はてなキーワード: マウンティングとは
・いつ結婚するんやそろそろ売れ残るぞと聞かれまくる(いつしたっていいだろ)
・ちょうどいい見合い話があるんだけど、と勝手に喋り始め、仕方なしに聞いているとどうやら相手は10歳年上(どこがちょうどいいのか)
・彼氏がいるからと言って見合い話を断ると根掘り葉掘り聞いてくる(プライバシーって知ってる?)
・相手がいるなら早く結婚しろ、もったいぶるなとのお達し(まだ付き合って半年なんですけど)
・結婚式の段取りで妄想しまくる(なんでそんなに先走れるんだ)
・かと思いきや唐突に始まるマウンティングと彼氏に対するディス(曰く、私の彼氏は一族の男と比べると劣る人間であり、そんな彼氏を選んだ私も劣った人間である)
・仕事なんか辞めてもいいから子供産んで欲しいとの発言(私が今の仕事に頑張って取り組んでたのを見てきてくれてたんじゃなかったの?)
・あわよくば沢山産んでもらって一人くらい養子にして家を継がせたい(家とか養子とかいつの時代の話だよ)
等々。もう嫌。
私が腹を立てて言い返したり黙ってたりすると、大事なことはなにも話さない気難しくて育てにくい子、と言ってくる。流石に母から言われると地味に傷つく。
※ この私見はすべて、twitter上で喪女と名乗ることについてに限定したものです。
10日くらいに、新しいtwitterアカウントを作った。リア垢オタ垢美容アカ勉強アカ裏垢… いろんな種類と界隈を選べるtwitterの世界で、わたしは新しいアカウントで、恋活界隈に片足を、そして喪女界隈に片足をつっこむことにした。
ウィキペディアで“喪女の定義”という項目を見ると、4つの条件が明記されている。①交際経験が皆無 ②告白されたことが無い ③純潔である(処女) ④恋愛感情をもたれたことが無い
これと同時に、「誰が喪女を名乗ることを許されるのか」という論争も触れられている。
ここで論点となるのが、「ネ喪」の存在だ。ネ喪とは、上記4つの条件を全て満たしていないが故に、本来は喪女を名乗ることが出来ない女性たちだ。しかし、それにも関わらず喪女を自称する場合にはネ喪だとカテゴライズされる。
4つの条件のうち満たしているのは「純潔(処女)である」というものだけで、彼氏は過去にふたりいて、告白は片手ぶんの男性にされ、これらから予想するに恋愛感情を持たれていた。しかし、喪女を自称している。
新しいアカウントを作るより前から、喪女の定義についての論争が絶えないことを知っていたので、bio欄には“セカンド喪女”と書いた。手前味噌だが、なかなか良いと思う。
わたしは9年前を最後に彼氏がおらず、最後に告白されたのが8年前で、それゆえ8年前から恋愛感情を抱かれたと確信したことはない。
わたしとしては正直、自分が喪女だろうがネ喪だろうがセカンド喪女だろうがどうでもいい。酷く綺麗事のように聞こえるだろうが、わたしはわたしだからだ。
しかし、わたしのなかで渦巻く感情を、同じような感情を持つ人と共有したい。
わたしは、8年間男性に選ばれない人生を過ごしてきた。それが9年、10年…と続いていくであろうことも、ぼんやりと予感している。
そういうことの辛さだったり、鬱憤や開き直りを共有できる女性かどうかは、“喪女の定義”を満たしているか否かでは測ることができない。したがってわたしは、ツイートの言葉とそこに現れる感情を読み取って、フォローをする。いいねをする。
自分のbioにセカンド喪女と書くのは、自分の状況を誰にでもある程度まで察させる言葉だと思うからである。しかし、ツイートでは自分を形容するのに喪女という言葉を使う。セカンド喪女という言葉が自作であり、また文字数の観点から、喪女という言葉を用いるのがいちばん便利だからだ。
いちツイートを切り取ってみれば、わたしがbioでセカンド喪女を自称していることは意味をなさず、わたしは分かりやすいネ喪となる。わたしのツイートは、そういった意図の有無に関わらず、冷やかしやマウンティングだと捉えられる。
それが、人を傷つけているのだという。
理解はできる。
ある特定の条件を満たす人たちを名付けるという行為は、「わたしたち」と「あのひとたち」を明確にすることであるとわたしは考えている。強い言葉を使うと、分断だ。
この行為には往々にして、「本当の〇〇とは何か」という論争がつきまとう。本当の日本人とは?本当のファンとは?本当の喪女とは?
「本当」を自称できる人々は、強い。揺るぎないアイデンティティと、言葉から香る正当性に支えられるからだ。自然と人々のあいだの団結も強まる。故に「本当」の人々は、さらに声高にその根拠を叫ぶことができる。
一方で、マージナルな位置に存在する人々はそうはいかない。意見や感情を主張する前に、そのアイデンティティを確かにすることに注力しないといけないからである。「本当」の人々の揺るぎなさと相対的な弱さに、どうにもならない焦燥を覚えたり、傷つくこともある。
わたしの個人的な意見としては、そこで停滞していたくないのだ。ラベリングやカテゴライズを飛び越えて、感情を共有したい。
そう考えている人は、少ないだろうか?
冷やかしやマウンティングのために、心にもない理解や同意のポーズを取るのは論外である。心が貧しい。
しかし同時に、強者の立場を利用して分断の線をはっきりと引くのも、同じくらい受け入れ難いことだ。
喪女を自称する人々は、自分のことをある種の弱者だと自虐することや、恋愛経験がある人を強者とみなすことが多い。これは「本物」と「マージナル」の強者と弱者の関係とは全く逆で、それゆえにこの「強者」の構造が見えづらくなっている部分があるはずだ。
なんだかとりとめのない文章になってしまったが、わたしが感じているのは「ラベリングではなく、その考え方や抱いている感情で相手と向き合うほうが心地いいのではないか?」という簡単なことだ。
新参者のわたしが、長く続く論争に注ぐのは油でも水でもないはずである。
これを読んでくださった方が、こういう考えの人もいるのだと知ってくれるのであれば嬉しく思う。
民間人ですが、外車に乗ってないし、立派なプロジェクトにも参加してないし、俺の周りでやる飲み会では一切マウンティングなんかないです。
もらってる給料は同年代の平均的な公務員の半分にも満たないです。
つまり、あなたがた公務員は、俺のような階級の人間にとって「雲の上のような存在」です。
ネットで叩かれたり、仕事中の電話や受付で税金泥棒扱いを受けるのは慣れたというかしょうがないと思ってたけど、リアル知り合いで出会ったのは少しショックだったので書く。ちょっと酔ってるので文章へたなのは許して。自分は公務員で彼氏は民間人。
まず自己紹介から、皆自分は○○会社でこんな立派なプロジェクトに携わってます、この人は出世コースで...とかマウンティングとかフォローのしあいが凄かった。
民間人の飲み会ってこんな外車乗ってて彼女はいくつで若くて可愛くてとか普通にマウンティングしてくるからびびる。社会人何年目(若造)でもう外車乗ってるわ~とか普通にアピってくるし...
そこにいた民間人の女性から、私は民間でバリバリ営業やってて業界では新聞にも載って、デキ婚して子供も育てながら民間で働いて大変なのーあなたは子供できたら仕事辞めるの?って聞かれて一瞬は?と思ったけど「辞めないです~(^^;」って返すのが精一杯だった。公務員女性で子供できたら辞めるってあんまりいないよ...公務員を腰がけとして考えてる人いないから...一応真面目に仕事やってるからさ...後、下戸な私に対して、民間だと飲み会でどれだけ飲めるかが勝負なんだよぉ~って言われて、はぁそうですかって感じ。公務員って端からみるとやっぱり馬鹿にされるよねえと感じました。まあ、確かに民間人の方が競争があるし、こちとら公僕ですから大したこともしてませんしね。公務員の忘年会の方がよっぽど健全で楽しかったな。彼氏の知り合いがどうかしてるのかもね。でも酔っぱらうと民間人って自分はどれだけ偉いのか語りがちだと思う。会社では偉いんだろうけど、それを外にアピールするのは如何なものかなと思います。まあ、私の嫉妬かもしれませんが。
確かに彼氏の会社は大手だけどいわゆる3kの仕事です!だからかもしれません。
民間の仕事も幅広いですよね。すみません。基本民間で働いてる方尊敬してます。私じゃ出来ないから。
妄想乙→面白い妄想じゃなくてすみません。確かに民間の女性との会話は大分はしょってるから、私の被害妄想も入ってると思います。
https://twitter.com/crd_tweet/status/1075996340809719808
https://twitter.com/Sakai_Sampo/status/1075996738756866049
ま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜た出たよSFファンの「えっ!? この作品を知らない人がいるなんて!?」マウンティングが。腐臭がする。そういう態度とるくらいなんだからSF老害おじさんにおかれましては日本古典近代戦前文学は言うまでもなく英米仏西伊独南米東欧文学の名作は当然読んでるしアニメ漫画ゲームの有名処は全部触れてるんですよね? どんな人でも絶対に「あの有名どころを読んでいない」なんてこと当然あるに決まってるだろ。SFの業界人がSFの有名どころを読んでなかったらそうも言われても仕方ないかもしれないが、共同リファレンスみたいな一般市民が普通の司書さんに質問した程度の案件でなんだその態度は。大体そもそも多読が可能かどうかって個人個人の特性によることが大きいから名作を全部おさえるみたいなのってできるひととできないにとが明確に分かれるだろ。SF語るのに1000冊読んでいる必要はないって口では言いながらこういう事例ですぐマウンティングしてくるからSF老害は信用ならねえんだよ死ね。
平成期末の12月、さりとてただの西暦2018年末も暮れゆき。Evernoteを整理(という名目の現実逃避)していたら、去年の末に増田に投下しようとして書き上がらないまま放置されていた漫画レビューが転がっていたので、供養として投下してみようと思う。細かい表現ばかりが気になり頭をひねっていたら知恵熱を上げてしまって、結果として放り投げてしまったのだった。けど1年寝かすと、ほんとうどうでもよくなるもんだ。今年こそ、ちゃんと書こう。
以下、そのままコピペ。
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年の瀬ということで、あっちらこっちらで総括的なものが始められている模様。そういうところにブコメをして推しを布教していくのもいいが何せ100文字で多くを語ることができない、ので徒然に増田に投下してみるわ。あー、明後日の納会行きたくねー(社内ぼっちなので)
お題は表題の通り。コミックスとして発刊されてるものが対象。発表時期は昨年以前のものでも、今年私が買ったものなら対象(流行に疎いものでね)というどこまでもジャイアニズム全開のまとめだ。誰かのこころに刺さるものであれば幸い。
【1席】
https://www.amazon.co.jp/dp/B077GQL19W/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
ヤマシタトモコはモノローグのうまさが前からそれなりに好きではあったのだけど、話や画づらがガチャガチャしていてあまりハマり切れてなかったところがあって(「BUTTER!!!」とかね)。
だが今作は主人公(の片割れ)が小説家ということもあって純粋に持ち味である「語り」が活きてきたな、という感じ。(ベタなフィーヤン的おセンチメンタリズム…ではあるのだが)
気が付いたらハマっていて、「2巻ないの?」となった。
両親を亡くした思春期の子を叔母(母の妹)が引き取る…なんて話だったら往々にして、「世の中を斜に見ているひねくれもの」という設定が「思春期の子」役にあてがわれることが多いんだけど、本作の「田汲朝」ちゃんはとても素直な性格なうえ、人見知りしない(齢34を超えて未だに他人とまともに話が出来ないおばさんにちょっとコミュ力分けてくれよ)。この人物造詣がなにより良かった。
それと、読まないと絶対わからないような細かいポイントで恐縮だが、「乾いた寿司は殺す」。この一言でもう、やられてしまった。
【2席】
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B071J6PGN6/ref=series_rw_dp_sw
4月ごろに部屋探しをしていたので、結構感情移入しながら読んでた。
(割と長いシリーズなので、ご存知の人も多いだろう。ということで概要ははしょりまーす)
主人公・沼ちゃんはようやく「ここだ」という部屋に出会い、マンションの売買契約を結びました…ここまでが3巻のあらすじ。
で、それを受けた4巻だけど、平常運転です。相変わらず、沼ちゃんと周辺の人々のパートと、市井の人とその人の暮らす部屋にまつわるお話のパートとを行き来しながらお話は続いていきます。
いつもどおり続くけど。
例えば、娘に命かけたものは何か、と問われた母親が「出産」と答えるエピソード、それを受けた娘は「じゃあ、私、一生懸命生きなきゃだね」と応える。
「いつもどおり」は日々のなか暗渠のようにずっと流れ続けていて、ある時まれにそれが顔をだす。その輝きのなんと素晴らしいことか。
8年暮らした部屋を出る沼ちゃんのエピソードに、5月、10年暮らした部屋と街を出た自分自身を重ねて、少し泣いてしまった。
【3席】
https://www.amazon.co.jp/dp/B0721MBYT7/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1
ようやく「森・青木」以外の物語を書いてくれる気になったか…というところで、デビュー作「水と銀」以来ファン歴18年の私としては感無量です。
お話としては、相変わらずぶっ飛んでて良かった(吉田先生的には平常運転)。
ヘタレむっつりストーカー気質おじさん×ツンデレ狐目女子、萌え(何やら言語中枢がやられてしまってるようだ)
「淫らな青ちゃんは勉強ができない」①・②・③・④・⑤ カワハラ恋/講談社
「男はケダモノ」という世界観で生きている女子高生が、ピュアな男子高生に好きになられて…。
一人妄想を膨らまして、勝手に怒ってみたり悶えてみたり童貞にマウンティングしたりする主人公・青ちゃんを「一番ケダモノなのはお前やないかーい」と愛でるのが本作の趣旨です。
とはいえタイトルでわかる通り、「出オチ」系のマンガなので、そろそろマンネリがきつい。最新刊では青ちゃんに想いを寄せる女子高生も現れ、百合展開もあり…次の一手に期待。
「お前はまだグンマを知らない」①・②・③・④・⑤・⑥・⑦・⑧ 井田ヒロト/新潮社
これも出オチ系。マンネリが気になるかな。でも、グンマのこと、好きになれたよ。
ラブ焼きまんじゅう。
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(追記)
「違国日記」は3巻まで出たね。いいボルテージを維持しているので、引き続き期待しているけど、ヤマシタ先生の描こうとしているものの全容を想像するに、きちんと終わるまで何年かかるだろう、と思う。
巻末の「○○のそれぞれ」で脱線してる暇はないっすよ。
対照的に「官能先生」は2巻でもう物語の核心に触れつつある。次巻、起承転結の“転”となるエピソードがくるかな。「恋風」も「夏の前日」も5巻だしな、物語を転がすのが本当にうまいって思う。
ビジネス的にはどうなのかと思うが、「作品の質が全て」という信条なのでそれは無視。
(「おまグン」はWeb版くらげバンチで読んでるけど、単行本を買うには至らない)
日々は、進んでないようで、過ぎていく。たまに過去の自分が書き散らかしたものに出くわすたびにその少なくない変化を驚かされるばかりだ。
むしろ中途半端にうまくいっている人のほうがマウンティングしてくるような気がする。
地元(南の島)の友だちがうっかりオラクルの営業に噛み付いて年収聞いて打ちのめされていたのを思い出した(男だが)
https://stocks.finance.yahoo.co.jp/stocks/profile/?code=4716.T
そんな話はせずにガンガン飲むのが◎
そんな報告を聞くがてら、友人知人同士数名集まって話していたときのこと。
会話の流れで矛先が私に向き、Aが放った一言。
「増田くんはこんなにカッコよくて優しいんだから、絶対幸せになってほしいと願っている」
Aは見た目は普通だが男を手玉に取るのがうまいタイプ(小悪魔系とまでは言わないが)。
この集まりの中にAより顔もスタイルもいい女はいくらでもいるが、真っ先に結婚が決まったのはAだった。
Aは私のことをなんとも思っていないだろうし、私もAはタイプではないが、こういうマウントをとるかのような発言は正直腹が立った。
今までにも恋愛・結婚の話題になることはたびたびあったが、このような言及は一切なかった。
別段マウンティングの意図はなかったとしても、はっきり言って屈辱的だった。
一方でAはそんな発言ができる自分の置かれている状況に大いに満足し悦に入っているようでった。
人間とはやはり余裕を持たなければならないのだと思い知らされたが、その余裕を身に着ける術がわからない。
そもそも余裕ってなんだ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/trafficnews.jp/post/82392
「急ぐ人用にあけるのがマナーだろ!」とか激しく人をマウンティングしてた人は昔からいたけど、そういう人は他人を攻撃できればいいんだろうから、こういう世の中の流れになっても自分の過去の言動に特になにも感じないんだろうなぁ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/hamamari/n/nbbd358cc6cc4
件の本は読んでいないのでいろいろ言うのは良くないとわかってはいるのだが。
もう何年も前に卒業したとはいえ、私も東大の中にいた当事者である。
今の現役世代の子たちがどんな感じか、というか世代関係なく自分以外の東大生が実際のところどう思っているかなんてわからないが、東大生であったひとりとして、この記事やブコメを読んで考えたことを書きたい。
「オタク」と同じように、また最近では「おっさん」もそんな感じがあるが、日本社会では「東大生」という属性が、叩いても良いサンドバッグとしてしばしば消費される。
そしてそこには、一般の人にわかりやすく消費しやすい、”売れる”東大生像というのが存在する。
プライドが高く人を見下し、実家がお金持ちでなんの苦労も知らず、勉強ばかりしていたから他者の気持ちがわからず、ダサくて恋愛経験が乏しく、頭でっかちで現実社会では役に立たない。消費者たちはそんなステレオタイプをいじって嘲笑って殴って、溜飲を下げる。
当の東大生が私たちはそんなんじゃないと反発しても、「顔真っ赤ww 図星乙www」と返されるだけ。東大生というだけでいい思いをしているのだから、ちょっとくらい叩いても構わないと思われているのだろう。
どうして挫折した/していないにそんなにこだわるのかというブコメがあったが、それは「これだから挫折を知らないお坊ちゃん・お嬢ちゃんは」という”挫折マウンティング”でしょっちゅう殴られるからだ(そもそも例の本もそれの亜種のようなものだろうと思う)。挫折したことくらいあると反論しても、お前のような恵まれた身分の挫折なんて挫折のうちに入らないと言われる。どうしたらいいんだよ。
「ステレオタイプではない東大生像を発信すればいい」なんて、建設的な提案をしたつもりかもしれないが、サンドバッグが欲しいだけの人々は、そんな"等身大の東大生"なんて面白くもないものにはたぶん見向きもしないだろう。楽しく叩き続けるためには、東大生は「頭はいいかもしれないけど人間的に不足した奴ら」でいなければならないのだ。
思うに、東大生は多かれ少なかれ、その氾濫した強すぎるイメージによって、まともな対話や交流の道が始まる前から絶たれるという経験を重ねている。
だから私はやむを得ず嘘さえついて出身大学を隠したこともあるし、「いやぁ、一応東大なんですけど、私なんかまぐれで入ったようなもんなんで」と精一杯申し訳なさそうにできるよう、自己紹介のたびに身構える。
そしてこれらの自己防衛策は同時に、頑張って勉強して志望校に入ったという自負や、東大で得た大切な友人たちを含む母校への愛着や、そういった自分の一部を確実にえぐる効果を持っている。
私は、東大生たちが例の本にこんなに反発を示したのは、そこにいつもの「サンドバッグに都合のいいイマジナリー東大生」を嗅ぎとったからではないかと思っている。
三鷹寮はそんなに広くないとか、大学の男女比が間違っているとか、そんなのは小説の趣旨には関係ない些末な点だと思われるかもしれない。でもこういう点がいい加減に描かれているということから私たちが受け取るメッセージは、「現実のお前らのことはどうでもいい」ということに他ならない。
実際の東大生がどんな人々かよく知らないし知る気もない、ただみんなが持っている”東大生を叩きたい欲求”を利用して本を売りたい。意地悪な見方をすればそういうふうに聞こえる。
そしてこの本は、「東大の方向けではなく、一般書籍として」書かれた。私たちを苦しめるステレオタイプを、ますます広めて強化してくれたというわけだ。
実際に東大生が起こした性犯罪に、犯人の「東大生としてのプライド」が関わっていたというのは見逃してはならないポイントだし、掘り下げる価値のあるとても重要な題材だと思う。
でもそのプライドは、少なくとも私の感覚からすれば、「自分はエリートだから偏差値の低いやつには何をしたって許される」といったある意味わかりやすいツルッツルなものではなく、「東大生なのにこの程度のこともわからないのか」と「これだから東大生はつまらない」の間で行き場を奪われて、ねじ曲がり窒息しそうになった自尊心である。
それが無意識の他大女性蔑視と結びついて暴力的な形で吹き出したのだとしたら。
間違いなく醜悪な話になるだろうし、自分の差別意識や加害性を掘り返されて死にたくもなるだろうが、私はそっちのほうが読みたいと思う。
重ねるが、他の東大生や、ましてや事件の加害者たちがどう思っていたかなんて私にはわからない。世間からの抑圧についても、もしかしたら私が女性であるから強く感じているのかもしれず、男子の事情はまた違う可能性もある。だからこれは本当に、ひねくれ気味のいち元東大生の感想でしかない。
ただ、「お前は頭が悪いから人間として価値がない」と切断処理される悲しみがわかるなら、「お前は東大だから人間性に問題がある」と切断処理される痛みにも気づいてほしい。