はてなキーワード: 聖人とは
何回か人の結婚式に出たが、どんな演出や余興を考えても必ずケチをつける人ってのは出てくる。
若者のノリに立ちすぎると、友人は楽しめるけど親戚からは不評だし、
お固いスピーチばかりにすると親戚からは好評だけど、若者たちからはつまらないとの声が上がる。
「新郎新婦が幸せそうにしてればなんでもいい」なんていう聖人君子もいるのかもしれないが、親戚や職場関係など、義理や義務感で来てるような人たちは何をしたってくだらないなぁとしか思わない。
そういう人は必ずいるし、自分がそういう立場になる日だってくる。
義理で招待されたような人にとっては三万円払って高級料理を食べにいくのが楽しみなものだ。
一番喜ばれるものは美味しい食事だよ。
予算もあると思うけど、他のところ削ってでもなるべくコースの中で一番高いコースにしてほしいと思う。
ドレスが高級なのに料理がしょぼい結婚式見るとご祝儀返せと心から思う。
ドレスのランクをひとつ下げるだけで、料理のランク上げられるからね。
二回お色直しとかしてるアホ見た時はがっかりする
自分の子でもない小さな人をつかまえて「子どもが大好きなんですよォ」とか言っている人間のことが嫌いですといろんなところで言っているのですが大概引かれる。何こいつ鬼? みたいな感じでみんな見てくる。僻み? みたいな。私子ども大好きなんだァ~とか俺子ども大好きなんだァ~って言いながら穏やかな笑みをたたえて子どもと遊んでいるあの聖人たちを僻んでるの? みたいな感じで見てくるよね。ていうか言ってくるよね。「鬼?」って。鬼じゃないわ。
ここで間違えないでいただきたいのですが、世間一般的に言われている子どもと呼ばれている年代の皆様を嫌っているわけではなくて。あくまで、子どもが大好きとか言っている人間のことが嫌いなだけなんです。そこんとこ履き違えないでいただきたいんですけど、このあたりよく誤解されちゃうんですよねえ。
世の中にはたくさんいます。子どもが大好きって豪語する方々。子ども好きって良い人そうですよね。でもよく考えるとおかしいんですよこの人たち。ちょっと聞いてくださいよ今からなぜおかしいか説明してもいいですか。
まず定義が曖昧。そもそも子どもって何? ってところから説明してほしいんですよね。何歳から子どもなの? っていう。子ども=幼児ってことだったら6歳までの子だから小学生は含めないから。児童ってことなんだったら18歳の子も子どもだからね。どの辺の層を指して子どもって言ってるの? って思う。いっつも思う。子ども好きはもう答えらんねえだろ。どうせお前ら適当に言ってるだけなんだから。
で、まあないと思うけどその定義が固まったところで浮上してくる疑問が、本当に無条件に子どもだったら全員大好きなの? ってところね。
人間同士である以上合う人間合わない人間いると思うのに子どもだったら無条件に大好きになれちゃうって素直にすごくね? って思う。マジ聖人だな。リスペクトっすわ。
で、仮に聖人だったとして、それって君たちの言う大人には適用されないの何で? って思うんだよね。子どもだったら無条件に好きになれるのに何で大人には適用されないの? なんで? ねえ何で? 大人にも適用されるんだったら始めから「人が大好きです」って言うはずだよね? わざわざ子どもに限定してるってことは子どもにしかその聖人らしさは発揮されないんだよね? 何で? 君らの言う子どもと大人の違いって何なの?
結局のところ、「言うこと聞きそうな人=子ども」だから好きって言ってるんじゃないの? っていう疑いが終始晴れない。あとは子どもかわいい~って言ってる私良いママ候補&かわいい~って思ってるバカ女とか。小さな子どもを道具にしか思っていない人が使いがちなフレーズ、それが「子どもが大好き」。
もちろんそうじゃない人だっているとは思うけど、でも多分大多数が打算的に「子どもが大好き~」とか言ってんじゃないのかなと思う。もっと素直になれよ。
普段ひとりのときに酒なんて滅多に飲まないが、今日は「子供なんて作らなくて本当に良かった。やっぱり女が子供なんか作るとろくな事はないな」という思いを胸に酒を飲みながらこの増田を書いている。
妊娠中の酒を我慢できないで、月2回ほど1〜2杯飲んでしまう酒好きの妻の方が、妻の妊娠中どころか婚姻中にやってはならない禁忌を犯している浮気ゴミの亭主より世の中じゃ罪深いんだってよ。笑っちゃうね。(※男性様にセックスして差し上げられない)妊娠中なんだからそのくらい我慢しろとか書いてあるブコメもあってもう噴飯物でしたわ。
いや女マジ産む機械。酒も茶も夜更かしも娯楽も亭主の浮気も嫁いびりもみんなみんな我慢して奴隷みたいに耐え忍ばなきゃクズ女。そんな思いまでして、出産時にはガチで死ぬ思いして便所ブラシの遺伝子残すとか何の罰ゲームよ。もう大爆笑。
この増田保健体育の教科書に載せたら良いんじゃねって思うわ。男はこんなアル中の糞嫁と結婚しないように気をつけようと能天気に増田に腹立てて、半数の女は妊娠するとこんな酷い目に遭うから絶対子供作るのやめようと認識を新たにして、もう半数の女はこんなアル中の糞嫁にならないように気をつけようと一層奴隷精神をたくましく育てるだろうからきれいなゾーニングができることだろう。後者の奴隷女だけ産む機械になって勝手に我慢してればみんな幸せで問題解決だ(妊娠中の嫁にこんな風にひどい仕打ちをする男にはならないように気をつけようと思う男? いるかそんな聖人)。
我慢も痛い思いもしないでノーリスクで子供得られる身分の分際で、結婚したらやっちゃならないアウト行為に足突っ込んでても許してもらえる甘やかされ放題の生物に関わると本当にろくな事ないな。
なんというか、言ってることが間違いではない、という点かな?
はてなーは意識が高いので、「間違い」を見つけると徹底的にブコメとかしたくなるんだよ。
あんたの言ってることは間違いでもなければ弱者を叩いてるわけでもそれほどない。
いや、ホントは、ある意味弱者な結婚的なキモオタはてなーをdisってるし、
あんたもそのつもりで書いたんだろうけど、
キモオタハテナーは、人を叩く体制の時には、決して自分をキモオタはてなーとは認めないし、
それを擁護すると、人から、「あ、お前童貞だろ」ッて言われて「ど、童貞ちゃうわ!」ってなっちゃうから。
田舎者叩きだとか、まあ、その逆だとか、
just doingは和訳すると「ひたすらそれをやりなさい」。という意味だ。つべこべ言わず、ごたくわ並べずにとにかくやりなさいという古くからの聖人が繰り言のようにつぶやいてきた言葉だ。
日本でも古くは只管打坐(しかんだざ)という言葉がある。只管というのは「ひたすら」という意味。打坐は、坐を打つ、つまり「座禅に打ち込む」なんだな。
今日こんな記事があったけど、日本もやっとこさアホみたいな努力厨が減ってきていい世の中に向かいつつあるのかなとホッとしたと同時に、
会社で「艦これ」プレイする人々 専用ウィジェットで「最小化」、テザリングで「ログ残さず」 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1104289
古くからの日本の心が失われているようで寂しさもひとしおだったんだよね。変に真面目で凝り固まった部分がある一方で、やたらと無気力でマニュアル化された考え方しかできない指示待ち人間が増えていて複雑な気持ち。
人生生きているとそういう複雑な気持ちになることがあって多大な時間とお金を浪費していることに気づいたほうがよい。
偉い人の伝記とか読むと決まって苦しみを打ち消すように研究に没頭したと書いてあるでしょ?板挟みの中間管理職でも酒に逃げたりしない。打ち消すようにjust doing。
あれは脚色なんだろなと思ってたけどこの歳になって本当にその通りだなと思うわ。とにかくやるしかない。
我らがdankogaiも5年も前に「やる気を出すな。手足出せ」という名エントリを上梓しているが誠に先見の明と言うべきだろう。
分かってるとは思うが「俺はやってるんだぜ」とひけらかして自慢する人は全然just doingじゃないんだよ。当たり前のことをやってるという感覚じゃないとjust doingにはならない。別に偉いことでもなんでもなくて普通。
だからってやってない人が普通以下というわけでもない。比べちゃだめ。比べた途端にjustじゃなくて条件付き確率になるのよ。こういう時はこれくらいの確率で仕事できるけど、
そうじゃなくなったらがんばれるの君?って話になるわけだ。それがベイズ確率論。
結局のところしょーもない努力厨も無気力人間もどっちも条件付きという点でjustじゃない。ということが分かってもらえるかと思うんだけど、ここでつい我々現代人の悪いくせは、
どうしたらいいの?と考えてしまう。justはjustでもjustなシステムズはなーんだ?を見つけようとする。小学校のときに先生が理科の授業で「なぜ?を繰り返しましょうね~」と言ってたけど、
だいたい専門知識のない奴が「なぜ?」を連呼してもロクなことにはならないだろと子供心に思ったし大人になってその考えはいっそう強まるばかりだ。
我々現代人は西洋のデカルト的世界観を知らず知らずのうちになんだかんだ引きずっているから、つい社会面や政治面のニュースを見て「なぜ?」「どうしたら?」という形でどうしても方法序説を考えてしまうのが
悪いところで、そんなくだらないこと考える暇あったら自分のことやればいいのにと老婆心ながら指摘してしまう。
未来検索ブラジルのグニャラくんこと末永匡34歳会社員も社会のことなんて考える必要はありませんと明言している。ネットで声の大きなスポークスマンがそのように言ってくれるのは実に心強いことである。
この「まず自分」の精神はまさにjust doingそのものと言って良い。世の中エゴは悪いこととされていて、周りに気を遣うべきというマナーや、周りに合わせるよう押し寄せてくる同調圧力があるけど、
よく考えてほしいのは周りと自分を対置させて相容れないもののように扱っていること自体がデカルティズムの陥穽にドハマリしているということだ。
無意識に利他と利己は反対で、利他は大事だから、じゃけん利己はやめましょうね~とみんな当たり前のように思っているのがおかしいんだよね。
自分でよいと思ったのであれば、そこまでしなくてもいいような。
親は完全無欠であり、人徳者か聖人とでも思っているのだろうか。
「つらかったのにこんなこといわれた」
「もう親のことを親と思うことはやめようと思った」
自分自身で、少し「痛いところを突かれた」と言う後ろめたさがあるから、
チラチラ顔をのぞかせている気がする。
ブクマで書き切れないのでちょろっと書く。眠くなったら途中ででも問答無用で寝る予定。
>険悪な関係を広げる中国ではあるけれど、かつては「中華」にふさわしく、東アジアのみならず、東南アジア、西アジア方面へ制度や文化を発信していた。
これは文化に優劣があるという誤解。実際には文化的に優れていたから広まったのではなく、単に国力で卓越していたから、その文化にも「力」があったように見えた、ということ。
その上で冊封体制に参加すれば強烈なボーナス付きの貿易で莫大な経済的メリットまで約束されていた、という時期があった。
もちろん、中華帝国側にしたら、遙か彼方の蛮人たちまで皇帝の威徳を慕ってやってくるんだ、とドヤ顔で言うために出費を負担していた、ということでもある。
実際には日本の諸制度は聖徳太子ぐらいのタイミングで既に何か中国とは違う物になっているし、さくっと遣唐使を廃止してしまえたことから分かるように、中国からの影響は小さい。
遠すぎて経済的なメリットが薄かったのと、なんだかんだで日本が案外豊かだった、というのが大きい。
>伝統の「漢の文化」は、いかなる異民族に侵入されようとも、異民族の文化を「漢化」した。
これも誤解。実際には三皇五帝の伝説の中身からして、すでに異民族の文化が混ざってきている。以後の中国史を見てても、外国から持ち込まれた要素と引き継がれている要素が常に混合し続け、常時アップデートされ続けている。
どっかで
「中華文明が連綿と続いているというのも、異民族文化の影響を受けすぎて原型など残っていないと言っても、どちらも正解でしょう」
と書いた通り。
ただ、現代中国人は孔子とかの時代の漢文を読めない(補助記号足したら日本の高校生でも何とか読めるようになるものが読めないってどういうことだってばよって感じだが)。その意味では一貫した中華文化が続いているというのは嘘ではある。
外来王朝が漢化したように見える現象は、単に中国大陸主要部を支配するためのツールとして漢字や儒教や科挙制度が便利だったというのが大きい。文化的な魅力が大きいからそれによって「改宗」していたと思うと足元を掬われる。
つまり、
>優れた制度を持ち、華やかな文化を持ち、数千年に渡り威光を放っていた大陸の国家は確かに存在していた。
というのは実は誤解に基づく幻想。問題はその幻想を大変多くの人たちが信じていた/いること。
>共産主義の下、さまざまな伝統が破壊され、今では巨大なマーケットか、トラブルメーカーとしてしか認識されていない。
文化大革命の時期とかは何かを破壊するのが流行ったことはあったけど、現在の共産党政権(と先代の国民党政権)が歴代王朝と何が違うかと言われると回答に窮する。
あえて言えば科挙がないことと、皇帝位の継承が血統でなく有徳者の禅譲によっていることぐらい。
共産主義に何か意味があるように誤解しているが、実際には何の意味もない。あえて言えば五斗米道とか白蓮教のような、たまに中国史に影響を与える宗教の一種、程度に過ぎない。
日本版の律令制度自体が最初から中国のとは結構違うし、律令国家は早めに見れば平安時代、どう遅く見ても武家政権によって無効化されている。
孫子読んだら分かるけど、軍制の本じゃないので、影響がどの程度あったと言われると「あんまりない」としか言えない。
要するに中国の文化が優れていた、制度が優れていた、周辺の大きな影響を与えていた、というのは誤解の要素が大きい。
地続きでもっとも影響を受けていたはずの朝鮮半島ですら15世紀にはハングル作ってるわけで、推して知るべしである。
>昔は輸送手段が乏しく、中国のあるところにいた人を実際に見る事ができなかったからこそ、書物で伝えられる聖人や君主が素晴らしく彩られていたのかもしれない。
がすべて、ということ。
日本が清にトドメを差したわけでもない。日本の行動はそれこそ劉邦を包囲して屈辱的な和平条約を強いた匈奴と大差なく、何かが変わるという類の物でもない。
列強による清の分割は既定路線で、日清戦争が与えた影響は、単にプレイヤーの一人として日本が名乗りを上げたという程度。
その後の義和団の乱によって、列強は中国大陸を直接支配するのは効率が悪いと悟り、利権だけを確保しつつ清は存続させる、という方針に切り替えている。
ロシアだけはやや違うことを考えていたが、日露戦争の結果としてそれもなくなった。
それ以後の中国史の不味い部分は、大体は中国側、特に蒋介石の無能と日本の外交下手によって引き起こされている。
>この国がやるべき事は、張り子の虎の様な振る舞いではなく、栄光ある後継国として腰を据えて国家を「再興」させていくことではないのだろうか。
これが一番大きな誤解。
歴代王朝は普通は常時勢力の拡大を指向していた。つまり今の動きの方が普通。「対等な外交関係」の存在を理解できないという致命的な欠陥を歴代王朝は持っていたが、それと同程度の話。
官の腐敗を止められないのも、村落共同体が武装していて警察力がその中に及ばないのも、私的所有権が政府によってたびたび脅かされるのも、すべて歴代王朝にも見られる特徴で、何一つ変わってない。
あえて言えば鄧小平が生きている時代に泰山に登って封禅ぐらいはやっとくべきだったかもしれない。
つまり中国政府が今本当にやるべきこととは(過去の栄光などまったく関係なく)、歴史上一度も成功したことのない難事に挑むということである。
険悪な関係を広げる中国ではあるけれど、かつては「中華」にふさわしく、東アジアのみならず、東南アジア、西アジア方面へ制度や文化を発信していた。
特に、「漢」は、同時代にある「ローマ帝国」と同じように、東ユーラシア大陸のシステムの基礎を作ったと言っても過言ではないだろう。
「ローマ帝国」が地中海地域やヨーロッパの基礎を作ったように。
伝統の「漢の文化」は、いかなる異民族に侵入されようとも、異民族の文化を「漢化」した。
優れた制度を持ち、華やかな文化を持ち、数千年に渡り威光を放っていた大陸の国家は確かに存在していた。
共産主義の下、さまざまな伝統が破壊され、今では巨大なマーケットか、トラブルメーカーとしてしか認識されていない。
(それでもなお凄みを見せるのは、共産主義でさえ、中国化(あるいは「漢化」)していることだ)
かつての存在感を取り戻すための示威行為なのか、たんなる資源獲得なのかはわからないが、まるで遅れてやってきた帝国主義の国のようだ。
―列強、帝国主義の時代こそ、中国(清国)は東ユーラシアの盟主として立ち上がらなければならなかったのにも関わらず。
たぶん、日本にとって中国、というか海の向こう側にある大陸の先進国はあこがれであったと思う。
孔子の儒教や北側経由で回ってきた「道教」の影響を受けた仏教は、日本人の生き方に影響を与え、
茶、歌などはその後、独自の文化的発展を築く礎となった。
だからこそ、大陸の後継国の中国に対して、日本人だけでなく、多くの東ユーラシアの国々の人は複雑な感情を抱いているのではないか。
確かに、昔は輸送手段が乏しく、中国のあるところにいた人を実際に見る事ができなかったからこそ、書物で伝えられる聖人や君主が素晴らしく彩られていたのかもしれない。
アヘン戦争では、あの清国が敗れたと日本で大騒ぎになり、国家としての改革が急務となった。
当時の日本の中に、清国と連携し、ヨーロッパと対峙しようとした人々がいると聞いた事があるが、
それはなされず、脱亜論に代表されるように、日本は東ユーラシアから抜け出していく。
この時、それまであった不文律の東ユーラシアのルールが変わった。
かつての超大国は列強に食い尽くされ、その輝きを失った。
アヘン戦争や列強の支配、そして日本の軍事侵攻は中国の大きな傷になった。
近年の経済発展と共に「中華」を認識し始めたこの国は、東ユーラシアの覇権を再度、力によって取り戻そうとしている。
「力」による支配はすでに時代遅れのものになっているが、大きな傷を癒すように、暴力的な行動が後を絶たない。
また、過去最大の領土を誇る事が、共産党の大きな統治理由になっているようであるが、その中で、各民族の独立の機運が高まっている。
今まで中国に投資をしてきた最大の貿易国である日本は、足場を大陸から南に移し始めており、経済成長も徐々に陰りが見えてきた。
強烈な貧富の差の拡大は、歴代の大陸の王制の崩壊要因にもなっている。
この国がやるべき事は、張り子の虎の様な振る舞いではなく、栄光ある後継国として腰を据えて国家を「再興」させていくことではないのだろうか。
駄文長文失礼
WIKIPEDIAのカルトの定義はこちら http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88#.E3.82.AB.E3.83.AB.E3.83.88.E3.81.AE.E7.89.B9.E5.BE.B4
スタートアップでいう社長の神格化。特に「教育」「人材」をうたうベンチャーに多い
新入に教えることでより洗脳を濃くしていく
リクルートに勝つ!学校教育を変える!といいながら、実際はただの新卒学生の斡旋や教師向けのツールだったりするが、それ以上のことがあるかのように新入や周りには触れ回る
社長がトップに見えて、裏に投資家などが糸を引いているが幹部以外は実態をしらない
女子社員は経営者のためにフォーチュンクッキーを踊ることが義務づけられる
これから有望な人材は◯◯、ハードワークが成功への道、など様々な根拠の薄い結論を信じさせる
実際俺もクソみたいな教師は何人も見てきた
教師なんてクソばっかだわ、って思いそうになるし、実際中学の時は俺も苦痛でたまらなかった
しかし、本当にクソばっかなんだろうか?
人生で関わる先生って、小学校から高校卒業まで、各学年で一人と関わるみたいな単純な数え方でも9人、
部活や教科だけで関わる先生もいれたらその倍以上、20人くらいはゆうに関わるだろう
そして、教師の仕事って、どうしても個々ではなく集団に対して行うものである以上、全員にばちっと受け入れられる
指導ができることの方が稀だろう
すげえよくできた素晴らしい先生でも、40 人クラスのなかではどうしても 1 人くらいは、先生ってクソだわーと
そうすると、生涯かかわる 20 人の先生のうち、ひとりもクソとはおもわなかった確率は (39/40)^20 ってことだよね
計算すると 0.6 になるようだ
つまり、全員が聖人で、たまたまウマがあわない先生に出会ってしまっただけでも、高校卒業までの間にクソと思って
で、実際、先生は聖人じゃなくて普通の人だから、クラスで 2, 3 人くらいは合わないと思う生徒は出てくるだろう
そしたら 8 割くらいは、先生ってクソだと思ってしまう計算になる
それから、20 人の先生のうち 1 人くらいは本当にクソがいる
つまりまあ、平均して生涯で 2 人くらいは、クソだわーと思ってしまう先生に出会うのが当たり前なんじゃないかな
その印象をもってして、教師はクソばっかりだ、と言い切ってしまうのはどうかと思う
それでいいのなら、人間なんて全員クソだ、って話
人に恵まれ地位に恵まれ才に恵まれ、子宝にも恵まれた。
何一つ申し分のない人生だ。
価値がないとは言い過ぎだろうか。
満足感や安心感が得られないのだ。
私は常に言い知れぬ不安を感じている。
よき父、よき夫として生きてきた。
妻も娘達も私を誇ってくれている。
しかし当の私はそうではない。
人はこのような私を見て、謙虚な聖人と思うかもしれないが、違う。
私は人を見下している。
表には出さないが、いい年をして定職についていなかったり、年収が四百万を割るような男は塵だと感じる。
遭難などして罪に問われない状況ならば、私は平気でその血肉を食らって空腹を満たすだろう。
私を生かすために命を投げ出して当然の存在だ。
社会構造に包まれて見え難いだけで、これは日常の出来事の延長だ。
私は彼らを食い荒らして、妻子に贅沢をさせており、それを当然と受け止めている。
また、片親として私を育ててくれた母から、性的な虐待と呼べるような仕打ちを受けていた。
そして誰よりも物覚えがよく、賢かった。
自己を肯定的に捉える能力は幼少期に学習されるものなのだろう。
私は一生このまま、人に羨まれ、人を蔑み、自己を蔑み生きていくのだろう。
これから人の親になろうという人に頼みたい。
願わくば、私のように恵まれているはずの不幸な人間を作らないで欲しい。
幸せは勝ち取る物ではない。
ただしそれを生産する能力は幼少期に獲得されなければならない。
他に何もなくとも、人を愛せる人間を育てて欲しいと、切に願う。
私は親に「無償の愛なんてこの世には存在しない」って言われて育った。
親が私に向けるのは無償の愛なんかじゃないってはっきり言われてきた。
実際、ある程度大事に育てられてきて、望むものはある程度与えられてきて、ある程度は愛されている。
でもそれはある程度の見返りを求めているんだろうし、実際見返りを与えるべきなんだと思っている。
だって親は聖人君子じゃないし、私も親に聖人君子であることを望んでいないから。