はてなキーワード: エレベータとは
元増田です。
いやいや、そうじゃないんだよ。ナンパは女の子に嫌がられるものっていう固定観念があるんじゃない?私がやってるナンパ(的なもの)は、相手にとっても不愉快じゃないし、断られてこちらが不愉快になるようなこともめったにない、そういうコミュニケーションなんだ。
ほんとうに道が聞きたくて話しかけるのだって一つの出会いでしょ。そこから仲良くなることもあるじゃない?あっていいと思うんだ。日本人は例えば店員と無駄な会話ってあまりしないよね。特に若い人は。だから店員と仲良くなって恋人同士になるとかっていうのも少ないと思う。でも、もっと話をしてもいいんじゃないかって私は思ってるの。もちろん会話したくない人はしなくていい。でも今の日本の「空気」は、お店の店員やエレベータの中で出くわした人と無駄な口をきいてはいけないような、そんな感じさえ受ける。私はそこに疑問を持ってるわけ。
もっと見知らぬ人と世間話をする世の中になれば、もっと明るい世の中になるんじゃないかと。その提案の一環としてこの文章でナンパをおすすめしたんだよ。そこまでしっかり書かなかったから誤解されて当たり前なんだろうけれどね。申し訳ないです。
生きていくってのは全く戦いだよな。
電車乗るのに、駅に階段があるわけ、ここで転んだらどうすんだよ、死ぬだろ。
電車はもっと怖い、事故起こすし、つり革なんて誰が触ったかわからん細菌だらけ。ガスまく奴もいるしな。
車もヤバい、日本で自動車事故で死んでるの1万人だぜ、しかもこれ事故から24時間以内に死んだ奴だけな。歩いてるだけで突っ込んでくるんだぜ?
危険すぎだろ!。会社ついて門の中でも車ひかれるし、エレベータ乗っても死ぬことあるし、もうほんと俺がどんだけ命かけてんのか、わかってよ。夜の間に俺のキーボード誰が触ってんのかわかったもんじゃない、ごきやらネズミやら居ないと言えるか?。飯食うのも命がけなんだぞ、発癌性物質の怖さ知ってるか?水にだって変なもんはいってんだぞ。ペットボトルにもだ、誰が毒入れてるかわかったもんじゃない。そもそも空気やばい、ウィルスやら煤塵やら何やら何やら。
俺はただでさえ命がけなんだ。ここまでのリスク犯して会社通ってんのにこの上、飲み会だぜ、なんでだよ。酒飲んだら死ぬかもしれんだろ? 少しだけならとかふざけんな。1cc飲んだら統計的に1秒は死期早めてんだろ。1ccも飲まないでもお前の酒臭い息で死ぬだろ、0.1秒は早く死ぬだろ、お前に染みついたタバコの匂いだけで俺は死期を早めてんだよ、ふざけんな。カナリヤ提げて、手術用の手袋して、ガスマスクしてがんばってんのに、酒をどう処理しろって言うんだよ、ふざけんな。
スポーツ大会で、サッカーとか骨が折れたらどうすんだよ、骨ぐらいまだ好い、頭にボール当たって死んだらどうすんだよ。いいかWHOもヘディング禁止って言ってるんだよ。死ぬんだよ、俺が。ふざけんな。走ったりして心臓止まったらどうすんだよ、死ぬよ?俺、死んじゃうよ?
なんでみんなわからないんだよ。この俺がどんだけ命かけて生きてるのかを。わかれよ、わかったら酒とか通勤とかスポーツ大会とか言えるわけねーよ。
こんな奴人間じゃねー。
子供のうちは数キロ先の学校まで1時間ぐらいかけて集団登校したりするのがけっこう普通だけど、大人になったら外はほとんど歩かない。都会の人みたいに雨の日に傘を差して目的地まで10分歩くなんてことはまず無い
たぶん、田舎の人はエレベータとかエスカレーターの位置を把握してないか、地図でエスカレータの位置確認しても「遠っ!」っておもって近くの階段降りちゃうんだよ
元増田は東京に住んだことのない地方在住だとしか思えない。東京に元からいた人はこういうことをそもそも思わない気がする点を列挙。
東京の人は小さいときからよく歩くので、その程度の移動で辛いとか思わない。田舎ではそのくらい歩くのも車で移動するのかな?貧弱な田舎の人わかりません><
ほとんどすべての駅にエレベータがあり、階段の上り降りをする必要はない。そもそも健康なのに歩かないのは田舎の人だけじゃないだろうか・・
電車がいやだったら自転車通勤すればOK。山手線の中なら自転車が一番速い交通手段。参考: http://www.ut-life.net/special/06race/
「何人いる? もうはじめる?」
「森口、まだ来てないじゃん」
「なんだあいつ、男のくせにピアノなんてならってんの?」
少ないときでも十人は面子が集まる。
今にして思えば、習い事でぽつりぽつりと面子が抜けていく直前だったから、小学校の低学年、しかも3年生ぐらいの年頃だったような気がする。
おれの住んでいた団地は新築で共働き世帯ばかりがどっと入った団地だったから、小学校のクラスでも団地の子供が占める割合が多く、揃いも揃って鍵っ子ばかり。それでランドセル姿のままでしょっちゅう一緒になって、あれこれ新しい遊びを始めるのが常だった。
そのとき流行っていた「どろけい」は、泥棒チームと警察チームの2チームに分かれて、泥棒はひたすらに逃げ、警察はひたすらに泥棒をつかまえるというシンプルなゲーム。泥棒はつかまれば開けたところにある刑務所に入れられ、仲間の泥棒にタッチして貰えれば見事脱獄ということになる。そうなってはたまったものではないので、警察チームは刑務所を陣地にして、あれこれと泥棒をつかまえる作戦を練る。
おれたち小学生にとっては、五号棟まであった団地は格好の遊び場で、当然ながら「どろけい」も団地を舞台に繰り広げられる。団地は、最上階が8階、左右に二棟のエレベーターホールがあり、両端はどちらも非常階段になっている。高島平のような左右に長い団地を想像すると分かりやすく、そこを小学生のおれたちは駆け抜けた。
よく迷惑だと苦情が来なかったものだと思うのだが、共働き世帯ばかりだったこと、そして、今よりも寛容な時代だったのだと、振り返って思う。
この「どろけい」という遊びは、逃げるにも追いかけるにも工夫とチームプレイが必要な遊びだ。
舞台となっていた団地には袋小路のようなものがなかったので、泥棒をつかまえるために警察チームは、複数人での挟み撃ちをする以外にない。泥棒が潜むことができるのは二棟のエレベータホールのみで、非常階段も廊下も警察の陣地から丸見えなので、捕物帖が始まれば、警察の陣地から指示が飛ぶようになる。
「錦原が、五階の西! 誰か西の非常階段を抑えろ!」
「非常階段、誰かいる! 降りてる!」
三人四人で泥棒の逃げ道を封鎖していくのだ。
「なあ、野々村どこにいると思う? エレベータの9階(作業室があった)みたよな?」
「みたみた。そういえばこの前は非常階段の裏に隠れてたな」
けっこう丸見えな割にはちょこっとずつ死角になるところがあり、そういった所に泥棒は好んで潜む。それを警察は必死になって探すのだ。
泥棒の方でも無策ではなく、エレベータホールなどでばったり出くわすと、情報交換になる。
「小田捕まった?」
「たぶん、みてないけど、走る音が聞こえないから」
「じゃあ、あと3人か。泉川はどこだろ?」
「あいつ、隠れてるの好きだからさ」
「じゃあ、こうしよう。おれは三階で仕掛けるから、木村は二階な。泉川は東の方にいる気がするから、おれは西の非常階段から脱獄かける。お前は東のエレベータホールな。泉川も気付いて、いっせいに脱獄かけれるかも」
「ちょ、ちょっと休ませてよ」
「たく、だらしねえな、60秒な」
そして、作戦開始。
それはたぶん子供の頃の大切な思い出だった。
「どろけい」は毎日のように号棟を換えて遊ばれる。
おれの住んでいた団地は、おそらく建設された時期が違っていたからだと思うが、それぞれの号棟に微妙な差異があった。たとえばエレベータホールが一棟しかなかったり、廊下の柵に隠れやすい板がついていたり、階が6階までしかなかったり、屋上と称する場所があったりする。
そうすると、号棟が変わる毎に作戦やセオリーが代わり、泥棒も警察も新しい手を考えなければならなくなるのだ。
なので、一号棟前にランドセル姿で集まって、今日の面子をながめながら、みんなでわいわいと相談する。
「なあ、今日どうする?」
「少ないから五号棟じゃん?」(五号棟は一番ちいさい号棟だった)
「五号棟好きじゃないんだよな」(エレベータホールが一棟しかないとつまらない)
「じゃあ、こうしよう3号棟で6階まで、これならどう?」
「作業室なしかぁ。あ、お前ずるとかするなよ」
「しないって。分かった。したら3回警察でいい」(警察は不人気だった)
「あ、あのさ、三号棟にするなら、刑務所近くしない?」(エレベータホールにの意)
「どの辺にするの?」
「え? 近すぎない?」
「いいよ! いいよ! ピロティーからなら警察見えないじゃん。そっちの方が絶対面白いよ!」
他のみんなはどうだったのかは分からないのだが、おれは分かってしまった。
こうやって、どうすれば「どろけい」が面白くなるかという事を相談しているときが一番楽しいって。「どろけい」をしているときももちろん楽しいのだけど、それよりもルールを決めながら、どんなルールにすれば、遊び方が広がるかを考えることは、小学生のおれにとっては、とてつもなく楽しいことだったのだ。
そうやって、少しずつ楽しさの源泉となるルールが積み上がっていき、「どろけい」はますます洗練されたゲームになっていく。おれたちは気付かないうちにゲームデザインをしていて、それは小学生のませた心に、楽しいってどういうことかって事を植え付けてしまった。
おれは「どろけい」をしている間にも、こんなルールにすれば「どろけい」はもっと面白くなるのに、ということをしきりに考えるようになった。それで、もっとみんなが面白くなれば、それはとても嬉しいし、楽しくなる。
この「どろけい」遊びがやがて終息していったのは、人数が増えすぎたというのが原因だった。
この面白い遊びが徐々に広まり、仲間が増えてくると、少人数の精鋭でやっていた頃とは格好が違ってくる。日曜日などには女子まで入って数十人で「どろけい」を行ってしまう。
そうなると、一号棟だけでは足りなくなって、一号棟から三号棟まで、といったように無秩序に規模が拡大していく。それはそれで楽しかったではあるが、やはり散漫で緊張感のない遊びになってしまった感は否めない。
さらに、休日に数十人の小学生たちが団地中を駆け巡り、大きな声で泥棒を追い詰めたりするとなると、さすがに周囲も迷惑を感じ始める。それで、どこだったか何号棟かで禁止令が出て、それから徐々に終息していたような気がする。折良く習い事で仲間もどんどんと抜けるようになり、外で大規模に遊ぶという事はこれが最後になってしまったと思う。
ただ、あの楽しさを味わってしまうと、今この歳になっても胸がうずく。
ああ「どろけい」がやりたい。
楽しかったって。
そして、あの初期にルールを作り上げていったときが一番楽しかったと。
おれは趣味でゲームを作っていると、しばしば言われて、誤解されて困ることがある。
おれは、そのたびに思う。
おれは、物語が作りたいんじゃない!
おれは、ゲームが作りたいんだ!
「どろけい」みたいにルールを考えるのが、好きなんだよ。
って。
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091127#p1
ひとつ前の記事を非常に多くの方に読んでいただいたようです。まったく予想していなかったことなので、驚いております。とてもありがたいことです。
この記事にたくさんの方がブックマークをしてくださり、またコメントを書いてくださりました。記事の内容についての様々なコメントもいただいたのですが、私が漢字をほとんど使わずに文章を書いていることについてのコメントもたくさんありました。
前回の記事からはだいぶ間が空いてしまったのですが、今日はそうしたかな書きについてのコメントを読んで考えたことを書いてみたいと思います。
●ブックマーク・ページのブックマーク・ページのそのまたブックマーク・ページ
以上の4つのリンク先からブックマーク・コメントを引用させてもらいます。
id:naoya_0708 [ネタ] そんな小さいこと気にせず堂々と遅刻して「へぇ、すんません」って言えばいい。そんなことよりこの人がなぜ平仮名なのか、のほうが気になるわ。
私がブログでかな書きを実践している理由については、これまで5つの記事で述べてきました。
1. 漢字について
4. 国語廃止論序説
5.の記事だけは、「漢字・かな混じり文」という日本語の《書き表し方》の問題にはほとんど触れておらず、主に《言語》の問題を論じています。日本で話されている様々な言語*1の中で日本語だけを「国語」として特権的に扱うことをやめましょうという提案を行っています。
ただ、この《言語》の問題と漢字・かな混じりの《表記》の問題の二つを、私は基本的に同じ論理で考えておりますので、興味のある方は、5.も併せて読んでいただけると幸いです。
上に挙げた5つの記事は、どれも長い文章なので、ここで簡単に私が漢字をなるべく使わないでブログを書いている理由を述べておきます。
それはできるだけ多くの人が文章を読んだり書いたりできたほうが望ましいと考えるからです。私は一方では読み書きができなくても何の不都合もなく生活できる社会が理想的だと思っています。しかし、日本語の読み書きができないと様々な面で不利益を被ってしまうという日本社会の現状では、そうした人たちが読み書きを身に付けやすい環境を作っていくということも同時に行っていく必要が大きいでしょう。
また、私自身、文字で書かれた物を読み、また書くことによって、様々な良きものを今まで他人から受け取ってきたと思います。もちろん、私が本を読むことができるゆえに、かえって見落としたり見えなくなったりしていることはあるでしょう。だから、一方では、単純に「読み書きによって世界が広がり、見方が広がる」といって良いのか、ためらいも覚えます。少なくとも、「読み書きのできる人がそれをできない/しない人よりも広い世界と深い物の見方を持っている」などとは断じて言えないことははっきりしています。
とはいえ、私自身読み書きのできる者の一人である以上、読み書きのできない人に対して「読み書きなどできなくても良い」と言うわけにはいかないし、「読み書きしたいけれどできない」という人がいる状況を正してゆく責任を負っていると考えます。
そのためには二つの方法が考えられます。一つは、読み書きの教育を充実させること。もう一つは、読み書きを身に付けるためのハードルを低くすることです。
もちろん、一つ目の課題も大事ですが、とくに日本語の場合、二つ目の 「ハードルを低くする」ことの必要性は極めて大きいといわざるを得ません。私自信何度か書いてきたことでもあるのですが、ブックマーク・コメントでの次の Cunliffe さんの指摘は重要です。
id:Cunliffe 「読みにくい」とか「読めない」とか難癖つけてる人みると、どうしても幻の鯖の器にケチつけた海原雄山を思い出す。漢字かな混じり文を読みやすいと感じるのは、正規の国語教育受けた大人だけなんですねー。
日本語について一通りの読み書きができる人は、その習得に非常な時間と労力がかかるということを知らないわけではないでしょう。また、そうしてかけられた時間と労力の大部分が漢字の学習に費やされていることも。
日本の学校教育を6年なり、9年なり受けた人でないと、おびただしい数の漢字と熟語を覚えるのは極めて困難なはずです。
いうまでもないことだと思いますが、日本社会の住民のうち、日本の学校教育を受けた、あるいは受けられる人はその一部に過ぎません。一般的に学校に通う年頃を外国で過ごした人もいれば、学校に通えなかった/通わなかった人、その中には年を取ってから読み書きを学ぼうとする人もいます。また、日本の学校に通っても、漢字や熟語が十分に身に付かなかった人も大勢いるでしょう。
あべ・やすしさんの次の文章も併せて読んでください。
漢字は、文字表記として複雑すぎるために、様々な文字弱者を排除し、抑圧している。
もちろん、漢字をなくせば文字弱者がいなくなるわけではもちろんない。だが、大きく改善することがたくさんある。
私が「漢字という障害」という論文で指摘した漢字弱者は、非識字者や識字学習者、盲人、弱視者、ろう者、中途失聴者、読字障害を持つ人、知的障害者、日本語学習者です。
そうした人たちが文字情報にアクセスする権利を奪っているのが、いまある日本語表記に他なりません。漢字が障害となる度合いは、それぞれ異なっています。けれども、何らかの形で、漢字は障害として働いているのです。
こうして漢字が作り出している「文字弱者」の存在を指摘しますと、こう言われることがあります。すなわち、このブログを読みにくる人たちの中にそうした文字弱者が存在するのか、と。今までに何人の人からそういう意味ことは言われました。「わざわざ大多数の読者にとって読みにくいかな書きで書く必要が本当にあるのか?」と。
こういう考え方は、たとえば次のような発想と本質的に違わないと思います。
「この街では車椅子で歩いている人を見かけない。だから、わざわざ駅にエレベータを つけたり、スロープをつけたりする必要はないだろう。」
これは一見してひどい言い分だと分かるのではないでしょうか? 必要なエレベータや スロープがないからこそ、車椅子で移動する人が街に出てこれないのかもしれない。「排除されている他者の存在が、私たちによる排除の結果として見えなくなっているのではないか?」という可能性を考えなければなりません。
同じことは読み書きについてもいえます。ひらがなでも書き表せることを漢字で書く ことで、漢字を知らない人を排除してしまっているのだろうし、その結果排除されている人の存在が見えなくなってしまっていることはあるでしょう*2。
だから、「今この場所にいる人」だけでなく、「今この場所にいない人」にも向けて、この場所をできるだけ開かれたものにしていく試みは重要だと思うのです。
さて、先日の記事でいただいたコメントで多かったのが、かな書きの文章が「読みにくい」「読む気がしない」といったものでした。この記事に限らず、私はこのブログでかな書きを始めてから記事を書くたびに同じことを何度も言われてきたのですが、こうした反応はとても興味深いものだと思ってきました。
「読まない」という選択肢もあるのに、なぜわざわざ読んだ上で「読みにくい」と書き込まずにはいられないのだろうか? また、「読みにくいので途中で読むのをやめた」というようなことをわざわざブックマーク・コメントで報告してくださる方もたくさんいます。私の記事のようなかな書きの文章ではなくても、途中まで読んでやめることなどしばしばあるだろうに、どうして私の記事にだけ、わざわざそれをお知らせしてくださるのだろうか?
前回の記事に関して付けられた200を超えるブックマークのうち、「読みにくい」「読む気がしない」といったコメントをざっと拾ってみたら、これだけありました(他にも別の表現で「読みにくい」ということを言っているコメントがたくさんありましたが、それはまたあとで触れます)。
id:baumkuchen555 みんなよく読めるな
id:ezil [考え方][教育][society][education] よ み づ ら す ぎ る \こめんと を かならず みること
id:yosuken [あとで][大学][教育][社会] やっぱ読みにくいな
id:zoumurasan [あとで読む] ひらがな ばかりは つかれる
id:Harnoncourt http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%AA%AD%E3%81%BF%E3%81%AB%E3%81%8F%E3%81%84%E6%96%87%E7%AB%A0 アンサイクロペディアの「読みにくい文章」。私この人の文章大嫌い。目が滑りまくり。
id:makiyamakoji とても よみに くいね
id:feita さすがによむきがおきないね。
id:suzuchu せっかくすごくいい事をいっているのに、読みにくい。漢字を使わない理由のほうも読ませていただいたけど、そっちはただの屁理屈に思えた。
id:kubodee ひらがなおおくてよめない。 それと たてよみ どこ?
id:kasuga-k [これはひどい] 興味のある題材だが読む気にならない…
id:change-of-pace [社会] たいとるにはきょうみをひかれたがぜんぶひらがなでよむきになれない
id:yatt 読み物 半分読んで止めた。読む気がくじけた。
id:puyop [これはひどい][ネタ][社会] 遅刻の常連者を更生できない教師とご学友というレッテルが張られることかな?/それにしても、ひらがなでちょうぶんはよみにくいぞ
id:rs6000moe [カリカリモフモフ][キタコレ][あらあらうふふ] 読みにくいものは読みにくい。わざわざ読みにくく書く人間の不誠実さには頭が下がる。/↑お、恥の文化
id:feita ボクは読みにくいものは読みにくいので素直に言っただけですよ。それ以上の意味もそれ以下の意味も悪意も善意もない。ごめん悪意は多少ある。
お疲れ様でございます。
みなさん、自信たっぷりに私の文章が「読みにくい」ということをご指摘くださって います。
「読みにくいものは読みにくい」のだ、と。それはそうですよね。読みにくいものは 読みにくい、読みやすいものは読みやすい、美味しいものは美味しい、美しいものは美しい、ですよね。
「不誠実」とまで言われました。自分にとって読みにくい文章を書く書き手は「不誠実」ですか? さぞかし良いご身分なのでしょう。
上のようなコメントはいつも頂いているので、もう慣れっこなのですが、今回目を引いたのは fromdusktildawnさんのコメントです。
id:fromdusktildawn この文章を少し読んだだけですごい疲労が襲ってきたんだけど、ブコメをみたら、ちゃんと読んでる人が沢山いておどろき。この程度のストレスに耐えられないとは、オレの脳も老いたか。
この人のコメントは、私が今まで頂いたたくさんの 「読みにくい」というコメントの 中でも、例外的なものです。それは「オレ」というご本人個人にとって「読みにくい」とおっしゃっている点でです。
なお、かな書きの文章が読みにくいはたぶん fromdusktildawn さんの脳味噌が老いたからではないと思います。ちょっとした慣れの問題ですよ(これはあとで説明します)。少なくともとりわけ年を取ってから漢字を学習する手間と苦労を考えたら、すでに漢字・かな混じり文の読み書きを習得した人がかな書きの文章に慣れるのは簡単なものです。漢字を使って文章を書き表さなければならない何か合理的な理由があるならまだしも、そんなものは、あとで述べるように、漢字を学んだ人にとってのちょっとした「慣れ」以外にないのは明らかです。
ともかく、私のかな書きの記事に「読みにくい」とコメントする人たちの中で、「自分にとっては読みにくい」という言い方をする人はほとんどいません。つまり、読みにくさの原因が読み手である自分自身にではなく、一方的に書かれた文章の側にあるのだという確信があるのでしょう。だからこそ「私にとってはあなたの文章は読みにくい」ではなく、単に「読みにくい」という言い方ができる。まさに「読みにくいものは読みにくいのだ」というわけです。
そして、「読みにくさ」の原因が読み手自身にではなく、書かれた文章の側にあるという確信を支えている条件とは、「この文章は私以外の多くの人にとっても読みにくいものであるはずだ」という思い込みに他なりません*3。「みんなも読みにくく感じるはずだ」と思うからこそ(多くの人が「読みにくい」と感じているのは事実でしょうけど)、遠慮はばかりなく、自信を持って、ただ「読みにくい」と言える。
つまり、「私にとって」と言わずに、ただ「読みにくい」とだけ言えるのは、多数者によりかかるという姿勢を取る限りにおいてです。かな書きの文章に対し、ただ「かな書きである」という理由で「読みにくい」という評価を下せるのは、それが「一般的に」――というのはとりも直さず「多数者にとって」ということですが――「読みやすい」と信じられている書き方から外れているからに過ぎません。
こうした自らが多数者であることに寄りかかった、いわば権威を笠に着た発想は、次のような表現をとって現れることもしばしばです。
「日本語酷すぎて読めない」だそうです。だいたい私にとっては、自分が書いたりしゃべったりする言葉が結果的に「日本語」に分類されるかどうかなど知ったこっちゃないのですが、この人はご親切にも(余計なお世話ですが) 私の文章を「日本語」とみなした上で、その「日本語」の名の下に「酷い」と断じるわけです。この、「自分は『日本語』の名の下に他人の言葉を評価できる/しても良い」といわんばかりの思い上がりご立派もんだと思います。
書き言葉であるか話し言葉であるかに関わらず、他人の表現を「日本語としておかしい(間違っている)」とか、反対に「日本語お上手ですね」とか評価を下すことに無頓着な人はよく見かけますけど、こういう人たちは一体何様のつもりなのでしょうか?
なるほど、あなたは他人の言葉を「日本語」とみなすかみなさないかについて権限をお持ちだ、と。そして、あなたがそれを「日本語」とみなすとき、あなたはそれを一方的に評価できる特権をお持ちだ、と。すなわち、相手があなたたちの「標準」と考える「日本語」に一方的に合わせるのが当然だ、と。そう考えているのでしょう。本当に結構なご身分ですわね。
すでに述べたように、私は自分の言葉が栄えある「日本語」という位置付けを与えていただこうがそうでなかろうが構いやしないのですが、光栄なことに「日本語」という分類に含めてくださるのだとしても、その「日本語」には様々な書き表し方が考えられますし、実際行われています。書き手がどういう読み手を想定するかに よって、「日本語」は、漢字かな混じり文で書かれることもあれば、かな書きで書かれることもあるでしょう。あるいは、ローマ字で書かれることもあれば、ハングルで表記されることもあるでしょう。点字で書かれることもあります。私は先に述べたような、またリンクした記事で述べてきた理由から、かな書きを選んでおります*4。
たとえば、ひらがなや漢字を知らないけれどもアルファベットには馴染んだ日本語話者同士が、アルファベット表記の日本語でやりとりする場合があります。おそらく、そういった場合には、第三者が横から口を挟んで「君たちの日本語は読みにくい」などとは言わないでしょう。では、なぜ私のかな書きの文章が一部の人を苛立たせ、「読みにくい」「読む気がおきない」といったコメントを誘ってしまうのか?
その理由の一つには、私が漢字かな混じり表記でも書けるのに、あえてかな書き文章を書いていることがあるでしょう。つまり、「わざわざ意図的に読みにくい(と漢字かな混じり文に馴染んだ人には感じられる) かな書きで書いてやがる」という反発があるのではないかと思います。
しかし、そこには 「日本語で書かれた文章である以上、自分たち大多数の読み手にとって読みやすい漢字かな混じり表記で書かれるのが当然だ」という前提が――屈託なしに「読みにくい」というコメントを書き込む人はあんまり自覚していないのでしょうが――あるのではないでしょうか? 普段日本語の読み書きにさほど不自由を感じずに済んでいる人は、「日本語で書かれた文章である以上、自分にとって読みやすいのは当たり前だ」と思ってしまいがちなのでしょう。だから、「日本語」で書かれているにも関わらず、「日本語」の「普通」の読み手である自分たちにとって「読みやすさ」の点で配慮されていないと感じられる文章には苛立たずにはいられない。
繰り返しになりますが、そうして苛ついたときに、屈託なくただ「読みにくい」とはばかりなく言ってのけることができるのは、多数者としての権威を笠に着ることによってです。そのことに私が気付くことができたのは、はてなブックマーカーの皆様方から「読みにくい」というコメントを度々もらったおかげです。私自身別の場面では、同じように多数者の権威と権力を笠に着た物言いを無自覚なまましているのかもしれません。
次に引用するのは、コーリィー・フォードという人が1949年に書いたコラムです*5。あえて、かな書きに直して引用します。
このごろ建物の階段は、昔より勾配がきつくなったように思う。蹴込みが高くなったのか、段数が多いのか、何かそんなことに違いない。
たぶん、一階から二階までの距離が年々伸びているせいだろう。そういえば、階段を二段ずつ上るのもめっきり難しくなった。いまでは一段 ずつ上るのが精一杯だ。
もうひとつ気になるのは、近頃の活字の細かさである。両手で新聞を広げると、新聞がぐんぐん遠くへ離れていくので、目をすがめて読まねばならない。
つい先日、公衆電話の料金箱の上に書いてある番号を読もうと後ずさりしているうちに、気がついたら、ボックスから体が半分外にはみ出していた。この歳でメガネなんて考えるだけで馬鹿馬鹿しいが、とにかく新聞のニュースを知りたくても、誰かに読んで聞かせてもらうしかなくて、それではどうも物足りない。最近の傾向なのか、みんながひどく小声でしゃべるので、よく聞き取れないのだ。
何もかもが昔より遠くなった。私の家から駅までの距離も倍ぐらいに増えたし、これまでになかった丘が中間にできたようだ。……
見ての通り、この文章はは、耳が遠くなり、また足が弱くなった年寄りの、いわば「自己中心的な」視点から書かれたジョークです。これが滑稽に感じられ、ジョークとして受け取られるのは、普通年寄りが自己中心的な視点から物を言うことが許されていないからです。
文字を読むのに苦労するのは「活字が細かすぎるから」ではなく、彼・彼女が「年を取って老眼になったから」とされる。また、話し声を聞き取るのに苦労するのは「みんながひどく小声でしゃべるから」ではなく、本人が「年を取って耳が遠くなったから」と される。
だから、普通年寄りは遠慮がちに「私にとっては新聞の文字は細かすぎて読めない」と言わざるを得ない。
同じことは文章の表記についてもいえるはずです。漢字かな混じり文に慣れた多数者は、自分たちが多数者であるからこそ、自信たっぷりに大声で「この文章は読みにくい」と言える。しかし、その一方で漢字かな混じりの文が読めない、あるいは読みにくい人が、大声ではばかりなくただ「読みにくい」と言うのは難しいでしょう。彼ら・彼女らは遠慮がちに「私は読めない/読みにくい」という言い方をするか、あるいは遠慮して「読めない/読みにくい」ということを言わないか、どちらか でしょう。
そうやって彼ら・彼女らに遠慮を強いているのは誰か? それは漢字かな混じり文だけが「まとも」な「日本語」だという常識を作り上げてきた私たち多数者でしょう。
石川准さんの言葉を借りると、多数者は、自分が「配慮されている」ことを都合良く忘れる一方で、少数者への配慮を「特別な配慮」とみなしがちです。石川さんの文章を、今度はかな書きでは読みにくいという一部の人たちに「特別に配慮」して、元の文章のまま引用します。
もっとわかりやすく言い直すために「配慮の平等」について説明する。
多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。
たとえば、駅の階段とエレベーターを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベーターは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エレベーターを配慮と呼ぶなら階段も配慮と呼ばなければならないし、階段を当然あるべきものとするならばエレベータも当然あるべきものとしなければフェアではない。実際、高層ビルではエレベータはだれにとっても必須であり、あるのが当たり前のものである。それを特別な配慮と思う人はだれひとりいない。と同時に、停電かなにかでエレベータの止まった高層ビルの上層階に取り残された人はだれしも一瞬にして移動障害者となる*6。
あえてかな書きで文章を書くことが漢字の読めない人への「特別な配慮」だとするなら、漢字かな混じりで文章を書くことも、そのほうが「読みやすい」という人への 「特別な配慮」といわなければなりません。反対に、漢字かな混じりで文章を書くことが読み手にとっての「当たり前の配慮」だと考えるならば、漢字の読み書きに困難を抱える人に配慮するのも「当たり前の配慮」です。
要するに私が言いたいのは、漢字の読み書きができるからといって偉そうにするんじゃないよ、ということです。
その上で、この文章を読まれている方に、かな書きで書くことをおすすめしたいと思います。
私は前の記事で次のように書きました。
さて、明らかに不合理でくだらないということが分かりきったルールを守るということは、権力に屈服するということです。権力に屈服するということは、おそらく多くの人にとってみじめなものでしょう。そうしたみじめさを感じずに生きて行きたいものですね。そして、権力と戦わずにみじめさから逃れるためには、自分が権力に屈服しているという事実、不合理なルールに従っているという事実を忘れなければなりません。つまり、実際は不合理なルールに従っているにも関わらず、そのルールが「合理的な理由がある」ものだと思い込めば良いわけです。
これは別の文脈で述べたことですが、実は書いているときに漢字の問題なども念頭に置いていました。
漢字の読み書きにあまり不自由しなくなった人は、そのためにおびただしい時間と手間をかけてきたはずです。また、「あまり不自由しなくなった」とはいっても、それでも実際のところ結構不自由しているでしょ?手書きで文字を書くときに漢字の書き方を思い出せなかったり、パソコンで書くときだって同音異義語があるときにどの文字に変換すべきか分からなかったり。難しい漢字や熟語が使われている文章は、読むのだって大変だし。こうして漢字のせいで余計に辞書を引く手間がかかる。漢字を知らないと恥ずかしいと思わせられたりもする。
そうやってこれまで苦労してきたし、今も日々苦労しているから、その自分の苦労を否定したくないという気持ちになるのは、ある意味自然なことではあります。自分の苦労に「意味がある」と思うために、漢字を使うことに「合理的な理由がある」思い込もうとする気持ちもわからないではありません。
id:chakimar 漢字って素晴らしい。それに気づかせてくれたすばらしい日記。
id:te2u こういう発想はなかったな。守って当然と思っていた。/このエントリをみて、漢字が出来てよかったしみじみ思う。
ところが残念なことに、というか幸いなことに、漢字を使わなければならないという合理的な理由はたぶん存在しません。
たとえば、「日本語は同音異義語がたくさんあるから、かな書きでは意味が通らない文章になる」ということを言う人がいます。
しかし、これは物事の順序を取り違えた議論で、「漢字を使うから、同音異義語がたくさんできてしまうのだ」というべきだし、同音異義語を避ける工夫をすれば良いことでしょう。そもそも、同音異義語はどんな言語でもあるのだし、多少それがあっても、文脈で判断できるように書き方を工夫することは簡単です。
実際、話し言葉では、そうやって文脈から判断できる範囲で同音異義語を使ったり、また文脈から分かりずらい同音異義語の使用を避けたりといった工夫はなされているわけです。もちろん、話し言葉では、イントネーションを始めとしてかな書きでは書き表せない情報を含んでいるので、単純には比較できないのですけれども。しかし、わかりにくい同音異義語が多すぎるのが問題だというのなら、新しい言葉を少しずつ作っていけば良いだけの話です。
他によくある誤解はは、漢字は表意文字なのでビジュアル的に把握しやすいというものです。たとえば、次のようなコメントもそうした誤解に基づいているのでしょう。
id:koisuru_otouto 漢字って絵文字と同じだから "かな"だけの文章を読み解き辛いのは自分もだしわかるんだけど
ちょっと考えればわかることですが、漢字がかなやアルファベットと比べて特別にわかりやすいということはありません。「漢字は一目でその意味を把握しやすい」と言う人は多いですが、そういう人はアルファベットだったらどうなのかということを少し考えてみると良いでしょう。アルファベットだって同じなのです。
英語を読むのに慣れた人は、たとえば "guitar"という文字の連なりを見たときに、一目でその意味を把握しているでしょう。一方、"kltjautr"といった文字の連なり――これは いま私がでたらめにキーボードを打って作った文字列です――を見ても、ひとまとまりの物と認識することはできないはずです。
つまり、漢字を読むのに慣れた人が、たとえば「雪」という漢字や「弦楽器」といった熟語の意味を一目で把握できるのも、それとまったく同じことであって、単に「見慣れているから」に過ぎません。アルファベットであれ、ひらがなであれ、文字を読むのに適応しやすい体をもった人にとっては、見慣れた単語や連語を、文字単位ではなく、ひとまとまりの語句として認識することは簡単なはずです。
要はちょっとした「慣れ」の問題であって、「漢字そのものの特徴ゆえに、漢字で書かれた文章は読みやすい」という俗説は全くの誤りです。「漢字で書かれた文章は読みやすい」と感じるとしたら、それは単にあなたがそれに「慣れているから」に過ぎません。
(続き)
世の中のエレベーター全てにボタンがなければイライラしないのでしょうけれど
知っているからこそ、イライラしています。
”ボタンがない事”にイライラもしています。(エレベーターに罵声浴びせてることもしばしば)
私が思うに、急いでないのに押すのは「そこに閉じるボタンがあるから」だと思います。なければ押そうとは思いませんよね。
これも、お客様や他のテナントを見ていて思うのですが、違いますね。
何故なら、閉じるボタンがない場合は、他のボタンを押すんです。
行先階を連打する人もいます。
急いでるはずなのに開くボタンを連打する人もいます。
二階にいくのにのんびりエレベータをつかいつつ、連打、もあります。
勘違いしている人もいれば、一抹の望みを持っている人もいれば、
テナント勤務で分かってるのに、どうしても連打してる人もいます。
「待つ」という感覚がそうさせるんでしょうね。
まあ、全体的に元記事やコメントにいちゃもんつけたいだけな感じも見受けられますが
ボタンがないとこんな感じです。
無職は気楽でいいね。
1日3時間くらいしか寝れずに働いているときの朝の5分、短い昼休みに弁当を買いに行くときの5分がどれだけ貴重なのか分からないのだろう。
他の階にエレベータを待っている人がいるかもしれないのに、自分が下りたあとも数秒間開き続けているのが申し訳ない。早く閉めて、次に乗る人の元に渡してあげたいと思う。
急いでいる人に対する思いやりが閉ボタンなんだよ。
とりあえず行先階ボタンを押してもたどり着くし、早く行きたい人にはオプショナル操作が用意されていてそれに応えてくれるってのは親切だと思うけどな。
先ほども書きましたけど閉ボタンがないことを前提とした場合、自動で閉まるまでの時間はもう少し(1秒か2秒程度でしょうか)短くするでしょうね。
お年寄りや身体の不自由な人のために標準の開放時間をうんと長くして、健常者は各自「閉」ボタンを押してとっとと行っちゃってくれ、という設計にするのが今風かと思います。最近増えてる駅のエレベータはそういう感じになってるんじゃないかな?
http://blog.kishin-design.com/?eid=1024110 kishin Design | Macとデザインと美しいモノのブログ | エレベータの「閉」は不用
に対するコメント。なんでこんなにプチ炎上してるのかさっぱり分からないが。
閉ボタンがなければ、私なら「全部の階を押して降りる」という悪戯をしますね。
閉ボタンあってもそういうことする人いますね。
関西人はあの「閉」ボタンを連打します。同乗者で閉ボタンを押さない人がいるとイライラします。やはり県民性ですかね笑。関西人には自動で閉まる時間は遅すぎるのです。だから関西のエレベータにはある方が良いと思います。
閉ボタンがないことを前提とした場合、自動で閉まるまでの時間はもう少し(1秒か2秒程度でしょうか)短くするでしょうね。
そもそも、「押さない」からイライラ」するとして、「押すボタンがなかったら」どうなのかは気になります。
閉めるボタンは必要です。
この数秒で利益が出るのではなく、
この数秒で損がするからです。
僕が使っているのは5分おき。
1秒遅れても5分の遅れになる。
急ぐことでイライラするけど、
会社はそんなの関係ない。
時間までに来れば、社員の心の状態がどうであってもお構いなし。
そんな会社に付き合うために
閉めるボタンは必要。
5分早く家を出ましょう。
急ぐ必要のない暇人はいいですね。
急いでるんじゃなくて、【待たされる】のが嫌なんだよ。
最初から「閉ボタン」がなければ、「回避できる待たされ」にはあたらないですよね?
日本人は鬱陶しく思うのではないでしょうか。
だったら少しでも長く開いてた方がうれしいじゃないですか。
数階ならともかく、20階以上もあるビルのエレベーターは通勤時には長蛇の列ができるほど。一階に5秒かかれば、片道で10箇所くらいに止まって50秒。人が多ければ停止時間も5秒以上かかる階が出てきます。それが往復ともなると、いらないというのはきついですね…
もちろん、無ければ無いで慣れますが、閉ボタンがあったらなぁ…って思うんだろうなぁ…
自分でも言ってますけど、慣れますよ。
閉まるのが早いエレベーターは閉ボタンが不要なのはわかりますが、
開が長いエレベータには閉が欲しいな。
先ほども書きましたけど閉ボタンがないことを前提とした場合、自動で閉まるまでの時間はもう少し(1秒か2秒程度でしょうか)短くするでしょうね。
高層オフィスビルでの朝の通勤時間帯、エレベーターはひっきりなしに動いています。
その通り。余裕を持って動けばいいと思います。
書かれている内容の主旨自体は同意出来るのですが、私は「閉」ボタンは必要だと思います。
例えば、私が利用している建物のエレベータは利用者数に比べて少ない為、朝夕やお昼時はぎゅうぎゅう詰めになります。
そして、エレベータの扉にはセンサーがあり、扉の近くに立っていると閉まりません。
「閉」ボタンがないと、時間が来てなくて閉じないのか、センサーに引っかかって閉じないかの判断が付きませんし、仮に引っかかっていると更に30秒ほど待たなければなりません。
その辺は別のデザインが必要になるでしょうけど、「閉じるボタン必須」の理由としてはどうかな。
別に急ぐとかじゃなくて閉めたいタイミングで閉めれるというのが何か問題があるのかな?
私は別に急いでなくても「閉」を押しますしそれが普通です。
ゆっくり乗ってくる方がいれば「開」で待ち、乗った後一呼吸おいて「閉」で閉めます。
これが私の普通です。
生活リズムそのものが多分違うんでしょうね。
それはボタンがあるから閉めるんですよ。最初かなかったらそれが普通になるだけじゃない?
降りるときに自分一人の場合は「閉」を押して降りますね。
だから?
かわいそうな人だ。
今から「付けるか否か?」という議論を始めるのならまだしも、既に多くの人が使っているものを外すことはないでしょう。
それはもっともかもしれんね。でも、元エントリも今あるエレベータの「閉じるボタン」全部取れって主張してるわけでもないとは思うけど。
「閉」ボタンを押すのは、閉まるまでの時間を短くできるからです。
ただそれだけ。
この時間を「もったいないな」と思う人が押しているだけで、それによって利益がどうこうという話ではないと思います。
つまり、感覚の問題。
だから「閉じるボタン」が最初からなかったらもったいないと思う人もそんなにいないんじゃないのかな?
2箇所をつなぐエレベータの場合に行き先ボタンや、最低でも動ボタンが無いと、
無人でも上下を繰り返してしまうと思います。
同意見ちらほら。
同意見多数。別の演出が取って代わるだけでしょう。
変人に追いかけられたら早く閉めたい。
変人に追いかけられ場合は、追いつかれたら密室になってしまうエレベータに乗るのはやめたほうがいいと思います。
そう?
閉ボタンを押す人がそうしている理由を「急いでいるからだ」と考えている点が、あなたの一番の誤解です。閉ボタンを押す人は、別に「急いでいるから」押しているわけではありません(もちろんそういう場合もあるでしょうけれど)。急ごうという考えなど一切なく、閉ボタンを押しているわけです。なぜか。その理由は人により様々でしょうし、上のコメントでもいくつかの考えが書かれているので割愛します。ともかく、なぜある種の人は閉ボタンを押すのかということについて、その心理をもう少し広い観点から考えるべきではないかと思います。
私が思うに、急いでないのに押すのは「そこに閉じるボタンがあるから」だと思います。なければ押そうとは思いませんよね。
なので、2箇所しか繋がないからと言ってボタンを無くそうと思ったら、「ボタンの無いエレベータ」を新たに開発・生産しなければならないのです。そして、そうやって開発されたエレベータは「2箇所の往復しか出来ない、汎用性の無い製品」だと思います。
以前仕出し業者さんと関係あったわけですが、お昼までの配達という関係上、1、2秒の積み重ねが重要です。これを平日毎日全車両の全ドライバが1日30回以上押すので年間にしたら相当な額の差がでます。
そうかなぁ。机上の空論じゃないの?
何度も書いてるけど、閉ボタンがないことを前提とした場合、自動で閉まるまでの時間はもう少し(1秒か2秒程度でしょうか)短くするはずです。1,2秒の積み重ねならそれで相殺。ボタンを押すというコストが減ることも考えたら。プラスかも。
もちろんこれも机上の空論。どうしても知りたければ検証実験は必要。
いくつかの業界(肉体労働から頭脳労働まで)を見てきましたが、私の見た限りまったく逆ですね。
キチンと利益を生み出す方はこういう小さなスキをぼーっと見てたりしません。
多分そういう人は、ほんの1,2秒を有効に使えるようなるでしょう。
何事も「自分で操作したい」という欲求を持つ人が少なからずいると思うんです。
できるからしたいんでしょ。できないものまで操作したいですか?
飽きてきたので最後に
今日まで医療関係者をやってたものですが、管理人さんが万一のとき病院で閉ボタンが無いことによって手遅れになることだってありうるでしょう。
570 名前:名無しさん@十周年[sage] 投稿日:2009/10/16(金) 12:14:30 ID:SPyNBHOK0
ぶらさがりで情報とろうとして
いろんな出口をマスコミ各社が分担して待ち構えてたら、
逃げられてしまいましたの巻。
919 名前:名無しさん@十周年[] 投稿日:2009/10/16(金) 12:44:15 ID:v27asYF90
貨物用エレベータに乗る必要はないでしょ
930 名前:名無しさん@十周年[sage] 投稿日:2009/10/16(金) 12:45:23 ID:ZSIzYYll0
お荷物だという自覚があるんじゃないか
>その人を特定して食事に誘ったわけではなく、周りにいる人全員に声を一声かけ、
>参加したい人は参加するし、帰る人は帰るといった具合になったわけだか、
>その人は自らの意思で参加したのだ。
全員に声かけたら、その人にも声をかけてるわけで
それに応えた形なので参加することは問題ないですね。
その人が食事を手伝ってもらうのは、
車椅子の人がエレベータの無い階段で誰かに持ち上げてもらうのと一緒。
障害者の方と一緒に行動するなら、何が出来て何が出来ないか
問いかけるくらいはやったほうがいいよ。
食事も手伝ってもらうほどの障害があって、見た目から全然わからないなんてことはない。
あなたが障害者との付き合い方を知らなかっただけで恥じることは無いし
相手にぎもんを持つのもおかしい。
他人に世話をかけたことじゃなく、別のことなんじゃないの?
自分でも気づいてないかもしれないけどさ。
ちょうど一年前になるんだな。
でも意外と人間、このくらいのことは一年も経てばどうでもよくなるもんで、最近は普通に暮らしています。やっちまったエレベータとか毎日乗るし、松屋にも行けるようになった。
一時は二十歳越えてうんこ漏らすとか死にたいとばかり思ってたけど、今では人生の糧とまで考えられるほど回復しました。
だから、今はしんどい悩みも時間がたてば大したもんじゃないのかもね。うんことくらべるのもあれだが。
http://anond.hatelabo.jp/20080814004453
↑仲間がいたwwww
本人に代わり謝罪しときます。ごめんなさい、間に合わなかったんです。
離人症って言葉に聞き覚えが会って、ちょっと Wikipedia で見てみると、解離性障害 っていう項目に纏まってた。
僕はいままで、会社をクビになったことが2回ほどあるんだけれど、あの時は離人症だった。社長と狭い部屋に2人で座っていたのに、100m くらい離れていたような気がしたし、なんというか、人生のつらいことが全て連なって起こっていて、泣きたい気分だったのに、全く泣けなかった。逆に現実感覚が戻った時はゲームをしてるような気になって、すごい元気になってた。エレベータで乗り合わせた人に、今クビになってさ、とか言って話しかけたりして。その夜には全く逆にはち切れましたが。
解離性けいれんも経験がある。意識はあるし、その時に一緒にいた人に一生懸命説明してるの。いま自分がどうなっているか。だけど身体は全く言うことを聞かず、痙攣し続けて、最後は呼吸困難で瞬間意識を失ったような気がする。
その手の急性のストレス時に起こるだけで、繰り返し起こったりはしてないから、まぁいいのかな。
健忘とはすこし違うんだけれど、時間の感覚は今に至るまでまだ、すこしおかしい。これまでに起こったことが、リニアに起こったこととは感覚的には全く思えない。よーくよーく憶いだそうとがんばると、そういえば、そうかも知れないぐらいな。理論的に矛盾しててもこの並び順の方が自然だな、とか。日記はつけてるんだけれどね。でも、もう病院に行く程酷くないし、むしろカウンセラーとかにあの頃のことを説明することを想像する方が、心的に苦痛。