はてなキーワード: 秋葉原とは
都会だよ。満員電車は最悪だよ。
ひよこのお菓子は食べないよ。あれを東京のお菓子だと言うと福岡の人が怒るよ。パンダは10年に一回も見ないよ。
写真は撮らないよ、おー、おるおると思ってるよ。
渋谷はあるよ。
新宿駅は西口から東口まで貫通するでかい通路ができたからもう迷わないよ。
秋葉原行って「昔とは変わったよな」とか言えるよ。原宿でも渋谷でも言うよ。
スカイツリーは料金が高いし、どうせ上から見てもきれいな街並みでもないから上らないよ。
ディズニーランドは日帰りで行けるよ。
お台場で遊べるよ。
行かないからわからないな。今度歩いてレインボーブリッジ渡るよ。
東京住んでても知らないよ。
テレビ東京見れるよ。SHUTUPってドラマが面白いけど普通にtverで見てるよ。
タワーレコードあるけど行かないよ。
ライブはたまに行くよ。
コスプレ仲間は作ろうと思えばできるんだろうね。
東京に行ってみたい。
都会なんだろうな。満員電車があるんだろうな。
テレビでやっている店にすぐ行けるんだろうな。
芸能人も見かけるんだろうな。
でも写真撮ったりしないんだろうな。
いいないいな。
渋谷もあるんだろうな。
新宿で迷えるんだろうな。
秋葉原行って「昔とは変わったよな」とか言えるんだろうな。
いいないいな。
スカイツリーに登れるんだろうな。
ディズニーランド日帰りで行けるんだろうな。
お台場で遊べるんだろうな。
それすら知らないよ。
いいないいな。
タワーレコードがあるんだろうな。
ライブも行き放題なんだろうな。
音楽と共に生きてるんだろうな。
羨ましいな。
オタクがいっぱいいていいな。
コスプレ仲間もたくさんいるんだろうな。
ずるいな。ずるいな。
行きたいな。
行こうかな。
三年くらい付き合ってた恋人に振られて半年くらいになる。ほとんど初めての恋愛だった。元恋人はいわゆるメンヘラで、僕はメサコンだった。典型的なズブズブの共依存。振られた理由は、端的にまとめれば冷めたからとのことだった。理由がなんであれ、振れるくらいなんだから、多分彼女はある程度共依存を脱して、自立することができたんだろう。一方の僕は、やっぱりまだ自立できていないんだなと、最近気づいた。
タイトルの通り、今の自分の中には「恋人がいる状態」を欲している感情がある。一言で言えば寂しいということに尽きるのだろう。ただ僕には、この感情がとても気持ち悪い。というのもそれは、恋人を作ることを手段化してしまっているからだ。そもそも俺は「恋人が欲しい」ということも、その対象となりうる人を手段化していて気持ち悪いなと思っている。もともとは、人を好きになるのがあくまで最初にあって、その人と付き合いたいと思って行動することから始まるものだという信条があった。「恋人がいる状態」が欲しいというのは、僕にとっては二重の問題を孕んでいる。
元恋人への気持ちから吹っ切れるのには3ヶ月くらいかかった。吹っ切れることができた理由は主に二つある。一つはお金のトラブルが発覚したこと。交際していた頃に共有していたpaidyのアカウントの引き落とし先が僕の銀行口座になっていたのだけど、そのアカウントからの引き落としが別れた途端に増えていたことにしばらくしてから気づいた。返してくれと連絡したけど、いまだにほとんど返ってきていない。流石に愛想を尽かした。もう一つは、一度コンカフェに行ったこと。秋葉原での面接帰りになんとなく行ってみたのだけれど、そこで話した嬢にガチ恋しそうになった。もともと道で客引きをしていたところに声をかけたので見た目はすごく好きだし、多趣味な上に知識が豊富だったりして、かなり心が揺さぶられた。お金もないし、リアコ勢が報われる望みもないので、友人の制止もあってそれ以来そのコンカフェには行っていない。しかしこの経験から、他の人のことも好きになれるかもしれないな、と思えるようにはなった。
それからマッチングアプリを入れてみたり、気になった知り合いの女性に少しアプローチしてみたりすることがあった。ここで補足しておきたいのが、振られる前後の頃から僕が過食気味になって、加速度的に激太りしているということだ。いまのBMIは30を超えている。身長と体格があるので多少マシらしいが、見た目はある程度醜い。とにかく現状、恋愛市場において大きなディスアドを抱えている。マッチングアプリは結局課金をしてないので何かが進展することは全くなかった。痩せてた頃の写真を使って詐欺っていたので会うのにビビっていたのもある。知り合いの女性へのアプローチはどれもいまいち上手くいかなかった。相手にとって、普通に自分が魅力的に映らなかったという可能性は高い。加えて、そもそも僕自身が、電撃が走るような、確定的に明らかな好意を抱いていなかったというのもある。もしそうなら、僕の性格上、かなりの熱量をもってもっと努力をすると思う。ダイエットとかも含めて。
とにかく現状は、漫然と、恋愛をしようとしている。しかし、いままでの自分の性格からすると、これは不思議なことだ。というのも、特定の人のことを好きになっているわけではないからだ。それならばなぜ、僕はそんなに恋愛がしたいと思っているのだろうか?そう考えて気づいたのが、「恋人がいる状態」を欲しているということだった。初めての恋人との三年間を経て、その状態が当たり前になってしまった。当時と今の落差から、寂しいと思ってしまうのかもしれない。その恋人ができるまではほとんど恋愛と無縁の生活を送っていたし、友達も数えるほどしかいなかった。いちど恋人ができたことで、人と関わっている状態に慣れてしまった。ほとんど同じ時期に大学に進学して、大学デビューにある程度成功したことも無関係ではない気がする。たくさんのコミュニティに所属した。友人が増えて、社交的になった。恋人と別れてから、人と関わっていないと不安に感じるようになった。慣れ親しんでいたはずの孤独が恐ろしくなった。最近は夜中に寂しくなって、友人に連絡して電話することもある。きっと、恋人ができたときから、社交的になりだした頃から、この孤独に対する不安は潜在していたのだろう。実際に孤独がやってきたいまになって、不安が目の前に立ち現れるようになった。好きだった音楽や映画にもあまり集中できなくなった。ライブハウスや映画館に行かない限り、あるいはそうであっても、音楽や映画に触れるのは、本質的には孤独な営みだ。作品に対して、それと自分との間になにものも挟まずに対峙するとき、初めてそこに没入できる。
「恋人がいる状態」を欲しているのは、僕にとって不健全だと思う。孤独と改めて向き合って、自立するべきなんだろう。そうでなければ、健全な恋愛もありえない。このまま恋人ができたとしても、また共依存的な関係になることが避けられる気がしない。結局のところ、自分のやりたいことやできることを増やして、少しずつやっていくしかないんだろうなと思う。
「自立することとは、依存先を増やすことである」とはよく聞く言葉だ。しかし、いくら依存先を増やして分散したところで、孤独と向き合うことがなければ、不安を根本的に解消することはできないのではないだろうか。僕はたくさんの依存先を得たことで、自立から離れてしまったような気がするのだ。
「このくらいの差別はしょうがない」ならわかるけど「差別じゃない」はドン引きするわ。
引用されてるXで書かれてる「私の知ってる大家さんたちは……年金生活者もいます。そんな人に差別はイカンっつって……退去とかのリスクを負えとか言えないんですよね」というのは肌感覚としてわかるし、このくらいの差別はしょうがないと思う(たとえば、英語わからんジジババだけでやってる地元民向けの食堂が外国人お断りでもしょうがないでしょ)。
ただ、それは差別だし、本来は良くないことですよ、っていうコンセンサスがないのはヤバいだろ。
人ひとり雇うかどうかですげえ苦労してる個人商店が「辞められたら困るから女性は雇わない」というのは仕方ない面もあるけど、これは差別だよね? 本来よくないけど、個人商店の店主にそんなこと言ってもなぁ……っていう話だよね? そこで「そうだ、女はすぐ辞めるからそういう扱いを受けても当然なんだ!」とか言い出すやつはヤバいやつだよね? 同様に、偏見や先入観に基づいて「日本人男子のホームステイはちょっと……」っていうのも、本来はよくないけど、ボランティアのホストファミリーにそんなこと言ってもなぁ……っていう話だよね? そこで「そうだ、日本の男は家事をしないからそういう扱いを受けても当然なんだ!」って言い始めるやつはヤバいやつだよね?
もちろん、家事をしないなどの迷惑な留学生は追い出せる契約にしておいて、実際に家事をしていなかった場合に追い出すのは問題ない。「中国人お断り」はNGだけど「マナーの悪い客は退店していただきます」はOK。それなら、家事をする日本人男子やマナーのいい中国人は何も困らないし、家事をしない女子留学生や迷惑な日本人の客は容赦なく追い出されることになるわけだから、差別にはあたらない。
最近は差別は良くないことの場合に限定して使われてるので、この位はしょうがないと判断されるものは差別と呼ばないということはあり得る。辞書的な意味ではどちらもある。
えっ??? 本文読めてますか??? ここでは「仕方ないけど、本来は良くないことだよ」と言ってるんですが??? 大丈夫ですか??? 当然、「これは良くないことなので差別と呼ぶべきだ」と主張しているんですけど???
本人の行動や能力ではなく属性によって区別するのは、良いか悪いかでいえば悪いでしょ。ただ、「これは社会的に強く非難するに値する」のか、「そこまで強く非難するほどでもないか……」という程度なのか、という違いがあるだけで。でも、後者を「良くないことではない」と判断するのはおかしい。そういう話です。
(差別の話じゃないけど、たとえば同じ殺人罪でも、秋葉原のホコ天で刃物振り回して何人も殺すのと、長年父親に性的虐待受けてた娘がついにキレて父親を絞め殺すのとでは全然量刑が違ってくるじゃん。そういう感じ。それと同じように、大企業の社長が確信犯的に「◯◯人を追い出せ!」というのは猛烈に叩かれるべきだけど、これまで日本語の通じない客に悩まされてきた小さな飲食店が「Japanese only」って書いてても、まあ情状酌量で内々に取り下げてもらう程度が適切な落とし所なんじゃないの、という感覚)
これリベラルの主張では度々ある話だよね。それが差別であることを頑なに認めようとしない。その結果、論点が主題から離れて「その行為は差別であるか否か」という分が悪い議論することになってしまう。
これオブこれ。「差別だけど、このくらいは仕方ないじゃん……」って言うなら「まあそうだね……」ってなるけど、「これは差別ではない!」って言われたら「いや差別だが??? お前は何を言ってるんだ???」ってなる。インターネットの議論でこういうのよくあるよね……(女性専用車両とか、料理教室で女性専用デーが導入された件とか)(あまりに「これは差別ではない!」論法を聞きすぎてもう女性専用車両は廃止すべきだなと思うようになった。しょうがない差別だし、このくらいなら甘受してもいいかと思ってたけど、そもそも差別であることを否定し始めるならもう無理だよね。公共交通機関における差別はなくすべき)。
そこはちょっと意見が違う。旅館の温泉とかならまだしも、公衆浴場って過当競争にならないように法律や条例で一定の規制がされてるんだよね(たとえば東京都では新規の設置は既存の公衆浴場から一定の距離がないとダメ)。つまり銭湯は公権力によって一定の保護が与えられている公共的な施設なのであって、そこで入れ墨を弾くというのは普通に人権侵害だから一刻も早くなくすべきだと思う(もちろん、旅館とかでも本来は差別しちゃダメなので、入れ墨での浴場・プール利用を禁じる措置は全面的に撤廃すべきなんだけど、仮に優先順位をつけるならまずは銭湯でしょう)。一般家庭に留学生を受け入れる問題とは公共性が違いすぎるので、「仕方ない」のハードルは上がるよなと。
はてなーは権力勾配論を偽理論として否認してしまうので、差別の定義が混乱している。それでいて差別認定を勝利条件だと思い込んで棍棒にする。
なるほどなるほど、異国の地にやって来た留学生とホストファミリーとのあいだに権力勾配はない、という認識なんですね? そうすると、たとえば日本人のホストファミリーやってるお父さんが外国からの留学生と性行為をしても、権力勾配はないから完全な自由恋愛ってことですね!
個人的な好悪は差別ではないとおもう。つまり「黒人は採用しない」は差別だけど「黒人と結婚したくない」は差別ではない。線引きは非常に難しいのだが,大家が店子を選ぶのは,まあ個人的な範囲じゃないかな。
それ言ったら部落差別とかどうなってしまうん……部落差別では就職差別だけじゃなく「結婚差別」も大きな問題だったじゃん……「あのひとは被差別部落出身だから結婚したくない」はアウトもアウト、ド直球のアウトでしょうよ……
チー牛という言葉が何を示すのか。秋葉原に居そうな服も吟味せず自身のケアもしないメガネのオタクがそうだとか、小学校のクラスメイトで思い出せないレベルだとか、勘違いして暴走する救いようのない童貞がそうだとか、侃侃諤諤の主張がここ数日よく見られる。共通しているのは、チー牛の三文字が弱者へのレッテルとして、また精神的な嫌悪として十把一絡げに属性を与える便利な言葉というところだろうか。
私も便利な言葉だと思っている。その言葉を使う人間の露悪的な本性と、犬畜生に等しい浅ましい性格がすぐさま見れるという点において、大変便利だ。
しかし考えてみれば、朧気な記憶で発達障害や就労支援に来るやつを示そうとして、チーズ牛丼を頼む者のイラストが合わさった途端、猫も杓子もチー牛チー牛と弄り出したのは不思議なものだ。他の料理でもやってみればどうだろう。二郎系ラーメンとか、コラボカフェのケーキとか、ケバブとか、マックでもいいかもしれない。どんどん試してウケれば流行るだろう。第二のチー牛は何になるのだろうか。その料理を頼む人間をうまく可視化するのは、中々に知恵がいるかもしれない。
興味深いのは、この言葉を投げつけられる諸々の人でさえも自虐とする時がある事だ。彼らはどのような心理を抱えて日々を生きているのだろう。特に好物でもないであろう一杯の牛丼を食ってそうなどと言われ、言い返そうにも寄って集って囃される時、もはや同調して引きつった笑いを浮かべるしかないと思うが。人並み以上に精神を蝕まれているだろう。彼らが少しでも早く『世の中も案外捨てたもんじゃない』と思える時が来ることを願いたい。本来は社会がそれを分かりやすい形で与えるべきだとは思うのだが。
なお最後に添えておくならば、私はチー牛という言葉とそれに連なるムーブメント、自虐を除いてその言葉をそうした意味で使う人々について、徹底的に批判する者でありたい。
何の疑いもなく、食物を粗末にする馬鹿な連中である。悲しい哉、子供の頃に親から教えてもらわなかったのだろう。世間では何食わぬ顔をしていようが、頭も性格も凡そまともな訳が無いのだ。コンビニのおにぎり一個に飢え、生活に喘ぐくらいまで落ちればいい。
チー牛というネットスラングが戒められるその時に、その言葉を軽率に使い、また多用してきた者らはどのように『しらを切る』のだろう。それが今から楽しみで仕方ないのである。
無職になったので、今まで行ってみたいとは思いつつ一度も行く機会のなかった東京旅行に行こうと思う
とは言え、働いていたときの貯金がたんまり…とか言うわけではないのでなるべく旅費を抑えた貧乏旅行にしたい
自分なりに考えてることとしては、
東京までの飛行機はLCC(夜行バスとかも調べたけど、地域の都合もあってたぶんこれが最適)
移動はなるべく徒歩にするか一日乗り放題チケットみたいなのを買う
朝食は大戸屋、昼食は日高屋、夕食は鳥貴族とかだろうか(どれも自分の地域にはないのでちょっと楽しみ)
東京に行って絶対にこれがしたいみたいなのは特になくて、有名所の観光地とかそこらの街を適当にぶらついて見て回れれば満足かなと思っている
パッと思いつくところだと秋葉原、新宿、浅草、皇居、スカイツリーあたりかな
行くのは今月中で、1週間くらい滞在するつもり
それな。
よくエロいオタク絵が広告になっているのを弾劾してるオバサン達が話題になるよな。
本来はオタクな文化ってエロ成分が一切なくても、あれくらいの勢いで大否定される汚物だったんだから。
汚物。
秋葉原にキモいオタクを文化を見学に行こう、みたいなノリもあった。
そういうものが、あれ?って気づいたらなくなってるんだよな。
これは単にオタクなものが社会に受け入れられたということだけじゃなくて、
社会全体が大きく変化していったことによるものが大きいと思う。
社会とオタク、という関係性ではなくて社会全体の変動によりオタク文化というものポジションが変わってしまったということだ。
逆に言うと俺みたいな元オタクの老人のほうが価値観のアップデートについていけてなくてオタクなものに対する汚物感が色濃く残ってしまっている。
この逆説は皮肉だ。
友人関係の事が良く書かれている
ホスト風のイケメンと仲が良かったという話が印象に残った。どこか被告人がその友達に対して気を使ってるような感じがしてそこが少し気になった。
被告人はホスト風のイケメンの友達と、仲が良かったと強調してるように感じるのですが、二人は合っていなかったのではないかと思った。
その友達と秋葉原に買い物に行ったときに、被告人は色々見せたい店があったようですが、その友達がアダルトビデオ店で真剣に商品を選び出し、
二時間もその店にいたことで、他の店に案内できなかったことや、被告人が一生懸命考えて選んだゲームを、その友達に渡した際の感想が、
自分のパソコンではプレイ出来なかった、という素っ気ない感想だったりということが、どうも余り仲が良かったという風には思えなかった。
被告人はその友達から、事あるごとに色々なエッチな本やゲームなどを選んでくれるよう頼まれていたそうですが、それはパシりなのではないかという気もした。
何か職場では仲が良くても、仕事が終われば全く無縁というのも変な感じもした。
被告人の学生時代の友達なら、そこまで気を使って相手の好むゲームや本を選んだりしなかったのではないかという気もした。
どこか被告人がそのホスト風のイケメンの友達に気に入られようと気を使って接していた事も、被告人の精神状態に余りいい影響を与えていなかったのではないかと思う。
学生時代の友達のように、相手に何かを頼まれても、そんなの自分でやれよ、とか、これくらいのものでいいだろ、と気楽に言える相手が近くにいたら良かったのではないか。
そういう友達が近くにいれば、例えば、被告人は決行当日、その友達の家を訪れ、色々なグッズなどをプレゼントしたようですが、
そのときに、これからしようとしてることを打ち明けて、踏みとどまれていたのではないか。その友達とは仲が良かったと被告人は強調していますが、
悩みを言い合える仲ではなかったのではないかと思う。
いつもなら最低でも40分は掛かるところ、元旦の澄んだ道をスイスイ進み、20分ちょいのドライブで到着。
8時から配布される予定だった整理券は配られておらず、Xを確認してみると、SSD福袋ですら始発で並んでいないとダメらしかった。
あまりにも道が空いているので早々に秋葉原を去り、東京駅、皇居、青山霊園、明治神宮、赤坂迎賓館へドライブ。
初めこそ、流れる都心の景色と新年を迎えた人々の様子を見ながら、日中でこれほどまでに車の少ないことなど恐らく元旦の今の時間限りだろうと思い、通り名の付いていない道へ道へ、なるべく片側1車線以下のより静かな道へと進んでいくことが楽しかった。
しかし、次第に「関係無いなー」という感情で満たされてしまった。
外車や国産高級車の停まる戸建て住宅、小ぶりなくせに家賃だけは高そうなアパートともマンションとも呼べそうな集合住宅、表参道メインストリートの、たぶん、西側の今日は異常なまでに人気がないのであろう細いブティック通り、明治神宮へ初詣する人、迎賓館の高い壁、それら東京の構成物を見る度に、俺には関係無いなぁという想いがわずかな寂しさと共に湧きあがる。
どうも財力の無さからくる卑屈さだけではないらしく、もし、とんでもない財力があったとしても、東京に家賃を納め、麻布や六本木で楽しく遊び、明治神宮へ参拝していないのではないだろうかと思ってしまう。
東京と俺の関係がないことに、何ともいえない寂しい気持ちを膨らませつつ、春日部ナンバーの車を北へ向ける。