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やまだないと福田里香よしながふみが「男には大島弓子先生の魅力はわからない」と言って炎上してたこと
https://anond.hatelabo.jp/20141227174519
https://togetter.com/li/763228
私は男性の大島弓子ファンです。最近、福田里香・藤本由香里・やまだないと著の『大島弓子にあこがれて』(ブックマン社)という本を読んだのですが、収録されているやまだないとと福田里香の対談にあった以下の内容を目にしてとても悲しい気持ちになりました:
(略)
やまだ「まあ、その言葉のあとに、『少女にうまれなかったんだからあきらめな』ってのが続くんだけど(笑)。」
(略)
やまだ「私は、男の人が大島弓子をわかりたがるのはね、大島先生に対抗意識をもっているからだと常々思っているのです。」
福田「なんか、男の人の逆鱗じゃないけど、何かに触れちゃってるってこと?」
やまだ「あれだよ。「君が夢中な大島弓子より、僕は君のことをわかってる」みたいな、「ほら、君って、こういうことを考えているだろう?」「僕が本当のことを教えてあげよう」って。ああ、大きなお世話(笑)」
なんというか・・・とても悲しい気持ちになります・・・。ポリティカル・コレクトネス的にどうかという問題は措くとしても、そもそも「大島作品についての語り」としてこれはとても悲しい気持ちになるんですよね。。
まず思うのは、特にキャリア後半の大島作品(『綿の国星』後の『ロングロングケーキ』あたり以降)は、もう作品の内容自体として読者の性別がどうのという類の物語ではないように思うんですよね。これは真摯にやまだないとと福田里香に問いただしてみたいのですけど、例えば、『夏の夜の獏』『つるばらつるばら』『毎日が夏休み』『ロストハウス』『グーグーだって猫である』等々の素晴らしい作品に心を打たれることにおいて、読者の性別とかが何か関係あるんですかね?
また、もう少し以前の例えば『バナナブレッドのプディング』だって、自分のセクシャリティをうまく受け入れることができていないような読者(私もそうでした)にとっては、性別に関係なく、この物語にひどく心を打たれるところがあるでしょう。(まさかやまだないとと福田里香は全ての男性が自分のセクシャリティを素直に受け入れることができているとおもってるんじゃなかろうな)
それにさ。
私が大島弓子作品を愛しているのはその世界に「自由」があるからなんですよね。本当は「年齢」なんて関係ない(『夏の夜の獏』)、本当は「性別」なんて関係ないし「時間」さえも関係ない(『つるばらつるばら』)、本当は「学校」なんて関係ない(『毎日が夏休み』)、本当は「家」なんて関係ない(『ロストハウス』)、本当は「人間」か「猫」かなんて関係ないし「飼う/飼われる」の非対称性も関係ない(『グーグーだって猫である』)、といったように、この世界の通念を「本当は〇〇なんて関係ない」と突き崩した先の「自由の輝き」が大島作品にはあるんですよ。
そして、大島作品を大島作品たらしめているのは、その「本当は〇〇なんて関係ない」という「自由」の輝きと、その「本当は〇〇なんて関係ない」と突き抜けた先で(のみ)生じる「ひとつの生きもの」対「ひとつの生きもの」の関係性におけるある種の「フェアネス」の美しさなんですよね。
で。その大島作品に存在する「自由」の輝きと「フェアネス」の美しさに照らし合わせるとですね、やまだないとと福田里香の「男の人は大島弓子をわかりたがる」という一連の揶揄に含まれる「自由」と「フェアネス」さの欠如には、本当に、とても、悲しい気持ちなってしまうのです。
なんか本当に悲しいんですよ私(ちな来月昇給)