はてなキーワード: 蒲田区とは
ドラマ「この世界の片隅に」を見ていて、横柄で大袈裟に騒ぎ立てる憲兵さんが登場したところでふと祖父から聞いた話を思い出した。
威張りくさって周りから怖がられていた憲兵さんは、終戦と同時に夜逃げ同然に姿を消していた、相当恨まれていたらしい、と。祖父自身特に憲兵さんと関わり合いになることはなかったのでその話はそれでおしまいだが、祖父から聞いた戦時中の話を忘れないように記しておこうと思う。
終戦の年から二、三年前、東北地方出身の当時十代の若者だった祖父は、軍需工場で働いていた。工場の持ち主は、今でも名を変えて現存する大企業だった。
私の父は戦時下の話をあまり聞いたことがなかったそうだが、祖父は孫達にはよく話して聞かせてくれた。もちろん辛いこともあったろうが、祖父から話を聞くと「結構楽しそうだな?」と子供心に思ったものだ。
何故なら、ある時祖父にパソコンでインターネットの使い方を教えていた時、GoogleMapを開き見たいところがないか聞いたら、祖父は「昔働いていた東京を見てみたい」と言ったのだ。
そこで当時の蒲田区があったところを見せると、祖父は懐かしそうにここに工場があって、ここの川で昼休みに水浴びして、休みの日に遠足でここまで行って…といろいろ説明してくれた。
聞けば祖父が働いていた工場の寮はとても待遇が良く、特に食事が良かったと。
祖父はそこで生まれて初めてライスカレーやカレーうどんを食べたそうだ。とても美味しかったらしい。今でも祖父の好物はライスカレーだ。
近くに他の工場もたくさんあったが、そんなに待遇がいいのは珍しかったそうだ。休み時間に別の工場の人と話をすると、そんなにいいものを食べられるなんて、と羨ましがられた。
そんなに食事がいいのにはもちろん会社側の「健康な若者をこの工場から徴兵して貰って、国から褒めて貰おう」的な思惑があったそうだが、祖父が徴兵される前に終戦を迎えることになる。
祖父に話を断片的に聞く限り、戦時中で大変なこともあったろうが、田舎から出て来た若者らしく都会で楽しく過ごしていたようだった。
ちなみに東京大空襲の時はどうしていたの? と聞いたら、祖父がいた寮から遠くの夜空が明るく光って見えた、とだけ教えてくれた。防空壕に逃げたという話は聞いていない。とにかく直接被害は受けなかったらしい。おかげで私の父も私もここにいる。
(後で調べたら東京大空襲で蒲田区はあまり被害がなく、その後の別の空襲で爆撃を受けたと知ってぞっとした。よく生きていたな…?)
終戦の直前、国の広報は日本は勝ってると言い続けていたが、みんな負けていることはわかっていたらしい(それこそ憲兵さんに聞きつけられると面倒なことになるので、誰も口にはしなかった)。米軍が撒いた「日本は負けるよ」と書かれたビラもよく落ちていた。
それと同時に祖父が働いていた工場は操業を停止した。軍需工場だから戦争に負けた今、工場で作るモノなんて無いから。そこで祖父は同じ地方出身の者達と相談して、故郷に帰る電車の切符を手に入れるのに奔走した。
交代で列に並び、四、五日かかってようやく切符を手に入れられた。その時に町を出て、祖父は荒廃した東京の風景を見て愕然としたという。今現在、よくテレビで目にする終戦直後の驚くほど何もない東京の映像や写真そのものだった。
その後祖父は一旦故郷に帰ったが、働く場所を求めて親戚の伝手ですぐに遠く離れた地へ渡り、現在に至る。
祖父は現在91歳。もう少しいろいろ話を聞きたいと思っている。私が作ったカレーライスも食べて欲しい。
祖父から聞いた戦争の話はここまでだが、ちょっとしたおまけがある。
ある時、祖父が不思議な顔をして郵便で届いた書類を見せにきた。「これはどういう意味だ?」と。
それは『ねんきん特別便』だった。よく見てみると、祖父が戦時中に軍需工場で働いていた頃に納めていた年金がいわゆる「宙に浮いた年金記録」となっていたことが発覚し、年金受給者の祖父に支給されていなかったのだ。祖父自身、その頃に自分が年金を納めていたことなど全く知らなかった。
インターネットで検索したら「全国消えた年金相談センター」のウェブサイトによると戦時中の宙に浮いた年金記録はたくさんあるらしい。知らなかった。
とにかく書類に書いてある通り、記入して返送すればお金が貰えるよ、と説明した。書類には覚えてる限りの勤めていた会社の名前、住所を書いてくださいとあった。祖父はきちんと記入出来た。きっともう覚えてなくて書けない人もいたんだろうな。
後日、祖父にお金が振り込まれた。祖父曰く「案外少ない」でした。
おわり