はてなキーワード: 教条主義とは
自慢したいのはわかるけど、「古典的自由主義と左派の自由主義(リベラル)は全く別物であって」
って書いてる俺に何故わざわざ「リベラルとひとことで言っても、classical liberals もありゃ modern liberals 、scocial liberals いろいろ」
と説教してるの?
「絶対王政は封建制を破壊するもの」にツッコんでるけど「する」と「した」の違いわかる?
「理想と現実」というやつだよ。現実には破壊しきれなかったといっても目指す方向はそっちなんだよ。
>「あなたの言うリベラルってのは、僕の言う教条主義的な見方そのものであって、全然リベラルじゃなくて、左派の自称リベラルな感じだなあ」
全く意味不明。「僕の言う教条主義的な見方」って俺は君の知り合いじゃないからそんなん知らんがな。
ただし、
>ひょっとして共産主義系の方?
これも全く意味不明。マルクス・レーニン主義も左派リベラルの思想を継承してるとはいえるけれども、
そして日本のリベラルと呼ばれてる人達に大きな影響を与えてるけれども
そしてそもそも俺は左派の自由主義者じゃない。左派の自由主義の思想の根本にあるものは何かを説明しているだけ。
どうも突っ込みどころが満載で...
ええと、まず、あなたのリベラルという語の定義というか意味づけに無理がある。
liberals と言えば、特に断ったり文脈から明らかで省略されたりしない限りは、classical liberals だって当然含まれる。一方、あなたの言うリベラルは、ほとんど social liberal のことばかり。(それも結構せまい意味での social liberals )
リベラルとひとことで言っても、classical liberals もありゃ modern liberals 、scocial liberals いろいろ。
また、「絶対王政は封建制を破壊するもの」と言い切っているけれど、実際には封建制の上に立っていたという面もあるわけで、詳しい引用は避けるけれど、封建制と新興ブルジョワジーの均衡の上に成立したものというあたりが妥当な見方では?
なんか、あなたの言うリベラルってのは、僕の言う教条主義的な見方そのものであって、全然リベラルじゃなくて、左派の自称リベラルな感じだなあ。 ひょっとして共産主義系の方?
「戦争がなくなってほしい」「平和な世の中に」とか言ってるのを見かけるけど、
そう言っておけばいいとか思ってねぇか?
そりゃ平和な世の中になればみんなハッピーだよ。でも戦争は今もなお世界中で起こってるよな?
核をもたないでほしいっていうけど、いつまで経っても核保有国は手放さないんだよ。
70年も経ったのに、毎年毎年、誰かに訴えかけるような悲哀に満ちた回顧と、非現実的な事なかれ主義ばっかりでうんざりするんだよ。
大体こういうこというと、なんて軽薄なやつだ!とかいうやつが湧くけど、
当事者とそれに関係する人以外は、一年の大半以上を戦争のことなんて意識せずに今ある平和を持て余すほどに浪費していて、
記念日になった途端に教条主義者の如く、悲惨だの平和だの喚き出す。
被爆者を攻めるつもりはないし、こんな惨事が二度と起きてほしくはないとは思うよ。
「かつてこういう出来事があった」ということを風化させないために事実をあるがままに伝え、それをあるがままに学ぶというスタンスでいいじゃん。
それを『邪道だ!エクセルはあくまで表計算用のソフトだ!文書にしたいならワードを使え!』という教条主義者が、なぜか結構存在するのが不思議だ。
仕事柄、『文書入力ソフトとしてのエクセル』を、自分は愛用している
『シートがあるので、ワンクリックで別の文書へ飛べる』ということ。
例えば、A、B、C、Dという4つの文書を作る際に、ワードだとファイルが4つに分かれるか、1つのファイルの中に4文書が入った長文になっちゃう。
エクセルだと、シートA,シートB,シートC,シートDの4シートを作っておけばいい。
そうすれば、シートAの文書を読みながら、『Bは何を言ってるのか?』と気になった場合は、
あと、これは自分だけなんだろうが、
議事録で『皆が読んでほしい部分』と『読む必要はないが、まあ備忘録な部分』がある場合、
なんでも道徳が科目として扱われ、成績として評価されるようになるらしい。
TBSニュース23「変わりゆく日本」というコーナーで、試験的に行われた道徳授業の様子が放映された。
以下のシチュエーションについて生徒たちの意見を募り、先生と議論する。
「図工の時間。男の子が、となりの女の子に「赤い絵の具を忘れたから貸して」と言っている」
「女の子は(貸してって頼まれるの、今日で3回目だ……)と思っている」
「あなたが女の子の立場なら絵の具を貸しますか、貸しませんか」
むしろ相手のことを思いやることができるか、より多面的な見方ができるかどうかで判断する。
たとえば「もう2回も貸しているのに、今回貸したらきっと次も忘れちゃう。それはあなたのためにならないから、貸さない」というのは、相手のことを考えているので三段階評価のAが与えられる。
これを見て私は「何かちがうな」と感じた。
まず「あなたのためにならないから」というのは(もちろん回答例にすぎないのだが)、どうにも押し付けがましい。まるでおかんの言い草ではないか。友達どうしでそんな断り方、どんな年代でも普通はしない。
また、絵の具はもちろん一人一人の所有物なのだから、気分任せで「3回目だからもうイヤ」と断って、何が悪いのだろう。これでC評価じゃ、世の中のたいていの大人は道徳的に落第ってことになる。
この違和感の正体をつかむために思考実験を試みた。「もしも私に娘がいたとして、高校生になったとき、どんな対応ができるようになってもらいたいか?」
これをゼロベースで、すなわち「道徳」からは一旦切り離して、考えてみる。正直に。
1.ひと呼吸置く
とにもかくにも、何でもOKする人間にはなってほしくない。頼まれれば、人はついイエスと言いたくなる。でも衝動に流されてほしくはない。なぜなら(もう三回目なのに)という気持ちがたしかにあることを無視してほしくはないからだ。この気持ちは本音として是非とも伝える必要がある。そのためには「いいよ」と簡単に言ってしまわないこと。
2.相手の話を聴く
こちらとしては(3回目なのに)という気持ちを伝えてほしいのだが、その下準備として、相手の話を聴く必要がある。理由は、対話の技術として、としか言いようがない。「言いたいことがあるときは、まず聴く。そのほうがうまく行くことが多い」ということは多くの人が経験的に知っていることだと思います。
ただしこのとき、「貸して」と言われて「どうして?」と答えてほしくはない。なぜなら「どうして貸さなきゃならないの?」という文は反語として解釈されかねない。つまり「貸す理由なんてないでしょう」という意味に。私としては娘に男の子との対話をうながしてもらいたい。「どうして?」という言い方だと、むしろ対話を拒絶するニュアンスに近づいてしまう。
だから、やはり対話の技術として、相手の言うことをオウム返しにするのがいい。この場合、「貸して」に対して「忘れちゃったの?」と言っておくのがスマートだと思う。こうすれば、発言自体に新しい意味はないけれど、「私はこの件についてあなたと対話する準備ができていますよ」という態度を伝えることができる。
それにもしかすると、こちらが想像していなかった理由が潜んでいるのかもしれない。たとえば「きのう買いに行ったんだけど文房具屋が臨時休業だった」とか。聞かないことには、そういう事情も分からない。
3.自分の気持ちを伝える
「忘れちゃったの?」に対して「いやー買おうと思ってたんだけどさ」とか返事があったとしよう。
この二言三言を挟むだけで「えー、もう三回目でしょ」と言いやすくなる。「三回目だから貸したくないよ」とずばり言い切らないまでも、その気持ちは伝えられる。
4.成り行きに任せる
相手の話をうながし、自分の主張を伝えたなら、貸すか貸さないかはそれこそどっちでもいい。気分任せで構わない。まぁこの場合、頼まれれば貸してあげていいと思う。たかが絵の具なんだから。
「いやー悪い。頼むよ。次は絶対用意するから」「しようがないなあ。今回だけだよ」みたいな会話は自然だと思う。お互いに不満も残らない。
以上の手続きは、私にもし娘がいたらこうできるようになってもらいたいし、また私自身がかくありたいと望む姿でもある。
なぜ高校生の娘を想定したかというと、私は教員のみなさんのようなスペシャリストではないからだ。一介の素人にすぎない。だから小学生が何を考えているのか、小学生に何ができるのか分からない。でも高校生なら想像しやすい。
そこで次にこう考えてみよう。「ひと呼吸置く」「相手の話を聴く」「自分の気持ちを伝える」「成り行きに任せる」この四段階のすべてを小学生に教えるのは難しい。ならば、最低でもどれができれば、道徳の入り口として満足できるだろうか?
まず「ひと呼吸置く」のは小学生には難しいと思う。衝動的な反応を自制するのは、ある程度大きくなってからでないとできない。
「相手の話を聴く」。これはぜひできるようになってほしい。「誰かに何かを頼まれたら、『○○して欲しいの?』といちど聞き返してごらん」と一般化して教えるのは難しくない。
「自分の気持ちを伝える」「成り行きに任せる」はできてもできなくてもいい。前提条件として「相手の話を聴く」のが先だ。
というわけで「あなたが女の子の立場だったら絵の具を貸しますか、貸しませんか」というディスカッションテーマに対する私の回答は次のようになる。
「『絵の具を貸してほしいの?』と聞き返して、反応を待つ」
さて、この回答。みなさんはどう思うだろうか。教員はどう評価するか? 「自分勝手ではないけど、消極的すぎるな」という判断でB評価。こんなところか。
あるいは「貸すか貸さないかで尋ねてるんだから、どっちかで答えろや」と杓子定規に考える人もいるかもしれない。(道徳の授業なのに……)
また、みなさんはこう思われるかもしれない。「いまお前が並べたのは《コミュニケーション術》ではないか。議題に挙がっているのは《道徳》である。問題がすり替わっている」と。
たしかにそうだ。しかし果たして本当に道徳を教えることができるのか。どうだろう。大きすぎて扱いかねる論題だ。それに対して、コミュニケーション術なら教えることができる。少なくとも《技術》として。
思いやりは理屈で教えられるようなものではないと思う。相手がどう考えるか、自分ならどう感じるか、想像したり体験したりするなかで学ぶものじゃないか。対話をうながす姿勢をまず技術として身につけることは、その経験を豊かにする入り口となる。
だから私は、もし自分の娘が私と同じ回答をしたら、A評価を与えてあげたい。なぜなら、このようなオープンな姿勢こそ、思いやりを本当の意味で育むための第一歩であると考えるから。
仮に《道徳科目を考えるシンポジウム》みたいな場があったとして、もしもくじ引きで一般人代表として選ばれたなら、私はこう意見を申し上げる。
「先生方は道徳という言葉に引きずられて、やや教条主義的になってしまっているのではないでしょうか。つまり『道徳とはかくあるべきものだ』という定義から始めようとしておられる。だけどそのことが不自然な会話・違和感のある評価基準に結びついているように見えます」
「道徳を直接に教えるのではなく、間口を広くとって考えてみてはどうでしょう。『いま道徳を実らせなくてもいい。将来の芽を植えられればよい』といったように。そうすれば自然な対話・評価可能な《技術》に焦点を当てられまず。一例として、私が述べたような会話モデルが考えられます」
クリエイティブな仕事に憧れてたけど、絵も描けず、楽器もできず、文章も書けないみたいなワナビーこじらせた人間たちの最後の逃げ場って感じがするよね。
RailsやjQuery作った人間はすごいけど、それを使うあなたは全然すごくないじゃん。ただの消費者じゃん。
でも絵や音楽と違って供給者と消費者の境目が一見曖昧だからなんかすごいように他人も自分も錯覚するんだよね。
それもワナビーを呼び込む理由なんだろうけど。
TDDとかも、それを導入したら現場の効率が上がるとか本当はどうでもよくて「TDDやってる俺かっこいい」なんでしょ?
ワナビーとしての充足願望が満たされるんでしょ?
それで「会社にTDDを導入するにはどうしたらいいか」みたいなブログ書いたらはてぶで「こいつはわかってるヤツ」みたいなコメントもらえて嬉しいんでしょ?
そりゃ教条主義に陥るわな。反原発をTwitterでつぶやいて仮初の賞賛を集めるニートと同じだわ。
まあ「銀の弾丸は無い」って言ってるヤツも「銀の弾丸は無いって言える俺かっこいい」だから本質的には同じなんだけどね。
もちろん、誰かを差別主義者だと断定したことがイコールであなたの発達障害を疑う要因というわけではありません。
そして申し訳ないですが、今のところアスペルガーか境界性知能かを見分けることは出来ていません。
インターネット上では難しいかと思います。エピソードがひとつも無い状態では断定は不可能です。
その辺、どうしても論旨がぶれがちになるのはご容赦ください。
この手の話は、一つの結果に対していくつもの可能性があります。
言語がそもそも理解出来ていない結果なのか、他者とコンテクストの共有が出来ていない結果なのか
あるいはある種の価値観を絶対視している結果なのか、それは私如きの能力では判別がつきません。
私が「病気ネタ」を始めたのは、コンテキスト上の接続が(少なくとも説明を受けない限りは)全く無いパロディと
その後、強烈に他者を「電波」等の言葉で狂気と断定する行動を続けたという二点からです。
他者と文脈が食い違う、背景となる知識の共有が出来ないというのはよくあることに過ぎません。
問題は、それを他者の狂気、ないしは問題と一足飛びに判断している部分が大きいです。
もちろん、私の知識も経験も絶対ではないので間違いはありえます、当てにしない方が良いとも思います。そこは正直に申し上げます。
しかし、あなたの取ったこの行動は先述した発達障害を持つ方のテンプレにピッタリ嵌った行動なんです。
コロコロ変える、というご意見は非常に理解出来ます。申し訳ない。
しかし、境界性知能、アスペルガー、強力なオルグで教条主義的価値観を形成してしまった方
これらをエピソード無しで弁別することは少なくとも私には不可能です。原因は違えど、ほとんど同じ結果として顕在化するからです。
いずれにせよ、「他者とコンテクストの共有が出来ない」という結果をもたらします。
現在、私は左派的なイデオロギーとの親和性が高いところを鑑みて、どの可能性もありえると思っています。
加えて、インターネット上のセッションでこのどちらかかを断定するのは非常に難しい。これが私の認識です。
しかし、それを踏まえても今回のパロディ、言い換えればネタは成立してないかと思います。
でも、問題はそこじゃないんです。パロディがスベることはよくあることです。ジョークに失敗することは誰しもあります。
問題は、あなたが「パロディは成立している」と認識していることであり、
また同時に私が「性差別主義者である」と盲目的に確信していることです。
「コンテクストが共有出来ない時点で性差別主義者だ」この一言は
かつてはこの論法がまかり通った時代もあったと思います。「総括せよ」のロジックです。
しかし、現代でこのロジックを何の疑義もなく振り回しているのは少々危険かと思います。
あるいは、強烈なオルグでも受けて育ったのでしょうか?
教条主義なんてちょっとインテリぶった言葉使ってみた.例えば現実も見ずに融通のきかない人をバカっていう代わりにちょっとウエメセで叩くときなんかに使うと,わりと効果あります.他にはドグマチズムと読んだり.
で本題.教条主義って特定の原理ゴリ押しするめんどくさい思想なんだけど,例えば今になってもオリンピック反対している人とかね.あ,僕もアニメ見れなくなるから反対なんですが,それはそれとして.
オリンピック反対している人って,その他何でも反対,反対と言ってる気がするんだわ,主観ですが.政治的な話だと,最近は右寄り(新自由主義的,コンサバ寄り)の政治的なトピックがわりと豊富だし,例えばオリンピック誘致は経済効果云々だとか,あとジェンダー/セクシャリティについてニュースになれば噛み付いてみたりだとか,表現規制関連についてもそうだし.
何と言うか,反対することこそ信ずるところである,みたいな原理を感じてしまうのであるよ.さっき例に出したものだって,自分は反対に賛成というか,わりと話がわかるし応援したいな,とはもちろん思うところがある.僕の政治的思想は,わりと左寄りなところがあるから.
けれども,なんだろう気持ち悪さって一線を超えると出てくるもんで,ずっと攻撃的にヘイト,ネガ出しし続けてるとその人の言ってることって論理的な一貫性がないように見えてくるというか,結局あなた噛み付いてるのは現状に対する不満があるからやってるだけよねって思ったりだとか.
以前、森毅の本で、軍国少年だった旧制中学時代の友人が戦後に共産党の議員になったという話を読んだことがある。
要はそういうこと。右か左かが本質なのではなく、現実に合わせて世界を解釈するのではなく、あまりにも単純な「模範解答」に世界を無理矢理合わせこもうとする教条主義者か否かというのが本質。
ネトウヨとか電波系反原発とかと要するに似たような人種。意見の合わない人間を「鬼畜米英」とか「軍国主義者」などと悪魔化し、気にくわないことは全て「韓国の捏造」や「原子力ムラの陰謀」で片付ける。
この手の人は結局、自分で気付くしかないんだと思うよ。でないと一生そのままだよ。それまでは、中核派とかオウムとか在特会とかに絡め取られないよう祈るしかないね。
面白い2chまとめ記事を見つけた。いわゆる命の大切さを自覚させる教育についてのもの。
「豚を殺して食べる授業ってあったじゃん?あれってやり方が悪いよな」
http://oryouri.2chblog.jp/archives/7471447.html
元記事では「ブタがいた教室」
(http://goo.gl/DV423)(Wikipedia)
という映像作品が焦点になっている。これは生徒たちに生きているものを食べるという意味を考えさせるという目的で、1年間「食べる約束」でPちゃんと名づけられた子ブタを飼育する児童の活動の記録だ。容易に予想される通り、殺すべきか殺すべきでないかを巡って児童らは激論を闘わすことになる。以下、この作品における子供たちと家畜(あるいはペット)としてのブタとの関係について少し考えてみようと思う。なお、児童の下した最終的な決断がどのようなものであったかはここでは重要ではない。
とくに考えてみなくとも、この教育方法が愛玩動物と家畜を意図的に混同させてしまっている点で偏向していることはすぐ看て取れる。牧場や屠殺場の労働者と異なって、児童たちにとって家畜を殺す選択とは生活上の要請や主体的な投企ではないし、それらに束縛された社会的な半義務からも解放されている。かれらは「ブタとともにいる今のこの経験」をまったく外部から与えられた教育機会として甘受しているにとどまるため、必然的に(屠殺という)未来との緊張的な関係はほどかれてしまう。つまり、ブタは形式的には家畜として存在していても、児童たちにとっては犬や猫のようなペットとなんら変わらないし、その素朴な誤認が改められることもない。
農家で働く人々のなかには、家畜を愛称で呼んで慈しみながら育てる者もおそらくいるかもしれない。だが、衛生管理、給餌、畜舎の環境整備、精神状態への配慮、成長の仕方への注視といった諸々の世話は、家畜を取り扱う職務というひとつの社会的役割の枠の中で分化した業務である。したがって、それが職務である限りにおいて動物との関係は尊重されるのであり、家畜への愛情とはひとつひとつの労働の只中から立ち現れるものだ。だからペットのように対象を没入的に愛玩することが先行しているわけではないし、そうした依存は成立しようがない。この意味で、公共的領域に属する家畜は私的領域で人間を慰めることに専念するペットと同一視することはできない。
この教育が欠陥を抱えているのはまさにそこで、生物を食べるということの意味を考えさせるはずが、ペットを家畜として扱う行為の是非がそれ以前に立ち現れてくる羽目になることだ。あるいは、「教育機会として与えられたブタを、教育目的として屠殺すること」という奇妙な倫理問題が登場してくることになるのだ。だから、ブタの形式的な存在よりもむしろブタとの実質的な関係を重んずる児童ならば、きっと殺すことに猛反対することになるだろう。それも、生命の尊さという観点からではなく、先ほどまでは愛玩していた動物を教育用だからという理由で屠殺することの倫理的な疑問からである。
「生命を奪って食物をいただくことは非常にありがたいことなのだ(屠殺はやむを得ないのだ)」という結論に子供たちが至ると教師が期待していたのならば、その教師は教育の権力と子供の阿りにあまりに幻想を抱いていると言わねばならない。なぜならば、当座の問題として、子供たちにとって「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタ」である必要は一切ないのだから。感情に束縛された反対者がこのことに気づくかどうかは別として、この葛藤は両者を厳密に区別さえすれば解決する話ではある。我々が生活的・社会的な意味から屠殺を要請されているのは家畜用のブタという一般的な対象であって、Pちゃんという特定的に指示された一匹のブタではないだろう。
こうなると初期の教育目的から大きく外れた論理が子供たちを支配するようになっているのが理解できるだろう。屠殺がそれ自体として容認されるべきか否か、また、容認されるとして我々はそのことをいかに受け止めるべきなのかという課題は置き去りにされる。うってかわって幅をきかすのは、「それが屠殺から回避されるべきペットであるか否か」という二択問題でしかない。
つまるところ児童の躊躇と反発は、動物一般を屠殺することにではなく、愛情を受けるに値するペットを屠殺することに向けられることになる。もし教師がこの洞察の対象を臆面もなく「命の尊さ」と名づけ、児童らがそれを真に受けるとしたら、それは教育的にも、児童の感覚を支配する論理から言っても、致命的な取り違えを犯すことになる。なぜなら、そこで問われている生命の価値とは、その動物が与えられている人間の愛情という尺度によって一律に測られるものにすぎないからだ。この錯誤は一部の動物愛護団体も陥っている、言うまでもなく極めて未熟な人間原理である。
屠殺に賛成する児童にしても、その意見の後ろ盾となっているのはそのブタが屠殺されなければならない社会的制約にあるのではない。先にも述べたように、「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタ」である必然性に欠けているため、それを論拠とすることはできない。代わりにあるのは、教師やクラスの皆と「食べる約束」で育てたのだから言葉通り(あるいは教師や学校の期待通り)食べるべきだという自閉的な教条主義でしかない。そうした子供たちを支えているのは、ブタは一時的にはペットであったかもしれないが、家畜という名目は残っているのだから今や再び家畜に戻るべきだという同一性への信念である。したがって、生活的・社会的要請という家畜の意義はやはりかれらの目には隠されたままだ。
こうした事態はなぜ起こるのだろうか。まだ児童にペットと家畜の類別がつかないからでは決してない。生活上の要求や社会的責務と切り離された、教育という特殊な環境によって本来の弁別がゆがめられてしまったところに原因はある。一般的に家畜とペットの存在は公共的・私的という形ではっきりとした線引きがなされており、特に家畜に関してはその取り扱いに恣意性がはたらく余地はない。ところが、社会的要請という文脈から切り離してこれを教育という場に持ち込んだ途端に、垣根は崩されて恣意性が生まれることになる。つまり、そのブタは家畜になることもできるし、ペットになることもできる。その不安定さがすでに本来の家畜とは別物である以上、当然「生きているものを食べる」という普遍的な行為を考察する可能性から遠く離れることになる。
結論として、この教育が「命の価値」や「生きているものを食べる」ことについて考えることを目指しているとしたなら、それは完全な失敗だと思う。教育の目指すところが悪いのではない。学校の一クラスの中に一匹の家畜を持ち込んで、なお家畜の意味が無条件に保たれると思いこんだ教育者の甘い認識こそが問題なのだ。それは単に牧場見学や職場体験を学校の内側で再現することではない。家畜は数え切れないほどの社会的紐帯に繋ぎとめられた動物である限りで家畜と呼び習わされるのであって、周りを取りまく環境との避けがたい関わりを黙殺したところで家畜の理解にたどり着けるわけがない。
主張してねーもん。
「にしか見えない」という留保つけてんじゃん。
少なくとも、観測できる「処女厨」の姿からあなたの語るような結論を見るのは難しい。
その結論を導くのは、俺の乏しい脳みそからは難しい。俺にはそー見えちゃうわけよ。
しかし、「そうではない」と主張する御仁もいる。
ということは、「世界処女厨協議会」のごとき組織が存在して日々オルグを繰り返しながら
教条主義的一枚板の思想基盤を構成しているか、あるいは多少は信頼に足るソースがあるか、
という話にならない?一般的にはなると思うんだが。
そして、ですね。
って落ち込む男の子って少なくないんですよね。ところが、「好きな女の子」は実在だし、
その子には好きな男に股を開く権利があるから、こりゃもうどーしようもない。
「アレはヤリマンだよ」と惨めに吐き捨てるくらいしか出来ない。
ところがアイドルだと、「落ち込む男の子」が一杯いるわけですよ。
だから、ネットに言説が吹き上がる。1対1の構図から、多対1の構図になっただけで何もかわってなくね?
あと、「クラス一可愛い女の子」に彼氏が出来た時ヤリマン疑惑が浮上したりとかなかった?
結局、処女厨って「みんなにありがちな感情」がネットで吹き上がってるだけ、少なくとも
そういう構図として捉えること自体は可能じゃないかなー、って。
多くの人が話題にすることが可能な「有名人」だからこそ、処女厨って可視化したんでないかい?
そーいう人はずーっといた、それがアイドルや二次元キャラっていうイコンによって可視化した。
そう考えるのが妥当だと思うなぁ。「そういう推察もなんとなくなりたつきがする」というだけで、それ以上はムリだけども。
クラスの隅で「あんなヤリマン女どうでもいいよ」と嘯いてた奴が
ネット上できたない汁を撒き散らしながらリユニオン!みたいに、見えないでもない。
まぁ、お互い空論なわけで。
あなたの後半もすんごい空論だと思う。
とりあえず、日本処女厨協議会(会員1万人)の声明とか出てこないとなんともね。
単純に「処女厨」と呼ばれてるひとにもいろいろいる、というだけという可能性も高いし。
なんかこー、誰か頑張って思想をまとめるべきじゃなかろーか。いいじゃないか、処女厨。
>>処女厨は特段セックスに憧れる連中ではなく、とくにAVみたいに生臭い物はあんまり好まない
少なくとも非・処女厨よりよっぽどそういう所から遠ざかっていこうとする精神の発露が処女厨だ<<
こーいうの見る度にちょー思うんだけど。
根拠出せ根拠、例えば処女厨とやらがセックスにあこがれてない根拠はどこにあんの?
「処女厨5000人に尋ねたアンケート」とか俺の知らない素敵情報ソースがこの世のどっかにあんの?
それとも「処女厨」ってのは「俺がサンプルだ!」みたいな話なの?
あるいは処女厨しか入れない秘密の会合とか地下組織があって、日々思想的オルグを繰り返しつつ
一枚板として社会の転覆とかそういうことを企んでるの?すっごい教条主義的だったりして、思想的ヴァリエーションがほぼ無いとか?
口ひげを伸ばすとか、右側のもみあげをそり落とすとか、処女厨同士にしかわからないサインとかあるの?
「漫画キャラの女の子が非処女だった、作者死ね、漫画燃やしてやる!」
みたいな、そりゃもう性とキャラクターにすっごい執着した結果すげーわかりやすい反応を起こしてる
いっそ好きな女の子をイジメるガキみたいなメンタリティにしか思えないんだけど。
いや、あなたは違うのかもしれないよ。でもそれがホントに処女厨の一般的な姿なん?