はてなキーワード: 末っ子とは
(ただし父や私の代はもう血が遠すぎて分家扱いもされていない、一般家庭)
私が幼稚園の頃、大規模な法要があって、初めて本家に行くことになった。
父親に連れられて本家の門をくぐった途端、突然
「みっちゃん!」
って叫ぶように呼ばれた。
びっくりして声の主を探すと、家の中から足袋裸足でおばあさんが走り出てきた。
そのまま駆け寄ってきて、私を頭のてっぺんからつま先まで見るおばあさん。
私はどうしていいかわからなくて、見られてる間ずっともじもじしてた。
そのうち、他の大人が割って入って、父はその人と一緒にどこかに行った。
私は他の子供たちと集められて、一緒に遊ぶことになった。
遊んでいるうちに法要は終わったらしくて、みんなでお昼のお膳を囲んだ。
さっきのおばあさんは忙しそうにしていたけど、合間合間に私や他の子供たちに
ご飯は足りているか、ジュースを飲むか、おしぼりを持ってきたから手を拭きなさい、
とたくさん話しかけてくれた。
その間にも、おばあさんからの視線を時々感じていたけど、嫌な感じはなかったと思う。
なんというか、すごく気にかけてくれているというか。
何回目かにジュースを勧められたとき、ちょうどお手洗いに行きたかった私は、
おばあさんに連れて行ってほしいとお願いした。
本家は古い大きなおうちで、ちょっと怖かったので、恥ずかしかったけど
おばあさんに、一緒についてきてくれるようにお願いしたら、
おばあさんはちょっと黙ったあと
「もちろん、いいよ。一緒に行ってあげようね」
と手をつないでくれた。
お手洗いからの帰り、おばあさんはなんだか涙ぐんでいた。
大人になって結婚する時に知ったんだけど、おばあさんは、本家の大奥様。
とても可愛がっていたんだだけに、亡くしたときの悲しみも深く
当時は後を追って死んでしまうんじゃないかという落ち込みようだったらしい。
この女の子が「みっちゃん」。
そして、私がそのみっちゃんとそっくり、瓜二つだったらしい。
おばあさんやその息子たち(=みっちゃんの兄たち)曰く
「顔立ちはもちろん、ものを食べる様子やちょっとした仕草がみっちゃんそのもの」
「まるで生き返ってきたみたいだ」
というくらいそっくりだったとのこと。
お手洗いに一緒に行った時に泣いていたわけも聞いた。
何でも、みっちゃんが亡くなる前日、
「怖いからお手洗いに一緒についてきて」
とお願いしたのを、その時ちょっと手が離せなかったので
「一人で行ってきなさい」
と宥めて一人で活かせたらしい。
その日の晩にみっちゃんは高熱を出して、翌朝亡くなってしまい
「あの子が最後にしたお願いを、叶えてやれなかった。ちょっと手を休めてついて行ってやれば良かった」
とずっと悔やんでいたんだそう。
それがあの日、そっくりな私が現れて、みっちゃんと同じようにお手洗いについてきてって言い出して
「まるで、あの時のやり直しをさせてもらっているようだ」
と感じたんだって。
私が本家に行ったのはその一回きりだったんだけど
おばあさんはその後ずっと私のことを気にかけていたらしい。
とても他人とは思えないって。
おばあさんは、私が高校生の時に亡くなったそうなんだけど、その際に遺言で
「あのみっちゃんそっくりの子がお嫁に行くとき、お祝いを渡してほしい」
開けてみると、漆塗りの箱の中に櫛や手鏡、かんざしなんかが入っていた。
ほんとに貰っていいのかなって思ったけど、長男さんに
「供養と思って受け取ってほしい」
と重ねて言われたので、ありがたく受け取ることにした。
私には、子供に先立たれた親の気持ちは想像することしかできない。
でも、それは悲しくて切ない事なんだろうし、それをちょっとでも癒すことができたなら
(私の力によるところでは全くないんだけれども)
いいことをしたのかな、と思う。
昨日妊娠していることがわかって、ちょっと感傷モードに入っちゃったので
落ち着くために書かせてもらいました。
別に末っ子じゃないのに末っ子根性の子が子供時代には時々いた。
恐ろしく目端が利いて、よく動く。人に気をつかえる、人あたりもいい。
でもその半面、どこかひどく落ち着きがない。周囲の視界を気にしていて、気に入らない子が死角に入るや、何らかの変なリアクションをしていた。
なんというか…当たりがいい「だけ」の子、っていうか。
見ていて怖くなるほど「そんな生き方していて不安はないの?」と言いたくなる子だった。今で言うルミネCMのロングヘアゆる巻きちゃんポジの子だね。
そういう子は私とは互いにどんなに頑張っても馬が合わなくて、遊んでいてもつまんなかった。私は途中で飽きて本を読み出すし、その子は別の子と遊び出すしさ。
私は別に人の眼が気にならないわけじゃないけど、他人のことばかり考えて一日を終えるというほど人に興味があるわけでもない。大体、自分を含めて人とは嫌らしいものだし、そんなに他人を構ってもwとかいう考えであったわけで。
嫌らしいものとわかった相手に、まるで溺愛しているかのように執拗に絡んだりじゃれついたりするのは、エゴではなかろうか。下手をすれば善意による攻撃なんだよね。
そんなんだったら、善意ない方は居場所なくなっちゃうわ。苦手意識しかないから。
先日、その手のタイプの子が、ネットで私そっくりの容姿をして他人に要注意人物の見分け方を教示なさっておられた。
今でもそのウンコさを一生懸命正当化させようとする自分がいて辛い
コンプレックスになってるのだろう
今の自分も認められない
意味わかんないだろ?
こういう、意味わかんないのもいるんだよ、たまに。
小学校の頃は勉強が嫌って理由だったけど中学は案の定いじめあったのね。
当時は、ブスってだけで理不尽だよ、ぴえーん
って感じだったけど今思えば
いじめられる心当たりがたくさんある。
無口でともだちいないようにみえたけど、いじめられてる感じではなかったから
顔も普通 目つきはスナイパみたいだったけど
なんでか聞いたこともなかったけど。
当時は、彼に興味がなかった。
それどころかブスのくせに同じ趣味でよく話す男の子にうつつを抜かしていたよ
話は戻るが、同級生にはむしろ鬱陶しく感じることもあったんだ。
優越感を感じていた。
「◯◯って、いてもいなくても同じだよな笑」
とか言っていた記憶がある。ひどい。
奴と一緒になることは何かと多かった。
算数は、バカでついていけてない子供は教室を移動する少人数クラスシステムがあった。
でも不思議なことに、やつは休み時間ともなると図書室へ向かい、本を読みふけるんだ
何をやるにも後ろについていたやつが、クラブ活動だけは図書クラブに入ってたし
ひたすら活字を読んで、たまにニヤニヤわらうやつを一人で面白がって見ていた記憶がある。
私その頃から本が嫌いだった
読字障害?って奴だとおもう。
なんどもなんども同じ文章読んじゃうんだよね
だから本なんかつまんねーもん読んでるやつが、面白かったんだよ
何かと気にかかるやつだった。こんなにいまでもきになるなら
早めに気にかけてる姿勢を表に出すべきだった。死ぬまで後悔しよう。
中学に入るともうクラスも離れ離れ、いろんな学校からいろんな新しいやつが入ってきて
不良化するやつ、オタク化するやつ、いろいろいた。
私は結局どこのグループにも属せなかったので、勉強もまともにやらずに不登校
でもクラスにやつと塾が一緒だった子がいて話す機会があったらかなんとなく本当に何の気なしに好意とかではなしに
どう?と聞いたことがある、ちょっと太った?とか行ってて、おー、不登校はやっぱ太るよな、と思った記憶がある
母はそれを許さなかったけど、学校行ったふりしてその辺ぶらぶらはしょっちゅうだった
しかしそのうち帰れなくなって、泣き喚いたな、家に入れてくれ
親父はもう新しい彼女いたんだけど部屋に居さしてくれた。
彼女呼ぶ日はやんわり出て行けと言われたけど
でも不登校はゆるさなかった。母より子供に無関心だから、調やしないし
ふらふらサボりもバレなきゃオッケーになって
そんな中、親父と出かけに行くんだよね
親父と出かけるのには全く抵抗なかった
顔も、知らない人に、そっくりですねって言われるくらい似てるから
援助交際に見えることもないだろーとおもったし
お前らが小さい頃は、こーゆうとこで遊んだよな
と言いたくなった(爆笑)
そこでさ、やつをみたんだよ
なんのゲームか知らないけど、アーケードゲームつうの?格ゲー?
なんですぐわかったんだろうな
好きだったのか?(爆笑)
冗談はさておき
話しかけようと思ったんだ
凝視してた
しかし親父がいる、、
なんか恥ずかしい
気付かれたいような気付かれたくないようなでみてた
でもたぶん向こうは見てもわかんなかっただろう
そこでさがっくり落ち込んで、ずうっと気になってた
一人で遊んでるよ、あいつ
すっげー気になった。面白くて、
すっげー面白いのがこの後、買い物を終えて車に乗り駐車場を出るとき
オおぉっ!?って思った
どこ行くんだ、あいつ
すっげー気になった。面白くて。
卒業式の日、くんの、こないのって先生にいわれてワチャワチャしてたら
って三年間まともにきやしなかった制服に身を包んで行ったでござる
やつがいた。
相変わらずのオーラを放っていやがった。
帰り道にやつを見たよ
お母さんと一緒だった
お母さんが、うろ覚えなんだが綺麗なんだよなあ華奢で、上品な感じ。
当然なんもいえなかったけど
お母さんが羨ましく思った。
大人になったら子供を産めばいいじゃないか
と思ったけど
これは、私が子供を産めば気がすむ問題じゃないなって心の中で思った。
きもいね。
数年後、いきなり電話かけたんだよ私は
でもお父さんが出て、家にいますけど→今、出られないと…といわれた
そりゃそうだよな 怖いもん。拒絶だよな
それに、ただの同級生がいきなり電話をかけてくるシチュ=宗教への勧誘、マルチ商法、カツアゲ
みたいなイメージになっただろうし、
あの、なにかご用ですかって言われて、
いや、話したかったんです…
卒業アルバム、髪の毛ひどく切っちゃって百均のズラ被ってうつったんだよね
特定されそうだなあ、でもいいや、これからも真面目に生きる気ないし。
で、買わなかったの。振込用紙はやぶってすてた。
小学校のころのアルバムも引越しする際処分した。だからやつの顔はうろ覚えなんだけど
今どうしてるのかひたすらきになる
自分が男なら良かったと思う
50年後でもいいから一目会いたい
その50年後に交わす言葉が
あの日、いきなり電話なんてしてごめんね、じゃあね
じゃあね
だけでも構わない
でも残念ながら、こういう女のほうが年配の男からは可愛がられて出世するんだよなあ。
結局、女であっても体育会系のノリが強いのは明らか。むしろ女だからこそ体育会系のほうが有利と言っていい。男ほど生意気には見えないしね。
あと、こういう女は「甘えん坊だけどちゃっかりしていて優しい」末っ子タイプの男とは非常に好相性。
女のほうが強気で時に周囲に対してキレたり凄んでみせても、そばにいる男がすかさず彼女の代わりに「ほんとごめんなさいね~」と謝って歩くことで上手く回るし。
尤も、世の中は長男が多数派であり、こういうタイプの男は中々いないのだが、強気の女なら出会いの数は多いだろうから問題ない。
朝(つっても10時過ぎくらい)会社行く途中の電車で「昔ながらの三兄弟とお母さん」を見た。
30代いってるかいってないかくらいのお母さんは三兄弟の面倒でいかにも疲れ果ててた。
末っ子(赤ちゃんだったから性別は解らなかった)はお母さんに抱っこ紐で抱っこされて電車が珍しいのかキョロキョロ。
2歳か3歳くらいの次男が一番うるさくて、多分魔のイヤイヤ期なんだろう。ずっとグズグズして落ち着きがなくベビーカーに乗せられてた。
5歳か6歳くらいの長男はまだまだお母さんに甘えたい盛りだろうに、一番お行儀よくしてて時々次男が静かにするようベビーカーにしゃがんで「シーッ」とかしてた。
子供たくさん産むってこういう事なんだよな~。
次男がとにかく落ち着きがなくてたまに泣きだしてたけど流石に迷惑だとも思えなかった。
お母さんは大分背が低く身体も小さかった(多産系って小さい人多くない?)のに、三人も産んで大したもんだよね。この暑い中子供連れて大変だわ。
最近電車内の子連れがどーたらベビーカーがどーたらってさんざん議論になってるけど、こういうお母さんはただただ応援してあげたい。
虐待といえるような虐待を受けてたわけじゃないけど、何かあれば私が怒鳴られていた。
「こいつには何言ってもいい」みたいなノリ。
テレビ的に言う「イジリ」。
私には苦痛でしかないけど、サンドバッグ根性が染み込んでた私は嫌われたくない一心で何言われてもヘラヘラしてた。
二十代になって変化が訪れた。
一人暮らしをはじめ自由を得て、会社でも心穏やかに仕事が出来た。
やっぱり社会は違う。狭い世界の家庭内や学校とは違うんだと思ってた。
でも違った。甘かった。
私がサンドバッグにならずに済んでたのは、私の先輩が守ってくれていたから。
私の前にいた何人かの先輩は責任感が強く、仕事仲間への思いやりも強かった。
私の事も気にかけてくれていた。
先輩達は権限が強かったので私をサンドバッグする人も居なかった。
でも先輩達は次々と辞めた。最近とうとう一番仲が良かった先輩が辞めた。
するとどんどん目をつけられるようになった。
意地の悪い上司に仕事を押し付けられまくった挙句、イチャモンつけて役立たず扱いされたり。
前から私が気に入らなかった先輩に呼び出され、特に問題ないのに私の仕事態度についてやはりイチャモンつけられた。
転職しようと思う。
こんなに目をつけられるのは私にも大いに原因があると思う。
グズで要領が悪く、弁も立たない。そしていつもヘラヘラしてるので、これにイライラする人も居ると思う。
サンドバッグも殴られ続ければいつか壊れる。
もういっそ死のうかと思うことも稀にあるけど、サンドバッグが一つ消えたところで悲しむ人は居ないんだろうなと思い虚しくなる。
http://anond.hatelabo.jp/20140718021723
上の子も下が二人目、三人目となれば次第になれるので、体の良いお世話係も板についてきてそれなりに世話ができるようになる。
それまでは妹・弟というのは単なるおもちゃだ。なお、もう一人下にできると、中間子は長子の下僕になる。
しかも下の子が泣けば上二人は怒られるわけだ(より怒られるのは長子だと思うが)
長子はだいたい親が張り切っているものだが、二人目になると飽きて長子にまるなげすることが往々にしてある
しかし長子と中間子が同じ道を目指すわけでもないし、そもそも長子のアドバイスはまるで役に立たないことのほうがずっと多い
面倒なので長子が言ってたってことにすると何でも通るが、長子にはうまいことやってるとか睨まれるので納得がいかない。
ちなみに一番下は親も「これが最後だし…」とかって乗り出してくる逆にかわいそうかなとは思うが、大人の意見が大事なときもあるので羨ましかったりもする。
長子は下の子が産まれるまでは一人っ子で、つまり末っ子と同じ状態なわけだが、彼らが自力で何かできるようになると年端の行かない下の子らも同程度かちょっと下手なくらいのことを自力でできるように強要される。
外泊みたいな楽しいことならいいが、子供時代は手伝いとかおつかいとか、正直そんな小さい子にやらせるなよとおとなになって改めて思うことを普通にやれといわれるし、もちろん成功するのが当たり前、失敗したら怒られる。
あと、長子に対しては初めてなので色々口うるさい人がいるが、下の子らには「あれ?いってなかったっけ?」みたいなことがたくさんある。末っ子はいつまでも赤ちゃんなので大人は甘いが、中間子はそういう時は長子側なので、結局何も教えられず自力で何でも解決していかなければならない。ちなみに長子はあてにならない。たいてい大人からの助言が入っていて自分では考えなくて良いからだ。
時にうまく長子に擬態したり末っ子に擬態して親の目をかすめ取ることもできるが、基本中間子は独立心が強いことが多いような気がする。多分目をかけられていないせいである。
そもそも親が末っ子を妊娠した時点で中間子は末っ子ポジションではなくなるのだ。長子ほど親の愛情を注がれていないにもかかわらず、早ければ乳児、遅くても幼児のうちに自立しなければならないのは子供には辛い。まぁ慣れますけどね。
お下がりとかも末っ子はたいてい「お下がりばっかりで可愛そう」とか言って新しいものを買い与えられるのはどうかと思うが、たしかに三人目、四人目になればお下がりもぼろぼろだし新しく買い与えられるのはしかたがないのかもしれない。しかしかわいそうがられるのはいいもんだナ。ちょっとそういう扱いされてみたいナ。
先週、ノルマンディー上陸作戦70周年で英米のメディアが騒がしかったので、ふと思い立ち、映画「プライベートライアン」を鑑賞。
サラリーマンになってからは初めて観るプライベートライアン。
労働基準法なにそれおいしいの系サラリーマンの私にとって、しみじみ感あふれるあるあるネタが満載で、別の意味で「ああ、戦争ってひどい」と思ったので、メモ。
ミッション「3人の兄が戦死した4人兄弟の末っ子(ライアン)を救うために、敵のど真ん中に8人で行ってくること!ライアンは必ず生きて連れて帰ること!」
会社上層部の指令だが、一人連れ戻すのに8人を高いリスクに曝すとかよくわからない。
しかし断れない。
「それって意味なくないすか?」と言いながら巻き込まれる下っ端。
ライアンがいた空挺部隊の1機が墜落、乗員のほとんどが亡くなったらしい。
戦死者のドッグタグ(識別票)が入った袋を受け取り、ライアンのものがないか、黙々と探すメンバー。
ドッグタグをトランプのように粗雑に扱いながら、「ライアンがこの中にいたら、俺たちこのクソジョブから解放されるなー」という下衆な表情を浮かべるメンバー。
それを軽蔑の目でみる、仲間を失った空挺隊員達。
中間管理職、ライアンの所在が分かり道を急ぐ途中、遠くの丘に陣取る敵部隊を発見。
任務遂行上、ちょっと遠回りすればその丘はスルーできる。そっちの方が安全。
「我々がやらなければ、この後に来た部隊が被害を被るかもしれないんだぞ!」
結果2名死亡。しかも逃がした捕虜が、その後自分達に攻撃してくるブーメラン。
ようやく見つかったライアン。
しかし自分の持ち場を離れたくない、一緒に戦いたいと言いだし、その熱意におされて作戦に巻き込まれる救出部隊一行。
あー、戦争ってひどい。
誰に話していい話でもないのでここに書く。
その友人は中学・高校と部活も一緒であり仲の良い友人の一人である。
家に遊びに行ったことはなかったが、兄弟としてお姉さんが一人いる、ということは本人から聞いて知っていたし、
一緒に出席した周りの友人たちも知っていた。何より、披露宴の親族席にいた。
式の序盤、司会の話す新郎新婦のプロフィールを聞いていたときに少しひっかかるものがあった。
ん?兄?初めて聞いたぞ?
そのときは紹介がどんどん先に進んだため、それ以上考えることはなかった。
そしてある程度時間を置いた頃、新郎新婦のプロフィールムービーが流れ、幼いころの家族写真がスライドショーとして登場した。
そこには確かに、本人と兄・姉であろう3兄弟の姿があった。
ただ、その(自分が勝手に兄と判断した)兄の顔はまさしく知的障害を持っている子供のそれであった。
披露宴自体はなごやかでつつがなく終了したのだけど、いまだに何かが引っかかる。
二人兄弟の次男。
親はどちらも末っ子。なのでいとこ十数人の中で最年少。
近所に同級生以下の子は少ない、というか(またはそのせいか)誰かと遊ぶというのが苦手だった。
たまに兄にイジメられることに怯えながら生きてきた。
小学校では同級生か先生との付き合いしかなく、上下級生との付き合いは殆どなかった。
中学では部活に入る。2年になると後輩が入ったが、どう付き合っていいかわからずナメられる。
3年になって副部長になったが、人心掌握は部長に任せて片付けや雑務をもっぱらやっていた。
高校、大学とほとんど人付き合いをしてこず、案の定コミュ症になった。
研究室では後輩にさん付けで呼ばれはするものの、明らかにあっちの方が人ができてるので
こっちが上の立場とは全く思えないでいた。
人に命令できるって、さぞかし気持ちいいんだろうなあ。
オレはもう30になるのだがどこかで自分は年をとるけれども周りの環境はずっと同じような
状態が続くんじゃないだろうかとどこか期待していた.まあ当然そんなことはなく祖母は亡くなってしまった.
どちらが悪いというわけではなくお互い自分の居場所を守ろうとしてのことだったのだろう.
3人兄弟の長男だった自分は幼いころから母と祖母の板ばさみだった.
互いから互いの愚痴を聞かされながらも幼いながらにどちらかにつくべきではないと感じていたようで
お互いの愚痴に相槌を打つだけだった.どちらの敵にもどちらの見方にもならなかった.この環境は結構きつかった.
思春期で祖母のやや過剰な面倒が面倒くさくなり,距離を置いてしまった.
かつ末っ子は手を焼く存在だったのでその過保護っぷりなりを潜めていた.
そしてオレと同じ用に弟たちも次第に距離を置き始めた.
もう遅すぎるけれども今ではこのことをとても後悔している.
祖母にとって不幸だったのは祖父がずいぶんも前になくなっていたことだ.
オレが生まれたときにはすでになくなっていた.
オレたち孫が距離を置いてしまったせいで家庭内での祖母はやや孤立してしまった.
親父はこのことにはわれ関せずだし大学進学時点でオレが家を出て,
次に次男が,次に三男がという風に物理的な距離もだんだんと離れていった.
話が脇にそれるが祖父と祖母ははもともと自宅を事務所として小さな会社を運営していた.
祖父がなくなったと同時にこの会社はたたんだらしいが,オレの生まれる前の話なので詳細はよくわからない.
わかっているのはオレの親父とその兄弟はその会社を継がなかったということ.
おそらくだけれど,親父兄弟はまだその当時学生で学校を辞めてまでやりたい仕事ではなかったんじゃないかと思う.
祖父の死と一緒に切り盛りしていた会社をたたまなければならかったことで祖母の人生は大きく道を変えざるを得なくなってしまった.
祖母はお世辞にも常識人とは言えず,かなり変わった人格の人だったがこのあたりがなにか関係があるのかもしれない.
また先日の葬儀で初めて知ったのだけれどもこのとき祖母はすでに癌を患っていたらしい.
手術はしたけれども完全に取り除けたわけではなかったらしい.このことはまったくしらなかった.
実は祖母はかなり厳しい生活をしていたんだろうと思った.今となっては周りにあたりたくなるのもわからんでもない.
息子である親父は何をしていたかというとこちらは極度の面倒くさがりやで,
決して嫁姑問題をなんとかしようとはしていなかった.
子供のころのオレは親父のこういうところが大嫌いだった.
オレが大学院を出て就職するころには祖母はボケが進んでいたらしく,
おかしな言動が目立つようになったという話を母親づてに聞いた.
祖母は昔から懸賞はがきを出すのが好きだったようなのだが,明らかに詐欺めいた手紙が届くようになっていた.
母親は不仲ではあったがなんだかんだでずっと祖母の面倒を見ていた.
詐欺めいたはがきのことで注意したりもしたらしいが,祖母は頑固で母親に言われることが癪だったようで
やめる気配はなかった.注意してもけんかになるだけだし
家計に重大な問題になるレベルのものでもなかったのこの件は放置したらしい.
また祖母は自分の周りをごみ屋敷のようにすることが多かった.本当にごみ屋敷.
さすがにこれには母親も耐えかね,数ヶ月に一度たまったごみ(祖母にとってはごみではないのだけれども)を半ば強制的に捨てていた.
祖母はこのことにも大いに腹を立てそのたびにけんかをしていたらしい.久しぶりに実家に帰ると毎回こういったことの愚痴を聞かされた.
こういうこともあってたまに実家に帰ってもオレは祖母と積極的にコミュニケーションをとることはしなかった.
会社に入って数年すると,ボケも進行してきて両親だけでは面倒が見れなくなって,介護施設に入ってもらうことに決めた.
その当時は祖母本人も嫌がり,祖母の実家の家族も文句をたれた.
施設に入れるとは何事か.人でなし.人道にはずれたことをするなと.
さすがにこれについては親父も間に入って説明し,理解を得る努力をした.
最終的に理解は得られなかったが,実家でこのまま面倒を見ることもできないので結局施設には入ってもらった.
はじめこそやや問題があったものの祖母は以外にも施設になじんだらしい.
おしゃべりが好きだったにもかかわらず実家では話し相手がおらず,寂しい思いをしていが,
話し相手ができたのがうれしかったんだろう.これを聞いたときは結構胸がいたんだ.
施設に入ってもらってからは実家に帰ったときは母親に連れられて何度か施設に顔を見に行った.
以外にも施設に入ってからは母親との関係は同居していたときに比べてましになっているように見えた.
祖母はぼけが進み,孫のオレたちも自分の息子である父親も判別がつかなくなっていた.
ただ,近しい誰かということだけはわかっていたらしいく,たわいもない世間話をする分には問題がなかった.
母親は誰よりも祖母の面倒を見てくれた.
昔あれだけいがみあっていたのに本当によく面倒を見てくれた.
母親は介護系の仕事をしていたのでなれていたというのはあれど本当に大変だったと思う.
祖母もいつしか母親を信頼するようになり昔のようなけんかはなくなった.
むしろ祖母のよい話し相手になってあげていたようだ.施設に入ってから数年間は
お互いにまあまあ穏やかな時間をすごしていたようだった.
数週間前に祖母の容態は一気に悪化した.施設の人も驚くほど急なことだった.
それからはヘッドの上でほとんど動くこともできず点滴をされていた.
ただ,意識はあったのなくなる1週間前に帰ってちょっと会話した.
オレのことはたぶん誰だかわかっていなかったが,もうちょっとで元気になるから帰ったらパーティをしようとずっといっていた.
小説や漫画で言えばべた過ぎるフラグなわけだけれども,リアルに聞くととてもつらかった.
でも会話をしている限りは全体としてはつじつまはあってないけれども,会話のキャッチボール自体はできていた.
だからもしかしたら本当に元気になるんじゃないかと思いもした.
だけども先日その祖母が亡くなった.余命1週間宣告から2週間後のことだった.
オレは特別おばあちゃん子ではなく,むしろ高校進学以降はやや苦手だった.
でも葬儀の最後は涙がとまらなかった.なんの涙なのかよくわからなかった.
ただいなくなってしまうことのへの悲しみだったのか,やさしくできなかったことへの後悔なのか.とにかくとまらなかった.
こんなに泣いたのはほんとにひさしぶりだった.
オレたちは火葬された祖母の骨を拾わせてもらった.
比較対象がないのでわからないけれども年の割にはしっかりとした骨,ということらしい.
骨を拾いはじめてからはもう作業というかなんと言うか涙は出てこなかった.小さくなったなぁとただ思った.
葬儀の次の日は親父が死亡届やら銀行口座の凍結やらの手続きをして回るのについていった.
長男だし親のときはこういったことをしなけりゃならん可能性は高いしな.
さらに一日たって仕事にはいった.仕事が手につかないとうことはなかったが何かとてももやもやしていた.
というか何か書いて残さないといけないなという気持ちがうちからわいてきた.これもよくわからん.
祖母から特別何かを学んだということはなかったが,祖母の死は本当にいろんなことを教えてくれた.
通夜から葬儀終了までは大変だったいうこと,喪主は悲しむ暇すらないということ,人の骨は案外小さいということ,人は死んでしまうということ.
もう届かないかもしれないけれど,ばあちゃん,今までおつかれさま.ありがとう.
今日(正確には3月11日。震災の日だ・・・)お父さんが大腸がんだと判明。転移してて、お医者さんには1年もたないと言われたらしい。具合が悪いのは知ってたけど、お母さんからメールもらったときもまさかそこまで深刻だとは思ってなかった。「癌だったりして。まさかね。」ぐらいのノリだった。こんな余命宣告受けるほどとは。
お父さんは常々「死ぬならころっと家族に迷惑かけず行きたい」「何年も治療とか絶対いや」「絶対お母さんより先に死にたい」って言ってた。それを考えると、お父さん的には理想に近いのかもしれない。(いや、退職後にもっとお母さんと旅行したかったと思うけど・・・)それなのに私の心が全然追いつかない。なんかもうずっと泣いてた。お母さんは空元気だし。それも辛い。
私は姉妹の中で一番お父さんっ子だと思う。お父さんは超厳しい人だけど、末っ子の私には結構甘い部分もあったから。姉たちには「ファザコン」って言われたこともある。最近はお父さんとろくに会話もしてないからお父さんは絶対気付いてないと思うけど、小さいころから今までお父さんのこと超かっこいいと思ってる。頭良くて、仕事できて、お洒落で。お母さんの誕生日にバラの花束とかプレゼントしてるの見るたびに、「私、お父さんみたいな人と結婚したい」って毎回思ってる。小さい頃は実際に「お母さんはお父さんみたいなかっこいい人と結婚できて幸せだね」って話してお父さんを感動させた(笑)
このこと、絶対にお父さんに伝えたい。絶対に伝える。
それにしても、リアルに「花嫁姿見せたかった」とか「孫抱かせたかった」とか思うよね。女の子の孫抱かせたかったな。お父さん絶対溺愛しそう。でも、姉が甥っ子たちを生んでくれて本当によかった。最大の親孝行だよ。あの厳しいお父さんが、赤ちゃんことばで甥っ子に話しかけてるのを見て心底そう思った。
偉大なる先増田様
http://anond.hatelabo.jp/20140312021923(削除済)
続き