はてなキーワード: 言語ゲームとは
政治とは暴力の無い戦争だ。ウィトゲンシュタインが言うところの言語ゲームの世界だ。
だから、はたから見ると意味不明なやり取りに思えることが多々ある。
戦後、自民党はほとんど選挙で勝ってきた。そして、保守という立場上、横綱相撲をしている。野党の攻撃に対してもあまり反撃をしない。
なので、自民党に不祥事やスキャンダルが出ると途端に弱くなる。そして、不祥事が続くと政権交代の危機になる。これは歴史が証明してる。
もう一度言うが、政治は言語ゲームだ。受け身の横綱相撲を続けていると致命的になる。
そこで有効になってくるのが、政権与党・保守にも関わらず野党の攻撃に対して過剰に反撃するという手法だ。この手法を使うと絶大な人気が出て長期政権になりやすい。
↓なんかchatgptっぽくね?
ゲーデルの第1不完全性定理は、形式的な論理体系内での数学の特定の命題に関して「証明できない」ということを示しています。この定理によれば、ある論理体系内で自己言及的な命題を含む場合、その命題が真か偽かを証明することはできないということを意味します。
つまり、ゲーデルの第1不完全性定理は、「この命題は証明できない」という命題を考えた場合、それが真か偽かを判断できないことを指摘しています。したがって、特定の命題が「証明できない」ということは、その命題が現実には真か偽かになっているかどうかを示すものではありません。
ゲーデルの第1不完全性定理は、形式的な論理体系の限界を示すものであり、数学や論理学の基本的な性質を理解する上で重要な結果です。しかし、この定理が特定の命題の真偽を示すものではないため、その命題が現実に真か偽かを判断するためには、他の手段や情報が必要です。
ウィトゲンシュタインの思想とゲーデルの不完全性定理には、いくつかの類似点があるかもしれません、それぞれ異なる観点から論理と数学にアプローチしています。
ウィトゲンシュタインの「論理空間」の概念は、言語や記号による表現の枠組みや制約を強調し、言語や論理の限界について考察しています。彼は「言語ゲーム」という概念を導入し、言葉や文脈の中での意味の理解に注目しました。ウィトゲンシュタインの主張は、言語や論理の使用が特定の文脈やルールに従って行われることを強調し、その文脈やルールから外れた場合、意味が崩壊する可能性があるというものです。
一方、ゲーデルの不完全性定理は、数学的な形式的論理体系に焦点を当て、その体系内での命題と証明可能性について論じました。この定理は、特定の命題がその論理体系内で証明できないことを示し、論理体系の限界を示唆しています。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13286033693
空気を読むとかその場限りの言語ゲームなんて簡単すぎてつまらない
それができるってだけで自分たちが健常者だと思い込んでる、それ以上踏み込んだことを何も生産できない頭の悪い落ちこぼれの集団と会話するの苦痛すぎる
自尊心はまだない。
何でも小学校の頃からイジメられていて死にたい死にたい言っていたことだけは記憶している。
他人の言った言葉をなんとなく真似て組み換えてきただけで、未だに他人が何をどういう意味で喋っていてどう考えているのかが分からない。
ウィトゲンシュタインはコミュニケーションとは子供の玉蹴り遊びの延長であり、その場その場で生まれてきたルールが連綿と連なってきたものにすぎないと語っていたとツイッターで誰かが言っていたように思う。
まさに私が苦手としているのはそのような、持って生まれついた世間一般的な共感能力と空気を読む力によって、その場に発生するルールの力場を正しく掴んでいく言語ゲームなる遊びそのものなのだ。
一流の声優は「あ」という言葉で100通りの表現ができると言うが、私はそういう人間のコミュニケーションの曖昧さが本当にもう耐えられない。
明確で論理的で常に同じ意味で言葉が扱われることは、法律の世界においてさえ存在せず、裁判所で弁護士や裁判官がアレコレ言い合った挙げ句に出てくる判決などの中でさえ、アレヤコレやの曖昧なものがその場限りの意味と解釈を持って無数に絡み合っていると知った時は、もうこの世界には私の居場所なんて本当にないのだと絶望したものだ。
私からすればマインスイーパーの最後の数クリックのように50:50の運任せになってしまったようにしか見えない状況を、別の人間から見れば明白に99:1でほぼ正解と言えるほうが当てられるらしいというのだから恐ろしい。
恐ろしいのは、その99:1が出来る人間の割合が95:5の95の方であって、私のような人間こそが異常として扱われていることだ。
いつからそのことに気づいていたのか分からないが、なんとなく分かっていて、でもそれが未だに確信を持ちきれない所がある。
彩度いっぱいに5色で塗り分けられているはずの戦隊ヒーローの何人かが誤差でしかない状態を幼少期から強いられてきて、それを当たり前だと感じた人間は、その僅かな誤差を見出して必死に見分けている状態が実は異常であるを薄々勘づきながらも確証を持てず、その病名と共に他者との違いを伝えられてもそれを認知することが出来ないのだ。
犬笛の音を聞き分けられないことを「そんなはんずがないだろう」と誰かに言われたら、何回までその言葉に耐えられるだろうか?
ふざけているわけではない。
色盲にとっての戦隊―ヒーローであり、人間にとっての犬笛であるものが、私にとって人の語る言葉の機微なのである。
これはもう大変に厳しいことだ。
きっとこの文章を読んでいる人は「そうは言うが君はちゃんと文字をかけているではないか。それなのに言葉がわからないんなんていうことがあるのかね?」と思うだろう。
私だってそう思う。
だが分かっているつもりで分かっていないようなのだ。
これはもう自覚のないアンドロイドがある日チューリングテストにかけられて「貴方は実は人間ではないのです」と告げられても、全く自分にはその自覚が持てないかのように全く分からないのだ。
今これを書いている私は共感能力をフルに稼働して自分と似た状況にある人間の姿を思い浮かべているように見えるだろうが、実際にはある種の論理的なパズルを解くような気持ちで相似している事象を探してきているに過ぎないのである。
普通の人が心によってやってみせるようなものを、私はただひたすらに論理的にやってみせているのを、そんなことをする必要があると思わない人間が、私も同じように共感能力によってこれらの考えに辿り着いていると勘違いしてくれているわけだ。
こうやって勘違いしてもらうのは私にとってはある意味で都合がいい。
何故なら、実際にはそうではないことが分かると途端に私は人間扱いされなくなり、ヒトマネの上手なロボットであるかのように扱われるだけだから。
これもそれも親から譲られた遺伝子が生まれつき現代社会と上手く折り合えていないのが悪いのであり、私が悪いわけでも親が悪いわけでも周囲が悪いわけでもないと分かってからは、割り切ることで楽になった部分と一生終わらない牢獄の中にいる自覚とで心はより有耶無耶になってきている。
私に出来ることといえば、とりあえず今までのようにヒトマネを繰り返して何とか自分を生き延びさせつつ、同じような気苦労を持つ人間を増やさないようにヴァージンを守ったままでこの人生を終わらせて見せることぐらいだ。
行き詰まった人生に方針を求めて性格診断や適職診断なんかをやると、いつも「小説家や芸術家になりましょう」「発明家や研究者に向いてますよ」と無責任な言葉が返ってくる。
実に下手くそに「貴方は社会不適合者なので、象牙の塔なり自分のアトリエなりに引きこもって居てくださるのがお似合いですよ」をオブラートに包んでくるものだと、自覚のない悪意なのか、純粋な善意によっての社会からの排斥なのかも分からないものをぶつけられたことを感じ入る。
その度に、「ああ、やはり自分はまともに生きるのは諦めるべきなのだ。だが、特別な生き方を出来るほどの力はない。だからまともなフリをして今日も迷惑をかけながらこの社会に張り付くのだ」と自己憐憫に浸るのだ。
これはもう精神的なリストカットとしか言いようがないわけだが、同時にソレはある種の瀉血でもあるように感じる。
私がこの社会に望むのはもうベーシック・インカムの導入ぐらいだ。
もうこれ以上社会の中で「私は貴方達と同じように働ける人ですよ」と偽って暮らすのはしんどすぎる。
いい加減疲れた。
人生の先行きのなさが、生来生まれ持った脳の作りから始まっていると突きつけられ、まだなんとか自暴自棄にならずにいるのがすでに奇跡のようなものだ。
これ以上我々を責めないで欲しい。
責めるべきは、我々のような人間が人間のフリをして社会に紛れ込まなければ生きていくことさえ出来ないこの社会の仕組みの方ではないか?
本当に、ベーシックインカムが導入されれば、我々はそれを頼りに暮らし、もう二度と社会の表側で「私は給料分の仕事ができますよ。何故なら普通の人間なのですから」と心にもないことを言ったりしないで済むのだから。
一般はもちろん、オタク界隈でも大ブームになったとは言い難いはずだよな?
エロゲが一定の評価を受けたのはゼロ年代ネット空間における、評論においてではないか。
ここら辺のルーツはまず、西洋人を真似て芸術を評論してみようとした
浅田彰らの批評空間が、ベースにあるはずでそこの影響を受けて、大塚英志や東浩紀がオタク文化評論をしてる。
一方で別の文脈でオタキングや同人誌における作品評論もあって、
彼らはフロイトの精神分析や民俗学を用いて(解説書・新書レベルだが)、評論を行っているので近親交配のように
指摘しておきたいのは、上述の流れは偏差値65以上の人たちと50~65の人たちが合流しているのであって
50未満のオタクたちは、かなりのボリュームが存在しているであろうに取り残されている。
(こういった背景が、なおざりにされているので、質アニメvs美少女動物園という対立軸や
最近のオタクはルーツを探らない論に通じてしまっているのがあると思う)
で、重要なのは芸術の評論というのは、実は人文エリートの中でもトップクラスの作業領域で
実家が太くて、曾祖父の代やそれ以上から文化資本潤沢な、文化貴族のやるもんなんだよ。
西洋で言えば、フロイトやT.S.エリオット、W.H. オーデンみたいな人たちね。
こういう人らは学術用語ぶん回して評論するとかしなくて、すごいハイコンテクストで
「青、いいよね」をさらに嫌らしく発展させたような、言語ゲームをばりばり行う人たちなので
上述の浅田彰等々でもくらいつくのは、すごく難しい領域なんだな。
でも、一応は日本人としてもそれを真似してみたいという欲求はあるわけだ。
ここで登場するのが、大塚英志や東浩紀が薫陶を受けたポストモダン。
この哲学思想において、これまでメジャーとされた文学や価値観より
マイナーとされた文学、価値観も光るものがあるぞ!って流れが強く打ち出された。
わたしは、単純に言語ゲームで相手を黙らせることに興味がないんですよ。
対話が成立するようにお互いが言いたいことを理解して、それを組み込んで社会形成することに興味があるので。anond:20180917031034
あなたは凄くいい。こんな気分になれるなら朝から増田みるのも悪くない。
俺はこの問題、ゾーニング派 v.s. 反ゾーニング派 の論戦とみていて、あなたと似た感想を抱いている。反ゾーニング派の論説に面白いものがない… 反論はするのだが基本的に受け身で、相手の論の不整合を指摘する、という攻撃に終始しがちだ。全体としてゾーニング派が優勢っぽいのが気になっている。昨日の増田でのアンケート? みたいなものでも反ゾーニングの人は現れなかった。
ここいらでマジに反ゾーニング派の為のステロイドを生成する必要がある。「ビックリして傷つくというが、子どもはいろんな事にビックリして成長する!」というのはどうだろうか。パターナリズムにはマッチョイズムで対抗だ。いやちょっと弱いか… 何にせよ議論できる土台を作らにゃ
を最近味わっている。
「不慣れなことも多いけど、どうぞよしなに」
みたいなことをプロフィールに書いている。いかにも初心者っぽく。
まあ、嘘をついているわけではない。
俺はファンコミュニティのお作法みたいなのを知らないままここまできたから。
深夜、泥酔した勢いでそのコンテンツに対するありったけの妄想をぶちまけると、
なんか、なんとなくややウケみたいな感じになる。
みんな俺のことをどう思ってるんだろう。
分からない。
まあ、よくわからんが俺は俺なりのポジションが与えられているみたいだ。
オフ会などから、残念ながら俺は肯定的なものを引き出すことができなかった。
そいつらがお望みの言葉で言えば、そういう身振りがマウンティングとして機能する、そんな言語ゲームを俺は信じていない
という感じだった。
これはあくまでも俺の観測範囲内の話で、学問や一般的な学徒を貶す気はまったくないが。
そんな気がしている。
上下関係によってセックスに持ち込もうとするパワハラ的セクハラは問題
けど事務次官で話題になってるセクハラってようは同意確認の言語ゲームでしょ?同意がある男女関係はセクハラにあたらないのはみんな知ってる
同意確認としての質問が許されなかったら男女関係自体が幻想になる。ようは適切な文脈を形成するコミュニケーションをとれとか年齢差を考えろとか言ってるわけだけれど
そのデュープロセスをとらないこと自体は完全に悪なの?人格として問題があるというのはよくわかるけどそれは単にコミュニケーションが下手な人と認識すればいいだけじゃないの?
事務次官は抱きしめていい?と聞いたけどそれはそれで気持ち悪い。けどそのこと自体が問題とされる社会って窮屈すぎねーか?
おっさんはありとあらゆる男女関係をはじめないのが「適切」な大人ってことだろうけどその適切はけっこうディストピアだと思うわ。
実際に若い男女でのセクハラなんて聞いたことがない。おっさんが恋愛至上にはいってくるのがきもちわるいんでしょ?
性犯罪や上下関係を利用したパワハラ的セクハラ、強制わいせつは明らかに問題だが適切かどうかまで問うセクシャルコミュニケーションまで問題とするとおっさんは若い女性にアプローチしてはいけないにまでなりかねない、
事務次官の発言が問題だという理由がなにか社会一般の問題、metooとして考えられてるけどそこまで普遍的な問題としてとらえるのはどうかと思うわ。
単に女性はきもちわるいおっさんにセクシャルな話をされるのがきもちわるいんでしょ?
その動物的感情をなにか理性的、知的でリベラルな態度としてとらえるからなにか違和感がある。
きもちわるいならきもちわるいに脚色しないでそのままきもちわるいって言えよ。セクハラするおっさんが動物ならそれを気持ち悪いと思うおまえの感情も動物的なんだよ。
https://anond.hatelabo.jp/20130722013200
ここで言う吉野家コピペとはTwitterで吉野家コピペ貼ったらマジレス飛んできたと言う話題に対してである。
https://togetter.com/li/1195871
これって別に今の若者は吉野家コピペ知らない、といった局所的な現象として捉えられるのではなくて、抽象化して捉えると要は言語ゲームだよね、と。
そこら辺にサッカーボールが転がっていれば足で蹴る、手は使わない「サッカー」をやるように。
で、一人だけサッカーのルールの運用方法がわからず、手で持って投げたら当然イエローカードなわけですよ。
つまり、「昨日、近所の吉野家行ったんです。吉野家〜」から始まる言葉を見た時に、吉野家コピペという対象に対し、過去に運用されてきた言葉の交わし方のルールに対する共通認識を持った人間がゲームをしてるわけで、そのゲームのルールと違ったことをしたら叩かれるわけですよね。
何が言いたいかって言うと、吉野家コピペというルールが形成されている以上、一連の現象の中で言われている「インターネット老人」という主体が「知ってるのが当たり前」と思ってるのは当然なんだよね。ルールだから。
これってどうなんでしょうね?
自分のブログに書くとなんだか炎上しそうなのでここに書くことにする。
けもフレ人気が各地で大爆発を起こしているが、さすがに褒められすぎ、評価されすぎ、持てはやされすぎである。
この作品はどう評価しても100点満点中あげられるのはせいぜい30~50点くらいである。
アニオタ界隈のけもフレを評価する声として「安心してみていられる」「脚本がよくまとまってる」「やさしいキャラが魅力」などという言葉が交わされているが、これらは全て嘘っぱちのように聞こえてならない。
こんな薄い言葉で表現される毒にも薬にもならない作品は、「よくできましたね」くらいの評価を得ることはありえるが、猛烈に人を惹き付けて心を揺さぶる名作にはなりえない。
本当に人の心をガッツリと射貫く作品というのは、たとえガタガタでブサイクな出来だとしても、何か一つくらい魂に響く「核」のようなものがあるはずだ。
「けもフレ」に心を揺さぶられた人間などきっとほとんどいない。そう言っている人間がいたとしたら、熱狂的な空気につられて思い込んでいるだけなのだ。
その証拠にきっと「けもフレ」はすぐ忘れ去られる。あと一か月もしたら、おそらくこの作品には誰一人言及しなくなるだろう。
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「けもフレ」人気のインフレーションの理由は、基本的にネット空間における「極性化現象」であるといえる。
アニオタ・コミュニティという空間の中では、アニメ評価を巡ってぐるぐると再帰的な「言語ゲーム」を続けていく内に、しだいに表現に尾ひれがついて妄想が膨らんでいく傾向がある。
その中では、凡百のストーリーが「絶巧の脚本」になり、平坦な芝居が「神演技」になり、チープな謎が「深遠な哲学」になる。
このような現象は、ネット炎上などでよく観測されるメカニズムである。
ちょっといたずらをしただけの大学生や、何気ない発言をしただけの女性が、集団極性化した暴徒によって糾弾されまくる構図は、ネット上で毎日のように見られる風景である。
ネット上の言語ゲームというのは、往々にしてこのような「過剰」に至るのだ。
***
基本的にアニオタというのは、他者を媒介しないと何も考えられない、何も感じられない存在である。
どんなアニメが面白いのか、どんなアニメを自分が好きなのか、そのアニメが自分にとってどういう価値を持つのか、一人では判断がおぼつかず何かを基点としないとリアリティを感じられない。
人間とは多かれ少なかれこういう側面を持つ動物だが、アニオタはこの性質がむき出しの形で露わになった存在である。
アニオタは、基本的に自分が欲望することを欲望している。アニメを楽しみたいというよりは、アニメを楽しんでいる自分を楽しみたいのである。
なのでアニオタにとって重要なのは、作品そのものではなくてその作品を取り巻く「人々」や「言葉」や「その評価」、いわば「アニメ・コミュニティ」という場そのものである。
この「場」に埋め込まれることによって、アニオタは初めて作品に対して欲望を抱くことが可能になるのだ。
このことは、アニオタを語る上で押さえておきたい重要なポイントである。
***
アニオタたちが「けもフレ」を担ぎ上げる理由、「けもフレ運動」の意図を強引に深読みしようとすれば、次のようにも解釈できる。
そこで上位を占めているものは、メディアがSNSを通じてステマ的に人気を煽り、ブーストを仕掛けた「張りぼて」の作品ばかりと言っていい。
アニオタたちはこのランキング市場にどっぷりと身を浸し、どっぷりと依存しつつもキレている。
メディアに対してももちろんキレているが、それにまんまと乗せられている自分自身にもキレている。
その鬱々と溜め込んだ感情が、今回突発的に「けもフレ」を通じて連結した。
「けもフレ」という作品は、徹底的に薄味で、徹底的に無難で、徹底的に空っぽであり、「本当に売れたいのか?」と問いかけたくなるような、いかにも「ステマーケティング」と縁のなさそうな装いをしている。
「神輿は軽いほど良い」という言葉があるが、「けもフレ」こそはアンチ・ステマ運動のアイコンに相応しい空虚な作品であった。
アニオタたちは「けもフレ」を神輿として担ぎ上げて、自分たちを操縦しようとするランキング市場のかく乱を目指すための意味不明な舞踏を開始した。
これは江戸時代に流行したとされる「ええじゃないか運動」を彷彿とさせるものである。
アニオタたちの目論みは、自分たちに向けられた圧力を全く同じ方法で相手にオウム返しにすること、「張りぼて」に対して「別の張りぼて」を擁立して推し上げることであり、これは俗にいうミラーリング作戦というものである。
この作戦は幸か不幸か一定の成果を上げていて、アニメ関係者や一部のマーケッターたちは、なぜ「けもフレ」がこれほどまでにウケているのかを理解できずに、困惑の表情を見せているという。
***
アニオタたちがもし上記の行動を「自覚的」にやっているのだとしたら、それはいかにもオタクらしく捻くれていて、しかし少々のユーモアも感じさせる、気の利いたいたずらのようにも思える。
しかしもし無自覚的・無意識的にそれをやっているのだとしたら、それは鬱々とした大衆の暗い感情が病理的に発露してしまったかのような、なんだかこれから先が心配になってしまう「症状」だともいえる。