はてなキーワード: ポリティカル・コレクトネスとは
http://unrealmusicstudies.blogspot.jp/2015/12/blog-post_26.html
こういうサブカル勢の、理解者の振りした規制意見って、反吐が出るよね。
んで、こんな事いっちゃうの。
それは「ぼくのかんがえたさぶかる」の仕事で、消費する側でも、主催する側でもねぇよ。
現在進行形で大成功どころか、超成功してるガルパンを批判しておきながら、「際どいところに踏み込むには思慮深さを持っておかないと成功しないんじゃないかなぁ」とか、アホか。
こういう言説に共通する心理は、「僕はお前たちとは違う」だよね。
僕は理解がある、僕は女性の味方、僕はキモオタじゃない、何でもいいけれどさ。
切断処理してる訳よ。
こういう輩の言葉は、全部ポジショントークだから、まったく響かんよね。
この論の一番の破綻は、主催してる側は、まったく表現規制反対なんて叫んでない事。
批判されて引っ込めたところもあるが、そこは表現規制に逆らって、表現の自由を錦の御旗にしていたか?
「これは表現規制じゃない。ゾーニングしろと言っているだけだ」という意見の人は、何をもってゾーニングができていると見なすのだろう? 良識派のオタクやサヨクに多いが、具体的にどこまでゾーニングすればいいか教えてほしい。
第一の前提として、このポスターはちょっとエッチな感じがあるというだけで、直接に裸体やセックスを描いた18禁表現ではない。もし子供が目にするようなことがあっても法的・社会通念上はアウトにならない。そういうものなのに18禁表現なみに厳しいゾーニングを実施しろという話になると、私は違和感がある。
「駅に貼ってあったことが問題だ」という意見には一理あると思うけど、それはつまり駅から撤去すればOKってことなのか?
逆に駅以外の道路沿いとか、観光スポットに貼ってあるのは許されるのか?それとも通行人が少しでも目につく場所はアウトかな?
ホテルや飲食店の店内に貼るのはどうだ? そこにもアニメに興味ない一般人は来るだろうし、子供や女性がポスターを見ちゃう可能性あるよね? しかし、だからといって私企業が管轄している館内スペースにまでゾーニングをやらせるつもり?
ポスターが駅に貼ってあるのだとしても、しつこく目につくほど強烈に展示しているか、片隅にちょこっと展示してあるだけだったか、その違いを無視した批判が続出しているのにうんざりした。
駅の通行人がこのポスターをほぼ気にとめずに素通りできるレベルの貼り方だったなら、「見たくない人にむりやり見せつけて苦痛を与えている」という批判は当たらない。
もしこれが明確な18禁表現ならば一瞬でも通行人の目に触れてしまえばアウトだが、今回のポスターはそうじゃないのだし、徹底的に厳しいゾーニングが必要なポスターと同等に扱うべきとは思わない。
「実際には通行人がほとんど気にとめずに済む」という貼り方がされていたという報告もある。以下、現地に行ってきた人のレポ。
まつうら @hallucine 2015-12-01 00:13:04
ポスターっていうより貼り紙っていうほうが適切なニュアンスかなぁ。あんまり大きくなくて印刷もそれほど鮮明でないので(失礼ながら)、嫌でも目に付くというほどではないです。スタンプラリー対象店舗ってことはちゃんと分かりますが、胡蝶さんの巨乳っぷりまでは。
根性ロン @konjo_ron 2015-12-04 00:18:49
ストリートビュー 要はこういうことだったんですね。 pic.twitter.com/5ugmCvNjeW
以上を踏まえると、今回の炎上が「見たくない人にむりやり見せつけて苦痛を与えているのは駄目」というゾーニングの問題だったか、それとも「こんな破廉恥でセクハラのポスターを公共施設に貼るなんておかしい!」というポリティカル・コレクトネスの問題だったか分からなくなる。
仮にポリティカルコレクトネスの観点に立つとすれば、あのポスターはいくら完全にゾーニングをしても不許可ってことにならないだろうか。
例えば駅の一室にある観光案内所で、外側にいる通行人からは見えないように注意して貼っていたとする。あるいはもっと厳格な方法を取って、『のうりん』スタンプラリーに興味ある人にだけあのポスターを配布したとする。そうすればゾーニングが完璧に行われたものと言えるが、「観光協会がああいう絵をポスターに公式採用するのは不適切」とか「駅という公共施設でポスター配布を認めるべきじゃない」という批判は出てくるだろう。
もう終わってしまったけれど、『ザ・オフィス』というテレビコメディがあった。主演は『リトル・ミス・サンシャイン』『四十歳の童貞男』のスティーブ・カレル。元はイギリスの同名コメディ(日本語タイトルは『ジ・オフィス』)だけれど、結果的に本国版より息の長い番組になった。ちなみにイギリス版もアメリカ版も hulu で観られる(はず)だ。
『ザ・オフィス』でスティーブ・カレル演じる製紙会社の課長は日本で言えば昭和世代のセクハラおやじである。ゲイフォビアで男根主義的、アメリカン・マッチョな価値観に染まっていて、ことあるごとに自分の面白ジョーク(大半は性差別、人種差別ネタ)で課内の雰囲気を和ませようとするが、逆にそのジョークのせいで場の空気をきまずくさせてしまう。なにせ、自分の部下がその当該マイノリティであることが多いのだ。
しかし自由の国アメリカといえど、上司に反駁するのは容易じゃない。カレルはアブナイおっさんなのでことあるごとに人事権や給与査定をタテに(実際にその権限が彼にあるかは別にして)振る舞う。部下たちは自然、事なかれ主義でだんまりを決め込んでしまう
しかも、カレルは場の空気を悪くしているのが自分であることに無自覚だ。勇気ある誰かから「それは差別じゃないか?」と指摘されると「これは差別じゃないよ。ただの冗談だろ?」とキレる。本当に差別ではないと信じこんでいるのだ。あげくのはてに破綻しそうになると、別の部下に責任を押し付けようとしたりもする。
まあ、要するに、最低のセクハラおやじが職場の空気を最低にするドラマなのだ。
ドキュメンタリーという体裁だから、シットコムみたいに「ここが笑いどころですよ」という観客の歓声も挿入されておらず、しかもカレルに対するツッコミはなされないか、なされたとしてもシリアスな雰囲気にならざるをえない。
こんな悲惨な番組がコメディになるのか、といえば、なってしまう。アメリカでは成立してしまう。
『ザ・オフィス』で笑うためには、まず「無自覚な差別ネタをジョークのつもりで放言しまくって場の空気を凍らせてしまう困った人(しかも自分では差別ではないと信じている)」というステロタイプを共有していなくてはならない。いわゆる、あるあるネタってやつなのだが、これが一筋縄ではいかない。
このステロタイプで笑うためには更に「こういう困ったおじさんは時代遅れのダサい人間である」という認識も広まっていないといけない。現状ではこういうおっさんが存在を許されないものという(現実はともかく)共通了解が流通していなければならない。
『ドラえもん』やちょっと前のドラマで日本でもあった、「江戸時代の人間が現代にタイムスリップしてきてカルチャーギャップを体験し、その反応に視聴者が笑いをもたらす」タイプの話とキモは一緒なのかもしれない。
仮想の原始人を笑いの的に立てるのだ。
その「原始人」に「かつてどこにでもいて、今もおそらくは地域によっては跳梁しているであろう人間」をあて、都市部のリベラルな価値観、すなわち我々の言うところのポリティカル・コレクトネスの観点からその野蛮さを笑う。言い方は悪いかもしれないが、そういう捻れた観方をできる人間がすくなくともこの番組を8年140エピソード続けさせられるぶんだけ存在する、ということだ。
そうして恐ろしいことに、『ザ・オフィス』は例外中の例外ではない。『サタデー・ナイト・ライブ』といった老舗番組から、オトナ向けのカートゥーンアニメまで、そうした政治的正しさが視聴者の間で広く染み込んでいることを前提にギャグをスケッチしている。
アメリカン・コメディにおける政治的正しさとはもはや「あるべき理念」でもなんでもない。常識であり、前提だ。
アメリカは広いし、チャンネルは山ほど存在するので、コメディ番組がすべてそうだという確証はない。
けれど、日本に紹介されてくるコメディ番組は肌感覚のレベルで政治的正しさを呑み込んでなければなかなか笑えない。
むしろ、政治的正しさに反発を抱く人より、「あるべき理念」としてフィクションに政治的正しさを求めている人のほうが笑いにくいかもしれない。リベラルの風刺とは身内にすら向けられる過激さを持つもので、笑いの矛先が政治的正しさそのものに向けられることも珍しくないからだ。それを半可にしか理解できてなくて、そういうジョークを無理してわかったフリして喜ぶ人間は多いけれど(私もその一人だ)。
シリアスな映画とかはまだわかりやすく「女性が強い」とか「マイノリティが救われる」とかをストレートな形で描いてくれるから、日本でも受け入れやすいんだろうけれどね。マッドマックスみたいに。
海の向こうには、「政治的正しさを前提にしたホンづくりしてる」なんてわざわざ公言しなくても、そんなもん当然前提に据えてるだろって界隈が存在するのだ。おそろしい、おそろしい。
余談だけど、「空気を読めない人の空気の読めなさ加減を笑う」という点ではアメリカ版よりイギリス版のほうが百倍ブラックだ。もはや、気まずい場の空気そのものを笑いに換えているといってもいい。これもこれで、ウルトラハイコンテクストな文化だよなあ、と思います。
私は男性の大島弓子ファンです。最近、福田里香・藤本由香里・やまだないと著の『大島弓子にあこがれて』(ブックマン社)という本を読んだのですが、収録されているやまだないとと福田里香の対談にあった以下の内容を目にしてとても悲しい気持ちになりました:
(略)
やまだ「まあ、その言葉のあとに、『少女にうまれなかったんだからあきらめな』ってのが続くんだけど(笑)。」
(略)
やまだ「私は、男の人が大島弓子をわかりたがるのはね、大島先生に対抗意識をもっているからだと常々思っているのです。」
福田「なんか、男の人の逆鱗じゃないけど、何かに触れちゃってるってこと?」
やまだ「あれだよ。「君が夢中な大島弓子より、僕は君のことをわかってる」みたいな、「ほら、君って、こういうことを考えているだろう?」「僕が本当のことを教えてあげよう」って。ああ、大きなお世話(笑)」
なんというか・・・とても悲しい気持ちになります・・・。ポリティカル・コレクトネス的にどうかという問題は措くとしても、そもそも「大島作品についての語り」としてこれはとても悲しい気持ちになるんですよね。。
まず思うのは、特にキャリア後半の大島作品(『綿の国星』後の『ロングロングケーキ』あたり以降)は、もう作品の内容自体として読者の性別がどうのという類の物語ではないように思うんですよね。これは真摯にやまだないとと福田里香に問いただしてみたいのですけど、例えば、『夏の夜の獏』『つるばらつるばら』『毎日が夏休み』『ロストハウス』『グーグーだって猫である』等々の素晴らしい作品に心を打たれることにおいて、読者の性別とかが何か関係あるんですかね?
また、もう少し以前の例えば『バナナブレッドのプディング』だって、自分のセクシャリティをうまく受け入れることができていないような読者(私もそうでした)にとっては、性別に関係なく、この物語にひどく心を打たれるところがあるでしょう。(まさかやまだないとと福田里香は全ての男性が自分のセクシャリティを素直に受け入れることができているとおもってるんじゃなかろうな)
それにさ。
私が大島弓子作品を愛しているのはその世界に「自由」があるからなんですよね。本当は「年齢」なんて関係ない(『夏の夜の獏』)、本当は「性別」なんて関係ないし「時間」さえも関係ない(『つるばらつるばら』)、本当は「学校」なんて関係ない(『毎日が夏休み』)、本当は「家」なんて関係ない(『ロストハウス』)、本当は「人間」か「猫」かなんて関係ないし「飼う/飼われる」の非対称性も関係ない(『グーグーだって猫である』)、といったように、この世界の通念を「本当は〇〇なんて関係ない」と突き崩した先の「自由の輝き」が大島作品にはあるんですよ。
そして、大島作品を大島作品たらしめているのは、その「本当は〇〇なんて関係ない」という「自由」の輝きと、その「本当は〇〇なんて関係ない」と突き抜けた先で(のみ)生じる「ひとつの生きもの」対「ひとつの生きもの」の関係性におけるある種の「フェアネス」の美しさなんですよね。
で。その大島作品に存在する「自由」の輝きと「フェアネス」の美しさに照らし合わせるとですね、やまだないとと福田里香の「男の人は大島弓子をわかりたがる」という一連の揶揄に含まれる「自由」と「フェアネス」さの欠如には、本当に、とても、悲しい気持ちなってしまうのです。
なんか本当に悲しいんですよ私(ちな来月昇給)
はてなブックマーク - 平井堅がインド人にまぎれて踊る!超大作PV - 音楽ナタリー
200 users以上集めていながら、平井堅のセクシャリティの噂と歌詞の関連に誰一人ふれてない(ネタにしてない)のが、さすがポリティカル・コレクトネスに厳しいはてなー達の面目躍如って感じする
絶対の自信を持って押した企画が潰れかけている。
その名も
「上京倶楽部」
田舎に生まれてのんびり育ってのんびり生きている家庭的な女の子を、
それらは東京の女には望めない特徴。
だけど田舎に行けば、そういう女の子女の子した女はいくらでも見つかる。
そういう、ダイヤの原石をリクルートして東京につれてきて、仲介料を取る企画。
同時に、純情な田舎娘に駆逐され、未婚のままあぶれた東京の女を、深刻な嫁不足に悩む農村に送り込む、
「都落倶楽部」
も同時展開する。
身内には外国人男性と結婚して海外に行ったように見せかける情報工作サービスをつける。
年賀状やSNSには幸せいっぱいで勝ち組になった自分、を演出する写真を合成して投稿する。
そんな細い友好関係など、10年もすればどうせ疎遠になるのだから、それで十分だろう。
数十億、場合によっては数百億の利益が見込めるこの企画が上層部の無理解のために潰れかけている。
ポリティカル・コレクトネスがどうの、フェミニズムがどうの、話にならない。
人間には欲がある。
それを満たすために大金を払う。
そこにビジネスチャンスがある。
なにがおかしいんだ。
そんなに自信があるなら、自分で起業しろと、小馬鹿にするような口調で言われて腹が煮えくり返っている。
間違っているのは自分じゃない。
ここの反応を見て身の振り方を決める。
絶対当たるだろ?この企画!
追記2014/08/05 7:30
誤解があるようだが都落倶楽部のほうは上京倶楽部のおまけに過ぎない。
この企画がうまく動いて万人単位の
が高い流動性を持って東京に流入した場合、必然的に価値の暴落する
の廃棄場所を用意しようというだけだ。
もちろんそのまま東京で腐ってもらっても構わないが、
弱者切り捨てのようなことをやりたくないから、救済措置を用意しようというだけだ。
「そもそも男側の需要がない」
という意見はほぼ無いようなので、
もう一度だけかけあってみることにするか。
どの当たりがポリティカル・コレクトネスなのか説明していただけませんか?
責められるべきは、具合の悪い人が出た時に心の余裕がなくなるような人員配置をしている管理者だから。
そんな管理をしていて、ポリティカル・コレクトネスが通らないような文化の職場だから鬱になるんだよ。
散々これを持ちだしてドヤ顔してる人が多いんだけど、
今や、欝って、「どんな人でも、どんな職場でも、どんな環境でも成り得るもの」だから怖いし、だからこそ病気なんじゃないの?
もし、欝になるのが明らかな環境があればそれを労働基準法なりなんなりで規制していくしか無いだろう。
現実的にそのような線引が難しいこともあるけど、
でも、それまで誰一人そんな事にならなかった職場でもいきなり欝の人が出たりする。
そういうことについて、全ての場で原因があって職場が悪い、とするの?
そこに大きな疑問を感じる。
欝なんて、逆にほんの小さな些細なことからでもなるんじゃないの?だから怖いんじゃないの?
実際、欝で休んで、職場環境の方では何が悪いかもわからないから特に改善はしないままで、
でも、一旦休んで出てきたら今度はホントに何事も無く仕事してるってケースはたくさんある。
恐らく、仕事場だけではなくて、私生活もふくめて色々なタイミングが重なって悪くなってしまったケースだろう。
そういうケースはいくらでもある。
勿論、圧倒的に仕事だけのせいの場合もあるかもしれないけど、実際にはそんなケースは少ない。
なぜなら、もし原因が仕事が全てであれば、その職場で次々と欝でやめてく人が出てとっくに回らなくなってるだろう。
実際そういうところもあるのかもしれないけど、レアなケースでしょう。
だから、今回只管職場が悪いんだーって言ってる人には非常に違和感を感じる。
その人達は、Twitterの主を直接攻撃するのは逆に自分の攻撃性が強すぎる、と感じで、
一歩引いて正義論を出す調度良い相手として職場、と言う物を攻撃することを選んだに過ぎないのでは?
さらに一歩弾いて、そのような会社を作る日本社会はーとか言い出す輩もいる始末。
何がしたいのでしょう?
http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2014/03/17/entry_004997.html
http://anond.hatelabo.jp/20140318174232
痴漢や路上レイプはともかく、DVやリベンジポルノは女の落ち度が9割。
発生原因において。
発生原因と「誰が悪いか」は別。
悪いのは男だという当たり前のことを強調してもDVやリベンジポルノは減らない。
ネットでは男を責めるのがポリティカル・コレクトネスみたいな感じだが。
そりゃあそうでしょうよ。悪いのは女をゴミみたいに思ってる男の方。
男を叩き、女の落ち度は責めないのが正義の味方。
正義の味方を増やせば被害は減るんですかね。
それは脳内お花畑だと思いますがね。
女の落ち度ばかり指摘すると被害者が「自分が悪かったのでないか」と辛くなってしまう、というのはわかる。
男の暴力性に対して社会が甘すぎるというのもわかる。
しかし「だから女の落ち度を指摘するな」というのは間違っているし、男に対する啓発を拡充したところで被害はなくなりはしない。
女の落ち度の指摘の仕方が「浅すぎる」のが問題なんだよ。
だいたいDVするような男を彼氏にする女は、そういう男を選択的に彼氏に選んでいる。
殴られても別れようとはしないし、別れても次の彼氏もDV男だ。
DVしない男なんてその辺にいるのに、そういう男は絶対に彼氏に選ばない。
DVやリベンジポルノの発生原因はこういう「自分を大切にしない女」だ。
「『自分を大切にする』ということがどういうことかわかっていない女」だ。
特に若い女は「自分を大切にする」ということの意味がわからない。いい年してわかってない女もたくさんいる。
こういう女の落ち度を指摘し、啓発しないことには被害は減らない。
だが誰もそれは言わない。
それを言ったら「正義の味方」じゃないからだ。
独学でレトロゲームを学び処女のアイドルと謳われたゲームソムリエール氏のほぼ全言動が、実際には所属事務所の元ゲーム業界人のオッサン氏の手になるものだった、という衝撃的な事件が世間を賑わせている。これに関連して、少し自分の思うところを書いておきたい。
メディアや芸能業界のあり方、またはポリティカル・コレクトネスについての議論はほかに譲るとして、ゲームソムリエールそのものについての話になる。今回の事件はかなり根源的な問題まで浮き彫りにした、というのがもっぱらの認識のようだ。人はゲームソムリエールに何を求め、何を根拠に評価しているのかということ。また純粋にゲームを勧めるというのはいかに難しいかということ。そんな問題についてだ。ここで私は、純粋にゲームを選んでプレイすることなど不可能であるのは当然として、そんなことを目指す必要さえない、という主張を述べたいと思う。
私が初めてゲームソムリエール氏の名前を知ったのは昨年、おそらく例のロムカートリッジを破壊する動画がUPされた直後のことだ。人づてに話を聞いて興味を持ち、ネットで検索してプロフィールやら言及する文章やらを読み、ゲームソムリエール氏のレトロゲームコレクションをネット上で目撃したと記憶している。そのとき強烈に残ったのは、まず違和感であった。
違和感というのは、そのレトロゲームコレクションのたたずまいとプロフィールや売り出し方とのあまりの乖離に対してである。端的に言ってそのコレクションは、80年代に幼少期を過ごした男性のコレクションのように思われた。真っ当にビデオゲームの洗礼を受け、ゲームを中心にサブカルチャーの波を揉まれてきた知性に優れる人間が、都度つど何らかの金銭の制約を自らに課しながらコレクションされたものだと「わかった」。今このようなことを書いても後出しだと言われるのはわかりきっているが、そう思ったのは事実で、おそらく80年代よりゲームに親しんできた心ある人間の多くが直感できたはずだ(実際、私の知るゲームマニアの幾人かは今回の発覚に対して「やっぱり」といった感想を漏らしていた)。アイドルを目指し上京した後に真実のゲームに目覚め、それまでの経歴を全て破棄した元弱小グループアイドルの一員が、常に轟音の鳴り響く中で霊感の降臨を待って収集した物とは、到底考えられない。プロフィールのそれらの言葉には薄ら寒さすら覚えた。オエッ。売り出すためのストーリーを誰かが描いている。事務所のオッサンははそれに乗じて悪びれずにいるらしい。そんな構図を漠然と思い描いた。
私はそのとき、彼女のコレクションを嫌った。いや、嫌おうとしたのだ。彼女が自らに課した書法の制約とは、売れるアイドルにするための――言い換えればマス・マーケットに届けるための――打算であったに違いないと想像した。売る気満々で集められた、嘘にまみれた、いやらしいパッチワークなのだろうと想像した。そうして想像してみて結局、最初の印象に戻るのだった。怖気の走るようなまがい物にしては「マニアごころをわかっている」コレクションに見える。真摯にレトロゲーム収集に向かわずしてこれが生み出せるのなら、随分な才能の持ち主なのだろう。その点だけは悔しいが認めざるを得ず、周りに評価を聞かれても曖昧なことを言うほかなかった。著書なんてもちろん買う気もしなかった。胡散臭い人間が胡散臭い売り出し方をしている、大量の嘘が混ぜ込まれた(はずの)コレクションが、見てみたら本当に見事な出来だった、なんてことになれば余計に悔しいし。そうそう、見なくたってわかる。きっと、見てて腹が立つようなコレクションに違いない。あーあ、ゲームソムリエールなんて、嫌いだ。
――見たまえ、ここに「物語」によってレトロゲームへの好悪を左右される情けない人間の姿がある。しかも漠然と思い描いただけの、自分の脳内で生み出した勝手な物語によって認識を歪められているのだから世話がない。私だけがこんな情けないのか? ……いや、そうでもない……ですよね?
【元ネタ】 これ読んでいたらふとゲームソムリエールさんのことが頭をよぎったんだ。