はてなキーワード: 嫉妬心とは
ここに替え歌師の話がある。蛇の物語、人々を嘲りの笑いに誘い込む罠の話である。
その時期に、子供向けのこのような歌があった。
その替え歌師は蛇の舌を持っている。次のように書き換えた。
子供たちはその変な替え歌の意味がわからなかったが、おかしかったので笑った。
こうして替え歌師の呪術がその歌に秘められ、この歌が広まった。
そして毒蛇とは、善人を悪と言ったり、人を悪に導く嫉妬者の喩え。
つまり替え歌師は、その嫉妬者を偉いと言い、善人を悪いと言った。
人々がまっすぐと信じていることに対して、巧みな舌を使い、疑問を抱かせる。
その疑問は善を悪へ曲げることばかりだ。
確かに、そのような疑問によって知性が向上しているようにも見えるだろう。
しかし子供たちは自分の吐いた言葉に混乱していることにさえ気が付かず、
その混乱は悪意を育てていった。
ある時、善に導かれた詩人が替え歌師が呪術を振りまいていることに気がついた。
しかし曲げられたものがあまりにも多かったため、下手な詩がかえって事態を悪化させるのではないかと詩人は考えた。
嫉妬心の強まった子供たちは、「これは善に基づいている」などといえば、「退屈だ、悪や闇に走ろう」などと言うだろう。
闇に走った子供たちは、その後に待ち受ける後悔について知識も知恵もない。
詩人は闇に走った者の末路を詩にした。
「これは闇に走った者の話である。
薬によって狂い、まっすぐと見ることすらできない。
その道で得たことは何一つない。
見よ、これが愚か者の末路であった。
愚か者は蛇の舌に狂わされているので、
その時は人は彼を救えない人であると見放す。
愚かで居続けることに対してかたくなになるな。
蜜蜂のように、善きことを仲間のもとへ運び込むことを学べ。
狂った人は、善きことと悪しきことの区別がつかないので、
悪しきことを運んでくるかもしれない。
あるいは善きことが運ばれているのに、それを捨て去ろうとするかもしれない。
地獄を望むものなど誰もいない、その蛇の言葉を正しい方法で浄化せよ。」
蛇たちはこの詩さえも曲げようとするが、これは試練である。
もし人々が善き道を見極めるのであれば救いがある。
しかし蛇が蛇を教育し、悪しき物語が広まるのであれば、忌み嫌われ、裁きの前に置かれる。
彼らがどちらを選ぶのか、将来のことなど誰が知ることができよう。
いよいよ、歳をとったことを理由にして勉強や運動をさぼりはじめてる。やりたいことも趣味も特にない。
新しいドラマや映画を見る集中力もないからyoutubeやtiktokばっかり。最近はyoutubeの10分以上の動画すら消費できなくなってきた。
生活レベルを維持するためになんとかお金は稼がないといけないし、周りの同年代が出世すると多少なりの嫉妬心はある。かといってさらなる責任を持って仕事したいわけでもないんだよな。
子育てのおかけで休日を充実して過ごせているけど、自由な時間ではないからストレスが貯まる。かといって自由な時間をもっても別にやることなくて時間をもてあます。
この増田も色々書きたかったけど、これ以上書くのがめんどくさいなのでこんくらいで。
マジで活力がないわ。
亀のタリと兎のシャドがいた。タリは海の中をスイスイ泳ぐが、シャドはいつもタリを軽蔑している。シャドがタリの業を無に帰するために、陸では鮫たちを称える運動をし始めた。タリはそんなことを気にもせずに暮らしていたが、シャドの嫉妬心は頂点に達し、ついにタリを海から引きずり出す計画を立てた。
シャドは鮫たちと結託し、タリの住む海底の洞窟に火薬を仕掛けた。そして、タリが海中で眠っている夜、シャドは火薬に火をつけて爆発させた。海水は激しく揺れ、タリは洞窟から吹き飛ばされて陸に放り出された。タリは目を覚まし、自分がどこにいるのかわからなかった。周りには鮫やシャドの姿はなく、ただ荒涼とした砂漠が広がっていた。タリは恐怖と絶望に打ちひしがれた。自分はもう海に帰れないのだと思った。
しかし、タリはあきらめなかった。彼は自分の殻を使って砂漠を歩き始めた。彼は海を求めて歩き続けた。途中で、彼は他の亀に出会った。彼らはシャドや鮫に追われて海から追い出された者たちだった。彼らはタリに同情し、一緒に海を探すことにした。彼らは困難に立ち向かいながらも、仲間として助け合って歩いた。
やがて、彼らは海を見つけた。しかし、それはシャドや鮫が支配する海ではなく、別の海だった。それは青く澄んだ海で、色とりどりの魚や珊瑚が泳いでいた。タリは感動して泣いた。彼は仲間と一緒に海に飛び込んだ。彼らは自由に泳ぎ回り、幸せを感じた。タリは思った。シャドや鮫のせいで苦しんだこともあったが、それがあったからこそ、この美しい海と仲間に出会えたのだと。
蛇は毒で人を傷つける
「あいつは無知だから、この知識で見下してやろう、試すのは私だ」とあなたを嘲笑っているのがわかる
奴の心にあるのは妬み
善悪を知りながら、わざと悪を選ぶという愚かさだ
それとも善悪をすでに忘れ去ったのか
奴は愚かである自覚があるときさえ、他人を引きずり込むことを好む
嫉妬にまみれていてなお、恥じることもないというのが、奴の愚かさをより鮮明にしている
「その妬みに基づくあらゆる行為が恥である」と言ったら、奴はそれをほめ言葉だと言って正当化し始めるだろうか
奴には救いの道があるのだろうか、もし嫉妬の虜であれば、奴は善人を呼び寄せ「嫉妬心の苦しみを教えてやる」と言って攻撃するのか
善人は奴の罠にかかり、他者とくだらないことを比較する思考回路に引きずり込まれる
善人は「これは蛇が歪めた結果である」と気が付くこともあるが、弱すぎて抵抗できずに堕落する者がいる
そのような善人を見つけたら、助ける手を差し伸べられるようでなければならない
蛇とその仲間が偉そうにしているなら、奴らの手の内を暴き出せ
要するに女同士のマウントの取り合い。
自分より男をはるかに魅了してしまう存在に対して激しい嫉妬心を持つ。
必要もないのに心のなかに女同士のカースト制度を描ききってしまい、
常に自分は負けているのだ、という劣等感を抱きながら成長することとなる。
もしも男であれば、
容姿の優劣を跳ね返すような人間性だとか能力、社会的地位などを獲得することで
何をどうやっても美人とブスとではブスのほうが劣等感を抱き続けることとなる。
とくに人の見かけによるカーストの価値観に縛られ続ける女性たちにとっては。
しかし、ここでそのカーストの順位を逆転する方策がなくはないことに気づく。
容貌に優れ、男たちを魅了する若い肢体を有する自分たちよりも優れていると
(その女性たちが勝手に思い込んでいる)女性たちを自分たちよりも
それが、男どもに性的に搾取される馬鹿で可哀想な女ども、という位置づけ方法だ。
これにより、はじめて人生のすべての場面で上位的であった存在に対して自分がマウントを取ることが可能となるのだ。
あの人達は、馬鹿ですからねえ、私達優れた者共が守らなければならないのです。
それによって苦情を言われたりしますが、いえいえそれに対して文句は言うまい。
あの人達は馬鹿だから、自分たちが守ってもらっているのに気づけないのです。
なにせ、男どもに性的に搾取されることだけしか能がない劣等種なのですから。
とまあ、こんな感じです。
このように、結局はただの女同士のマウントの取り合いなのです。
昨日投稿した記事がとてもありがたいことに伸びたので、調子に乗って別の話をしようと思う。軽い気持ちで書いてたらクソ長くなった。
これを読む前に注意してほしいのは
だ。
YOASOBIの「アイドル」を聞いて、これはすごいと思って推しの子を見た。
そして第一話でアイが殺されて「??????」となった。あまりにも納得がいかなかった。それは以下のような理由による。
偶像としてのIdolを死守する(「嘘が愛」とかアイっていう名前からも推察できるように)というのが最序盤のテーマだったわけで、そこに子供がいるっていう嘘を死守するっていう物語があって、さらにIdolとしてファンを愛してるっていう嘘(本当は誰のことも愛したことがないから)もあるから、その嘘が本当のこと(ファンとほかの人々を心の底から愛することができるようになる)になる、っていうのが大筋のストーリーになるべきだったわけだ。
その重要な過程(アイが少しずつ成長していく)が完全にすっ飛ばされたので肩透かしを食らったという感、殺されるところでいきなり愛してるって言っていて、正直第一話だけだとアイに対して人間としての共感が全くできない。
この物語が評価されている大きな要因としては、まず推しの子に自分がなるっていう第一話のインパクトとコメディ性、次にアイが死んでしまうっていうさらに劇的な展開。
これ自体は別に悪くないと思うが、やはりアイが本当の愛を知る過程をスキップしているので作品としての完成度が低下している。
たぶんその理由として乳幼児だと行動の幅が狭すぎるっていうのがあるのかなーと。簡単に動かせないから話を作りづらいっていうのがあったんだと思う。それをどうにかするのが脚本家の仕事ではあるんだけど。でも子役ルートがあるならそういう問題もなくないか?
また、アクアとルビーの父親に関する伏線が第一話だけっていうのもつらいポイントではある。
どうしてもそこからのストーリー展開が難しくなる。第二話以降の話は割と自由に進めることができるはず(ルビーがアイドルを目指すとか、主人公が父親を捜すとか)で、その辺の先の読めない感じは面白い。
1クール目の最後でアイが殺されたりしてたらもっとよかったんじゃないかなーとか思った。
「え!? この感じなのにこの1クールを全部このOPでやるの!?!?!?!!?」
初めてこの曲を聞いた時とんでもない衝撃を受けた。
それは初めてYOASOBIの「夜に駆ける」を聞いた時に感じた衝撃と同じものだった。
まず、「夜に駆ける」が空前絶後のヒットを叩き出した最大の理由について述べようと思う。
もちろんこれは俺の意見であって、完全に正しいということを主張したいわけじゃない。別の意見があればコメント等に書いてほしい。
音楽というのはほぼすべてが感覚で成り立っているので、それを正確に記述することは本当に難しい。
「夜に駆ける」を語るにはまずコンポーザーのAyaseについて紹介する必要がある。
Ayaseはもともとボーカルとしてバンド活動を行った後、解散したのちいわゆるボカロPになったミュージシャンだ。
ボカロP:Ayaseを象徴する代表曲は「幽霊東京」や「ラストリゾート」が挙げられる。
初めてこの曲を聞いた時の俺の感想は、”よくあるボカロ曲だなあ”というものだった。
正直これらの曲はボカロ曲としては古典的な印象を与えるものだと思う。DTM感が強い、打ち込みで構成されたボカロ曲……という感じだ。
しかしここで重要なのは、実はこれらの曲でAyaseのパーカッション、リズムに関する凄まじいセンスが光っており、それが当時のネット音楽のトレンドにぴったりとマッチしてある程度の人気を博していたということだ。
Ayaseのリズム感に関する才能には目を見張るものがある、というのは上記の二曲を聞けばたぶんわかってもらえると思う。もちろんこの曲が発表されてから時間が経っているので、当時は真新しくとも今では多少風化しているように感じるかもしれないけど。
「夜に駆ける」においてもそのリズム感が遺憾なく発揮されている。ただ、この曲がそれまでのAyaseの曲と大きく違うのは
・繰り返される転調
と
だ。
一つ目の繰り返される転調に関しては「夜に駆ける」を聞けばわかる。最後のCメロのところとか二回くらい転調してる。で、たぶんなんか普通の転調とは違う感じがする。音楽知識がないのでその辺はわからないけど。まずそこの斬新さがある。異論は認める。
まずikuraが持つリズム感についてはもうとりあえず「夜に駆ける」聞いてみてほしい。歌詞の子音がバスドラとクラップに気持ちよくハマっている。
この文章を書くにあたって今一度「夜に駆ける」を聞いていたら、そのikuraのリズム感の素晴らしさについてちゃんと語りたくなったので細かく述べる。興味ない人は飛ばしてください。
・イントロの”沈むように「溶けて」いくように”の「溶けて」のリズム感が良い
・”二人だけの空が広がる夜に”ここのリズム感は全部いい
・”さよなら「だけだった」”の「だけだった」のリズム感が良い
・”その一言で「すべ『て』がわかった」”の『て』が良い
・”日が沈みだした空と君のすが「た」”の「た」のリズムの取り方がマジですごい
・Bメロの”いつだってチックタックと「鳴る世界で」”の「鳴る世界で」のリズムの取り方がすごい。
・Bメロの”触れることない言葉うるさい声に涙が”ここのリズムは全部すごい
・サビの”騒がしい「日々に」笑えない「きみに」”の「日々に」と「きみに」のリズムの取り方がすごい。
・二番のBメロは正直全部リズムの取り方すごい。”信じてたいのに信じれないことそんなのどうしたってきっと これからだっていくつもあってそのたんび怒って泣いてくの”ここがすごくいい
・Cメロの”もういや「だって疲れたんだって」”の「だって疲れたんだって」のリズムがすごい。
ここにリズムの優れた曲を作るAyaseとのシナジーがある。偶然にしては出来すぎたユニットである。
次の”ikuraが持つ自我の顕れない説得力のある歌声”について
これは説明がとても難しい。
と
・なんでも歌える歌手
の二種類だ。一見後者の方がなんでも歌えて優れているように思えるかもしれないけど、事態はそんなに単純じゃない。
まず前者について具体例をいくつか挙げようと思う。
とりあえず例を列挙する。
米津玄師「アイネクライネ」というか米津玄師はほぼ全部自分の話をしている感じがする。
実はほとんどのバンドマンは自分の話しかしていない。ヨルシカが「八月、某、月明かり」の歌詞で叫んでいるように「心を売り出し」ているのだ。
ちなみにヨルシカは「詩書きとコーヒー」でも「寿命を売るなら残り二年」とか歌っていたりして、そういう自分のことしか歌えないナブナ自身をどこか皮肉めいて表現していたりする。
りりあの「浮気されたけどまだ好きって曲」を聞いてほしい。これ絶対自分の話だろと思って調べてみたけど明言してないっぽい。なら自分の話と考えていいのかな?
この曲は浮気された女の子の心情を歌うにしてはリアリティが高すぎる。
汚れた君は嫌いだ
君を汚したあいつも嫌いだ
この歌詞の下のほう、「君を汚したあいつも嫌いだ」ってそっちにヘイトが向く心情を表現できるのすごくないか? 普通浮気された曲って恋人に対する恨みつらみで話が終わると思っていただけにびっくりした。
こんな風に自分のことを歌う曲は”その人の人生の重み”が自然と声に乗っかるので、ものすごい破壊力がある。
でも、こういう歌手がほかの人の作った歌を歌うと、どことなくちぐはぐな感じになる。なんか違うな~とか、ぐっとこないな~みたいな気持ちになる。
あとこのタイプの歌手は一発屋で終わる傾向が多い。劇的な経験がないと歌えないならそうなるのも必然、という感じはする。
歌い手文化はいろんな人の曲を歌うっていう前提があるわけで、そこでさっき挙げたような自分の歌を歌うタイプの歌手は歌い手文化にそぐわない。
自分が共感できる曲だけを歌うことでその問題を解決してる人もいるっぽいけれど。
なんでも歌える歌手の例を挙げる。
・ikura
・Ado
・yama
・suis
ヨルシカはナブナの個人的な、本来だったら本人にしか歌えないような歌をsuisが上手く歌っている感がある。
これらの歌手は限界まで自分の色を出さない。でも無個性とは違う。ただひたすらに歌詞にひたむきに向き合って、そこから読み取れる感情をまっすぐに表現している。だから聞く人の心にダイレクトに届いているように思う。
YOAOBIのコンセプトは”小説を音楽にする”だ。このコンセプトとikuraのどんな曲も歌うことができるという特性は実に親和性が高い。
「夜に駆ける」の元となった小説は「タナトスの誘惑」というものだ。
あらすじをめっちゃざっくりと言うと、死にたがりの彼女を助けた主人公だったが実は彼女は死神で、最終的に一緒による闇に飛び降りるという、中二病要素をこれでもかと言うほど詰め合わせたような物語だ。大学生が書いたらしい、笑った。
さて、どれほどこの物語がチープであろうとしても、この歌を実体験として生々しく歌うことができる人はなかなかいない。テーマが重すぎるし、全体的に闇が深いものだからだ。
ただ、ikuraは「夜に駆ける」を独自に解釈することに成功している。
この作品自体をどことなく俯瞰的に見下ろして歌うことによってそれはかなった。過度に主人公やヒロインに感情移入するのではなく、どこか客観的な視点から物語を淡々と紡ぐように歌う感じ。無機質な――機械的な、ある種ボカロっぽい歌声と、どことなく人間の闇を感じさせるPV(このPVもあの原作小説から作ったとは思えないほどクオリティが高い)が悪魔的に融合した。
これが「夜に駆ける」がヒットした二つ目の要因だと思う。
もう一回PV見てるけどやっぱりいいな。
“制限が新たな芸術を生む”的な言論があったりする。「アイドル」が素晴らしい曲であるのにはここに要因がある。
今回の場合は
・最新の曲調(Adoが歌う「踊」に似てるとか指摘されてるね)
・”推しの子”のOPに要求される、アイドルソングライクな(コールが差し挟まれるなどの)要素
この三つが程よくミックスされた結果、既存の物にはない斬新さを持った曲としての大ヒット……だと思う。
この話をするにあたって、YOASOBI「アイドル」の歌詞について軽く説明する必要がある。
「アイドル」の歌詞は原作「推しの子」とそのスピンオフ小説の「45510」をもとにしたものだ。
医者の主人公のところに推しのアイドル(アイ)が妊娠出産のために入院してくる→出産日に主人公が殺される→気づいたらアイの子供に生まれ変わってた→アイドルなので子持ちはまずい→なので必死に嘘で隠す
というものだ。
そしてスピンオフ小説「45510」の主人公は、アイとかつて同じアイドルグループに所属していた女性だ。
「アイドル」の歌詞の中での主人公は歌の途中で変わっている。二回目のサビまではスピンオフ小説の「45510」の主人公がこの歌の主人公で、その後はアイ自身の歌に変わる。
1サビまでの歌詞は「45510」の主人公の、アイに対する憧憬を描いたものと思われる。同じグループの中でも抜きんでて人気のあるアイに対する羨望を表現している。
ここの歌詞をikuraは上手く歌えている。
問題はその後だ。
我々はハナからおまけです
お星様の引き立て役Bです
全てがあの子のお陰なわけない
これはネタじゃない
からこそ許せない
完璧じゃない君じゃ許せない
自分を許せない
誰よりも強い君以外は認めない
これはアイが所属するアイドルグループ「B小町」の別のメンバー:「45510」の主人公の心情を描写したものだ。正直、この歌詞を書いたAyaseは天才だと思う。
一見、最初はアイに対する強烈な嫉妬心を表現しているように見えて、最後には
完璧じゃない君じゃ許せない
自分を許せない
誰よりも強い君以外は認めない
とアイに対する信仰とでも言うべき強い感情の発露を描いている。この一見相反するようでいて、しかし同一の感情を詳細に表現したセンスはマジですごい。
Vtuberの歌ってみたとかを聞いた時に「お、この曲はこの子とマッチしてるからいい感じだな」とか思ったことがないだろうか? 俺はその現象を”人格一致ボーナス”と呼んでいる。
たぶんikuraはまっすぐに、幸せに育ってきたタイプの女の子なんだと思う。だから、こうした嫉妬などのどす黒い感情にそれほど縁がないのではないだろうか? なので、それを歌おうとしても、どうしてもうわべだけのものになってしまう。
先ほどの話に戻る。世の中には
・どんな歌も歌うことができる歌手
の二種類が存在する、と言った。
の二つがあるのだ。
そして「アイドル」という曲は”とある人間にしか歌えない曲”に属する。それはこの曲が極めて個人的な体験(この場合だと、45510の主人公とアイ自身の体験)をベースに紡がれているからだ。
ikuraのスター性と「アイドル」の明るい部分は極めて親和性が高い。特に一番のサビなんかは完璧に歌えている。しかし、45510の主人公のアイに対する嫉妬などのダークな部分は歌えない。聞けばわかると思うが、なんだか上っ面で歌っているような印象を受ける。
そんな私の嘘がいつか本当になること
信じてる
恵まれないアイの家庭環境を背景とした暗いCメロの歌詞だ。やっぱりここでも、ikuraの歌はどことなく空虚な感じがする。ikura自身にこんな経験がなく、想像することさえも難しいからだ……と思う。
あるいは、
【ikura】今回は、レコーディングする前にたくさん話し合って…。どういうイメージで、どういう声色で、ニュアンスでやっていこうかっていうのを考えながらレコーディングしました。
【Ayase】そしてたどり着いたのが…「最強のかわいい!」です。僕はikuraがレコーディングブースに入って一生懸命歌っている中、勇気づけるようにディレクションブースから「もっと自分のことかわいいと思って!」って伝えていました。https://news.yahoo.co.jp/articles/32691ffa10659b427d43550c4eda76ad09a1ea74から引用
とあるように、レコーディング環境が足を引っ張ってしまった可能性もある。
「アイドル」の歌ってみたをいくつか聞いてみると、この二番を上手に表現する歌い手を何人か発見した。やはり、こうした現代的な嫉妬の経験がある歌い手のほうが歌声に説得力が増す。
しかしこうした歌い手は同時に、サビの部分で顕著に表れるアイが持つ底抜けの明るさ、可愛さを表現することが難しい。
「アイドル」を完璧に歌える人間は存在しないかもしれない、とか思った