2014-04-14

或る中年独白

客観的には私の人生成功に類する物なのだろう。

人に恵まれ地位に恵まれ才に恵まれ、子宝にも恵まれた。

何一つ申し分のない人生だ。

だが、私自身、その成功に何ら価値を見い出せないのだ。

価値がないとは言い過ぎだろうか。

その成功を理由に自己を肯定することができないのだ。

満足感や安心感が得られないのだ。

人達自分人生に満足しているように見える。

私は常に言い知れぬ不安を感じている。

不安を打ち消すように事業に打ち込んできた。

よき父、よき夫として生きてきた。

妻も娘達も私を誇ってくれている。

しかし当の私はそうではない。

人はこのような私を見て、謙虚聖人と思うかもしれないが、違う。

私は人を見下している。

表には出さないが、いい年をして定職についていなかったり、年収が四百万を割るような男は塵だと感じる。

私と比べてなんと価値のない人間だろうか。

遭難などして罪に問われない状況ならば、私は平気でその血肉を食らって空腹を満たすだろう。

私を生かすために命を投げ出して当然の存在だ。

社会構造に包まれて見え難いだけで、これは日常の出来事の延長だ。

私は彼らを食い荒らして、妻子に贅沢をさせており、それを当然と受け止めている。

私の自我の歪な構造幼児体験に起因すると推測する。

私は幼児期に、いわゆるいじめの被害にあった。

また、片親として私を育ててくれた母から性的虐待と呼べるような仕打ちを受けていた。

私は物心付く前から女を知り尽くしていた。

そして誰よりも物覚えがよく、賢かった。

ただ、貧しかった私達は常に嘲笑対象だった。

それは大学に入るために上京するまで続いた。

現在の地位は過去記憶を消してはくれない。

自己肯定的に捉える能力は幼少期に学習されるものなのだろう。

言語ピアノスポーツといった技能のように。

時期を逃せば身につけることのできないものなのだ

私は一生このまま、人に羨まれ、人を蔑み、自己を蔑み生きていくのだろう。

これから人の親になろうという人に頼みたい。

願わくば、私のように恵まれているはずの不幸な人間を作らないで欲しい。

幸せは状況に依存するものではない。

幼児期に幸せでないなら、一生幸せを感じることはできない。

幸せは勝ち取る物ではない。

自己の内から生み出されるものだ。

愛情は無から生まれ得る。

ただしそれを生産する能力は幼少期に獲得されなければならない。

他に何もなくとも、人を愛せる人間を育てて欲しいと、切に願う。

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