していれば、生理という言葉絶対使わなかったでしょう。

だってさ。戦後の混乱期に誰かが考えた表現がそのまんま定着しちゃったみたい

月経という言葉は生々しくて条文にふさわしくない、とか思ったんだろうか

2020-09-23

果名温泉あゆみ

果名温泉の泉質は硫黄泉で酸性度は高く石膏分を含み、典型的には乳白色の湯を湧出し、皮膚疾患や自律神経不安定症、冷え性に効くとされる。現在の果名温泉にあたる場所湯治が行われはじめた正確な時期はわかっていないが、戦国時代には国衆の松影氏と配下武士戦闘時に受けた傷を癒すために東屋を建て、熱した岩に湯をかけて出た蒸気を浴びる療法を行った記録が残っている。

旅館の立ち並ぶ温泉街が発展を始めるのは果名駅が完成し鉄道が停まるようになった大正初期以降で、大正年間には山形屋、鳳萊館、飛雲閣、梅風館、寶山閣が温泉旅館として営業を開始している。昭和初期には湯治客の増加に伴い、月風荘のように高層化した木造建築旅館が現れた。昭和10年発行の果名温泉旅館協同組合名簿には27件の加盟旅館記載されている。

温泉街は一大経済圏形成し、湯治客のみならず温泉での働き手を引きつけた。特に昭和恐慌時には各地の農村から子女年季奉公旅館に送り込まれ仲居あるいは酌婦として住込みで働いた他、「即席御料理」の看板を掲げた曖昧屋も複数存在していた。

温泉街でありながら閑寂な山居の趣を味わいうる果名温泉は多くの芸術家たちを魅了した。志摩名護也の「果名にて」や葛西前後の「波浪」といった小説は果名温泉旅館執筆されており、当時の果名温泉での生活垣間見ることができる。作曲家和賀英良の名曲「疑問」は、鳳萊館の露天風呂で着想を得たとされる。

戦時中には物資の統制や倹約奨励温泉旅館営業一定の影響を被った他、温泉街は疎開児童集団受け入れの場となった。終戦直後の乏しい物資供給を乗り越え温泉街の旅館営業を続けたが、高度経済成長期には急峻な地形に鉄筋コンクリート高層ビルを建てにくかったこから果名温泉団体旅行の受入地とはならず、鄙びた温泉地の形態を留めた。

今世紀に入って旅行者の嗜好が変わるにつれ、果名温泉街の伝統的な景観旅館木造建築が再び脚光を浴びている。経営者高齢化、湧出量の維持といった課題を抱えながらも、温泉旅館協同組合が主な担い手となり、地域産業振興策と一体となった新たな温泉街の魅力づくりに取り組んでいる。平成10年には青年会により温泉街で第1回オメガラーメンまつりが開催され、果名村が発祥とされるオメガラーメン温泉とともに楽しんでもらう行事現在に至るまで毎年秋に行われている。

(『果名村史 近代編』、果名村史編纂委員会、2018、p.201-203)

https://anond.hatelabo.jp/20200922195023

anond:20200923222848

男を減らす一番の方法戦争

終戦直後は五体満足ならそれだけでモテモテ

2020-07-15

anond:20200715174316

終戦直後と今を一緒にするなら全国の主要都市焼け野原にして

権力のない一般市民財産ほとんど召し上げないと

気持ちだけ終戦気分出せって言われてもね

anond:20200714032032

古い企業がいっせいに潰れたら、焼け野原になって草一本はえないイメージをみんな持っているけど、

終戦直後はまさにそんな状態から、発展してきたんだよね。

生き残る努力をしない者は勝手死ねしかいいようがない。

2020-07-13

anond:20200713083925

下級国民は知らないようだが、

明治終戦直後も今も政界牛耳ってるのは

大久保利通の子孫だぞ、戦犯でも裁かれてない

2020-06-19

anond:20200618171746

【実話】

俺が「1987年当時」入っていた施設では

休み時間収容者に対して行われた心理テストでは

「間違い電話がかかってきて電話交換局に苦情を言う」というシチュ描写が書かれていた

1987年当時」だよ

終戦直後じゃないよ

すでにほぼ全世帯自動交換になって数十年、公衆電話テレホンカードが使われてた時代だよ

どうも米軍占領時代GHQの手で作られたテキストがそのまま30年間使われていたらしい

2020-04-14

anond:20200414150702

明らかに家庭環境ガチャで外れ引いてる名前はあるにはあるけど、希空(のあ)くんちゃんぐらいだと流行り廃りの範疇かな

今30前後ぐらいの年代一般的名前も、終戦直後ぐらいのラインナップと比較するとかなり異質だし

2020-04-07

anond:20200407005413

時代錯誤兵隊さんの幽霊が見えるぞ

の子アニキを呼ばないと

やっぱり嘘か

一億火の玉→無条件降伏の時からお前がそういう人間だと思っていたよ

って見えたんだが・・

終戦直後拉致された日本人からならったような日本語をつかう人がいるとおもうとそれもこわい)

2020-03-03

【NOT陰謀論?】コロナウイルス日本銀行勝利

2013年アベノミクススタートして以来、日銀は「年率2%のインフレを目指す」

と言いながら、10年近くそれを果たせずにいる

で、政府は2度にわたり消費税増税して、見た目の物価は上がったが

増税分は税収として国庫に入るので、小売店メーカーも儲からない

そもそもどういう状況ならインフレが起こるのかといえば

経済学の基本では品物が不足すると物価が上がるといわれる

・・・

そして現在コロナウイルス騒ぎのおかげで

マスクが不足、トイレットペーパーが不足、次はあれが不足これが不足と

消費者パニックに陥りかけてる、かくして紙製品不足が進めば

品薄を原因とした物価上昇が本当に起こるかもや知れない

かつて1973年には石油ショックに端を発する

「狂乱物価」と呼ばれたハイパーインフレが起こり

その象徴のようにトイレットペーパーが高騰して品不足となった

何やら因果関係が逆になっているが、日銀財務省のお偉方で

1973年石油ショックを知っている世代人間

「これはインフレ到来の徴候か!」と思っている者もいるかも知れない

・・・

以上は半分冗談のようなヨタである

現在中国では製造業の多くが生産停止の休業状態となっている

肺炎騒ぎが沈静化してもまずは国内物流が優先で輸出は後回しだろう

となれば100円ショップなんぞの安い中国製品供給不足になるだろう

国内生産に切りかえれば人件費が高く付き

ベトナムやらタイやら他の新興国生産を頼っても

当面は従来の中国からの輸入より輸送費が高く付くだろう

必然的消費者物価は上昇するのではないか

・・・

あれれ? この10年近く喉から手が出るほど「年率2%のインフレ」を

待ち望んでいた日本銀行の思惑にぴったり合致しすぎなぐらい合致してるぞ

そういや終戦直後日銀幹部は旧731部隊関係者だったらしいなあ(棒読み

ウソ

2019-11-01

沖縄のことを書いておきたいと思った

から首里城燃えてるのをニュースで見て陰鬱気持ちになった。沖縄の方や血縁の方、首里城を訪れたことのある方はなおさらだろうと思う。

私もルーツ沖縄に持つ一人として、ほんの少し心が痛い。といっても、沖縄を訪れたことはないし、今となっては戸籍証拠も残ってない。このまま消えてしまう私のルーツ個人的沖縄との関わりを書き残しておこうと思う。

私の母方の祖母沖縄出身。母は昭和一桁生まれ戸籍大阪市内小学四年生父親が亡くなり、母ひとり子ひとりで苦労したらしい……と、母からは聞いていた。祖母が亡くなったのは私が三歳の頃。当時は沖縄アメリカ占領下にあり、本土復帰が成されてから実の弟さんが訪ねて来られた。たしか夜だったと思うが、フェリー見送りに行ったのか迎えに行ったのか、夜の港へ行った記憶はある。後に聞いた母の話を繋ぎ合わせると、ようやく連絡がとれたものの、祖母がすでに亡くなっていたので、分骨して持ち帰られたのだという。だからおそらく、祖母は生まれ育った土地に帰ったのだと思いたい。しかし、母はその後積極的には沖縄の親戚とは連絡を取らなかったし、向こうからも連絡はなかったと思う。今でも実家手書き電話帳が残っていれば、沖縄の『Tさん』の名前電話番号が残っているかもしれない。

(私が、親が亡くなってから実家没交渉なので確認するすべが無いのが残念なのですが)

……と、思っていたのだ。母の話は整合性あったし、墓には祖母名前が刻まれていて、分骨はしたもの祖母の骨が入っている。沖縄から来たおじさんの記憶ぼんやりとながらある。

しかし、母が亡くなった時に確認した戸籍に、母親(私の祖母)の名前はそこにはなかった。

そこにあったのは、親戚より仲良くさせていただいていた、とある女性名前が書かれていた。親戚よりも仲良くさせていただいてはいたけど、戦争直後に母子家庭同士で助け合ったから仲良かったんだろうなと勝手に思ってたんだけど、そうじゃなかった。

そこから遡って、いつぞや母から聞いた細切れの情報繋ぎ合わせると、えらいややこしい話が出来上がってしまった。

母が生まれた頃(昭和一桁代)、沖縄日本ではなかった。出稼ぎ本土へ来た人は、港湾関係女性は紡績工場で働いてる人が多かった。沖縄出身者は差別を受けてたんで、コミュニティを作ってその中で生きるか、もしくは沖縄出身だということを隠して自活するかのどちらかだったと思う。

祖母沖縄コミュニティを離れたのだと思う。で、何らかのきっかけがあって、大阪とある商家長男の娘を授かることになる。が、ここで祖母戸籍問題になる。

たぶんここで、母の記憶にある『杖に長刀を仕込んだおじさま』が絡んでくるのではないかという推測ができるのだが、これはあくまでも推測であるので置いておく。とにかく、何らかのすり替えが行われて、母はH家の長女に納まった。『大事な一人娘に掃除なんかさせなくていい』と言われるくらいのお嬢様だったらしい。小学四年生父親が亡くなったというのに、終戦直後私立キリスト教女学校入学して高校まで通っているので(同級生だった友人もいたし、写真も残っているので与太話ではないはず)、お嬢様だったのは間違いない。

母は小学校学童疎開生駒の方に行ったという。そこに時々、会いに来てくれていたとも、祖母が食料を求めて京都の奥だか北陸の方だかに度々買い出しに行ってたらしいという話も聞いた。

で、なんだかんだあって、次男坊だった父が婿入りって形で結婚したわけですが、祖母と母はずっと一緒にいたわけで。子供が二人出来て、下の子が1歳になるとほぼ同時に祖母が亡くなったんだけど、この時に葬儀ができないってんで大騒ぎになったとかで。

今考えると、戸籍がない、娘もその事実を知らないって、大騒ぎにもなりますわな。

でも、また何らかの大人たちの仕事により『H家のS子』として葬儀をあげて、H家の墓に収められたんですけどね。

小さい頃、祖母のことも知ってる知り合いに、よく言われたんですよ。黒々とした髪や、大きい目が祖母によく似てるって。

写真で見る祖母はすでにおばあちゃんなので、本当に似てるのかどうかは自分ではよく分かりませんが。でも、沖縄の血を引いてるから目が大きいんだって言われるのは、ちょっと、いやかなり子供心に嬉しかったのを未だ覚えています

でも、祖母本人から沖縄の話は聞いたことがなかったし、祖母沖縄へ行った(帰った)話は聞いていない。

私が知るのは、祖母旧姓が『多和田』だということ。その苗字の弟が、亡くなった祖母の骨を沖縄へ持ち帰ったということ。

母は沖縄のどこに祖母の遺骨が埋葬されてるか聞いてるはずではあるが、それを書き残してはいなかった。その理由はわからない。ただ、電話帳に弟さんの名前電話番号が書かれていた。一度も電話することはなかったけれども。

私には沖縄ルーツとする遺伝子があるはずなのだけれども、戸籍がなんだかよく分からないことになっているので証明する手立てはない。

ただ、無口で気が強いという祖母という、周りの人から聞かされる印象が『沖縄出身』というフィルターを通してみると違ったものに見えてくる気がする。

無口なのは沖縄出身であることを隠すため。漏らさぬため。

気が強いのは、強く在らねば生きられなかったから。沖縄出身者のコミュニティにいれば居心地は悪くなかったろうけれども、大阪人達から差別を受け続け、港湾付近状態の良くない場所に住み続けるしかないわけで。それを抜けるには、そうするしかなかったのではないだろうか。

祖母沖縄へ帰らなかった。母がいたから。沖縄戦場になった時も、祖母沖縄へ帰らなかった。帰れなかった。だから戦争が終わったあとも帰らなかったし、連絡も取れなかったのかもしれない。

祖母の骨は半分沖縄へ帰った。

戸籍では繋がりがないけれども。でも、私の祖母なんだ。どこに埋葬されたのか、今の私ではもう探せないけれども。探すなら、母が生きてるうちに言いくるめてやれば良かったとは思うんだけど。今更言ってもしょうがない。

戦争中、首里城燃え落ちた時、それを聞いた祖母はどう思ったのだろう。帰れない故郷を思って泣いたのだろうか。

私が3歳になる直前に亡くなった祖母の心を今更知ろうとしても難しいけれども。祖母沖縄から大阪へ来て、何を考え、何を隠し、どう生きようとしたのか、もう少し考えてみたい。

2019-10-17

anond:20191017232724

そんな事実はないよ。その証拠終戦直後日本史上稀に見る焼土死者米すら食えないクソ貧乏でもたくさん子供を作っている まあこれが団塊世代ってやつだ。これが事実だ。

2019-09-03

過去のことをグチグチ言う洗脳された国民性

終戦直後GHQは、日本人贖罪意識を植え込む「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムWGIP)」という洗脳政策実施しました。

メディアに対する検閲制度では30項目の禁止事項が定められ、

具体的には、「アメリカ憲法を起草したこと報道してはならない」「東京裁判批判してはいけない」などがあるのですが、

その一つに「朝鮮批判してはいけない」という項目があるのです。韓国への批判自主規制するのは、東京裁判史観の表われです。

日本メディアはすぐに「日本人軍隊を持つとすぐに戦争を始める」と言いますよね。これはGHQセリフなんです。

日本人は1000年前から戦争ばかりしてきた」という中国プロパガンダを当時のアメリカ人は信じていたから、

日本人にもそう教え込んだ。「憲法九条を守っておけば日本平和だ」というのもGHQの教えそのままです。



日本人は卑屈であれと洗脳されている。

中国その他は日本に全て奪われたかのように洗脳されている。

どこもかしこ洗脳まみれだ。

過去ではなく今を見つめ、お互いに対峙して判断したいものだ。

2019-08-16

anond:20190816163310

いまどき、というか終戦直後こそそんな奴いたのか…という

2019-07-14

将棋升田幸三GHQ論破したエピソードって史実なの?

ますだといえば升田幸三九段ですが、

将棋ファンなら知っているであろう升田がGHQに乗り込んで論破したって有名なエピソードがあります

Wikipediaにも載っていた。

終戦直後日本統治していたGHQが、「将棋相手から奪った駒を味方として使うことができるが、これは捕虜虐待思想に繋がる野蛮なゲームである」として禁止しようとした。将棋連盟代表としてGHQと相対した升田は「将棋人材有効活用する合理的ゲームであるチェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜虐待ではないかキングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿民主主義レディーファースト思想に反するではないか」と反論した。

これソース探したんだけど見つからなんだ。

これって史実なの?後世の創作

升田といえばショーマンシップ溢れる男だったから、「白髪千丈」的な誇張されたエピソードに過ぎないのかもしれない。

ソース知ってる方いたら教えてけろ。

2019-05-01

anond:20190501170459

うん、天皇を支持していることをあからさまに表明するような奴はこんな奴だったね。

から、こいつのやってることこそが天皇に対する不敬だといってるんだよ。

もう明治維新終戦直後みたいに、陛下意向を使って国家の方向を協力に導かないとならないという時代じゃない。静かに国家の安寧と交流に心を砕いてくださったらいい。

また、いつか国家の危難の時に旗頭になってくださればいい。もうないと思いたいけど。

2019-04-22

[]ズージャ語

終戦直後ジャズバンドマンあいだで使われた隠語のこと。

特にジャズ」を「ズージャ」と言うような倒語(逆さ読み)を指す。

これが芸能界に輸入されてズージャ語=業界用語のようになり、

一部は一般にも定着した。

タモリという芸名は、本名の「森田」をズージャ語で読んだものである

2018-11-29

赤木春恵の死去

赤木春恵といえは、私の世代ではやはり渡る世間と金先生だった。

2005年NHKの【あの日 昭和20年記憶】に出演した赤木春恵証言を思い出す。

終戦直後満州ソ連兵に怯えながら、夜を過ごした証言

慰問団女性たちはおばあさんの扮装をして、頭におしろいを振って、白髪にみせかけて難を逃れた話は生々しいものがあった。

あの番組アーカイブはないかな、と探していたら、別のインタビューだったが、以下の証言記録が見つかった。

http://true-stories.jp/?p=100

合掌

2018-11-11

高度経済成長期の日本って俺が学んだ記憶によると

終戦直後安かろう悪かろうの劣悪な日本製品から一転して安くて高品質日本製品欧米先進国へ輸出されるようになり、朝鮮特需もあり躍進

ただし、欧米先進国向けの製品日本国内および日本と同等かそれ以下の経済規模の国では高価なもの庶民がおいそれと買えるものではなかった

当然ながら日本国内向けのものは粗造濫造格安品が庶民の買える製品だったと記憶してるんだが・・・

高度経済成長期を買い支え顧客欧米先進国であって、アジアの才能という謎過ぎる存在でないのは確かだけどなぁ

2018-11-09

anond:20181108223659

それ、明治時代人間も、終戦直後人間も言うてた

ま、同じく英語より効率悪そうな言語使ってる中国インド経済発展しとるからな。時間はかかったけど

2018-10-01

現在日本人摂取カロリー戦後直後以下というのをご存知だろうか?https://treasurenews.jp/archives/5436/

終戦直後よりエネルギー不足となっており、不健康で、ほとんど飢餓状態にあるといえる人が少なくありません。そういう人たちは、不妊リスクも抱えています

順天堂大学らと共同で実施した『卵巣年齢共同研究プロジェクト』の結果では、20代で卵巣年齢が40代相当だった女性体脂肪が少ない痩せ型で、30代ではビタミンD不足、つまり栄養失調だったんです。https://www.huffingtonpost.jp/2018/01/25/working-women-body-shape_a_23343129/

少子化の要因の一つは日本人カロリー不足にあるといえる

ところで諸兄らは知っているだろうか

100円ローソンヨーグルトは低脂肪脂肪0しかないことをhttp://store100.lawson.co.jp/product/valueline/category/1263786_5033.html

まりローソンはその商品展開により日本人カロリー摂取量を漸減させ、もって女性妊娠妨害することで国家の弱体化を企てる国賊である

2018-08-05

祖父から聞いた戦時中の話

 ドラマこの世界の片隅に」を見ていて、横柄で大袈裟に騒ぎ立てる憲兵さんが登場したところでふと祖父から聞いた話を思い出した。

 威張りくさって周りから怖がられていた憲兵さんは、終戦と同時に夜逃げ同然に姿を消していた、相当恨まれていたらしい、と。祖父自身特に憲兵さんと関わり合いになることはなかったのでその話はそれでおしまいだが、祖父から聞いた戦時中の話を忘れないように記しておこうと思う。

軍需工場

 終戦の年から二、三年前、東北地方出身の当時十代の若者だった祖父は、軍需工場で働いていた。工場の持ち主は、今でも名を変えて現存する大企業だった。

 私の父は戦時下の話をあまりいたことがなかったそうだが、祖父は孫達にはよく話して聞かせてくれた。もちろん辛いこともあったろうが、祖父から話を聞くと「結構楽しそうだな?」と子供心に思ったものだ。

 何故なら、ある時祖父パソコンインターネットの使い方を教えていた時、GoogleMapを開き見たいところがないか聞いたら、祖父は「昔働いていた東京を見てみたい」と言ったのだ。

 そこで当時の蒲田区があったところを見せると、祖父は懐かしそうにここに工場があって、ここの川で昼休みに水浴びして、休みの日に遠足でここまで行って…といろいろ説明してくれた。

 聞けば祖父が働いていた工場の寮はとても待遇が良く、特に食事が良かったと。

 祖父はそこで生まれて初めてライスカレーカレーうどんを食べたそうだ。とても美味しかったらしい。今でも祖父の好物はライスカレーだ。

 近くに他の工場もたくさんあったが、そんなに待遇がいいのは珍しかったそうだ。休み時間に別の工場の人と話をすると、そんなにいいものを食べられるなんて、と羨ましがられた。

 そんなに食事がいいのにはもちろん会社側の「健康若者をこの工場から徴兵して貰って、国から褒めて貰おう」的な思惑があったそうだが、祖父徴兵される前に終戦を迎えることになる。

 祖父に話を断片的に聞く限り、戦時中で大変なこともあったろうが、田舎から出て来た若者らしく都会で楽しく過ごしていたようだった。

 ちなみに東京空襲の時はどうしていたの? と聞いたら、祖父がいた寮から遠くの夜空が明るく光って見えた、とだけ教えてくれた。防空壕に逃げたという話は聞いていない。とにかく直接被害は受けなかったらしい。おかげで私の父も私もここにいる。

(後で調べたら東京空襲蒲田区はあまり被害がなく、その後の別の空襲で爆撃を受けたと知ってぞっとした。よく生きていたな…?)

終戦

 終戦の直前、国の広報日本は勝ってると言い続けていたが、みんな負けていることはわかっていたらしい(それこそ憲兵さんに聞きつけられると面倒なことになるので、誰も口にはしなかった)。米軍が撒いた「日本は負けるよ」と書かれたビラもよく落ちていた。

 案の定昭和二十年八月十五日に日本降伏した。

 それと同時に祖父が働いていた工場は操業を停止した。軍需工場から戦争に負けた今、工場で作るモノなんて無いから。そこで祖父は同じ地方出身の者達と相談して、故郷に帰る電車切符を手に入れるのに奔走した。

 交代で列に並び、四、五日かかってようやく切符を手に入れられた。その時に町を出て、祖父は荒廃した東京風景を見て愕然としたという。今現在、よくテレビで目にする終戦直後の驚くほど何もない東京映像写真のものだった。

 その後祖父は一旦故郷に帰ったが、働く場所を求めて親戚の伝手ですぐに遠く離れた地へ渡り現在に至る。

 祖父現在91歳。もう少しいろいろ話を聞きたいと思っている。私が作ったカレーライスも食べて欲しい。

おまけ

 祖父から聞いた戦争の話はここまでだが、ちょっとしたおまけがある。

 ある時、祖父不思議な顔をして郵便で届いた書類を見せにきた。「これはどういう意味だ?」と。

 それは『ねんきん特別便』だった。よく見てみると、祖父戦時中に軍需工場で働いていた頃に納めていた年金がいわゆる「宙に浮いた年金記録」となっていたことが発覚し、年金受給者の祖父支給されていなかったのだ。祖父自身、その頃に自分年金を納めていたことなど全く知らなかった。

 インターネット検索したら「全国消えた年金相談センター」のウェブサイトによると戦時中宙に浮いた年金記録はたくさんあるらしい。知らなかった。

 とにかく書類に書いてある通り、記入して返送すればお金が貰えるよ、と説明した。書類には覚えてる限りの勤めていた会社名前、住所を書いてくださいとあった。祖父はきちんと記入出来た。きっともう覚えてなくて書けない人もいたんだろうな。

 後日、祖父お金が振り込まれた。祖父曰く「案外少ない」でした。

おわり

2018-07-29

anond:20180729054604

公安分からんけど終戦直後わい曾爺さん商売神棚祀ってたのを

そうかそうかの集団が押しかけてきて叩き壊され曾祖母さん流産

何度も喧嘩した不倶戴天の敵ってのを祖母さんから聞かされて育ったか

自分ちのことじゃなくても近所の出来事としてそういう話聞かされて

統失の発作で蘇るってこともあるんじゃね

2018-06-24

anond:20180624173840

俺は原発がいつから稼働してるか

知らんから戦争の影響が無く

原発存在しない戦前

ベンチマークとしたんだぞ

まー、調べてもいいが

終戦直後比較対象にならないし、

高度経済成長期に原発

稼働したのだろうから

原発が無い時代とは呼べないだろうな

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