はてなキーワード: 既視感とは
(訳注:長文注意。誤訳あったらごめんなさい。教えてもらえたらあとで直します)
村上春樹の作品世界にほぼ浸りきってやろうというつもりだった。
ところがその目論見は外れることになる。
期待していたのは、バルセロナやパリやベルリンのような街だった。
そこでは、市民はみな英語が達者で、さらにはジャズ、劇場、文学、シットコム、フィルム・ノワール、オペラ、ロックといった、
西洋文化のあらゆる枝葉に通じている……そんなコスモポリタンな世界都市を私は期待していた。
誰かに聞いておけば分かっていたはずなのだが、実際の日本はまったくそんな場所ではなかった。
実際に足を踏み入れることができる日本は、どこまでも頑固に、日本的だった。
そう思い知らされたのが地下だったというのは、我ながらよくできていたと思う。
アイロン掛けたてのシャツに包まれ、なんの躊躇もなく地下鉄の駅へと降りて行くや否や、
私は迷子になり、助けを求めようにも英語話者を見つけることができなかった。
最終的には(電車を乗り間違え、馬鹿げた値段の切符を買ってしまい、必死のジェスチャーで通勤客を怖がらせたあと)、
どうにか地上に出てはみたものの、もはやインタビューの時刻はとうに過ぎている。
私は絶望して、目的もなくあちらこちらへとさまよい歩いた(東京にはほとんど標識がないのである)。
そして蜂の巣状のガラス製ピラミッドのような建物の前で途方に暮れていたとき、
ついにユキという村上のアシスタントに見つけてもらうことができた。
あまりにもうかつな、アメリカ人的な私は、村上のことを現代日本文化を忠実に代表する人物として考えていた。
実際には彼は私が思っていたような作家ではなく、日本は私が思っていたような場所ではなかった。
そして両者の関係の複雑さは、翻訳を介して遠くから眺めていたときには想像しえないものであることが明らかになっていった。
村上の新作『1Q84』の主人公の一人は、自らの人生最初の記憶に苛まれており、誰に会ったときにも、あなたの最初の記憶はなにかと尋ねる。
それは3歳のとき、初めて家の門の外に歩き出したときのことだという。
彼は道をてくてくと渡り、溝に落ちた。
流されていく先にあるのは、暗く恐ろしいトンネル。
そこに差し掛かろうかというとき、母が手を差し伸べ、彼は助かった。
「明確に覚えている」と彼は言う。
「水の冷たさ、トンネルの闇、その闇のかたち。怖かった。僕が闇に魅かれているのはそのせいだと思う」
村上がこの記憶を語るとき、私は既視感とともに心の中でくしゃみをするような気持ちを覚えた。
その記憶には聞いた覚えがある、いや、不思議なことにその記憶は自分の中にある、と感じた。
ずっとあとになって分かったことだが、私は確かにその記憶を持っていた。
村上は『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭の脇役に自分の記憶を写し込んでいたのだ。
村上を初めて訪問したのは、日本にしてもありえない夏の厳しさの最中、
週の真ん中、蒸し蒸しする午前中のことだった。
その結果、電力、公衆衛生、メディア、政治にも危機が到来した(当時の首相の辞職によって、5年間に5人目の首相が生まれることになった)。
大作『1Q84』の英語訳(そしてフランス語訳、スペイン語訳、ヘブライ語訳、ラトビア語訳、トルコ語訳、ドイツ語訳、ポルトガル語訳、スウェーデン語訳、チェコ語訳、ロシア語訳、カタルーニャ語訳)について話すためだった。
この本はアジアで数百万部を売り上げ、
まだ翻訳が出ていない言語圏ですらノーベル文学賞の噂が囁かれていた。
62歳にして30年のキャリアを持つ村上は、日本文学の最高峰としての地位を確かなものにしている。
疑いなく、彼は母国の表層とかたちを世界に伝える、想像世界の大使となった。
そのことは、関係者には非常に大きな驚きだったと言われている。
アメリカによる戦後占領を受けた1949年の京都、日本の前首都である。
「これ以上の文化混交の瞬間を見つけるのは難しい」と John W. Dower は1940年代後半の日本について書いている。
「これほど深く、予測不能で、曖昧で、混乱していて、刺激的なものは他にない」という。
「瞬間」を「フィクション」に置き換えてみれば、村上の作品を完璧に説明することができる。
彼の物語の基本構造は、互換性のない複数の世界に根を下ろした普通の人生であり、
そこは、さまざまな言語の喧騒に包まれた国際的な港湾都市である。
彼はアメリカ文化、とくにハードボイルド探偵小説とジャズに没頭して十代を過ごした。
二十代のはじめには大企業の序列に入り込む代わりに、髪を伸ばしヒゲを生やして、両親のすすめを押し切って結婚し、借金をして「ピーターキャット」というジャズクラブを東京で開いた。
掃除をして、音楽を聞いて、サンドイッチを作って、酒を注いで、
作家としての村上のキャリアの始まり方は、彼のあの作品スタイルそのものだった。
どこまでも普通の設定で始まり、どこからともなく神秘的な真実が主人公に降りかかり、その人生を根底から変えてしまう。
29歳の村上は地元の野球場の芝生でビールを飲みながら、デイヴ・ヒルトンというアメリカ人助っ人バッターが二塁打を打つのを見ていた。
平凡なヒットだったが、ボールが飛んでいくのを見て村上は天啓に打たれた。
そんな望みはそれまでなかったが、いまや圧倒的なまでだった。
そして彼は書いた。
数ヶ月のちに『風の歌を聞け』を書き上げた。
それは名もなき21歳の話し手が語る小さく凝縮された作品だったが、冒頭から村上らしさが見えていた。
アンニュイとエキゾチシズムの奇妙な混合。
わずか130ページで、その本は西洋文化をぶつ切りにして引用してみせた。
『名犬ラッシー』、『ミッキーマウス・クラブ』、『熱いトタン屋根の猫』、『カリフォルニア・ガールズ』、ベートーベン第三ピアノ交響曲、フランスの映画監督ロジェ・ヴァディム、ボブ・ディラン、マーヴィン・ゲイ、エルヴィス・プレスリー、『ピーナッツ』のウッドストック、サム・ペキンパー、ピーター・ポール&マリー。
以上はごく一部に過ぎない。
そしてその本には(少なくとも英語訳には)日本の芸術の引用がまったくない。
村上作品のこうした傾向は日本の批評家をしばしば苛立たせている。
そして一年後、ピンボール機を取り上げた次の小説を出したのち、執筆に時間のすべてを費やすため、ジャズクラブを畳んだ。
「時間のすべて」という言葉には、村上にとっては余人とは異なる意味がある。
30年を経て、彼は僧侶のように統制された生活を送っている。
すべてが作品を作り出すのを助けるように調整されている。
彼は毎日のように長距離を走り、泳ぎ、健康的な食生活を送り、夜9時には床につき、朝4時に起きる。
そして起床後5、6時間は机に向かい執筆に集中する(2時に起きることもあるという)。
「集中できないとき、人はあまり幸せではない。僕は考えるのが速くないけれど、何かに興味を持てば、それを何年も続けられる。退屈することはない。僕はヤカンのようなものだ。沸かすのに時間はかかるけれど、いつまでも熱い」
そうした日々の湯沸かしが続いていって、世界でも類まれな作品群ができあがった。
30年の歳月を経て積み重ねられたそれには人を虜にする不思議さがあり、様々なジャンル(SF、ファンタジー、リアリズム、ハードボイルド)と様々な文化(日本、アメリカ)をつなぐ位置にある穴を埋めている。
どんな作家にも、少なくともこれほど深くまでは、埋められなかった穴だ。
そして今、とりわげ激しく長い湯沸かしの結実として、もっとも長く、奇妙で、シリアスな本が上梓された。
彼は翻訳者を通して会話するのが嫌いだという。
なまりは強く、落ち着くべき箇所で動詞の活用が劇的に現れたり消えたりする。
とはいえ相互の理解に支障を来たすことはまずない。
特定の熟語("I guess" 「ではないか」、 "like that"「というような」)が、ときたまおかしな位置で使われることがある。
安全な言葉遣いから逸脱するのを楽しんでいる節が彼にはあった。
私たちは東京にある彼の事務所で席を持った。
数人のスタッフが靴を履かず他の部屋で作業をしている。
彼のキャラクターと同じように、アイロン掛けしたばかりのように見えるシャツだった(彼はアイロン掛けが好きだという)。
靴は履いていない。
彼はペンギンのある本の表紙を模したマグカップでブラックコーヒーを飲んだ。
その本とはレイモンド・チャンドラーの『ビッグスリープ』、彼の昔からのお気に入りの小説であり、今日本語訳をしている小説でもある。
話を始めながら、私はあらかじめ用意していた『1Q84』をテーブルの上に置いた。
その本は932ページあり、ほぼ30センチのその厚みは本格的な法律書を思わせるほどだ。
「大きいな」と村上は言った。
「電話帳みたいだ」
・ 登場人物がやたら多い。
1ページか、二ページそこらで、登場人物がやたら出てくる。本人の中ではしっかりとキャラクターが浮かんでいるのであるが、いざ書きだすとなかなか先に進まない。他人に読ませても「キャラクターの区別がつかない」とか言われる。他人をお話の中にすんなり引き入れるには、多くても主要キャラクターは三人か四人がベストでしょ。
・読み始めて、しばらくしても何についての話なのかよくわからない。
いきなり長編に取り掛かろうとする小説家志望にありがちなパターンである。ずーっと読んでいってもなんだかよく分からない主人公の日常が書かれてあるだけで、いつまでたっても事件が起きないのだ。セントラルクエスチョン(主人公は○○できるのか?)を提示するのが遅すぎる。遅くても10ページまでには何の話なのか提示しないと、読む方はあきてしまう可能性があるのだ。
・登場人物が画一的すぎる
女子高生が出てきたら女子高生の口調、オタクはオタクの口調や行動、ヤンキーはヤンキー、校長が出てきたら校長、婆が出てきたら婆、どれもこれも画一的で、その個人特有の人物造形ができていないのだ。女子高生だったらこんなことはしないだろうとか、ヤンキーはこんなこと言わないだろうかとか考えず、こいつ自身はどう動くかを考えるべき。
主人公が不安だと思ったときに、そのまま言葉で私は不安だと表現するのは簡単。
そうじゃなく描写で表すほうがいい。不安なら、「私の進む先に暗く淀んだ雲が漂っていた」これだけでいい。
・敵の底が浅い
これは、ダメな映画、小説、漫画すべてに言えるが、敵または悪役の底が浅すぎる。みんな似たり寄ったり、同じような口調や行動でありきたりこの上ない。書き手が主人公ばっかりに気持ちが入っていて、陰と陽の配分がなされていないのだ(不思議と悪役の存在感が薄い小説は、主人公も同じく薄いことが多い)
悪役を描くときは、どうせなら主人公より悪役の方に肩入れしてしまうくらい入念に丹精込めて造型しないと、濃密な戦いは生まれないぞ。主人公以上に、なにか独特の倫理観や、哲学を持ってないと魅力は出てこない。<リンク:共犯者 (新潮クライムファイル)>共犯者の関根元を見習ってくれ。
・退屈な生活をおくる主人公のもとに、都合良く謎の美少女が現れる。
導入で、ここまでうんざりさせられる展開は他にない。冒頭に退屈した主人公の日常が延々と描かれ、突如としてその生活に舞い降りた謎の美少女。これがラブストーリーとかになったりしたらもう最悪…。導入としてはすごくわかりやすくて、お話も運びやすいのはわかるがもう一つ何かひとひねりちょうだい!
自分の中に溜まった抽象的な[何か」を表現しました、と言う小説はたいがい、つまらない。こういう小説は冒頭にかならず自意識を垂れ流したような文章が長々と続き、ちょっと書いている本人が陶酔している。こういうのを描くのは、玄人向けというか、並外れた文章表現と客観性がないとなかなかうまくいかないのよ。最近芥川賞とった「きことわ」ぐらいのレベルなら別だけど。
なんかさらーっとしてて、自然とかそういう情景描写ばっかりの小説ってあるよね。たぶん自分の中では美しい情景が思い描けてると思うんだよ。でも他人ってそんなにあなたが感動したことに共感はしてくれないんだよ。よくありがちなのが自然と人間の死を対比させているパターンね。
・文章もテーマも立派なんだけど、全体的に大したことが起こらない、地味。
こういう小説が一番多い。文章もプロ並み、テーマも素晴らしい、でも地味なんだよってやつ。こういう人はとことん地味な話を書くべか、または自分が普段全く読まないような超エンタメ小説や劇薬小説などを買いあさって読んで、一度頭をフルチェンジしてみるのが一番ベストである。
・文章もテーマも立派だし、起こっていることもまぁまぁなんだけど、モチーフがありきたりで既視感がある。
そこらへんに転がってるような話だけじゃ駄目なんだよな。
海外の古い短編なんか読むと、こんなんでいいの!?って思うくらいシンプルなのもあるけど。それは昔の時代だから通用しただけのことであって、今の時代は「ひねり」をどんどん入れて、読者の意表をつかないと、すぐにあきられてしまう。じゃあ二転三転すればいいのかっていうとそういうわけでもないんだけど、読者を驚かせてやろうってぐらいのサービス精神がほしい。
俺は地方から大学をきっかけに東京へやってきた。で、大学を中退後、バイトをしながらふらふらと食いつないでいた。
地方にいたときはサブカル全般に対して強烈な飢餓感というのがあって、東京に行けばそれなりに面白い奴もいて、色々と見聞を深められるんじゃないか、という青臭い気持ちで出てきたこともあり、色々な人とも会ったりしていた。
何かしらのイベントがあれば飛んでいくし、講演会とかにも出席したりしていた。その甲斐あってか、そういう知り合いもたくさんできた。
最初の頃は、凄く楽しかったんだけど、段々と面白くなくなり始めた。というのも、どこへいっても既視感のある人しか関係がないからだ。どこへいっても、また同じような人間と関わりを持ってしまう。
そんなことも無いだろう、と気になってA3ノートに人間関係を整理してみると、見事に循環しているような図ができてしまった。自分も何度か恋愛沙汰があったけれども、それですら循環構造になっているのを知ってしまった。
さすがに自分の行動範囲や観測範囲が狭すぎることもあるんだろうし、あるいは興味が偏りすぎているから、同じような人間しか集まらない、という可能性もある。
仕方ないので、東京から出て地元に帰ることを考えている。あるいは暫く今の興味を離れて、他の興味を覚えたりする必要があるんだろうな。
そうしたら、またちゃんと楽しく接することができるようになるかもしれないし。
わかる。すごくよくわかる。私は高校中退してるんで更に低学歴。
中卒としては、大卒の人は知性にあふれていて欲しいんだけどね。
こっちは高校も卒業してないから、基礎的な教養すら持っていないというコンプレックスはかなりある。
自分より高学歴の人間と話していて、悪い意味でボキャブラリーの違いを感じると、かなりがっかりするのよ。そっち大学行っててどうして分からんのよ、と。(本来の意味でのFラン大学出身とかならまだしもさー)
http://anond.hatelabo.jp/20110728145323にある
・相対的
・既視感
・盲信
・懐疑的
これらが通じない大卒ってなんなの?
実際このなかの数個が通じなくて会話の中で説明したことあるんだけど大学でなにしてたの?
(抜かしたやつは意味を知りませんでした。中卒なので勘弁してください)
注:加筆修正しました
最近商業BL作品ばっかり読んでるから、たまにはネットで同人作品も読もうかなと思い立って、某ジャンルのサーチから二次創作サイト巡りをしていたときのこと。リンクを辿っていった先に、管理人が韓国人であることを明記しているBL小説サイトがあった。日本語ネイティブじゃないとこれはムリだろと思わせる豊かな語彙の小説や日記・掲示板の内容から判断するに留学生やニューカマーなどではなくて、日本で生まれ育った在日韓国人の方であるようだった。
なんかね、これちょっとびっくりしたんですよ。在日の人もBL書くんだなぁって。
いや、こんなにもアニメや漫画の氾濫する日本社会で生きている以上、日本人だろうが外国人だろうがオタク趣味に染まる人は染まるのが当然だろうし、中にはヤオイや二次創作に興味を持って腐女子や腐男子になる在日コリアンがいるってのも理性では理解しているんだけど。実際目にしてみると、なんかこう、感慨深いものがありましてね。
そうかー、在日のBL好きってのもやっぱりいるもんなんだなー、っていうか他にもいるけど明かしてないんだろうなー、としみじみしてたんですが、途中でふと思い出した。あれ、ちょっと待てよ?よく考えてみれば、数少ないながら今までにも在日韓国人が登場するBLがあったりするし、在日朝鮮人のBL作家というのもいたりするんじゃないの?そういえば私、そういうの読んだことあったような……、と。
というわけで、今回はBLと在日と私というテーマで今まで読んだ作品を振り返ってみようと思う。長いよー。私が以下で言及している作品には18禁のものもありますのでお気をつけください。
倉科るりというペンネームで、商業誌からBLを出版している小説家がいる。正確にはいた、と言うべきかもしれない。著作の中には絶版になっているものも多く、また1996年の『王様の夏休み』を最後に10年以上発刊はしていないようだから。公式サイトにも「倉科るりの商業活動は諸々の事情から不可能だと思います。時間がないのです。」と書いてあるので、今後も商業誌でBL作品を発表する可能性は限りなく低いと思う。
けれど、在日とBLというテーマを語るなら、彼女を外すことはできない。
実はこの作家さんは、コバルト文庫で金蓮花という名義で少女小説も書いている。むしろ金蓮花(きんれんか)というペンネームの方が世間的には通りがいいだろう。私も残念ながら倉科るり名義の本は読んだことがないけれど、金蓮花名義の本は小中学生の頃にわりと読んでいる。『銀葉亭茶話』、『水の都の物語』、『月の系譜』は何度も読み返すくらい好きだった。私が金蓮花=倉科るりというのを知ったのは大学生になってからだったけれど、BL読者やコバルト読者には結構有名な情報だったようで、ネットで検索するとペンネームを使い分けるようになった経緯や、その他もろもろの噂が出てくる。それらの噂がどこまで本当かわからないのでここでは紹介しない。
さて、金蓮花は1962年生まれの在日朝鮮人3世である。東京に生まれ育ち、大学も都内の小平市にある朝鮮大学師範教育学部美術科を卒業した。作家デビューは1994年、『銀葉亭茶話-金剛山綺譚-』で集英社の第23回コバルト・ノベル大賞を受賞したのがきっかけだった。この『銀葉亭茶話』シリーズは、朝鮮半島を舞台に仙人や精霊、竜や虎、人間たちが織り成す恋愛を描いた朝鮮風ファンタジー小説で、仙境にある一軒の茶屋銀葉亭にさまざまな客が訪れ、店主の李月流(り・うぉるりゅ)に身の上話を打ち明ける、という趣向になっている。
『金剛山綺譚』の金剛山は、もちろん朝鮮半島に実在する景勝地金剛山をさす。韓国人や外国人が北朝鮮国内の金剛山観光地区に観光をしに行くニュースを見たことのある人は多いはずだ。『銀葉亭茶話』シリーズの物語に登場する実在の固有名詞は地名だけではない。例えば『蕾姫綺譚』では重要なキャラクターとして李氏朝鮮建国の王李成桂が登場するし、『舞姫打鈴』のヒーローは新羅の英雄金庚信である。
ところで、学校で歴史を習う前に本シリーズを読んだ影響で、私は現在でも「新羅」という単語を見ると反射的に「しらぎ」ではなく「しるら」と読んでしまうし、「李成桂」を見ると「りせいけい」ではなく「りそんげ」と読んでしまう。私にとって、このシリーズこそが生まれて初めて触れた‘朝鮮文化’なのだった。馬鹿な子供だったので現役読者だった小学生の頃は朝鮮半島というのがどこにあるのか知らなかったし(私は当時本気で外国=アメリカであり、世界には日本とアメリカの二国しかないのだと思っていた)、儒教文化だとか在日朝鮮人だとかさっぱり理解できない上に興味もなかったので読み飛ばしていたけれど、雪華(そら)や明蘭(みょんらん)という美しい漢字と不思議な響きの名前、美味しそうなチヂミ、ふわりとチョゴリを広げて鞦韆をこぐ明朗な少女、霊山の天辺に位置する天池(ちょんじ)の聖水……どこか好奇心を刺激する異国のイメージの数々を私は大いに楽しんだのだった。特に金剛山の壮大な瀑布や峰々が鮮やかに染まる絢爛豪華な秋の描写などは、幼心にうっとりするような綺麗な文章だなぁとドキドキしながら読んでいた。金蓮花という作家のおかげで、私は隣国と幸福な出会い方をしたのではないかと思っている。そういう意味で、『銀葉亭茶話』は私にとって印象深いお話なのだった。
金蓮花自身にとっても、作家として第一歩を踏み出したシリーズであると同時に、祖国を舞台にしたロマンスであることを考えれば、『銀葉亭茶話』はやはり特別思い入れの深い作品なんじゃないだろうか。
彼女の著作のあとがきでは、自らのルーツを意識した話題が多い。北朝鮮に観光に行って金剛山の絶景に感動した話、伯母が北朝鮮に帰国した話、親戚が日本と北朝鮮と中国に住んでいるという話、子どもたちの通う朝鮮学校のお祭りのためPTAとして準備に奔走する話など。
そんな彼女がBL小説を書くときは、金蓮花ではなく倉科るりというペンネームを用いた。倉科るり名義の本では特に朝鮮半島と関連のある物語を書いたりはしていないようだ。少女小説のコバルト作家としての自分とをきっちり分けたかったのかもしれないし、儒教を尊ぶ在日コミュニティの価値観からするとさすがにBLを在日朝鮮人と明かしている金蓮花名義で出すのは難しかったのかもしれない。少女小説家としてデビューする際も家族からかなり強硬に反対されたと聞く。少女小説を書いているのがバレて家族会議で土下座までしたそうな。ましてやBLをや。
まぁ、BLを書くときと少女小説やラノベや一般漫画を書くときでペンネームを変えるのはbassoや秋月こお、榎田尤利もやっていることで、金蓮花に限った話ではないけれど、少女小説では在日ネタをふんだんに出していた人がBLではそれを一切出さないというのも興味深い話ではある。
ちなみに金蓮花名義の本に一切男性同士の恋愛や性愛が出てこないか、というとそういうわけでもない。
ここでちょっと萌え語りをさせてもらうと、『銀葉亭茶話』シリーズで私が一番好きなキャラクターは長白君(ちゃんべつくん)だった。彼は、朝鮮半島の付け根、北朝鮮と中国の国境にまたがる山(朝鮮語では白頭山、中国語では長白山)の守護仙人(精霊だったかもしれない)で、シリーズ通してのキーパーソンである李氏(注:男性)に想いを寄せている男性である。李氏に冷たく拒絶されたり、周囲の神仙たちに揶揄されたりしつつも、変わらず李氏に暖かい真心を捧げ続けている好漢なのだ。李氏には他に想い人がいるのでまず間違いなく長白君の恋が成就することはないのだろうが、私は彼の男らしい包容力にときめいたのでぜひ幸せになってもらいたいと思っている。別に相手は李氏じゃなくてもいいから。というか長白君には楓英とか緋鯉の精みたいな豪胆で誠実な男性とか似合うと思うんだよね。
studio may-beを結成して仕事をしている高城響と鷹匠早紀は、BLゲームや乙女ゲームのシナリオライターとして活動している他に、連名でBL小説を書いて出版したり、漫画の原作をしたりしている。音楽業界を舞台にしたBL小説『たぶん、きみが好き』『いつか、翼を広げて』『きっと、空も飛べる』という3冊がマイクロマガジン社から発行されたのは2004年のことだった。この3作は天才指揮者と男性アイドルのカップルを描いたお話なのだが、実は高城響と鷹匠早紀がやっているサイトに長年連載していた大長編小説『KT』を手直しして発表したものだという。
そのサイトの大長編(まだ完結していないらしい)には、脇役として若手の指揮者同士のカップルが登場する。彼らを主人公にした話もサイトには掲載されており、出会いと恋人になるまでを描く『'O sole mio』、体の関係を持つまでに至る続編『hard day's night』、いちゃいちゃらぶらぶしてる『jealous guy』などがある。珍しいことにこのカップルの攻めは在日コリアンである。
『'O sole mio』と『jealous guy』では、攻めが在日であることはストーリーの主軸にはほとんど絡んでこない。民族が違うということよりも同じ夢を抱く音楽家同士であることの方が、この物語の中では圧倒的に比重が大きいのだ。
しかし、『hard day's night』の中ではそれらしいエピソードが挿入されている。演奏会の予定が突如キャンセルされてしまった攻め。晴れがましい仕事を一つ失った原因を、受けに問われた攻めはしぶしぶこう語るのだった。「オレ、在日やん」。BLで、差別に直面する在日の姿が描かれているのは大変珍しい。そもそも在日としてのアイデンティティを持ったキャラクターが登場するBL自体ほとんど見かけないんだけどね。
ところで、この物語の攻めは、大阪出身で関西弁を喋る陽気な男性だ。大らかで人懐っこい。阪神タイガースファン。長身、ガタイが良くて、美男子ではないけれど、受けから見れば十分に魅力的な容貌をしている。そして新進気鋭の指揮者である。実際、読んでいて、彼は魅力的な人物として描かれているように思った。なんとなく関東生まれ関東育ちな自分からすると良い意味で典型的な関西人という印象を受けた。
神経質で繊細、あまり感情表現が得意ではない日本人の受けは、自分と正反対の気質の攻めに惹かれていく。自分にないものを持っている相手を反発心を抱きながらも愛してしまうパターンというのはわりと恋愛物の王道だが、受けが攻めの才能に嫉妬をして苦悩したり、振り切ってもついてくる攻めに苛立ったり、励まされたりと感情をぶつけ合ううちに自分の恋心を認めざるを得ない展開になるというのは微笑ましくて良かった。
BL小説家、檜原まり子の作品の一つに『マリンブルーは密やかに』という小説がある。2008年、講談社X文庫ホワイトハートから発行された。舞台はアジア・オセアニアクルーズ中の豪華客船。そこに乗り込んだ保険会社から委託を受けた調査員の受けと、元自衛官の攻めのラブストーリーだ。
正直なところ、この物語の一番興味深いところは、ストーリーなどよりも受けの両親だと思う。
受けの母親は日本人の医師だった。そして父親は在日韓国人の寿司職人。両親が渡米して、一家がカリフォルニアにいたとき受けは生まれた。医師免許が認められなかった母親は畑違いの仕事をして受けを育ててくれたらしい。後に離婚したようだが、受けの両親の話こそ読んでみたいと思った。寿司職人と女医さん夫婦米国滞在記なんていろいろ波乱万丈なドラマがあって面白そうじゃん。
というわけで、本作の受けは間違いなく在日韓国人の血をひいているのだが、特に在日とか韓国に関するエピソードは出てこない。受けが韓国語を喋ったりキムチを食べるシーンがあるわけでもない。彼が民族的なコミュニティや朝鮮半島に思いを巡らすシーンがあるわけでもない。冒頭、地の文でさらりと受けの生い立ちが説明されているだけで、その後はとくに彼が韓国系であることには触れないまま物語は終わるのだ。
なら別に受けが在日の血を引くキャラクターである意味ってないのでは?と思わないでもないけれど、まぁ深い意味がなきゃ在日がBLに出てはいけないってこともないし、これはこれでいいのかもしれない。なんと言ってもこの作品の舞台はいろいろな国籍のクルーが働く豪華客船なのだから。南太平洋を悠々と航海する船上のキャラクターにちょっとしたマージナルな要素を付与したいと作者が思うのもわかる気がする。船長の喜屋武も、受けと同様にマージナルな人物である。米軍勤務の軍人を父に持つ沖縄出身の男性で、金髪碧眼という日本人離れした容姿だが自らを日本人だと主張する。とても珍しい韓国系の受けや、沖縄と米軍というデリケートなバックグラウンドを持つキャラクターが登場するという点において、このお話はなかなか印象深かった。
『うつしみの花』は、幻冬舎リンクスロマンスから2008年に出版された全2巻のBL漫画である。作者はタカヒサ亨。舞台は飛鳥時代の日本で、有名どころでは葛城皇子(中大兄皇子)、皇極天皇、間人皇女などが登場する歴史ロマンBLである。ちなみに中大兄皇子と受けがキスする場面もあったりする。
主人公(受け)は、百済からの渡来人で金工職人である実父を持つ美少年。攻めは、受けの父親の弟弟子で、乃楽山(ならやま)の麓に住む百済系渡来人であり以前は都随一と呼ばれた腕を持つ金工職人だった。受けが攻めの弟子となるので職人師弟ものBLであると同時に、渡来人と渡来人の子孫が出会って恋に落ちる物語なのである。
職人の村で修行をする受けは、師匠であり恋人である攻め以外の渡来系の職人たちとも交流を持つようになり、技術を磨いていく。いつか攻めの故郷である百済に帰還することを夢見るようになるし、自分たちの存在は発展させ続けていく技術に拠って立つのだという強い自負心を持つに至る。彼らのアイデンティティは明確に百済系渡来人であることにあり、ヤマトにはないんだなーと読んでいて思った。
日本が舞台なのにあえて渡来人のカップルを描くなんて随分通好み(?)だなと思う。こういうのは珍しくて面白い試みだ。同時に、ちょっと私の中の日本人としての感覚が一抹の寂しさというか疎外感を感じなくもなかったような……。この記事のテーマである在日と古代日本の渡来人はちょっと違う存在なのでこの作品には簡単に触れるだけにとどめるけれど、思いがけずヤオイを読んでいて自らのナショナリズムが浮上したという点で本作は印象深い作品だった。私が気にしすぎなだけだけなんだろうけれどさ。
もちろん、健気で頑張り屋な受けとクールで格好良い攻めは萌えたし楽しめた。
ところで、作者のタカヒサ亨は、角髪(みずら)に萌えてこのお話を描いたらしい。わかるわー私もみずら萌えです。特に青年の下げみずら姿は可愛くて良い。不評でなかなか描かせてもらえなかったとのことだが、残念だ。もっと見たかったよー。
ハテブやツイッター、増田2ちゃんねるでコメント下さった方ありがとう。せっかくだし嬉しかったので、いくつかのコメントにお返事します。
恐縮です。ありがとう。
自分のブログではこういう記事を出したことがないのでうまく書けるかわからなかったし、書いたとしてもこの記事だけ場違い感がぷんぷんして浮き上がってしまうだろうと考え増田にしました。悲しいことですが、BLも在日も荒れやすい話題ですから。
私は金蓮花の初期の作品が好きでここ7~8年の著作は読んでないのですが、作品だけじゃなくて作家自身も本当に興味深いなと思ってその動向は注目しています。ラノベ界でも稀な在日外国人であることを明かしている作家さんですよね。まして日本と関係が良好でない国を祖国に持つ人ですから、日本社会で生きる彼女自身、悲しみや自負心を含め複雑な感情はあったんじゃないかなと想像しています。日朝首脳会談が開かれ拉致問題が発覚した2002年、この年に発売された『伽椰琴打鈴』を最後に、彼女の著作の中で一番‘朝鮮’を押し出している銀葉亭茶話シリーズが発行されていないというのは、偶然かもしれないけれどなんとなく象徴的に見えたり……。
確かに文化が違う、価値観や倫理観が異なっている、と強く感じる点はいくつかありましたね。面白いなと好ましく思う相違もあれば、モヤモヤする思いを抱える相違もありました。私の場合、女性の描かれ方や女性の置かれた立場というのが結構気になりました。『蝶々姫綺譚』で、女性が子を成さずに死ぬのは罪である、罰として死後の世界で償わなければならないという設定には、儒教をベースにしたファンタジーだとこうなっちゃうのか、とびっくりしたなぁ。日本や日本よりフェミニズムの強い欧米発のファンタジーじゃそういう設定ってないでしょう。まぁ、当時の価値観を反映させた設定であることが良いという考えもあるとは思いますが、現代女性としてはファンタジーとはいえその世界の女性は生き辛そうだなという感じたのも事実でした。
ネットで読める作品もるし書店や図書館に置いてある作品もあります。個人的に、興味や関心の度合いが在日>BLという人よりは、BL>在日の人の方が楽しめるとは思いますが。
全然関係ないけど、最近アメリカのスラッシュが翻訳されて日本の書店の店頭に並び始めましたよね。日本語で海外スラッシュが読める日が来ようとは思わなかった。嬉しい。
皆さんがどなたをイメージしているのか興味あるなー。私は弱小ブログを書いてますが、Twitterはやっていないんですよ。
韓国人は日本人よりも情熱的、確かにそういうイメージありますよね。こんな記事書いといて言うのもなんですが、家族友人知人に韓国人や在日の人っていないんで実際そうなのかはよく知らないけれど。
確かに作品が面白ければ作家は関係ないというのは仰る通り。私も普段は書き手には興味がないんですが、今回は冒頭で書いた某サイトにはなんだか妙に感慨深くなってしまいまして。
創作の中のマイノリティ、本当に興味深いですよね。読み専なので創作の苦しみは知らないのですが、創作物にマイノリティを登場させる際書き手さんはやっぱり慎重になるんだろうなぁ。セクシュアル・マイノリティが登場するBLは殊にそういう姿勢を求められているジャンルですし。常に政治的に正しいお行儀のよいBLである必要はないと思うけれど、読者が引くような差別的な描写が垂れ流しにされてるBLは読みたくないと思います。私はまだガチでがっつり民族問題を盛り込んだBLというのは読んだことがありません。今後もそんな作品は出ないんじゃないかなと思うし、たとえ出版されたとしても読みたいとは思わないかも、と考えています。娯楽作品には悲惨な差別とか貧困とかの要素は求めていない性質で、どちらかというとイチャイチャ、ドキドキ、ワクワク、エロエロ、アマアマ、ラブラブって感じのノリの方が好きなんですよ。なのでフレーバー的な登場のさせ方や特筆されるような描写がなくても私はOKなんですが、作家がまったくその問題の背景に無知ではキャラクターの魅力的な属性にはできないわけですしね。作家は10調べたことのうち1を書く(100調べたことのうち1を書く、だったかもしれない)と聞いたことがあります。BLを愛する者の一人として、そういうBL作家さんが今まで以上にたくさん出てくれるといいなぁと願っています。
正直なところ、何も感じなかった。
ボラバスで現地に到着すると、家屋が土台から吹っ飛んでいたり、半分もぎ取られて中が丸見えになっていたり、小川に自家用車が頭から突っ込んでひっくり返っていたり、瓦礫をひっくり返すとそこに在った生活の匂いを感じる日用品が大量に発掘されたりしたけど、俺は何も感じなかった。
行く前は、「現地に行くとやはりショックを受けたりするんだろうな」と思っていたので、かなり意外ではあった。同行したボランティアの人達は比較的ショックを受けていたようなので、単に俺が異常なのだろう。
結局のところ、外から来た俺には、津波が襲った場所に日常生活があった頃を知る由はないわけで、その地の現状に対して、自身に共感の情を呼び起こす事はなかなか難しい。
あとは、SFの見過ぎなのかもな、とも思う。瓦礫で埋まった町の光景を見た時、驚きよりも「既視感」の方が強かったのも事実だ。本物のアマゾンのジャングルを見た時に、「ディズニーランドのジャングルクルーズとそっくりだ」と思ってしまう、あの感覚。
であるので、地元の方が嗚咽を漏らしながら我々の作業に対して感謝の言葉をくれた時、かなり面食らった。もちろん、自分の作業に感謝してもらえるのはうれしいのだが、自分の中では「そこまでのことをした」実感が湧いていなかったので。実際のところ、バス一台に詰め込んだボランティアが半日作業したところで、片付けられるのはほんのわずかな面積に過ぎない。海岸沿いの小さな町から被災の跡を取り除くだけでも、その何十倍もの労働力が必要だろう。
しかし、その地元の方の涙は、我々の作業の成果に対するものではなかったんだろうな、と今は思う。憶測だけど、「自分達の町は見捨てられていない」と思ってくれたのではないか。
現地では、生活の基盤が根こそぎ破壊され、茫然自失して何も手に付かないまま、震災後の日々を送っている方々が多数いるのだと聞く。東北は地域共同体が根強い場所だというけど、逆に言えば外部との繋がりもそれほど強くないのだろう。自分達の生活の場が、自身の力で立て直せる範囲を遥かに超えた被害を受けた以上、「見捨てられたら終わりだ」というのははっきりと恐怖だろう。
「自分達のために外から人が駆けつけてくれること」。そのこと自体が、被災地の方々の救いになる部分はあるのだろうな、と感じた。
というわけで、「自分が行っても足を引っ張るだけなんじゃないか」と思って躊躇している人も、とりあえず行ってみるといいと思う。「ハンパな覚悟で被災地に乗り込むと迷惑だからやめろ」と脅かす人も多いが、最近は旅行会社が企画しているボランティアツアーが増えてきたので、そういうのに乗っかるといい。三大鉄則である「食べ物」「寝る場所」「移動手段」を確保する手間をかなり軽減できるので。
あ、装備だけはちゃんと情報収集してきちんと揃えるように。特に、踏み抜き防止加工の中敷きとかは、わりと入手難度が高いのでそのつもりで。
震災の影響で福島原発が爆発を起こし、甚大な放射能汚染を引き起こしている。
それまでの「絶対安心です」という宣伝文句は嘘だとわかり、その上に、万が一の事故への対策がほとんど取られていなかったことが暴露された。
そして、東電や政府の、事故後のあまりに不誠実な対応と嘘の上塗りに、私たちの原発への信頼は地に落ちた。
人々は不安に駆られている。
ところが、この段階に陥っても、まだ、
「原発は本来なら安心だ」
「東電幹部に人材が枯渇していた。原発自体の安全神話が崩壊したわけではない」
などと主張している人々がいる。
そして、原発をこれからも建設し、原発で発電を続けようと訴えている。
崩壊した神話にすがりついて、滑稽な主張を繰り返す、一流の専門知識を持った人々……。
デジャブ(既視感)だ。
なんだったっけ?
思い出そうとして思い出せないもどかしさ。
隔靴掻痒とはこのことだったが、つい先日、佐藤優の本をたまたま読んでいたときに思い出した。
「本来の社会主義は違う」
「ソ連経済が傾いていたときに、それを立て直す人材をたまたま得なかっただけ」
「資本主義の弊害は明らか。それを改めるためには、社会主義革命が絶対に必要だ」
理想がいくら高邁であろうと、それが地に落ちれば、人々は顧みない。
しかも、地に落ちたあとに知ったその実態はあまりにも醜悪だった。
恐怖による支配、ノーメンクラツーラの無法ぶり、嘘で塗り固められた報道、破綻した財政、ずさんな会社経営、環境汚染、人心の破壊、エイズの蔓延……崩壊した旧社会主義国の実態はおぞましいものであり、そして、世界は社会主義革命への幻想を捨てた。
原発も同じだ。
いったん事故が起こると、一県が壊滅状態になり、膨大な被災者が出ることが判明した。
加えて、日本は世界有数の地震大国であり、その周辺に、敵意と高度な軍事力を持った国を持つという特徴がある。
そのような危険な土地に、原発という危険な施設を建設すること自体、おかしな話だった。
しかし、事故が起こりさえしなければ、現実に目を背けていられた。
燃料となるウランを採掘するために、産出地の土壌が汚染され、採掘者や周辺の人々の健康に大きな悪影響を与えていること、
内部で働いている人々の被爆量管理がかなりいい加減であること(それは現在の作業員への扱いをみていてもよくわかる)、
つまり、弱い立場の人々を食い物にしないと、原発は存立し得ないということ、
全発電量に大きな割合を占めているといっているが、これはレトリックで、原発は発電量を調整できないので火力発電などを調整した結果だということ、
原発は地球温暖化を防止するというが、放出エネルギーの3分の1は発電に使われずに排熱として海水を温めており、結果、膨大な海水温の上昇に貢献していて、むしろ地球温暖化に貢献していること、
なにか起こって被害を受けても、責任者は責任逃れに終始し、責任を取るつもりがないこと、
核廃棄物をうまく処理する方法は確立されておらず、処理に莫大な費用が必要なため、時間が経てば立つほど、指数関数的に予算が増えていくこと等々……。
そして東電が、まるでソ連のKBGのように、情報を遮断し、われわれに真実を隠してきたことも。
わかればわかるほど、原子力発電というのは問題だらけじゃないか。
ソ連が崩壊したあとも、あの手この手で社会主義者たちは言い訳を繰り返す。
社会主義という思想自体は悪くないといい、それまで褒めたたえたくせに、旧社会主義国を罵倒し、そして、残り少なくなった社会主義国へすがりつき、ようやく命脈を保っている。
管理技術レベルが未熟な国家でも、原子力発電所建設計画が数多く進められている
自然災害か人災かどちらかが原因で、甚大な原発事故が、近いうちに世界のどこかでもう一度、起こるだろう。
確実に向かう。
日本は、その尖兵となっただけなのだ。
事故が一度起これば、その被害が甚大なものであることがこれだけ証明された以上、脱原発は、世界の流れになるのだ。
「原発は安心なのだ」
と、性懲りも無く、題目のように繰り返しているに違いない。
中学1年の7月のことだった。私が朝学校に行くと、仲良しだった子が近づいてきて唐突にこう言った。「もう、ごずっちと口きけないんだ」 意味が分からなかった。転校でもするのかと尋ねても違うと首を振る。「もう決まったことだから。じゃあ頑張って」 そう言って彼女は去っていった。
彼女の言葉は少なくて詳しい事情はまるで分からなかったが、悪い予感のようなものがあった。これはもしかしてあれじゃないか。どうしようどうしよう。背中を冷たい汗が伝うのを感じていた。教室へ向かう階段を登りながら、もうこのままずっと教室に着かないで欲しいと思った。知るのが怖かったのだ。
教室のドアの前に立った私は蒼白だったと思う。頭の中に色んな想像が駆け巡り、手のひらはじっとりと汗ばんでいた。ひざも少し震えていた。私は意を決して教室のドアを開ける。いつもと変わらない教室。でも私が入った瞬間、少しだけ空気が変わるのが分かった。スタートと悪魔がせせら笑った気がした。
私はいつも通り「おはよー」と声をかける。だが挨拶は返ってこない。私の存在を無視してみんなはおしゃべりを続ける。目さえ合わせようとしない。女子も男子も私がいないかのように振る舞っている。私は深く息を吐いた。泣いて騒ぎ出しそうな気持ちを必死で鎮めようとしたのだ。
昨日まで楽しかった学校が拷問のように感じられた。誰からも話しかけられない。こちらから話かけても無視されてしまう。なぜ私なのだろう。何遍も考えてみたけど思い当たる節はなかった。実際のところ大した理由もないのだろう。何となく選ばれ何となく無視されているのだ。
私はこの状況をできるだけ軽い感じで受け入れようとした。これは思春期の少年少女にありがちな他愛のないお遊びなんだ。こういうときは慌てず騒がず嵐が過ぎるのを待てばいい。恐らく長くても半年がせいぜいだろう。2年になればクラス替えもある。ちょろいちょろい。当時の私はそんな風に考えていた。
無視は1年生の間ずっと続いた。正直少し長いなと感じていたが、無視はあくまでクラス内だけの話で、他のクラスの子や部活内では普通に話をしていたので、思ったより辛くはなかった。学校は勉強をする場所だと割り切ればどうということもなく、そんな自分の強さに少し驚いてもいた。
2年生になる際にクラス替えがあった。掲示されたクラス割を見ると、1年の時同じクラスだった子は4人だった。それも大人しそうな子ばかり。私はほっと胸をなでおろした。慣れてきたとは言え、無視されるのはやはり心地良いものではない。私は解放感を胸に新しい教室へと向かった。
私は教室に入った瞬間、既視感を覚えた。空気の流れや重さが変わる感じ。暗黙の了解に支配された教室。それは9ヶ月前と同じだった。私は自分の席に着いて隣の子に話しかけた。「おはよー。私ごずって言います。よろしくね」 隣の子は目を逸らした。私は四方に話かけたが全員同じ反応だった。
血の気が一気に引くのが分かった。寒くもないのに体が震えていた。何なのこれ。怖い。怖いよ。早く教室から逃げ出したい。家に帰ってベッドに入って布団を頭からかぶって、世界からの情報を一切遮断したい。そんな気分だった。でも私は動けなかった。覚悟?諦め?違うよ。怖くて悲しかったんだ。
無視は一体いつまで続くのだろうか。2年生は修学旅行をはじめ色んな行事がある。中学生活を謳歌し思い出を作るにはうってつけの学年だ。それなのに初日から無視の洗礼だ。私は肩を落としながら部室へと向かった。部活だけが私のオアシスだ。もし部活が無ければ私は登校拒否を選んでいたかもしれない。
オアシスは見るも無残に踏み荒らされていた。3年生を除いた1-2年生部員が私を無視し始めたのだ。このときの絶望は筆舌に尽くしがたい。もう学校に私の居場所はなくなってしまった。その日を境に私は部活に行かなくなった。
家に帰ってから枕に顔をうずめオンオン泣いた。枕カバーが涙とよだれと鼻水でべちょべちょになっても泣き続けた。夕食のとき目を真っ赤に腫らしていたら、お母さんが心配して「目どうした?泣いたの?学校で何かあった?」と聞いてきた。実は1年生の頃から無視されているんだなんてとても言えない。
「泣く練習してたんだ。演劇部に転部しようと思って」と私は苦し紛れの嘘をついた。お母さんは「そう…何かあったら相談しなよ」と言ってそれ以上何も聞かなかった。これは私の問題だ。お母さんを巻き込むわけにはいかない。登校拒否だって絶対するもんか。私はそう固く決意した。
私は1日も休まず学校に通った。行事があるたびに孤立していたので、担任から「牛頭さん、クラスのみんなと仲良くやってる?」と探りを入れられたが、「大丈夫です」と突っぱねた。一方で私は毎日誰かしらに話しかけるようにしていた。どこかに突破口のきっかけがあるはずだと信じていたのだ。
突破口などなかった。私とクラスメイトの間にはマジックミラーがあるのではと思うほど無視は徹底していた。正直頭がおかしくなりそうだった。何度も登校拒否を考えた。転校も考えた。でも私は何も悪いことはしていない。逃げるような真似はしたくない。無視する連中に人生を左右されたくないと思った。
恐らく3年生になってクラス替えがあっても無視は続くのだろう。そう確信した私は中学を見限り、進学する高校を考えることにした。担任に頼んでうちの中学からの進学者が少ない高校をリストアップしてもらった。どこも私の学力では難しい学校ばかりだったが、毎日の目標ができて私は嬉しかった。
それからというもの、勉強を聞くために職員室に足を運ぶことが多くなった。どの教科の先生も私の質問に快く応じてくれた。時たま内緒だぞと言ってお菓子をくれる先生もいた。考えてみればそれはごく普通のことなのだけど、 1年半以上も普通の反応をもらえない私にはそれがとても新鮮に思えた。
3年生になってクラス替えがあった。半ば覚悟していたが予想どおり無視されたときは思わず笑ってしまった。ひとり笑う私をクラスメイトは不思議そうな目で眺めている。だから私は大声で叫んでやった。「無視生活3年目!落ち込んだりもしたけれど私は元気です!」 最高に気持ち良かった。
3年生になると周りが受験モードに移るので、以前ほど孤立は気にならなくなった。休み時間に勉強したり、図書室で勉強したりする人の姿も増えてきた。その頃、私は職員室の常連になっていて、放課後は先生達とコーヒーを飲むことさえあった。先生はみんな私に優しかった。
年が明け受験シーズンに入った。滑り止めの私立高校は受かっていたが、そこはうちの中学からの進学者がそこそこ多い。絶対に行きたくはなかった。本命の公立高校は共学でレベルがやや高い。先生からは「ボーダーだからランクを下げた方がいい」と言われていたが、私が受験校を変えることはなかった。
合格発表はお母さんと見に行った。高校は受験生と報道陣で混み合っていた。私は人波の隙間から自分の番号を探した。するとお母さんが先に見つけて「あった!あったよ!」と騒ぎ始めた。私は「もー!自分で見つけたかったのにー」と言いながらも、お母さんに抱きついて一緒に喜びを分かち合った。
私もお母さんも笑顔で車に乗り込んだ。でも運転席のお母さんが「お祝いに何か食べて帰ろうか」と言った瞬間、私は感情が抑えきれなくなり、声を上げて泣き出してしまった。助手席で嗚咽を漏らす私の背中をお母さんが優しくさすってくれた。そこで私の感情のダムは決壊した。
気づくと私は今までのことを洗いざらいお母さんに話し始めていた。話すにつれ、お母さんの顔は驚きから困惑に変わり、さらに悲哀を帯び、最後は私と同じ泣き顔になった。お母さんは何度も私にごめんねと侘び、私も同じようにお母さんにごめんねと言い続けた。お母さんは痛いくらい抱きしめてくれた。
その後、私は学校に行き担任に合格を伝えた。あと一番気になっていたことを聞いた。「私以外の合格者は何人ですか?」「男子が4人で女子が牛頭も含めて3人だな」 念のため名前も聞いたが、同じクラスになったことがない人ばかりだった。もう大丈夫だ。これでもうお母さんを泣かせなくてすむ。
卒業式は何の感慨もわかなかった。私の卒業式は合格発表の日、あの車内で終わっていたからだ。式が終わって教室に戻ると、クラスメイトはアルバムに寄せ書きをしたり写真を撮り始めた。その様子を尻目に私はさっさと教室を後にした。私に声をかける人はいなかった。
下駄箱で靴を履いていると「牛頭さん」と声をかけられた。1年生のとき私に「もう、ごずっちと口きけないんだ」 と言った子だった。この期に及んで私に一体何の用だろうかと思っていると、彼女は「あのね…ごめんね」と言った。なぜかその言葉で、私とお母さんが流した涙が汚されたような気がした。
「ごめんねってそれあんたの自己満足でしょ!自分が後腐れなく卒業したいからって今更ごめんねは無いでしょ!こっちはようやく解放されたのに最後の最後で味噌つけないでよ!」 私は思い切り啖呵を切って、走るようにその場を後にした。
帰り際、校庭脇の焼却炉に卒業アルバムを投げ込んで、私の中学校生活は幕を閉じた。…なお、高校に入学してから10ヶ月近く経つが、無視されることもなく、バカな友達に囲まれ毎日楽しく過ごしている。おしまい。
横から見ててあんたの意見にようやく胸につかえていたものが取れた。
なんかものすごい既視感があったんだ。
ヲタ臭い上に少しマニアックな話になるが、暫らく前に「まおゆう(略称だが、知らないならググればこのキーワードでも出てくる)」ってスレ創作SSがあったんだよ。
ドラクエの世界をベースにしたらしい魔王と勇者の話なんだけど、実際は経済の話中心なのな。
今までの史実にある経済の発展や流れなんかをデフォルメ・圧縮して物語の大筋に組み込んでるっていう。
それを見た中に大きく分けて二つの反応があったんだよ。
当然だけど。
更にその中でもまた二つに分かれてる。
「面白い:あくまでフィクションとして」「面白い:リアルだ、実際の史実に基づいてる」
「つまらん:好みじゃない」「つまらん:リアルじゃない、省略されすぎて嘘だらけ」
で、「面白い」って言ってる連中に「つまらん:リアルじゃない、省略されすぎて嘘だらけ」って言ってる奴らがあれこれと史実との比較を例に挙げて難癖つけたわけよ。
「どこがリアルだ、俺の言っているこれが真実だ。あれはうそっぱちだ」って。
ここまでで俺の言いたいこと分かるかな。
投下された話のネタ(テーマと言い換えていい)に関して盛り上がってる連中に、「そこ違う」「こんな話をリアルと思ってんの?」ってズレたこと言って、それをイコール「面白くないだろ」って結論に結び付けようとしてんだから。
よくあるだろ、斜に構えて人が楽しんでるところに水差す奴。
糞つまんねー白けさせかたしてくれるのは、話のネタの出所よりお前自身だよ、っていう。
それと全く同じだとようやく合点がいった。
以前に増田で「家族に見切りをつけた」(だったかな)を書いた、高齢独身姉の増田です。
結局、あれ以来連絡を取っていなかったんだけれども、とある事情でやむなく電話した。
そしたら「とにかく一度実家に来い、絶対来い、なんなら迎えに行く」と言われた。
おそらくまた「金よこせ」か「妹+子供引き取れ」か、その両方だと思うんだよね。
とりあえずその日は断ったし、伝えることはちゃんと伝えたので、こちらの用事は終わったんだけど。
それ以来毎日親と妹が交代で連絡を入れてくる。携帯は着信拒否をしているので、家電にかけてくる。
10月末にこちらから連絡してから、かれこれ2週間。そろそろうんざりしてきた。
昨日はわざと留守番電話をセットしないで外出したんだけど、そしたらポストにお手紙が入ってたw
片道でも車で1時間または電車で2時間の距離なのに、わざわざおいでになったらしい。
その無駄な行動力を労働してお金をいただく方向に生かせよwww
というわけで、増田でちょっと聞いてみたい。連絡が来なくなるような方法はないだろうか。
もううんざりなんだよねぇ。
続報。最初にリンクを張っていたYouTubeの画像は削除された。著作権違反か何かで通報されたのかもしれない。ただ、英語字幕が付けられた動画が改めてアップされているので実態は変わらず。
http://www.youtube.com/watch?v=mPz0TAPJqGU
ちなみに日本時間30日の午前零時過ぎで再生数は約2万5000、地域はフランスがメーンで、他にも北米や日本、欧州の一部地域の閲覧が多い。
面白いのはレーティングだ。Likesを付けた視聴者47人に対し、Dislikesは203人とかなり多数がこの動画を批判している。コメントも全体に批判している声が目立つ。どうやらこの話題に関してはフランスでも「テレビvsネット」の構図になっているようだ。これまた初音ミクが出てきた当初の日本と似ている。人間はどこにいてもあまり変わらないのだろう。
同じく「どの国も変わらないな」と思わせるのが、ある英語掲示板。
http://www.sankakucomplex.com/2010/10/29/french-tv-pans-miku-shes-atrocious/
アフィリエイトを見ても分かるように海外のHentaiなOtakuの巣窟と思われるが、テレビのコメンテーターであった女性のFacebookアカウントやらblogのアドレスやらを貼り付けているヤツがいる。要するに「炎上させろ」と煽っている訳だ。実に既視感あふれる光景である。
まずさっきから言ってる「布団の中でどうこう」って言うのは別の人と君の話だから区別を付けてくれ。
ツリーの分岐が明らかに違うだろう。
没個性だの周回遅れだの、クソみたいな用語の使い方から煽り方まで全てが既視感。自分の意見を書けなんて言うやつの程度がこれw
だから言ってるじゃん
君はすげーーーー没個性の周回遅れのよくいるありふれた中2病だ、って。
それを諭してする説教が個性的で斬新な文章になるわけねーだろ。
この種のやりとりって多分人類3000年以上やってるわけだし
君も社会のどっかで見たこともある筈だよ。
ただ自分の身になると客観的になれないというだけで。
うおおい!
マジでこれだけは、悪いことは言わないぞ。
君がすげー規格外の天才であるならそこから飛び出す選択肢もあるけど
それは脳が劣ってるとかじゃなくて単純に最低限の知識や勉強が足りてないから。
バカやってないで学校行け。本当に。
「ある弱小野球部が、甲子園を目指すことになる。上手い選手はピッチャー1人だけ。残りの選手は一見カスだが、ある者は家が金持ちなので、練習場所や特注のバットを提供する。ある者は実はコンピュータの天才で、パソコンで戦術をシミュレーションする。ある者は心理戦に長けていて大人たちを懐柔する。陸上部からの助っ人は、まともに打てないが駆け足だけはべらぼうに早く、非現実的な盗塁をやってのける。そんな感じで全員が協力し、見事県大会で優勝する」
上の話は今適当に考えたものだが、強烈な既視感を覚えないだろうか。恐らくこのような物語は過去、何十作品、何百作品、下手すると何千作品と存在する。「それぞれがそれぞれのポジションで頑張って目標を成し遂げる」話は、超王道なのだ。
サマーウォーズも例に違わず、この王道パターンを踏襲した話である。ある者は数学で、ある者は花札で、ある者は格ゲーの腕で戦って敵を倒す話である。なので、全体の骨格について批判するのは賢いとは言えない。サマーウォーズの骨格を否定するならば、スポーツ漫画、バトル漫画の過半数も否定しなければダメだ。
では次に検討の対象になるのは、肉付けの部分だ。サマーウォーズの肉付けの特徴は、次の2点である。
1は今日既に珍しいものではない。マトリックス以降、サーバーパンクはもはや王道ジャンルの1つである。
2はどうだろう。実はこれ、珍しいんじゃないだろうか。ほとんどの協力バトル物語では、仲間は部活のメンバーだったり、クラスメイトだったり、軍隊や会社の一部門であったりする。「田舎の大家族」設定は、サマーウォーズ独自のものと言って良いだろう。
では、この設定は本作において生かされているだろうか。答えはYESだ。「部活メンバー」や「クラスメイト」設定に比べて、年齢も職業も違う家族のほうが能力のバリエーションがつけやすい。より多角的な戦い方が出来る。その分散漫に鳴りやすいという欠点はあるものの、試みは一応成功している。
というわけで、僕のサマーウォーズの評価は、「協力バトルものという王道の物語を、田舎の大家族という設定で味付けした、無難で普通に面白いアニメ」である。特別斬新な試みがあるわけではないが、disる要素もない。
サマーウォーズを楽しんで観ている層は、情弱でもないしオタクでもない。普通に面白い作品を普通に面白がりたいという、ごく普通の人たちである。叩いている層は、このアニメにエヴァのような何かを求めていたのではないだろうか。それは完全にお門違いである。サマーウォーズはエヴァではなく、むしろドラえもんである。
今日はうちの近所の小学校が運動会でその声と音楽で目ぇ覚めたんだ。
最悪。
うんざりしながらPC立ち上げて作業用BGM聴きながらネット麻雀やったのが10時。
だらだらしているうちに12時になった。
勉強道具持って。
そしたらそこに露出狂のjkがいたんだ。彼氏と話してたけど足こっちにむけてた。
パンチラってレベルじゃなかった。なんかちょっと肉がはみ出てた。
だけどマスクしてたし、特に綺麗な足でもなかったから目のやり場には困らなかった。
それに背をむけるのもちょっとあれだよね。
そしたらなんか店員さんに彼女ら注意されてた。
それで二人ともいなくなって静かになって
(ずっと音楽は聴いてたから関係ないけど)
充実感はあるんだけど、既視感ある充実感なんだ。
浪人時代にいやってほど味わったやつ。
それで帰りにgantzの28巻買って読んだ。
あれ僕の一日ってこれだけ?
不思議なのは、面白くもないフラッシュゲーム延々とやっているとき。
本当に屑だよね。時間の使い方下手すぎだ。
数ヶ月前にもここに書かなかった?
何かすごい既視感を覚える。
文章も、文の構造も、内容も。
実は最初の投稿じゃないでしょ。
ヒーターの電源をONにして、ベッドの上で藤子不二雄の「まんが道」を読む。手を伸ばせば届く場所にはパイの実とアイスコーヒーがある。今日中に8巻までは読む。時間はいくらでもある。昼まで漫画を読み続けて、それから好きなだけ寝るつもりだ。
先月会社を辞めた。上司が体育会系でパワハラが辛かったとか、細かいことをねちねちと言われたとか、残業代が付かなかったとか、休みが全然なかったとか、理由を問われるといくらでも答えるが、本音を言うと「早起きして会社なんか、行きたくねえ。俺のペースでゆっくりさせろ」というところだ。
好きな時間に起き、本棚に並べられた、買ったは良いけれどなかなか読む時間がなかった本を読み始めたり、近くに定食を食べに行ったり、テレビを見たりする。晴れていて、かつ気分が良ければ自転車で浅草まで行ったりもする。なにはともあれ、時間の何もかもが好きに使えるっていうことは、良いことだ。
「空白期間が長いと再就職に不利だよ」だとか「何もすることがないのなら、TOEICの勉強でもしたら」だとか、うるさい奴らもいるけれど、俺はいま、この生活が最高で、それをずっと保っていたい。放って置いておくれやす。
新卒採用で入った会社を5ヶ月で辞めたから、失業保険はもらえない。12月のボーナスも貰えなかったから、貯金は50万しかない。その事を考えると、とたんにさっきの威勢がなくなる。
俺はこのままの暮らしをずっとやっていきたいのに、世界は俺の頭の中とは全然違う。俺の出したいスピードよりもずっと早い速度で世界は動いていく。俺みたいに速度に乗れなかった奴はどうすりゃいいんだろう。社会的立場、ゼロ。発言権、無し。
石原慎太郎とか田中康夫とか村上龍みたいな、時代の代弁者、新しい俺たちの代表、早く現れないかなあ。
俺みたいに考えている若者、いっぱいいるはずだ。目が覚めたら起きて、眠くなったら布団に入って、金が欲しい時だけチョッコっと働いて、だらーっと好きなことして。暇だから漫画や小説を書き始めたりするけれど、別に賞に応募するわけでもなく。編集者に見せに言って「商品にならない」なんて言われて嫌な思いするよりは、ミクシーでともだちだけに公開して。そんな風にぬるく生きていきたいんだってゆーの。
ニート支援だとか、フリーター対策だとか、馬鹿か。いちいち気にさわる。年寄りが自分の理解出来ない価値観に拒絶しているだけにしか見えない。俺からしてみたら、こんなに快適な生活はないのに。時代劇で一番のんきに見えるのは「ご隠居」だっていうことだ。刀を振り回して世直しなんて、苦労が多すぎてちょっと無理。
俺の父親は、朝5時に起きて、犬を散歩させ、朝ごはんを食べるとバスに乗って会社に行く生活をもう30年以上続けている。夜は8時くらいに帰宅して、夕飯を食べて、テレビを見てから11時半に就寝。木曜日だけは、会社の帰りにテニススクールに行くから帰りが遅くなる。
そんな生活のサイクルをずっと続けている父親が金を稼いできて、俺はそのお陰で大学を出た。一年間の留学まで体験させてくれた。俺はそんな父親に感謝しているし、深い愛も感じる。実家に帰り久しぶりに家族に会うと、犬がいて母がいて父がいて弟がいる。俺はごく自然に、この家族が好きだと思う。
それでも、俺には朝5時に起きて毎日同じ電車に乗って会社に行く生活は出来なかった。なんだってそんなキツイ思いをしなければならないのだ。それをしなくても、生きていけるのに。自分ひとりは。
今になっていう事で腹を立てたりしないでもらいたいけれど、子供の頃からさんざん言われていた「良い大学を出て良い会社に勤めるのだ」という主張を、俺らは、半ば冗談半分にしか聞いていなかった。俺たちが子供の頃に流れていたニュース。「良い会社」で何人もの人間がリストラに合っている光景や、良い会社がぶっ潰れた記者会見を、俺たちがまさか見ていなかったとでも思っているのだろうか。あるいは、見ていても理解出来ていないとでも…。そう簡単に騙されやしないよ。
「いま、人生いい感じだなあ」と思っている人間が一体どれくらいいるのだろうかと考えたときに、不思議な感覚に陥った。俺らの親の世代はわりとそういうことを思っているだろう。子が育ち、自分たちも労働からそろそろ開放されようとしている。これからは好きなことをして生きて行くことが出来る。
けれど、俺たちの世代の人間で「いい感じだ」思っている人間は殆どいない。そして、俺たちには「いい感じ」を待つためにこの先何十年も待とうという得体の知れない忍耐力は、ない。それは俺が俺の世代だからわかることだ。この先の長い年月をじっと待ったところで、俺たちが「いい感じ」になる可能性がひどく少ないと、いくらなんでも、もう誰だって分かっているのだ。会社に守られるなんていう幻想はまず真っ先になくなったし、日本がこの先強い国力を持って福祉が充実するなんてことも、どうしたら信じられるだろう。
一人ひとりが強く生き抜くことしか残されていないのだと思っていたら、今度は友愛だとかなんとか。振り回されるこっちの身にもなってもらいたい。もしお前が本当に「友愛」だとかなんとかいうのであれば、しっかりやれよ。いいか。しっかり友愛するんだよ。と叱咤激励したところで友愛は絶対に成立しないことが分かっているこの既視感。いい加減、俺たちはそういうやり方にうんざりしている。サバイバルでも友愛でもどっちでも良い。それは、俺たちが決める。というのが俺たちの世代の考えだけれど、そういうとまた「ゆとり」だのなんだのと年寄りに悪口を言われるのが関の山。そうなりゃ自然、家に引篭もりますって。家にひきこもって、時折バイトでもして、気楽に暮らします。
年寄りの悪口も、政治家の嘘も、もうどうでも良い。おまえらはおまえらでがんばれ、俺たちは、俺たちで各自ひきこもって勝手にやるよ。頭しぼって不老所得で気楽に暮らす。最高じゃないか。何が悪いのか全く分からない。いずれ沈没の船に乗り込んで一生懸命延命考えている奴らの気がしれん。ヒャッハ。