はてなキーワード: 侮蔑とは
「【ある迷惑な行為を繰り返す集団】は知的障害を持つに違いない」って考えは相当危うい気がするのだが、これをナチュラルに言っちゃう人見かけるんだよな
まあ撮り鉄の話なんだけど
属性で一括りにしてまとめて知的障害者扱いって雑すぎるのがまず一点
ひょっとしたら実際に知的障害を持つ人がいるかもしれない、さらにひょっとすると何らかの傾向があるかもしれない
だがそれでも一括りで言ってしまうとやばい、口に出して公言してしまうとそうでない人々への巻き添えダメージが大きい
そして二点目、罵倒語としての知的障害者、ここが自分自身怪しい箇所なのだが
「あいつらは知的障害者だ」という言葉が罵倒として機能してしまう点
もし本当に傾向があり、迷惑行為が知的障害由来だったならば何らかの公共の福祉などの対処が必要なのだろうけれど
この属性の人々は知的障害の傾向ありと判定すること自体が差別的に感じてしまう
知的障害者は差別されるべきでないのに(すべての人類は差別されるべきでないという大前提の建前)
差別的に感じるということは、自分自身は知的障害者へ差別感情を持っているということ
とても居心地が悪い気分になる
「撮り鉄は知的障害を持つに違いない」という発言に対して「そういう言い方よくないよ」と言ってしまうと、知的障害という括り方に侮蔑的ニュアンスを持っていることの自白になりかねない
世間一般に侮蔑ニュアンスがあるので自身がどう思うかはともかくそういう言い方避けた方がいいよ、という逃げ方もできないことはないが……
考えをまとめるためにここまで書いたが、ふと関連して思い出した
https://twitter.com/AgingAnarchist/status/1559672947853258753
「腹が減ったらそこにあるモン食っとけ」というスタイル。もうエサ
書いてある内容の真偽は知ったことではないのでおいておくが。
日本人は特に食事に娯楽性を見出さず栄養素を摂取するだけの食事のことを「エサ」ということがままあるのだけれど、これが個人的にはあんまりピンとこない。
どちらかと言えば食事に対して娯楽性を見出して執着している方が欲望に塗れているため理性的に見えず動物的であるため飽食の方が「エサ」と言う感じがしてしまう。
特に食事は本能に直結しているためか、食事に対して拘るのは欲望に対して節制が取れていないように思える。
七つの大罪で暴食に豚のモチーフが当てられているせいでそのイメージが強いのかもしれないが、飽食にはそれこそ千と千尋の神隠しで両親が豚になりながら食べているような下品で粗野で反知性な印象が付きまとっている。
自分も食事が好きで美味しいものを食べたいと思うが、だからこそ、食事を楽しむことは不摂生に繋がっていて自分が欲望に負けている印象が強く、お腹が空いて美味しく食べているときの方が動物的な気がしてしまい、
「エサ」というならむしろ日本の娯楽性の強い食事の方が適しているのではないか。
それは言い過ぎかもしれないが、なんというか、どうにも、食事に対して欲望が少ないものを「エサ」と侮蔑するのが、自分の方がただ欲望に塗れているだけなのになぜそんな見下したことを言えるのだろうかと不思議でならない。
上手くまとまるかはわからぬが、言いたい放題言われるがままの状況に辟易しているので、この場で気持ちの整理をしたい。
非出生主義とタイトルには挙げたが、それに絡むだけで単なる日記にすぎないのだが、無論、昨今はその話題も世間では言語化
が達成されていない状況にあるように思われるので、その点も解決することを主眼においた内容になることと思う。
推敲はしないいわゆる殴り書きにはなるのだが、それで十分である。
最近、早く孫の顔を見たい、淋しいと親に言われることがあった。まあ、お盆なので、どこでもよく見る光景なのだろうが、
正直、毒親育ちだと仮に、子供が生まれても、親にはできるだけ会わせたくないと思っている。
どうして、わざわざ病質的な環境に大事な人を巻き込まないといけないのか皆目、私にはその理由がわからないのだ。
むしろ、嫌悪しており、阻止しなくてはいけないと言う使命感さえ持っている。子供は敏感にそういった、異常性を察知するものでもある。
孫から侮蔑の眼差しを受けていることを目の当たりにしては、親も狂いそうになるのではないかという憐れみの念があることも忘れないでいてほしい。
「いやいや、そういうことではないのだよ」という所詮子供の分際でバカにするなというものもいるだろう。(随分とふてぶてしいとは思うが)
まあこの手合でもあるのだが、これは答えが明白だ、親の権威性を振りかざしたいだけ、そして耄碌しているだけなのだから底が知れている。この件は以降触れない。
また、「単にに孫の顔がみたいのだよ」と食い下がるものもいるだろう。
なぜそのように考えるのだろうか。
単に生物的な本能として、生殖の連鎖を確認したいということに違いない。それが安心なのだ。
まず、この私の内心と親の心情の間にある距離感にはいわばヒリヒリとした長年の確執の賜物と思わずにはいられない。
私の関心事は個人(ここでは子供)の尊厳にある一方で、親はより本能的な生物的欲求に立脚する主張となっている。
概して、孫は見込めないと思っている前提で親は話しているのだろうが、私は子供は作るつもりでいる点は異なる前提にあるのだし、
自身は子供を作ったのにお前はという強迫も含意しているように思うと、言われる筋合いはないという苛立ちとともに、
「ああ、こちらの思っていることもまた理解できずにいるのだな」と、自身が抱く親に対する恨みの思いは正しかったのだと、
やはり毒親はどこまでも変わらないのだなあという絶望感が増す一方なのだ。これまで同様、距離を置き、狂気から逃れる他ない。
毒親の問題というのは本人にとっても苦悩するものだが、往々にして、毒親の親も毒親であることを疑ってかかるとよく当たる。
毒親が私と同じ境遇の時にどう感じていた所までは私と同様であるから改めて書くまでもないだろう。
ただ、親と私は強迫に対する解決方法が違っている。それだけのことという代物ではなく、それこそが本源的な違いなのだと私は思っていて、
この認識の断絶に隔てられているままでは解決は不可能なのだと思う。深い絶望がここにはある。
これは一人の人間としての尊厳・生きる意味の問題である。その場のお気持ちだとか世間体だとかで支配・強迫したところで、尊厳は奪おうとするのは
虐待でしかない、非道い話なのである。(この支配から解放を願うというのはウクライナ戦争にあるウクライナ人も同じ心地にちがいない。余談だが。)
とはいえ、ここまで私を苦しめる親とは一体何者なのであろうか。何様なのだろうか。私の友人もこうした苦労をしているのだろうか。
この答えは私は持ち合わせていないが、私のような立場であればこうして心からの叫びを発せざる得ないほど追い込まれる状況になるかもしれないことを思い
無配慮に批判することだけはしないでほしいと思うし、心にもない世論形成には加担せず、無視せず、信念に基づいて行動してほしい。
なぜなら、この、人間関係の構造は今話題の山上と同じなのだから。
そして、こうしたいきさつを各々が抱えているというのも、出生率低下の副因になっていると思う。勿論、経済的な理由もあるのだろうが、貧しいのは金銭的なものではなく、精神的な側面にも潜んでいることを見落としてはならない。公園に苦情する地域社会というのも良い例である。
またも、「いやいや、私はそれでも産んだ」という上から目線のものも出るだろうが、正直言うが、そんなあなたは自分が毒親の確率がだいぶあると思う。
むしろ、教えてもらいたいのだ、毒親でなく、不信感なく親の言うことが正しいと信じられるその理由が。
毒親に何を聞いても間違えたことばかり教えられていると、毎日が辛いのだ。
お前いくつだよというかも知れないが、それは良い指摘である。いくつになっても親は親、子は子なのだ。
どんな間違った親で、洗脳が解けない親であっても、いくつになっても親のためを思っていることは根底にあって、
そこはしっかり外していないことを思い出してほしい。
はっきり言って最悪だ。
せめて何か起こった時に言ってくれれば対応もするが怒られるからと隠すし、
理由を付けて手を止める。
それでも従事する人間が居ないから上司はそいつらには注意も無く自分に問題があるとしか言わない。
若い人が底辺職と侮蔑するのは腹立たしくも、正直そう思いたければ思えばいいと思ってる。好き好んでやる仕事でも無いと思う。狙えるものならば上層職を狙った方がいい。
どれだけ楽かきついかは職によるだろうが、炎天下の中汗まみれになって働くよりは楽だからな。
テレビ見ててもコマーシャル見てても小綺麗な家庭向けの物しか見かけない。
上の人間はきつい事は自分らでやらず、都合のいい時だけやりがいとか家族とかその辺の言葉でごまかしてばっかだ。条件に差別を感じる。
誰だってトイレに行くしゴミも捨てし電気も使う宅配も利用するし生活インフラも利用する。
誰かに押し付けあって残り物にしたありつけない人間がやるといい。
捨てるのモラルが低いのだろうが道端には散乱している。
見ているやつも注意するやつも居ないから垂れ流して気分がいいのだろう。
道にゴミを棄てるのは面倒くさくなくて楽でいいのだろう。
もう知らない人間の垂れ流しやクソみたいな人間の行動を目の当たりにする場所にいるのは飽き飽きした。
この仕事から離れてもポイ捨てするつもりも侮蔑の目を向ける事もしない。
ただ見かけたら大変だなと遠目で見る事にする。
倒れんなよ。
誰も助けもくれないぞ。
九州のド田舎なんだけど、文房具屋でも同人誌が売られてたりしたんだけど
まあ世に出回ってる同人誌を網羅してるわけもなく、でもその当時は
揶揄・侮蔑目的での「レドマツ」呼びって元々は蔑称じゃなかった言葉が侮蔑的なニュアンスで使われるように転化したわけで
結局「ニガーを当事者が言うのはOKだが外部が言うのはダメ」の何が違うのかよく分からんのだが
蔑称を取り込んで肯定的な意味に塗り替えた事例を紹介してるけど、ニガーはまだ意味の塗り替えが完了してない
その状況で外部の人間がニガーという言葉を使うのは、ニガーという言葉の意味付けの主導権を自分たちで掴もうとするアクションを妨害するものでしかない
増田の「そのうち蔑称ではなくなるかもしれない」という予想は妥当だと思うが、それが今現在の「ニガーを当事者が言うのはOKだが外部が言うのはダメ」という判断をひっくり返すことはないだろ
まじでそう思う。
俗に言うカースト最底辺のグループで目立たないように過ごしてたよ。
リアルの男子になんて恋愛感情抱くこと自体がギルティだと思ってた。
んで、結局色々あって40kg痩せて、化粧・ファッション根底から変えて、審美歯科に200万かけて歯をきれいにして、プチ整形して、ついでに顔中にあったホクロとかシミ消したわけさ。
そんなんでしばらく生きてるんだけど。
今まで私の人生なんだったの?ってぐらい。
侮蔑の視線を向けてた女達はみんな仲良くしてくれるし、なんなら媚びてくるし、男性なんてもっと顕著で公私共にびっっっくりするほど優しくなったんだけどw
付き合ってない男性からも数十マンのプレゼントもらったりね。わがままもだいたい叶えてもらえる。
仕事も正当に評価してもらえるどころか、周囲との関係値が築けるので内面的な評価は実力以上に高い気がする。
中身はな〜〜〜〜〜んにも変わってないのにねw ただの隠キャw
卑屈になっているわけじゃなくて、ちゃんと努力をした結果だから、思いっきり享受しようとは思う。
でも、ブス・ブサイクのままなーんにもせず諦めてる人はもったいないなって感じる。
程度の差はあれ、周囲の扱いは確実に変わると思う。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/kafkaesque1924/status/1543144934387384323
このエントリ見てるとレドマツは本人が言い出したものだから蔑称じゃないってコメントが複数出てくる。
これって支那はChinaに漢字をあてたものだから蔑称じゃないっていうネトウヨの言説の生き写しですっげえ気持ち悪い。
支那という単語は侮蔑的に扱われてきたという歴史的経緯があるから元来の意味はそうであっても現在では侮蔑後であり使用は不適切である、がリベラル界隈の通説で私もその通りだと思う。
にもかかわらず、レドマツという単語を使用して赤松健を侮蔑的に扱う反赤松健の方々(反自民でリベラルな方々と思われる)はネトウヨそっくりの言い訳をして赤松健をレドマツと侮蔑的に呼ぶことにちょっとは疑問を覚えてほしい。
対消滅してほしいとはホントに対消滅したら日本が消し飛んでまうんで言わんが、足して2で割っていい感じに薄まってほしいで。ホンマに・・・
練馬側の方に縁があって、練馬を侮蔑する人に悩まされてきた人間からしたら
切り取り方に悪意があるだけ。東京は数キロ離れただけで、街ごとの文化の違いが明確にあって、イメージをつけやすい。新宿なんて駅周辺だけで都庁、新宿三丁目、歌舞伎町と異世界になるレベル。
ブコメのこれは完全に正しいと思う。
でもだからこそ、同じようなことを京都で言うと侮蔑と言われるってのが京都にも東京にも詳しくない民からしたら単純によくわからない、ってなるんだよな、と。
お腹の中の子は女の子らしい。ショックだ、ショックを受けていることにもショックを受けてて。性別が具体的になる前は「性別はどっちでもいい」「男が良いとか女が良いとか我が子に失礼だ」と本気で考えていた。でも実際に「女の子ですね〜」と言われたときショックを受けている自分に直面してしまってそのことにもショック。
女の子なのか…男の子が良かった…。うわ、最低な親だ。自己嫌悪。子供ごめん。でもショック受けてるわ…うわ。子供授かっただけでありがたいのに…でも男の子がよかった…うわ最低、ごめん。
母親と仲良くないから自分も子に嫌われそう、兄を無自覚に贔屓する親が我が子より甥を贔屓しそう、女社会めんどくさいからまた関わるのが嫌だ、男の子の方が性差別の多い日本社会で苦労しない、小さい頃見てきたネチネチした女社会が身近で再生されるのが怖い、子供は大好きな夫に似て欲しかった、自分が嫌いだ。
フェミニストが問題にしているのは、「表現・言論の自由が現実には男女で不均等に配分されているのではないか」ということである。
それは国会議員の男女比に端的に示されているし、経済団体の会合で居並ぶ人たちは平均60歳以上の中高年男性である。
一般の行政や企業の会議も、現状ほとんどは男性が仕切っているだろう。
憲法や法律で女性の表現・言論の自由を規制しているものは全く何もない以上、こうした不平等は社会全体の中でつくられていると考えるほかない。
そこでフェミニストは、女性の実質的な表現・言論の自由を奪っているものとして、公共的な場面における表現物に着目する。
つまり、女性は男性のサポート役であり、男性の「花=添え物」であり、男性の性的消費の対象であるかのような発言や広告である。
フェミニストはこれらを問題にして、そうした言論・表現は(少なくとも公共性高い場面では)規制されなければならないと考える。
これな、経緯がまるっと忘れられて、戦略上辿り着いた戦法を、あたかもそのために活動していたんだとばかりに書いてるんだ
宗教な時もあれば、時の権力者の時もあれば、お気持ちの時もある
例え、非道徳的な内容だとしても
それをやることは、粗野で、人権の否定で、進歩的ではないとなった
有識者は反対を述べる
それは「名誉棄損」や「侮辱」などの対立する権利である必要がある
それは「差別」であったり
それは「文化の盗用」であったり
これはすごいんだ
「公共」を前面に「政治的に正しくあるべき」というべき論で、法律によらず踏み絵を課すことが出来る
この法律に拠らないというのが実に素晴らしい
仮に法廷に訴えられても、この話で対立が起こると、訴える側を「政治的に間違っている事を法律でごり押す」という図式に出来る
なにせ「正義」だ
これからは違う
販促POP
とにかく「公」にあると認められるものに、そこにあってはいけないという様になった
それはとても「許されざる性差別」で「過度な性搾取が行われ」、「女性を侮蔑している」が
性差別だがあっても良いよと
でも「公には出すな」という歪な論に逃げて、勝ちを狙うよになった
狙う先はここだ
表現の自由を守り抜くのは当然だし、児童ポルノを無くせば子どもへの性暴力も無くなるという話ではない。
どう解決していくかはクリエイターも含めて国民的に議論していくべきだ。
具体的には、子どもたちや一般の人たちの目に触れないような場所に置くゾーニングというやり方もあると思うし、
“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、
クリエイターの皆さんも作らなくなると思う
doycuesalgoza
でもハタチの舞妓でさえたった5~6年だけお稽古をした人であり、大きな金が動くならば「若さを愛でる」というキモめの価値が働いているように思える。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220628135027
にスターが大量に集まって上位ブコメになってるけど、みんな「若さを愛でる」のはキモい価値観だと思ってたの?
「5~6年だけお稽古をした人に大きな金が動くのは、若さを愛でるからだ」ていう理屈が通るのなら、アイドルなんてみんなそうじゃん。
歌も踊りも何十年と続けて芸に秀でた中年男性・女性が世の中には大勢いるのに、彼ら・彼女らを差し置いて、「たった5~6年だけお稽古をした」だけの
ジャニーズのファンクラブに女性(同年代だけでなく母親くらいの年の中年女性も)が何十万人も集まって会費を払ってグッズを消費して出演作品に金を出したり、ライブに何万人と集まったりたりするのも、
「芸でなく若さを愛でるキモめの価値」をもった女性が大勢いてキモい動機で金を注いでるからなの?
夢を追う努力してる人はいろんな分野に大勢いるのに、ルックスで選抜され美少年・美青年ばかり集まるジャニーズだけに金を注ぐ女が大勢いるのは、「若さと外見を愛でるキモめの価値」を持つ女がそれだけ大勢いるってことになるけど…
若さより芸を重視するなら、ジャニタレにダンスのレッスンをしてる講師こそ一番人気を得て一番大きな金を稼いでないとおかしいのに、現実にはそうなってないよね。
何十年と芸を磨いてきた講師よりも「たった5~6年だけお稽古をした」ジャニタレに黄色い声援を送ってる大勢のファンは、「若さを愛でるというキモめの価値が働いてる」からなの?彼女らにもちゃんと「この女達は若さを愛でるキモめの価値をもってる」て言ってあげた?
口が裂けても言いそうにないね。
ジャニーズタレントのおっかけしてる女の「推し活動は人生を潤す」みたいなツイートに「そうだそうだ、素晴らしいぞ」「幸せそうでなにより」「楽しそうな人の情熱ある文章を読むとこちらも楽しい」などと絶賛するブコメが集まってホットエントリ入りしてたこれまでのはてブと、今回スターを集めた上位ブコメが、あまりにも乖離しててびっくりしちゃった。
女が男の若さを愛でるのは人生を潤すすばらしい事で、男が女の若さを愛でるのはキモい価値観だという、たんなる男性嫌悪の性差別なの?
舞妓を楽しむ男性には「若さを愛でるというキモめの価値」と侮蔑するブコメに賛同しながら、いっぽうでは同じく芸でなく若さを愛でるジャニーズファンの女性の推し活は無邪気に肯定し持ち上げる、はてブブクマカの非対称性・性差別性を問うてるのだが。
舞妓業界の未成年への加害性が問題視されてるように、ジャニーズ事務所だって未成年への加害性があるじゃないか。なにが違うの?
なぜ前者を楽しむ男性だけ「キモめ」と侮蔑して、後者を楽しむ女性にはそうしないの?